>>881
「論点は子なる神の一つの位格は神性、人性を合わせ持ち、その一つの位格の御子の
受難と贖罪と復活をするわけですが、禿げとなるみさんはその⓪御子から神性を抜き出して
@別の人格として分けて、 A一つの位格が人性しか持たず、その「御子マイナス神性」が
受難と贖罪を果たした、みたいな訳の分からない理解をしているのが、勘違い、と
指摘してるんだけど、本当に分からないみたいね 」とのことだが、
私と愛の天使さんが分けているのではなくて、事実として教父たちが神性と人性とを
区別しているのだが、これらの教父たちも君は
⓪御子から神性を抜き出して@別の人格として分けて、 A一つの位格が人性しか持たない
ものとしていると考えるわけ?

しかし教父も私たちも全教会も
⓪御子から神性を抜き出しているわけではなく、
御子には最初から神性と人性があるのだが、十字架に架かって受苦して死んだのは
霊ではなくて肉だと説明しているだけだ。それがどうして神性を抜き出したことに
なるのだね?
@人性が肉だと解説することがなぜ別の人格となるのだね?
人の普遍的な本性が肉であり、変化するものであり壊れたり成長したり
死だりするものだ。御子の人性はまったき人なので受苦したり死んだりできるのだ。
君は御子に二性あるということが理解できてないのではないか。カルケドンは
「神性においては、この世の前に父から生まれたが、この同じかたが、
人間性においては終わりの時代に、われわれのため、われわれの救いのために、
神の母、処女マリアから生まれた。」と御子を両性で説明し
「二つの本性において混ぜ合わされることなく、変化することなく、
分割されることなく、引き離されることなく」と説明されている。
カルケドンもまた両性を分けて説明しているが、二人格なのかね?
「彼は二つの位格に分けられたり、分割されたりはせず」とあるが?
A我々と教父と全教会の理解では、御子は肉において、人として人性として
受苦されたということであり、一つの位格に人性しかないという理解ではない。