【教えて】聖書のディボーション【みこころ】
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ガイドを活用しましょう。 『manna』いのちのことば社 リジョイス 改革派 febc キリスト教放送局 ほか >>177 イエス様が再び来て下さる時、救いを完成して下さり、 私たちの目から涙をすべて拭い取って下さる。 だから今、どんなにうなだれていても、 頭を上げるようにと語りかけられているのですね。 幼子イエスと再臨の主イエスを、 積極的に待ち望む季節となりますように。 🎈本日の『manna』エペソ 4:17-24 新しい人としての歩み 22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、 23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、 24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。 (ピッピ談) 21節の後半に「真理はイエスにあるのですから」というみことばがあります。 私たちには造り主のために生きることが求められています。それゆえ、神を知らない人たちの暗い知性による虚しい生き方を改めて、ただキリストのものとなって生きるように招かれているのです。 🎈本日の『manna』エペソ 5:15-21 知恵ある者としての歩み 15 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。 知恵ある者として、 16 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。 18 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。 19 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。 20 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。 (ピッピ談) 神の国を完成させるとは、もしかしたら全人類をキリストの民にすることではないでしょうか。キリストを永遠の神として認めることが神の国の到来なのでは。 キリストの再臨の時はどのようにして来られるのでしょうか。私たちはスペクタクルな想像をしがちです。 しかし主はこうおっしゃいました。「神の国は見える形では来ない」と。 どういうことでしょう。 みこころは測り難く、また理解しがたく、神秘に満ちています。 教皇ツイッター 今週教会は、次のように自ら問うようわたしたちを招いています。主がわたしを呼ばれるとき、どのような姿で主に見出してほしいでしょうか #SantaMarta #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #召命 #準備 引用ツイート Pope Francis @Pontifex This week the Church invites us to ask ourselves: what state do I want the Lord to find me in when He calls? #SantaMarta 午前2:00 · 2018年11月28日 · Twitter Web Client 晩秋の頃のただの落書き "主"に"私"を見出だして(今の"私"を判断して)頂くならば。 私なら、「ありのまま」で。 何故なら、 "主"は"私"が"私の事"を知るよりも前に、"私自身"を通してもう既に"私"の全てを知っておられていますから。 従って、 "どの様な姿"を要求しても全く無意味なのだから。 ただの独り言 🎈本日の『manna』エペソ 6:10-20 クリスチャンの戦い 10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。 12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。 (ピッピ談) 去年、私が5ちゃんの生活ブログで純潔や貞潔に反する押し付けを受けて苦しんでいたときに、この神の武具を身につけました。 ところが洗礼を受けたクリスチャンである中から神の武具を侮辱するような発言がありました。信じられない気持ちでした。 私はみことばから離れて聖書もろくに読んでなかったので、苦しみをはねつけるみことばが見つかりませんでした。 友だちですらない男性が突然我が家を訪ねてきて、同意もなく家に入ろうとするのは、おかしいのではないですか? 私はこの人を喜んでもてなさなければならなかったのでしょうか? 悪魔は私を偽善者のように責めたてました。 >>184 私だったらやる気のあるときがいいです。 すぐ行動できるような体勢でいるとき、指示を受けて、従いたいたいです。 つるべ落としの秋の夕暮れ、ただの感想 レスNo. 186の、 「友だちですらない男性が突然我が家を訪ねてきて、同意もなく家に入ろうとするのは、おかしいのではないですか? 」 「私はこの人を喜んでもてなさなければならなかったのでしょうか? 」 の文章にて、私個人招かない方が「正しい」と思います。 "律法(行いとしての"隣人愛")"は、"貴女"を護り導く為の律法であって、"律法"を守らされる為の"貴女"では無いと思いますから。 即ち、"自分と相手"をお互いに護り導き合う為の"律法"だと思いますから。 (行いとしての律法の目的(存在意義)) 悪魔は、それを逆転させて"人"を惑わすと思います。 (即ち、主に認められし人の"尊厳"を消失させ、律法の"奴隷化"(律法と言う名の偶像を崇拝)にさせる事) 悪魔は律法と言う名の偶像を利用し(律法の悪用)、人/人々を思い通りに支配するものと思います。 花は、自ら咲き誇るからこそ可愛く美しいものと思います。 勝手に書き記す事を失礼に思いながら、乱文にてのただの独り言 本日のリジョイス(改革派) より キリストは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着く王となられました。そしてこの世の終わりの日に栄光に輝いてやって来られます。私たちは頭を上げ、身を起こして、主イエス・キリストを栄光に輝く王と認め迎え入れるのです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 1:1-10 エレミヤの召命 4 次のような主のことばが私にあった。 5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から あなたを知り、 あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、 国々への預言者と定めていた。」 6 「ああ、神、主よ、 ご覧ください。私はまだ若くて、 どう語ったらよいか分かりません。」 9 そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。 主は私に言われた。 「見よ、わたしは、わたしのことばを あなたの口に与えた。 (ピッピ談) エレミヤは南王国のユダの時代四十年あまりを預言者として生きました。 王はヨシヤ、エホヤキム、ゼデキヤ。イスラエルのバビロン捕囚まで続きました。 解説を読むとどの時代の預言者も恐れを抱き逃げようとしています。 ◾まずモーセ「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」 ◾イザヤ「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者」 そういえばヨナも船で逃げようとして嵐に遭い、海に投げられて鯨の腹の中にいたのでしたね。 🎈本日の『manna』エレミヤ 3:1-5 自覚のないイスラエル 1 「…『…もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、 ほかの男のものになったら、 この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。 そのような地は大いに汚れていないだろうか。 あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、 しかも、わたしのところに帰るというのか。 ー主のことばー 4 今でもあなたは、 わたしにこう呼びかけているではないか。 「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。 