【イエス】 これはわたしの愛する子 Part51 【キリスト】
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愛のシリーズ 第51弾
✝
そのとき、
「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」
と言う声が、天から聞こえた
(マタイによる福音書 3:17)
ここは霊的な利益を受けようとする心の柔軟な人々の為に
開かれているシャロンのスレッドです。世の利益や楽しみ、或いは
病気治しを求め、煽り、荒らし、反対する為だけの意見を書き込む人は
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前スレ
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1539102662/l50 しかし、おくびょうな者、不信仰な者、忌まわしい者、人を殺す者、みだらな行いをする者、魔術を使う者、偶像を拝む者、すべてうそを言う者、このような者たちに対する報いは、火と硫黄の燃える池である。それが、第二の死である。 >>964
終末は近いって駅前でエホバがやってますね
これもシャロンさんの悪霊退散なカルトチックな攻撃性に似てますな >>968
これ、読んでみれば?
あと、第2バチカンの公文書も読むと、ピッピさんのスタンスとは随分違うなぁと思うとおもわれまつ
http://www.catholic-nishichiba.com/Messages/foyer-200509ys.html
古くから「 教会の外に救いなし 」と言われてきました。これがもとで長いこと、教会の中にいないと救われないという狭い考えが支配してきました。
しかしフランスの神学者のイヴ・コンガールは、これを「 教会なしに救いなし 」と読み替えたほうがよいと提案しています。
教会は救いのしるし、救いの道具であり、救いがあることを世界中に知らせるためにあるというのです。キリスト教徒が愛を行なうならば、
それによってすべての人は、この世は捨てたものではない、この世にも救いがあるのだという希望を抱くことができるのです。教会はそのための道具なのです。
教会は人々にキリストにおける救いの希望、愛による救いの希望を知らせるものであって、教会のなかにいないと誰も救われないというのではないのです。 >>969
表面的に都合の良いところだけ読んでませんか
私はフマネヴィテのサイトを読んで、真意が違うなと感じました >>971
逆でしょ
2000年に教会は包括的に教会が神の名の元に犯した過去の罪を懺悔しました
ピッピさんの神の名の元の攻撃性、みたいな抽象的な働きがそのような罪の源流になってると思ってますね
ピッピさんはその神の名の元の攻撃性において、まだカルト姉妹と連なっていると思ってます >>971
たとえば現在でいえば
教皇フランシスコの言葉が曲げられて伝えられることがあります
真意は何かをしっかり読み取らなくてはいけません
それは律法を知りながら律法の心が見えないのと同じです >>971
逆じゃないですか?
教会は2000年に神の名の元で犯した罪を包括的に懺悔しました
神の名の元で正当化する肉の欲の攻撃性は、その懺悔された罪の源流だと思います >>973
ほんとですね
キリストの真意が何かしっかり読み取らなくてはいけませんね >>972
みことばを伝えていることが良くない攻撃性に見えているなら
あなたは変わったほうがいいです お手手つないでゴールインていう運動会が
神の真意、みこころではないと私は信じています
賞を受けるのは一人だけだとパウロも言ってます カルト姉妹とはまだ辛うじて攻撃性において繋がってるようですね
カルト姉妹の敵にその攻撃性を発揮すると仲直り出来ると思いますよ >967
6:1兄弟たちよ。もしもある人が罪過に陥っていることがわかったなら、
霊の人であるあなたがたは、柔和な心をもって、その人を正しなさい。
それと同時に、もしか自分自身も誘惑に陥ることがありはしないかと、
反省しなさい。
↑
罪過に陥っている人に対して、ぴっぴさんは、柔和な心できなくて
「敵意」なんです。
この罪に対する敵意は肉のやり方であって霊の方法ではないんです おはようございます
今朝は予報に反して晴れています。
>>976
アーメン >>941
お祭りの季節だからだよね
あちらこちらの神社でお祭りだもんね^^
私は出店を覗くのが好き
