>>150
許しと血はついである、はその通りだと思います
僕の概念だと承認と所有、という概念に転換します
承認とは認める、ということです
所有は奪う、ということです
自我は外部との境界で作られます
その境界の論理は承認と所有で出来ていると考えます
親の承認で育まれる自我
他者から奪うことで大きくなる自我
承認の論理で形成される自我の宿命は「奪われる」です
その時に気になる問いは「奪われても承認できるか」ということです
キリストは右の頬を〜みたいなことを語ります
さらに救いの対象に奪われることで承認を行う、という奇跡も起こしました
こんなことはハードモード過ぎて、できるか!!!ってなります
それでも構造的に所有の法で形成される存在と承認の法で形成される存在は違うのは明らかで、神の悪への沈黙は承認の働きしかない、とは思ってます