5 いつまでも恨みを抱かれるのですか。 永久に持ち続けるのですか」と。 なんと、あなたはこう言っていながら、 あらん限りの悪を行なっている。』」 (ピッピ談) エレミヤの時代ヨシヤ王は、偶像を取り除き、神殿を改修し、律法を厳格に守るように命令し(列王ニ 22章)、祭司や民は王の命令に従いました。しかし心からではなかったのです。 「心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった」(10節) とは言え、遊女を娶るように主から命令された預言者もいましたね。夫は誠実に愛して、全財産と引き換えに妻を取り戻しました。 【エレミヤ3:1-5】 リビングバイブル 1 「.…ある人が妻を離縁し、彼女が再婚した場合、 彼女が再び戻って来ても妻にすることはできない という律法がある。 彼女は汚れた者となっているからだ。 だが、あなたはわたしを置き去りにして、 幾人もの恋人と結婚しておきながら、 あつかましくも、またわたしのもとに帰ると言っている。 2 ほかの神々を拝む姦淫の罪で汚れていない所は、 国中どこにもない。 あなたは娼婦のように道ばたに座り込み、 相手が来るのを待っている。 荒野のベドウィン族(遊牧民)のように、 たった一人で座っている。 あなたは、赦しがたい淫行の罪で 地を汚してしまった。 3 今は春の雨も降らなくなった。 あなたが恥知らずの娼婦だからだ。 4-5 それでもなお、あなたは臆面もなく言う。 『神よ。あなたは、これまでずっと私の夫でした。 だから、こんな小さなことで お怒りになるはずはありません。 私の罪など、きれいさっぱり忘れてくださるはずです。』こう言って、 相も変わらず、 ありとあらゆる悪を積み重ねている。」 🎈本日の『manna』出エジプト 20:3 唯一の神 3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。 (ピッピ談) 『ウェストミンスター小教理問答』問4 問 神とは、どんなかたですか。 答 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 父・子・聖霊の三位一体である神を唯一とするのがキリスト者です。 昨日、febcに出演された正教会の神父は、このお3方が愛によって一致しているということを仰っていました。一名なのか三名なのか。神の奥義は極め難く、私たちにはわけがわかりません。 キリスト者は、祈るとき、ナザレの主イエズスキリストが地上生活をしておられたとき「アッバ、父よ」と呼ばれたかたに祈ります。 私がこんな形で祈るようになったのは去年からです。それまではイエズスキリストに直截祈ってきました。型通りではなく、隣人に語りかけるようにしてお話ししてきました。 聖霊とはどんなお方か。私はそれがキリストご自身というよりは、忠実な御使いのように感じてきました。 まったく別々の存在でありながら性質として一致しているというイメージでした。 ですから三位一体の神は、時に年寄りで、また若々しくもあり、物言わぬ風のようでもありました。 https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_adv01sun.php ◾ ここに共通して見られる「来る」という言葉は、今日からはじまる待降節の意味を表していると言えます。 ◾ 待降節と訳されたラテン語の“Adventus”は、今は離れているものがだんだん近づきつつあることを表す「来る」という言葉です。いったい何が来るのでしょうか。 ◾ 待降節は、クリスマスが来るのを待つと思われていますが、典礼の聖書朗読は、終末の時、完成の時にキリストが来るのを待つことなのだと教えています。 ◾ そこで、待降節のはじまりにあたり「いつも目を覚まして祈りなさい」という緊迫感のこもった呼びかけの言葉が告げられます。 ◾ 新しく巡ってきたこの時を、「主よ、来てください」と祈り求める時といたしましょう。 讃美歌21 242番 1 主を待ち望むアドヴェント、最初のろうそく ともそう。 主が道をそなえられた この時を守ろう。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 2 主を待ち望むアドヴェント、 第二のろうそく ともそう。 主がなされたそのように、 互いに助けよう。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 3 主を待ち望むアドヴェント、 第三のろうそく ともそう。 主の恵み 照り輝き、 暗闇を照らす。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 4 主を待ち望むアドヴェント、 最後のろうそく ともそう。 主はこの世に来たりたもう。 心をこめ、うたおう。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2018-12/papa-francesco-avvento-2018121.html 教皇フランシスコ「待降節はわたしたちの人生のもっとも大切なこと、兄弟たちの中にキリストを見出すことを教えてくれる」 12月2日日曜日、待降節第一主日をもってキリストの降誕祭を準備する待降節が始まる。教皇は待降節の意味を解説。 神の子、キリストは、クリスマスの祝日に私たちのもとに来られる。 貧しさの中に、謙虚な条件の中に誕生された神の子の歴史上の到来を記念するたびに、心から迎えようとする人々の中に神の子は再び来られる。 そして世の終わりには生者と死者を裁くために再び来られる。だからわたしたちはいつも希望を持って主の来臨に備えていなければならない。 教皇フランシスコは2016年11月27日、日曜正午のアンジェラスの祈りに際して、キリストの三様の来臨について話されている。 ◾第一の来臨は受肉の神秘を通して、すなわちベトレヘムの馬小屋での誕生。 ◾第二の来臨は現に毎日絶え間なく実現していることで、いつもわたしたちの傍らに現存し、愛と慰めを持ってともに歩み続けてくれている。 ◾そして第三、最後の来臨は世の終わりに際しての最後の審判の際での出会いである。 教皇はマタイの福音書第25章「わたしが飢えていたとき食べさせてくれた、わたしが渇いていたとき飲ませてくれた、わたしが旅人だっとき宿らせてくれた、わたしが裸だったとき着せてくれた、わたしが病気だったとき、牢獄に入れられていたとき見舞ってくれた。 まことにわたしは言う。あなたたちが私の兄弟たちであるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまりわたしにしてくれたことであると」を引用しながらわたしたちは皆、最後には兄弟をどのように愛したかによって裁かれるだろうと想起している。 >>196 この最後の裁きについて、個人的な死後の裁きのことであると解釈しているクリスチャンがいますが、 そうしたら死者の裁きについてはどうなるのでしょうか。 🎈本日の『manna』出エジプト 32章 唯一の救い主 11 しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と御手をもってエジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。…」 14 すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。 15 モーセは向きを変え、山から下りた。… 19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。 そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。… (ピッピ談) 笑うところでしょうか。 仲裁した人が怒りを燃やすとは。でもよくありますよね。 誰かが攻撃されていると守りたくなり、罰がなければ不満に思います。 自分に関係がなければ忘れたり笑い事にもできますが、自分の身に降りかかる火の粉は何とかしたいと思うものです。 神の大いなる特質の一つが忍耐です。 神は怒りを燃やされても思い直されますし、さばきを決められていても執行するのはずっと先です。(14節、34節) このことが私たちにみこころを見えなくする時もあります。忘れた頃にやってくるのが神の報いですから。 【リジョイス 改革派】 マルコ13章24-37節 目を覚まして主の到来を待つ だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。