三位一体の第二格の両性を理解できない哀れな河童
主日のミサで司祭に確認もできないのか

正統教義…「神性は不受苦 人性が受苦」
河童教義…「神格が死んだのだから、人性の死を神性も味わった」

■アンティオケ学派最後の大神学者キュロス司教のテオドレトス
『キリスト論 論争史』p197より引用
447年に書かれた『物乞い』の第三の対話
「聖書が教えてくれる通り、祝された教父たちが常に説いてこられたように
キリストは神であり人間であるとすれば、人間として受苦されたのであり、
神としては不受苦のままであられたのである」(Ettlinger,p264,15-17)

■アレクサンドリア総主教のキュリロス
『キリスト教の伝統 教理発展の歴史 第一巻 公同的伝統の出現(100-600年)』
ペリカン著 6500円(税別) 教文館 p311 
「キュリロスはそれはすべての理性とすべての言葉を超越した仕方で
「その神の本性においてではなく、彼ご自身の肉において苦しむことによって」である、
と答えた。キリストの苦難の現実性を強調し、キリストの位格における神性と人間性の
統一を強調したアレクサンドリア学派の強調も、神の本性の本質的な不受苦性に限定を
置いたり、それを危険に晒すことは許されなかったのである。」

『中世思想原典集成3 後期ギリシア教父・ビザンティン思想』
上智大学中世思想研究所監修 春秋社 10,000円(税別)
p222 『キリストはひとりであること』より
「A自分に固有の肉において受苦したのであって、神の本性においてではない。」