【教えて】聖書のディボーション【みこころ】
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ガイドを活用しましょう。 『manna』いのちのことば社 リジョイス 改革派 febc キリスト教放送局 ほか 🎈本日の『manna』士師 6章 ギデオンの成長 1 イスラエルの子らは、主の目に悪であることを行なった。そこで、主は七年の間、彼らをミディアン人の手に渡された。… 3 イスラエル人が蒔くと、いつもミディアン人、アマレク人、そして東方の人々が上がって来て、彼らを襲った。… 6 こうして、イスラエルはミディアン人の前で非常に弱くなった。すると、イスラエルの子らは主に叫び求めた。… 16 主はギデオンに言われた。「わたしはあなたとともにいる。あなたは一人を討つようにミディアン人を討つ」… (ピッピ談) ギデオンは神にしるしを願い求め、さまざまなしるしを見ました。 岩の上に置かれた肉と種無しパンが杖で焼き尽くされたり(21節)、夜の間に羊の毛だけに露が降りたり、逆に羊の毛だけに露が降りないように願ってその通りになりました。(36-40節) ギデオンの父親も周りの人々もバアルを信仰していたようですが、ギデオンはバアルの偶像を切り倒しました。(25-32節) こうして主の霊がギデオンをおおったので、ギデオンが呼び集めるとたくさんの部族が彼に従うようになりました。(34-35節) 『manna』解説より 士師記にエピソードが記されている士師を「大士師」、名前だけ挙げられている士師を「小士師」と呼ぶことがある。 ヨシュアからサムエルに至るおおよそ200年余りの間に、合わせて十数人の士師が登場する。 士師たちが所属する部族はさまざま。戦った部族もさまざま。 士師たち個人の信仰、道徳、人格もさまざま。 神がお立てになりお用いになった指導者だからといって、信仰面・人格面に秀でた模範的な人物とはかぎらない。 神に用いていただけること自体は感謝なことだが、それでおごり高ぶってはいけない。 神は時に異教徒の暴君すら、本人さえそうと知らないままご計画のためお用いになられる。 私たちが願い求めるべきは、誠実に神を愛し、信頼して、高潔に生き、神に喜んでいただく人生を送ること。 死別、再婚、死別、再婚を繰り返した人 今の結婚相手と離れたい、離れられる!と希望している人 どうぞ、絶望の瞬間においでください。 http://netradio.febcjp.com/2018/11/05/friw181105/ 朗読・岩島忠彦説教選11/5 投稿者: Staff03 32 執着と離脱 ルカ20:27〜38 (岩島忠彦著『説教集 みことばを生きる』教友社発行より) 🎈本日の『manna』イザヤ 43:1-7 イスラエルの贖い主 1 だが今、主はこう言われる。 ヤコブよ、あなたを創造した方、 イスラエルよ、あなたを形造った方が。 「恐れるな。わたしがあなたを購ったからだ。 わたしはあなたの名を呼んだ。 あなたは、わたしのもの。 2 あなたが水の中を過ぎるときも、 わたしは、あなたとともにいる。 川を渡るときも、あなたは押し流されず、 火の中を歩いても、あなたは焼かれず、 炎はあなたに燃えつかない。 3 わたしはあなたの神、主、 イスラエルの聖なる者、 あなたの救い主であるからだ。 わたしはエジプトをあなたの身代金とし、 クシュとセパをあなたの代わりとする。 4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。 わたしはあなたを愛している。 だから、わたしは人をあなたの代わりにし、 国民(くにたみ)をあなたのいのちの代わりにする。 (ピッピ談) 「水の中を過ぎる」とは出エジプトの時、海の水の中を通ったこと。 「川を渡る」とは約束の地に入る時、ヨルダン川を渡ったこと。 「火の中を歩いた」とはダニエルたち四人が炉の中へ入れられたこと。 バビロンからイスラエルの民を救い出すために、その代価としてエジプトやクシュ(エチオピア)やセパを、ペルシア帝国に差し出しました。 ※ この代価は究極的にはキリストを指します。 バビロン捕囚やアッシリアによって各地に離散したイスラエルの民は故郷エルサレムに戻されます。 ※ これもキリスト再臨の時の預言でもあります。 長倉、わからんぞ。 http://netradio.febcjp.com/2018/11/05/eofv181105/ Echo of Voices11/5 投稿者: Staff03 長倉崇宣(日本FEBCスタッフ) 32 従わない者には神の怒りが下る? http://netradio.febcjp.com 日本語の「悔い改め」は「後悔する」という意味が含まれますが、 聖書の「悔い改め」と「後悔」とはまったく違うと雨宮神父は言われます。 しかも、旧約聖書の中には「悔い改め」と訳されている言葉が6回しか出てこないそうです。 知ってました? 不思議に思い、原語を調べ上げた雨宮神父が発見されたこととは…? >>133 私は自殺したユダに近いのだろうなと思う。 みこころに近づくことができない。 >>133 本来方向転換という言葉ですよね。 神のほうへ向きを変えること 🎈11月6日(火)の『manna』イザヤ 45:1-7 キュロス王の使命 1 主は、油注がれた者キュロスについて こう言われる。 