(マルコ13:35) ◾ 本日からアドベント(待降節)が始まります。「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語に由来しています。アドベントは、キリストの第一の到来を祝うクリスマスを待ち望むと同時に、キリストの第二の到来である「再臨」を待ち望む大切な期間です。 ◾ クリスマスの日付は決まっていますが、再臨の日付を私たちは知りません。ただ父なる神のみがご存じです。 キリストが天に昇られてから2千年ほど経ちました。キリストの再臨はまだ先のことだろうと、私たちは油断してしまいがちかもしれません。しかし、その時がいつかわからないからこそ、主イエスはおっしゃいます、「目を覚ましていなさい」と。 ◾ それは、何か特別なことをすることではありません。主の僕として、主から与えられた仕事を責任をもって果たしていくことです。私たちは、主がいつ来られてもよいように、主の御前に忠実に日々を生きていきます。 ◾ 「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37節)。このように、主は「すべての人」に語っておられます。 🎈本日の『manna』エレミヤ 6:1-8 エレミヤの警告 6 まことに、万軍の主はこう言われる。 「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。 これは罰せられる都。 その中には虐げだけがある。 7 井戸が水を湧き出させるように、 エルサレムは自分の悪を湧き出させた。 暴虐と暴行がその中に聞こえる。 病と打ち傷がいつもわたしの前にある。 8 エルサレムよ、懲らしめを受けよ。 そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、 おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。 (ピッピ談) 北王国は百年前に崩壊していました。南王国ユダはヨシヤ王の時代に宗教改革を行い、バアルの祭壇を取り除き、神殿礼拝を回復させました。 しかし神の目には外見上のものでした。神は懲らしめのためバビロンの手にエルサレムを渡されるのです。 エルサレムが懲らしめを受けるとき、私はよくわからないといつも思うのです。民が虐げられ、病も打ち傷もそのままの弱者にとってはエルサレムの懲らしめは二重の苦難とならないでしょうか。 どうして弱者はいつも二倍の苦難を身に受けて苦しむのでしょうか。 🎈本日の『manna』エレミヤ 7:1-15 神殿における説教 リビングバイブル 11 わたしの宮は強盗の巣なのか。ありとあらゆる悪がはびこっていて、目も当てられない。 12 わたしが初めに、わたしの名にふさわしい町としたシロへ行きなさい。そこで、イスラエル人の悪のために、わたしがどんなことをしたかをよく見て来なさい。 13-14 あなたがたの行ったもろもろの悪のために、ここでも同じことをする。 わたしは何度も語りかけ、しきりに呼び続けたのに、あなたがたは聞こうとせず、答えようともしなかった。それでシロでしたように、この神殿を壊す。あなたがたの心の拠り所である、わたしの名で呼ばれるこの神殿、あなたがたと先祖に与えたこの場所を。 (ピッピ談) 主はエレミヤを通して語られますが、初めに3節で、神に立ち返るよう訴えられました。 「イスラエルの神である主は、こう言う。今からでも遅くはない。悪の道を離れさえすれば、あなたがたをこの地に住まわせよう。」 イスラエル人がやっていることはこれでした。 9節「あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫の罪を犯し、うそをつき、バアルや今まで知らなかった神々を拝んでいる。」 5節6節「悪い思いと行いを捨て、人には公平に接し、みなしご、やもめ、外国人をだましたりしないこと。人殺しをやめること。偶像を拝んで自分を傷つけるような愚かなまねはしないこと。」 罪に対して鈍感になるのはどんな時でしょう。それは「皆がやっている」「もう遠い記憶だ」「今は安らいでいる」この三点に要約できるのではないでしょうか。 嘆きの時は罪を犯していた頃の気持ちを忘れています。「今は被害者である」という時はとくにそうです。 恵みの時、私たちは感謝と同時に自分たちの悪を思い巡らすことも必要です。人はいつも高ぶりやすいからです。 4節8節10節 「主の神殿のあるエルサレムが破壊されるのを、神が黙って見ているはずはないと言う者たちのことばにだまされるな」 「神殿があるから災いに会うはずはない、と考えて、自分をあざむいてはならない。」 「しかも、わたしの宮に入ってわたしの前に立ち、『われわれは救われています』と言いながら悪を繰り返す。」 ダビデがその罪を預言者ナタンを通して咎められたのは、人を殺し、姦淫した相手を妻に迎えてもうすぐ子が生まれるという時期なんですよね。 赤子と会えるのを楽しみに待っていた頃に、それまで沈黙を貫いてこられた神がメッセージを送られたのです。 いつのどんな罪に対してなのか、私たちはもう忘れているかもしれませんね。 そしたら懲らしめに対してどう悔い改めたらいいかわかりますか。難しいと思います。 >>202 罪を犯したという自覚もないのに、どう悔い改めるのでしょう。 説明されて、そうなんですかこれから気をつけますなんて言っても 気をつける余生はもうありません。 人生が終わっていて、裁きの場にいるのですから。 🎈本日の『manna』エレミヤ 9:10-16 エルサレムの荒廃 リビングバイブル 13 「それは、わたしの民がわたしの戒めを捨て、おきてに従わなかったからだ。 14 それどころか、好き勝手なことばかりして、先祖が伝えたバアルを拝んだ。 15 そこで、イスラエルの神であるわたしは言う。彼らに苦い物を食べさせ、毒を飲ませる。 16 彼らを世界中に散らし、遠くの国々に追い払う。どこへ行っても、剣に追い回され、ついに滅ぼし尽くされる。…」 (ピッピ談) 外面上は偶像を取り除いたかに見えても、心はそうではありませんでした。 私たちがこの記録を読んで真相を知ったように思い、私たちの現在の信仰を振り返ることは難しいです。 私はエステルの養親のモルデカイを思い起こします。信仰によってハマンへの会釈を拒みました。今、誰がこのようにするでしょう。 日本の公立学校で式典があるとき、日の丸の国旗と君が代斉唱を拒否する人は問題となります。クリスチャンはハマンのように撤退しているでしょうか。 心で拝まなければ、なんて、甘い発想してませんか。 🎈本日の『manna』エレミヤ 11:1-8 契約のことばを聞け リビングバイブル 1-3 主はまた、エレミヤに語りました。 「ユダの民と、エルサレムの全住民に、わたしが彼らの先祖と契約を結んだことを思い出させなさい。その契約を守らない者はのろわれる。 7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトから助け出した時から今日まで、くり返し、『わたしのすべての命令に従え』と言い続けてきた。 8 だがあなたがたの先祖は、従うどころか聞こうとさえせず、頑として、好き勝手にふるまった。彼らが従うことを拒否したので、わたしは契約の中にある災いをみな下した。』 (ピッピ談) 体の割礼から心の割礼へと私たちは招かれています。それは男も女もなく、自由人も奴隷もなく、イスラエル以外の外国人も含まれています。 「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16) ガラテヤ5:16の続きは新共同訳では 「…そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」 それは必ずしも地上の安楽ではないことが明らかです。「あなたがたには世で苦難がある」(ヨハネ16:33)からです。 律法にも福音にも共通することは、軋轢と平和です。 国と国の同盟や人と人の同盟や神の教えと他の教えとの同盟ではないはずです。また強制的に従わせるものでもありません。 教皇ツイッター 「語るか、行うか」。自分はことばのクリスチャンか、行いのクリスチャンか。「砂か、岩か」。神という岩の上に自分の生活を築いているか、荒れ野の砂の上に築いているか。「高いか、低いか」。 