>@「心の安定、清浄、心の統一」が解脱でないことは第二禅を読めば分かる。
>第二の禅定
>「さらにまた、大王よ、比丘は、大まかな考察・細かな考察が消え、内心が清浄の、心の統一された、 大まかな考察・細かな考察のない、心の安定より生じた喜びと楽のある、 第二の禅定に達して住みます。
>かれは、この身体をこそ、心の安定より生じた喜びと楽によって潤し、あまねく浸し、あまねく満たし、あまねく行きわたらせるのです。その身体にはどこも、心の安定より生じた喜びと楽の触れないところはありません。」

だからこれも解脱なんですよ。解脱を表す表現です。
つまりこの後の四禅での記述も解脱を表す表現であり、実はそれだけでなく、それよりも前の大いなる戒などで
占いから離れている果報もまた解脱を表す表現です。
沙門果経は阿闍世王に釈尊の仏道における出家の比丘がその修行によって得る果報を一つ一つ丁寧に説明したものです。
戒定慧の三学ですね。これを一つ一つ丁寧に説明していった。
戒定慧は戒→定→慧の順番できっちり進められ、これはその順番、段階ごとに最後に得る解脱への階梯などを綴った経典だと思ってますよね?
違うのですよ。順番ではありません。たしかに初歩的な戒が先ずあり、最後は真理の観察の慧となるが、あなたが示した論文に書いてもある通り
それは螺旋形なのです。
つまり戒→定→慧ではなく、戒・定・慧→戒・定・慧→戒・定・慧の螺旋構造です。
その証拠に沙門果経では、四禅より後に最終的に四諦の観察の智慧の果報の話となるが、実はこの四諦の観察は、預流向時代から始まってます。
預流向は見道位とされるが、それは四諦の観察をしている位です。
仏道の初歩から四諦観察が始まっている。
だから沙門果経は、三学系統の経典とは戒定慧の三学をきちんと分けて説明した経典だろうが、これは決して順番ではない。
三学系統の経典として、戒定慧の三学一つ一つについてその果報を説明しているだけです。
つまりほとんど解脱の果報の説明ばかりと言ってよい。