焼きそば、たこ焼き、リンゴ飴、芋のから揚げ、手作りのたわしやバッグ
金魚すくい、的あて、何より山車を引くお稚児さんの愛らしさ、そこには
確かに江戸があり、日本がある。 第2バチカン公会議の決定と教皇フランシスコの発言について
偶像崇拝者が偶像崇拝したままで救われるとか
救われた人が偶像崇拝に向かっても救われる
といった内容に聴こえてしまうなら
それは誤りです >>978
サティさんは自覚に乏しいようですが
あなたはいつも誰かを批判し、何かを批判しています
バカボンのパパみたいな
反対の反対は賛成なのだ、という
回りくどい表明しかできないならば
ぜひストレートに福音を語り祝福を与えていただきたいものです >>983
カト自体がマリア像という偶像、教皇という偶像を崇拝しているし
プロテスタントも十字架という偶像を教会に掲げて崇拝しているぞ 悔改めは自身と神との間でなすべきもので他人が強制するもでなく
又他人から強制されてするものでもないと思います。
神父の前で罪を懺悔した為に教会が堕ちて行った歴史もあります。
又、み言葉は自身に語られる神の福音で他人を攻撃するものではありません。
裁きの方便に使ってはいけない。 イエスは主であると告白する者が
イエス以外の偶像を愛する筈もなく・・・ 聖霊の臨在により罪は清冽に静かに
圧倒的に胸に迫る、こういう体験を持つものです。
悔改めは裁きではなく神の愛を認識できる恵みの時でもあるのです。 >>946
愛の天玉さんは誰ですか?
推測では助言が出来ません。 キリストは神なので生贄にはなりません。いけにえとされたのはキリストの肉の部分だけ。
しかもユダヤ人が苦労して殺したのに、すぐ生き返ってしまいましたから、いけにえとしては不完全でした。だから、イスラエルは滅亡してしまった。
パウロはいけにえによる罪の赦ししか知らないユダヤ人のために、ユダヤ教の贖罪の教義に照らしてキリストの十字架と罪の赦しを説明しました。
そこから刑罰代償説が発生したのですが、神は「いけにえを好まない」と何度もいわれています。
ホセア6:6 わたしはいつくしみを喜び、犠牲を喜ばない。燔祭よりもむしろ神を知ることを喜ぶ。
マタイ12:7『わたしが好むのは、あわれみであって、いけにえではない』とはどういう意味か知っていたなら、あなたがたは罪のない者をとがめなかったであろう。
キリストも、自らが贖罪主であることをユダヤ人に分からせるために、わざわざ十字架におかかりになったというだけです。
キリストの救いを信じる人は、悔い改めて聖霊に導かれる新しい生き方に転換できるので、 罪から救われる可能性が開かれます。それでも、罪を犯し続けるならば、 もはや許しはありません。
ヘブライ人への手紙10;26
「もし、わたしたちが真理の知識を受けた後にも、故意に罪を犯し続けるとすれば、罪のためのいけにえは、もはや残っていません。ただ残っているのは、審判と敵対する者たちを焼き尽くす激しい火とを、恐れつつ待つことだけです。」
ゆるしは無条件ではありません。信仰にふさわしい生き方にかかっているのです。
洗礼で自罪も原罪も帳消しになるなどと曲解しているのはサティだけです。 キリストは神ですから、いけにえ=身代わり=刑罰の代償にはなりません。
キリストの死によって自分の罪が帳消しになったと思い違いをして
いっそう罪に励んだのがルターです。 ヨハネによる福音書 13:34
わたしは、新しいいましめをあなたがたに与える、互に愛し合いなさい。
わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。 イエスは彼らに近づいてきて言われた、「
わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。
それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、
父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、
あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。
見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。
(マタイによる福音書 28:18-20 ) このスレッドは1000を超えました。
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