自分の人生は「マリアの賛歌」に触発されているか #SantaMarta #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 引用ツイート Pope Francis @Pontifex "Saying or doing?" Am I a Christian of words or deeds? "Sand and rock?" Am I building my life on the rock of God, or on the sand of worldliness? "High or low?" Is my life inspired by the Magnificat? #SantaMarta 午前9:15 · 2018年12月7日 · Twitter Web Client >>206 プロテスタントは行いを軽視する傾向が強いから、ヤコブ書を否定した宗教改革者は責任をとるべきですね。 🎈本日の『manna』エレミヤ 14:1-9 さばきとエレミヤの訴え 7 「私たちの咎(とが)が、私たちに不利な証言をしても、 主よ、あなたの御名のために事をなしてください。 まことに私たちの背信は大きく、 私たちはあなたの御前で罪の中にいます。 8 イスラエルの望みである方、 苦難の時の救い主よ。 どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、 一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、 人を救えない勇士のようにされるのですか。 主よ、あなたは私たちのただ中におられ、 私たちはあなたの御名をもって 呼ばれているのです。 私たちを置き去りにしないでください。 (ピッピ談) 地上の日照りについて、エレミヤは主からおことばをいただきました。エレミヤはとりなしをします。 自然の恩寵は善人も悪人もともに受け、災害も例外ではありません。 「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。 …」(11節)と主はエレミヤに語ります。 それでもエレミヤはすがりつくようにしてとりなしを続けるのでした。 🎈本日の『manna』詩篇 139:1-16 全知全能の神 1 主よ、あなたは私を探り 知っておられます。 2 あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読みとられます。 3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。 4 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。 8 たとえ、私が天に上がっても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。 16 あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。 私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに。 (ピッピ談) 解説より。 「…神の義自体のうちに愛やあわれみ、恵みが含まれているのです。人間にはこの両方を同時に存在させることは困難です。 善悪に厳しい人は愛に欠ける面があり、愛情あふれる人は善悪の基準を多少甘くしてしまう傾向があるからです」 奇しくも解説は詩篇の85:10を引用します。 「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします」 神はすべてを知っておられ、神にできないものは何一つありません。 しかし私たちに自由意志を与えてくださることで、ご自身の全能を放棄してくださいました。 https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_adv02sun.php ▪待降節第1主日では、終末の時に来られるキリストを記念し、救い主を待ち望む思いを新たにしました。 ▪待降節第2週、第3週では、救い主を長いこと待ち望んだ旧約時代(キリスト誕生以前の時代)をあわせて思い起こし、それにあやかろうとします。そこで、キリストの到来を直接準備した旧約最後の人物として洗礼者ヨハネが登場します。 ▪今日第1朗読で読まれるバルク書は、第2正典に属します。バルクは預言者エレミアの書記官(秘書)をしていたと言われています。 バルク書は預言者バルクが記した言葉という形式をとっていますが、実際は紀元前2〜1世紀ごろのいくつかの伝承を、エルサレム陥落後の記念祭儀を行う朗読として、70年以降にまとめられたものと言われています。 ▪今日読まれる5章は、バビロン捕囚という暗闇の中にいて苦しんでいる民に、やがて訪れようとしている救いを告げ、慰めと希望を与え、エルサレム帰還の準備をさせます。 ▪「エルサレムよ」と語りかけるこのエルサレムは、イスラエルの民にとってユダヤの首都としてのエルサレムを意味していましたが、キリスト者にとっては、パウロがいう 「上のエルサレム」、ヨハネの黙示録が語る「天のエルサレム」、「新しいエルサレム」を意味します。 🎈本日の『manna』詩篇 139:17-24 神の御思い 19 神よ どうか悪者を殺してください。 人の血を流す者どもよ 私から遠ざかれ。 20 彼らは敵意をもってあなたに語り あなたの敵は みだりに御名を口にします。 21 主よ 私はあなたを憎む者たちを 憎まないでしょうか。 あなたに立ち向かう者を 嫌わないでしょうか。 22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。 彼らは私の敵となりました。 (ピッピ談) 神の裁きを願う時、委ねるという時、私たちは自分のために有利になることを期待しています。 不正な裁判官にしつこく裁きを願うやもめの話も、私を勝たせてくださいと訴えているのです。 罰を受けるのも覚悟の上で「神に委ねる」人がどれくらいいるのかわかりませんが、私は去年のような苦しみには耐えきれないことを知りましたから、祈るときはいつも「私が不利でも助けてください」と切実に願っています。 みこころが理解できない側、みこころを行うことができない側からの願いが多くなりました。反抗したいのではなく、私たちはわからないのです。 理解できない者もはっきり理解できるようにしてくださいと祈ります。私が意図せずみこころに適うことをしていますように。 🎈本日の『manna』エレミヤ 神からの答え リビングバイブル 5 エルサレムよ。 だれが、あなたのために心を痛めて泣くだろうか。 だれが、あなたの安否を尋ねるだろうか。 6 あなたはわたしを捨て、わたしに背いた。 だからわたしは、あなたを打ち据えようと、 こぶしを振り上げる。 立ち直る機会を与えるのがいやになったのだ。 7 あなたを町の門でふるいにかけ、 大切にしている物をみな奪い取る。 わたしの民は悪の道を振り切って わたしに立ち返ろうとしないので、彼らを滅ぼす。 (ピッピ談) ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことの罰が予告されました。 マナセは55年にわたり南王国を統治しましたが、偶像崇拝や殺人などあらゆる悪を行なっています。 バアルの祭壇とアシェラ像の造営、自然崇拝、人身犠牲、占い、まじない、霊媒、口寄せ、罪なき人々の殺害…(列王記二 21章)。 神は「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立ち、この国のために嘆願しても、わたしは彼らを助けない」(1節)と言われます。 こうして罰は民を襲います。今、安らかでいても、神の御目にはどう映っているのかわからないのですから、自惚れず身を低くして仕えましょう。 >>212 🎈本日の『manna』エレミヤ 15:1-9 現代そっくりです。 宗教の多様性が平和に共存する社会を求める人が多いですから。 初冬の夜、落書きとして書き記す事 −−− どんな容姿を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな腕力を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな財産を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな権力を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな知識(叡智)を知ったとしても、自分だけでは決して叶わぬものがある。 それは・・・、 あなたの私に向ける"本心"による純粋な愛情(善意)。 何故なら、何かによって身勝手、無理矢理にあなたを従わせた(従えさせようとした)時点で、もう既にあなたの"本心"は消え失せてしまっているのだから。 (私に対する愛情(善意)の"ふり"を向けられる事(本心ではない)) また、あなたは自分から"好き"を語る事が出来る様に、自分から"嫌い"を語る事が出来るのだから。 "驕り・傲慢"はその目を曇らせます。 −−− 栄誉、賞賛、名誉等、即ち「愛される事」について思う事。 2018/12/11 stranger coin https://www.youtube.com/watch?v=ajiHUgkyimo Ettore Bastianini - Vergin tutto amor (Durante) - STUDIO recording - RARE レスNo.214について思う事 "宗教の多様性"を"党派心の多様性"にすると・・・。 主の御心について、皆一様に同じ理解をされれば宜しいかと思われますが・・・。 (最近の他のスレッドを拝読させて頂きまして思う事として) 先程のレスも含めて勝手に書き記す事を失礼致します。 上から目線な差別の教えの差別だけ取り出したようなゴーンとマクロン >>211 不正な裁判官 → 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官 🎈本日の『manna』エレミヤ 17:1-11 罪とその結果 リビングバイブル 1 「鉄のペンかダイヤモンドの先端で、 石の心と祭壇の端に、 悪いおきてが刻み込まれているように、 わたしの民は罪を犯す。 2 若者でさえ罪を犯すことだけは忘れず、 木々の下で偶像を拝み、 高い山でも平地でも偶像に仕えている。 だから、あなたの全財産を、 罪に見合う代価として、敵に渡す。 9 人の心は何より欺きに満ち、芯まで腐っている。 それがどんなに悪質であるか、 だれにもわからない。 10 ただわたしだけが人の心を知っていて、 隅々まで探り、 一番奥に隠された動機まで読み取る。 そして一人一人に それぞれの生き方に応じた報いを与える。 (ピッピ談) 大変な言われようですが、身に覚えがある人ばかりではないでしょうか。 「私は良い心しかない。悪いことは何もしてない」と言う人は偽り者です。 裁きの日にはどんな恥をかくことでしょう。 それは人の目によるのではなく、神の御目による裁きだからです。 人の目の延長で神を判断しないようにしましょう。 🎈本日の『manna』エレミヤ 20:1-6 迫害を受けるエレミヤ リビングバイブル 1 神殿を管理する祭司であるイメルの子パシュフルは、エレミヤの語ることを聞くと、 2 彼を逮捕してむちで打たせ、神殿に近いベニヤミンの門にある足かせにつなぎました。 3 エレミヤは一晩中そこにさらされ、 翌日、パシュフルが釈放すると、エレミヤは言いました。 「パシュフル、主はあなたの名を変えました。あなたはこれからは『おびえながら生きる者』と呼ばれるようになる、と主は言います。 4 主があなたとあなたの友人に、恐怖を与えるからです。あなたは、友人が敵の剣で殺されるのを見るでしょう。 主はこう言います。『わたしはユダをバビロンの王に引き渡す。王はこの民を奴隷としてバビロンへ連れて行き、そこで殺す。 5 またわたしは、敵にエルサレムを略奪させる。この町の財宝は、王の宝石や金銀もろとも、遠くバビロンへと運ばれる。 6 パシュフルよ。おまえと家族、一族の者どもはみなバビロンで奴隷となり、そこで死ぬ。おまえをはじめ、万事うまくいくという偽りの預言を聞いた者もみな、同じ運命に会う。』」 (ピッピ談) 偶像礼拝を糾弾することがどうして気が触れているように見えたのか、現代の私たちの信仰生活の中で考えたら理解できるでしょう。 狭量、頑な、独善、平和的ではないなどと言われ、偶像崇拝者たちから反発を食らうでしょう。 エレミヤは「気がふれて預言する者」(29:26)に見えたのです。そういう者には「足かせや首かせをはめる」(同)という責任が祭司にはあったそうです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 王への警告 2 『ダビデの王座に着くユダの王よ。あなたも、これらの門の内に入って来るあなたの家来も、またあなたの民も、主のことばを聞け。 3 主はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。 また咎(とが)なき者の血をここで流してはならない。 4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着く王たちは車や馬に乗り、彼らも、その家来も、またその民も、この家の門の内に入ることができる。 (ピッピ談) 現代では誰が地上の神の国の王なのでしょうか。カトリックでは教皇、プロテスタントではルターでしょうか。 教会ごとに司祭や牧師がいますから、彼らが信徒たちにとって王でしょうか。それとも地上の王は誰でもなく、私たちの王は天におられるイエズスキリストだけでしょうか。 「寄留者、みなしご、やもめ」神は何度も何度もこの三者を苦しめてはならないと教えておられます。 社会的弱者をとても大切にしておられます。 王たる者は権力を用いる時は社会的弱者を下支えして仕える者になるのです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 23:1-8 牧者と羊 リビングバイブル 5-6 やがて、わたしがダビデの王座に、 正義の若枝を置く時が来る。 彼は知恵と正義をもって治める王となり、 地上に公義が行き渡るようにする。 その王は、『主は私たちの正義』と呼ばれる。 その日、ユダは救われ、 イスラエルは平和のうちに生きる。 7 その日には、誓いを立てるとき、人々は『イスラエルの民をエジプトから救い出した主は生きておられる』とはもう言わずに、 8 『ユダヤ人を、追いやられた国々からイスラエルの地に連れ戻した主は生きておられる』と言うようになる。」 (ピッピ談) キリストの来臨は降誕に始まりました。次は再臨です。 イスラエルの子らは再臨の日に完全に救われます。その日、惑わす者である悪魔サタンが滅ぼされるのです。 🎈本日の『manna』ルカ 15:11-32 捜し求める神 28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。 31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。 32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」 (ピッピ談) 三つのたとえ話の二つ目です。 一つ目は失われた子羊の話。二つ目が戻ってきた放蕩息子の話。三つ目はラザロと金持ちの話です。 二つ目と三つ目の間には唐突ともいえるような姦淫のことが語られます。 「…妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」(18節) キリストによって福音が語られるようになっても律法が崩れ去る訳ではないというのですが、その真意は何だったでしょう。 私はこう思います。神様が願われているのは「憐れみであっていけにえではない」のだと。 🎈本日の『manna』ヨハネ(一) 4:7-21 愛を示す 14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。 15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。 21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。 (ピッピ談) 7節から10節は詩の形式で書いてあるそうです。教会の賛美歌か信仰告白のようなものだったのではないかと解説にはありました。 「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥(なだ)めのささげ物として御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」(10節) 教皇ツイッター わたしたちのいのちは、それが奉仕するために使われるとき、光を放ちます。喜びの秘けつは、仕えるために生きることです #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #奉仕 引用ツイート Pope Francis @Pontifex Our life spreads light when it is given in service. The secret of joy is living to serve. 午前9:06 · 2018年12月16日 · Twitter We 最近、聖書の語句が変わってしまった超常現象についてご存知? ライオンと羊→オオカミと羊 に変化 サンダル→シューズ ソファー エイリアン マトリックス こちらで語りましょ 【マンデラ】現実と違う自分の記憶28【宮尾すすむ】 https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1544529015/ 🎈本日の『manna』エレミヤ 25:1-14 70年のさばき リビングバイブル 8-9 そして今、神である主はこう宣告します。 「あなたがたがわたしのことばを聞かなかったので、わたしは代理人に立てたバビロンのネブカデネザル王の率いる北方軍団を呼び、この国と住民、それに周囲の国々を攻めさせる。こうして、徹底的に破壊し、あなたがたを永久にあざけりの代名詞とする。 10 喜びと楽しみ、結婚式の喜びを取り除く。 事業は失敗し、家庭は暗闇に閉ざされる。 (ピッピ談) 神様は罰をお与えにはなりませんと断言する人がいます。十字架で私たちの罪の贖いが完了したからだと。 罰をお与えにならないとすればどんな神様でしょう。懲らしめをお与えになる神様です。黙示録の7つの教会への預言を思い出しましょう。わざわいが全くなくなると思ったら大間違いです。 契約違反しなければイスラエルも永遠に祝福されたはずですから。 エレミヤの二十三年間にわたる預言にも民は耳を貸さず「悪の道」または「悪い行い」を改めませんでした。 私は、主の十字架のときにいたるまで、彼らは何が「悪の道」「悪い行い」なのかを判断できなかったのだと思います。 目が見えなくされるとはどういうことか、見えないとはどういう状態か、当人にはわからないのです。 バビロン捕囚が終わるにあたり、神はバビロン人を他の強い国々の奴隷とします。「わたしは彼らを、彼らがわたしの民を扱った基準に従って罰する」(14節 リビングバイブル) 愛の神様なら罰することはないと優雅に構えているあなたは大丈夫ですか。 。。。。 † マタイによる福音書7章13節から20節 13 「狭い門から入りなさい。滅びに通じる門は広く、その道も広々として、そこから入る者が多い。 14 しかし、命に通じる門はなんと狭く、その道も細いことか。それを見いだす者は少ない。」 15 「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 16 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 17 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 18 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 19 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 20 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」 。。。。 https://www.cbcj.catholic.jp/catholic/tenrei/taikosetsu/ この七つの交唱の冒頭をラテン語で表記すると以下のようになります。 “O Sapientia”(英知) “O Adonai”(主) “O radix Iesse”(エッサイの切株) “O clavis David”(ダビデのかぎ) “O Oriens(朝日) “O Rex gentium”(諸国民の王) “O Emmanuel”(インマヌエル) これらのラテン語の“O”の次にくる単語の頭文字を逆から並べると、“ERO CRAS”となります。これは「明日、わたしはいるだろう」という意味で、各交唱の結びの「来てください」という嘆願に応えることばとなっています。 教皇ツイッター 「おお、すべてを越える神から出た英知よ。あなたは果てから果てまで、すべてを力強くやさしく整えられる。賢明の道を教えに来てください」 #AdventAntiphons #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #待降節の交唱 #12月17日 引用ツイート Pope Francis @Pontifex "O Wisdom from the mouth of the Most High, you fill the whole world. With strength and gentleness you order all things: come to teach us the way of prudence." #AdventAntiphons 午前2:01 · 2018年12月18日 · Twitter Web Client 🎈本日の『manna』エレミヤ 27:1-11 バビロンに服従しなさい リビングバイブル 5 『わたしは大きな力をもって、地と全人類と、あらゆる動物を造った。これらを、わたしの目にかなった者に与える。 6 わたしはすでにおまえたちの国々を、わたしの代理人、バビロンのネブカデネザル王に与えた。また、おまえたちの家畜を全部彼のものとした。 7 時が来るまで、すべての国は彼とその子孫に仕える。そのあとで、多くの国の民と強い王たちがバビロンを征服し、住民を奴隷とする。 8 今は彼に従い、彼に仕えよ。おまえたちの首をバビロンのくびきに入れるのだ。わたしは、彼の奴隷になろうとしない国の民を罰する。戦争とききんと疫病を送るので、その国は彼に征服される。 (ピッピ談) 神の目にかなうというのが決して憐れみ深い性質の者ではないことが示されていると思います。こうして最後はバビロンも滅ぼされます。 私は神様がなぜ悪魔サタンの活動をこの世界に許可されているのか理解できませんでした。残虐非道が世界中いたるところで行われています。 そもそも私たちの欲望が引き金だとはいえ、こうした不幸を目の当たりにして声を荒げずにいられるでしょうか。 そんな時、主の十字架を思い出し、神の摂理の不思議さに信頼するしかないこと、人間の無力さ、山や丘は低くなり谷は埋められ、世界がすべて平らにされ整えられる時を待ち焦がれるのです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 30:1-11 救いの約束 リビングバイブル 8 全能の主は、こう約束します。「その日になると、わたしは彼らの首のくびきを壊し、体に巻きついてる鎖を断ち切る。外国人は二度と彼らを支配しない。 9 イスラエルとユダは、わたしと、わたしが彼らのために立てるダビデ王に仕えるようになる。 10 わたしのしもべヤコブよ、怖がることはない。 イスラエルよ、うろたえなくてもいい。 わたしがあなたを遠い国から連れ戻し、 あなたの子孫を、捕らえ移されて行った先から 連れ戻すからだ。 彼らは自分の国でゆったりくつろぎ、 だれも彼らを脅かすことはなくなる。 11 わたしがそばについていて救うからだ。 わたしはあなたの寄留先の国々を 全滅させることがあっても、 あなたを滅ぼし尽くすことはしない。 もちろん、完全に罰を免れるというわけではないが。…」 (ピッピ談) ほらね、と思いました。 主の約束はこのとおりです。 滅ぼし尽くすことはしないが罰は与えると。 「外国人は二度と彼らを支配しない」(8節) そうでしたか? ゆったりくつろぐことも約束ですが、さばきも受けるでしょう。なぜならイスラエルの神は契約の神だからです。違反があれば懲らしめを受けます。 神を畏れ敬いましょう。私たちは自分の違反さえわからないかもしれません。 🎈本日の『manna』エレミヤ 37:7-14 回復の喜び リビングバイブル 8 わたしが彼らを、 北から、また地の果てから連れ戻すからだ。 盲人や足の不自由な者、赤ん坊を連れた若い母親、 出産の近い女には、特別に心を留める。 彼らは大きな集団となって帰る。 9 だれの頬にもうれし涙がこぼれる。 わたしは彼らを、 壊れ物を運ぶように注意して連れ帰る。 彼らは静かに流れる川のほとりを歩き、 つまずくことはない。 イスラエルにとってわたしは父であり、 エフライムはわたしの長男だからだ。」 (ピッピ談) バビロン捕囚からの解放のときは必ず来ると預言しています。 「彼らは帰国して、シオンの丘で喜びの歌を歌います」(12節) 「苦しいことばかりの捕虜の時代は、もう過去のこととなった」(13節) 「わたしの民がすっかり満足するまで、十分に食べさせる」(14節) しかし、このあとのことを誰が思ったでしょう。 自分らのメシアを迫害して殺してしまうなどという出来事が起きようとは。 🎈本日の『manna』エレミヤ 34:12-22 奴隷の解放 リビングバイブル 17 結局、あなたがたはわたしの言うことを聞こうとせず、奴隷を解放しなかったので、わたしは戦争とききんと疫病であなたがたを打つ。流浪の民として世界中に散らす。 18-19 あなたがたは契約を守らなかったので、誓いを確かなものとするために牛を二つに断ち切ってその間を通る儀式にならい、あなたがたを真っ二つにする。 高官であろうが、宮廷の役人であろうが、祭司であろうが、一般市民であろうが、誓いを破った以上は、家畜のように殺す。 20 わたしがあなたがたを敵の手に渡すので、敵はあなたがたを殺す。あなたがたの死体は、はげたかや野獣のえじきとなる。 (ピッピ談) エジプト脱出の際に、ファラオが度々心を変えたようなことが神の民にもあったということですね。 六年の年季明けに奴隷を解放するという契約があったのに、自由にしなかったのです。 いったんは正しいことへ向かうものの、また翻してしまうという。 「そのことは実行されなかった」(14節) 「ところが最近になって…正しいことをして、奴隷を自由の身とした」(15節) 「今になって急に態度を変え、誓いを破って…再び奴隷にした」(16節) 私ごとですが付録や福袋は買わないと決めてからすでに5万円分の予約をしてきました。 恐怖が止むと涙も止みますが、隣人のことなどすっかり忘れています。 この季節に隣人を忘れるなんてことがあっていいものでしょうか。 当初の予定ではあやめ♀とダリア♀のワクチン接種がありました。 私の食費を削ることも考えましたが、電気代が怖いのです。 福袋をキャンセルしましょう。 食事はちゃんと取らないと。 今年は野菜が安いですよ。 本日のリジョイスより 民数記11-12章 悔い改めて神に立ち帰る 民は出て行って、終日終夜、そして翌日も、うずらを集め、少ない者でも10ホメルは集めた。 …肉がまだ歯の間にあって、かみ切られないうちに、主は民に対して憤りを発し、激しい疫病で民を打たれた。そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。(民数記11:32-34) 荒れ野の旅路は、たいへん厳しいものでした。イスラエルの民は出発してさっそく不満の声を上げてしまいました。1回目の理由は不明ですが、2回目は食べ物についての泣き言でした(4節以下)。 マナによって、基本的な食べ物は満たされています。うずらが与えられることもありました(出16章13節)。けれども、肉や魚を求める声に誘惑されて、与えられているものに満足することを忘れてしまったのです。 主なる神は再びうずらを与えられましたが、それは貪欲な者に対しては主の裁きを招くものでした。終日終夜集めるような行為は、日毎に糧を与えて養ってくださる主を信頼する行為ではありません。そのため、疫病で打たれることになりました。 貪欲は偶像礼拝の罪だと指摘されています(コロ3章5節)。自分の思いを満たすことを求めて生きるなら、私たちも神の御前に罪を犯すことになります。この出来事は私たちを戒めています(1コリ10章6節)。 悔い改めて神に立ち帰る者こそ、真実に主イエス・キリストの到来を喜び祝う者とされるのです。 リジョイスをコピー 「貪欲は偶像礼拝の罪である」 頭を下げて跪かないなら偶像崇拝ではないと 考えている人もいます。 それがどれだけ表面的な理解であるかを知って欲しいのです。 知らずに神と敵対していることさえ気づかないでしょう。私たちはそれほど無自覚に偶像崇拝しているのです。 Νεκρώσατε οὖν τὰ μέλη τὰ ἐπὶ τῆς γῆς, πορνείαν ἀκαθαρσίαν πάθος ἐπιθυμίαν κακήν, καὶ τὴν πλεονεξίαν, ἥτις ἐστὶν εἰδωλολατρία, なるほど 文法的にはἥτις (ホスティスの女性・単数・主格)は、直前の τὴν πλεονεξίαν 冠詞・女性単数対格 貪欲を を受けて 「これは」、偶像崇拝である。と書いてますね。 だけども意味的には地上の肢体であるところの πορνείαν ἀκαθαρσίαν πάθος ἐπιθυμίαν κακήνも含めているのではないか と思います。 🎈本日の『manna』ルカ2:1-7、ガラテヤ4:4-5 時が満ちて ルカ そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストゥスから出た。 これは、キリニウスがシリアの総督であったときの、最初の住民登録であった。 人々はみな登録のために、それぞれ自分の町に帰って行った。 ヨセフも、ダビデの家に属し、その血筋であったので、ガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町に上って行った。 身重になっていた、いいなずけの妻マリアとともに登録するためであった。 ところが、彼らがそこにいる間に、マリアは月が満ちて、男子の初子を産んだ。そして、その子を布にくるんで飼葉桶に寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。 ガラテヤ しかし時が満ちて、神はご自分の御子を、女から生まれた者、律法の下にある者として遣わされました。 それは、律法の下にある者を贖い出すためであり、私たちが子としての身分を受けるためでした。 (ピッピ談) バビロン捕囚から解放されて祖国へ戻っても、神の民はローマ帝国に支配されていました。 苦難の時期、メシア到来の期待の中、救い主はお生まれになりました。 八日目には割礼を受けられています。 エジプトへ逃げ、ナザレに戻り、30歳になるまで静かに暮らされていました。 >>244 も含めているのではないか、とは 何ですか。読めない者にはわからんぞ。 私の貪欲 🔻福袋 🔻雑誌付録とおまけと無料の配り物 🔻神の神秘探索 🔻スマホ 🎈本日の『manna』ルカ 2:8-20 救い主を礼拝する 12 あなたがたは、布にくるまって飼葉桶に寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」 13 すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。 14 「いと高き所で、栄光が神にあるように。 地の上で、平和が みこころにかなう人々にあるように。」 15 御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。 「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」 16 そして急いで行って、マリアとヨセフと、飼葉桶に寝ているみどりごを捜し当てた。 (ピッピ談) 伝承によるとこの羊飼いたちは、その後、キリスト信者となったということです。 倒れたイエズスの代わりに十字架を背負わされた通りがかりのキリキヤ人も、キリストのおからだを槍で突き通したローマ人もキリスト信者になりました。 反対していた祭司たちも、十字架の後、大勢がキリスト信者になったと聖書に書いてあります。 羊飼いたちに現れた御使いははっきりと告げました。 「今日、ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」(11節) >>249 あっ! ハマンは敵だ。 撤退とは何を指して書いたのか忘れてしまった。 ハマンのように撤退しているでしょうか、って何かしら。 >>250 おそらく 「モルデカイのように徹底しているでしょうか」ですね。 前にもダビデの王子の名前を間違えました。 アムノンのことをアブシャロムと書いたことがあります。 異母妹タマルを犯したのはアムノンですが、アブシャロムと書いてしまいました。 聖なる夜(よ)、独り静かに記す事 "聖なる夜(よ) 心に羽根が 舞い降(ふ)りて 傷心(こころ)の哀しみ 想いの希望に" "哀しみの あなたの涙 胸痛め 涙拭えば 笑顔の涙に" どうか、これからのあなた(方)に、 "春の日差しと陽気の幸あらんことを" "幸せもたらす福音の鐘の音を" 2018/12/25 stranger coin 聖なる夜(よ) 静かな時間(とき)を 過ごしつつ 失礼ながら 此処書き記す 本日のfebc エコーオブヴォイスズを聞いて (ピッピ談) 家族や周りの人からの反対や無理解から、キリスト信仰を胸に秘めているしかない時。 その期間、あなたは神様と二人きりでお話しし専心することができます。 暮らしのなかであなたをとおして神様が働かれるでしょう。 あなたが罪深いなら、罪深いあなたが求め続けた神がキリストだと知られるようになるのです。 世の玉石混交の信仰のなかで、あなたは真珠であるキリストを伝える器として選ばれました。 あなたが弱ければ、弱いあなたが信じている神がキリストだと知られます。 その人が罪を犯し弱くなってあなたを思い出す時、あなたは力強くキリストを伝えたことになるのです。 コロサイ1:15-17 (リビングバイブル) キリストは、目には見えない神のかたちであり、神がすべてのものをお造りになる前からおられました。 事実、キリストはすべてのものの創造者なのです。天にあるものも地にあるものも、目に見えるものも見えないものも、霊の世界の王座も主権も支配も権威もすべて、この方がご自身の目的と栄光のために造られたのです。 キリストは他のすべてのものに先立って存在し、すべてのものは、キリストによって成り立っています。 (ピッピ談) 『manna』の解説には、はっきりと書いてあります。 「…イエス・キリストが天地万物を創造され、またそのすべてを今も支えておられる神であって、それと共に昔旧約の民イスラエルを導かれたあの主、ヤハウェなる神であるということです」 詩編58より 【指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。】 しかし、お前たちは正しく語り/公平な裁きを行っているというのか/人の子らよ。 いや、お前たちはこの地で/不正に満ちた心をもってふるまい/お前たちの手は不法を量り売りしている。 神に逆らう者は/母の胎にあるときから汚らわしく/欺いて語る者は/母の腹にあるときから迷いに陥っている。 蛇の毒にも似た毒を持ち/耳の聞こえないコブラのように耳をふさいで 蛇使いの声にも/巧みに呪文を唱える者の呪文にも従おうとしない。 神が彼らの口から歯を抜き去ってくださるように。主が獅子の牙を折ってくださるように。 彼らは水のように捨てられ、流れ去るがよい。神の矢に射られて衰え果て なめくじのように溶け/太陽を仰ぐことのない流産の子となるがよい。 鍋が柴の炎に焼けるよりも速く/生きながら、怒りの炎に巻き込まれるがよい。 神に従う人はこの報復を見て喜び/神に逆らう者の血で足を洗うであろう。 人は言う。「神に従う人は必ず実を結ぶ。神はいます。神はこの地を裁かれる。」 >>264 幸いを告げるうた―詩篇(再)1/18 投稿者: Staff03 小林和夫(日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師、東京聖書学院名誉院長) 19 全地に正しい裁きを行い給え 詩篇58 コーヒーブレイクインタビュー 凄まじい神の御手をお証ししてます。 ぜひお聴きください。 http://netradio.febcjp.com/2019/01/19/cbi190119/ 野原昭子氏(ボリビアの障害者自立支援施設「聖マルティンの家」施設長)(1) サムエル 上 15章より ◾万軍の主はこう言われる。イスラエルがエジプトから上って来る道でアマレクが仕掛けて妨害した行為を、わたしは罰することにした。 行け。アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ。男も女も、子供も乳飲み子も、牛も羊も、らくだもろばも打ち殺せ。容赦してはならない。」 ◾サウルはハビラからエジプト国境のシュルに至る地域でアマレク人を討った。 アマレクの王アガグを生け捕りにし、その民をことごとく剣にかけて滅ぼした。 しかしサウルと兵士は、アガグ、および羊と牛の最上のもの、初子ではない肥えた動物、小羊、その他何でも上等なものは惜しんで滅ぼし尽くさず、つまらない、値打ちのないものだけを滅ぼし尽くした。 ◾主の言葉がサムエルに臨んだ。 「わたしはサウルを王に立てたことを悔やむ。彼はわたしに背を向け、わたしの命令を果たさない。」サムエルは深く心を痛め、夜通し主に向かって叫んだ。 ◾サムエルがサウルのもとに行くと、サウルは彼に言った。「主の御祝福があなたにありますように。わたしは主の御命令を果たしました。」 サムエルは言った。「それなら、わたしの耳に入るこの羊の声、わたしの聞くこの牛の声は何なのか。」 サウルは答えた。「兵士がアマレク人のもとから引いて来たのです。彼らはあなたの神、主への供え物にしようと、羊と牛の最上のものを取って置いたのです。ほかのものは滅ぼし尽くしました。」 ◾サムエルは言った。「あなたは、自分自身の目には取るに足らぬ者と映っているかもしれない。しかしあなたはイスラエルの諸部族の頭ではないか。主は油を注いで、あなたをイスラエルの上に王とされたのだ。 主はあなたに出陣を命じ、行って、罪を犯したアマレクを滅ぼし尽くせ、彼らを皆殺しにするまで戦い抜け、と言われた。 何故あなたは、主の御声に聞き従わず、戦利品を得ようと飛びかかり、主の目に悪とされることを行ったのか。」 ◾サウルはサムエルに答えた。「わたしは主の御声に聞き従いました。主の御命令どおりに出陣して、アマレクの王アガグを引いて来ましたし、アマレクも滅ぼし尽くしました。 兵士が、ギルガルであなたの神、主への供え物にしようと、滅ぼし尽くすべき物のうち、最上の羊と牛を、戦利品の中から取り分けたのです。」 ◾サムエルは言った。「主が喜ばれるのは/焼き尽くす献げ物やいけにえであろうか。むしろ、主の御声に聞き従うことではないか。見よ、聞き従うことはいけにえにまさり/耳を傾けることは雄羊の脂肪にまさる。 反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる。」 ◾サウルはサムエルに言った。「わたしは、主の御命令とあなたの言葉に背いて罪を犯しました。兵士を恐れ、彼らの声に聞き従ってしまいました。 上記は15章からの抜粋です 自分たちから見てつまらないものは捨て、 上等なものは生かして分捕るということが主の目に悪と映った。 23 従わないことは占いの罪、 高慢は偶像崇拝の悪。 あなたが主のことばを退けたので、 主もあなたを王位から退けた。」… >>272 神を信じない人の中にも神の恵みをふんだんにいただいている人がいます。 お金、地位、人間関係、善行、知能、芸、気質、平安、名声などです。 良い賜物はすべて神から来ています。 ですから神に感謝せず、人から来たものとして受け止めると盗みと同じなのです。 神はご自分の「聖」に繋がらないこれらのものは惜しげも無く捨て去られます。 神の恵みは無尽蔵ですから与えたいと思う人に与えられるからです。 >>268 >>269 >>270 >>271 >>273 ヒントになったものは『黄金伝説1』 主の降臨と再臨 立ち読みで検索すると読めます febcを聴きました。 MEGUちゃん、重いお話をありがとう。 ほんっとうにそう! こっそり神様にお話しするのが一番です。 確実です。 それでもアウトプットしたいときはホワイトボードか匿名掲示板でつぶやく。 マルコ4章より (そのとき、)イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。 おびただしい群衆が、そばに集まって来た。 そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。 …(種まきのたとえ) イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえについて尋ねた。そこで、イエスは言われた。 「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。それは、 『彼らが見るには見るが、認めず、 聞くには聞くが、理解できず、 こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである。」 >>277 初めからそのおつもりで話されていたのだとすれば、あらゆる病気の癒しはご自分の性質を伝える手段として用いられただけだったという気もする。 『manna』詩篇97:1-12 1 主は王である。 地は小躍りせよ。多くの島々は喜べ。 2 雲と暗黒が主を囲み 義とさばきが御座の基である。※ 3 火は御前に先立ち 主の敵を囲んで焼き尽くす。 4 主の稲妻は世界を照らし 地はそれを見て おののく。 5 山々は主の御前にろうのように溶ける。 全地の主の御前に。 6 天は主の義を告げ 諸国の民はその栄光を見る。 ※ (リビングバイブル) 2 雲と暗闇が主を取り囲み、 正義がその王座の土台です。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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