「わたしは彼の右手を握り、 彼の前に諸国を下らせ、 王たちの腰の帯を解き、 彼の前に扉を開いて、 その門を閉じさせないようにする。 2 わたしはあなたの前を進み、 険しい地を平らにし、 青銅の扉を打ち砕き、 鉄のかんぬきをへし折る。 7 わたしは光を造り出し、闇を創造し、 平和をつくり、わざわいを創造する。 わたしは主、これらすべてを行う者。…」 (ピッピ談) ペルシア帝国のキュロス王はバビロンを打ち破りました。異教徒でしたが、神が用いられバビロンからイスラエルの民を解放させたので、油注がれた者=救い主と呼ばれました。 神はキュロスの右の手を握って歴史の表舞台に連れて来られ、彼の前に諸国を与えられ古代オリエント諸国を統一しました。 闇を創造するというのは、許可するという意味だそうですが、わざわいを通して光への道が鮮烈になる場合がありますね。 🎈11月7日(水)の『manna』イザヤ 47:1-7 神の復讐 5 「娘カルデア人たちよ。 黙って座り、闇に入れ。 あなたはもう、 国々の女王と呼ばれることはないからだ。 6 わたしは、わたしの民を怒って、 わたしのゆずりの民を汚し、 彼らをあなたの手に渡したが、 あなたは彼らをあわれまず、 老人にも、ひどく重いくびきを負わせた。 7 あなたは『いつまでも女王でいよう』と考えて、 これらのことを心に留めず、 自分の終わりのことを思うことさえしなかった。…」 (ピッピ談) バビロンがおとめと呼ばれているのは、まだ一度も外敵に侵略されたことがないからだそうです。 「カルデア」というのもバビロンのことです。 だいたい、優しい上品な女(1節)が、人をあわれまず年寄りにまで重いくびきを与えるでしょうか。もったいぶった気取り屋のような印象があります。 彼女バビロンはまだ試みを受けていないため、生まれつき優雅な生活を当然のように思い込んでいます。 しかしこのように驕り高ぶり、しかも神の民を虐げていれば、主である神が黙っておられるわけはありません。 🎈11月8日(木)の『manna』イザヤ 49:1-7 しもべの働き 6 主は言われる。 「あなたがわたしのしもべであるのは、 ヤコブの諸部族を立たせ、 イスラエルのうちの残されている者たちを 帰らせるという、小さなことのためだけではない。 わたしはあなたを国々の光とし、 地の果てにまでわたしの救いをもたらす者とする。」 7 イスラエルを贖う方、その聖なる方、主は、 人に蔑まれている者、 国民(くにたみ)に忌み嫌われている者に、 支配者たちの奴隷に向かってこう言われる。 「王たちは見て立ち上がり、 首長たちもひれ伏す。 真実である王、 あなたを選んだイスラエルの聖なる者のゆえに。」 (ピッピ談) しもべは何の手ごたえもないまま力を使い果たしたと神に言います。すると神はなおもしもべを励まし約束するのです。 私は最初、このしもべをイザヤのこととして読んでいました。 しかし解説によると、私と書いてあるのはイザヤのことではなくキリストです。 確かに内容がすんなり読めてきます。 「あなたはわたしのしもべ。イスラエルよ…」旧約でキリストのことを「イスラエル」と表現している箇所がいくつかあるようです。神に特別に選ばれた者という意味で「イスラエル」と呼ばれるのだそうです。 ◾母の胎内にいるうちから呼ばれた 3節 ◾無駄な骨折りをして (=十字架 )4節 ◾民を神に立ち帰らせる 5節 ◾全世界に福音をもたらす 6節 ◾人に蔑まれ、忌み嫌われている者 7節 🎈本日の『manna』イザヤ 51:1-8 救いの約束を聞け 2 あなたがたの父アブラハムとサラのことを考えてみよ。 わたしが彼一人を呼び出し、 彼を祝福したのだ。 3 まことに、主はシオンを慰め、 そのすべての廃墟を慰めて、 その荒野をエデンのようにし、 その砂漠を主の園のようにする。 そこには楽しみと喜びがあり、 感謝と歌声がある。 (ピッピ談) アブラハムに抱かれた三人の女がいます。 ハガル、サラ、ケトラ。 しかし神の約束はサラから生まれたイサクによって繁栄します。 家中心の結婚観はとかく上流階級になるほど高いと思います。 純然たる恋愛というより家柄中心のお見合いみたいなものです。女性でも男性でも、相手がお金持ちや身分の高い人ならよく知らなくても満足するかもしれません。 ふとそんな世界を思うとき、神様の約束が憧れではなくなってしまう自分がいます。 みこころに遠い今はなおさら、現実の人間関係の中に見られる祝福の約束が分からなくなります。 ヤコブの場合も愛するラケルの子ではなく、初めにめとったレアの子孫からキリストが出現しています。 ※ 十字架によってキリストの体は死に、新しくされました。 🎈本日の『manna』士師 7:1-8 戦いへの備え 1 エルバアルすなわちギデオンと、彼とともにいた兵はみな、朝早くハロデの泉のそばに陣を敷いた。ミディアン人の陣営は、その北、モレの丘に沿った平地にあった。 2 主はギデオンに言われた。「あなたと一緒にいる兵は多すぎるので、わたしはミディアン人を彼らの手に渡さない。イスラエルが『自分の手で自分を救った』と言って、わたしに向かって誇るといけないからだ。 3 今、兵たちの耳に呼びかけよ。『だれでも恐れおののく者は帰り、ギルアデ山から離れよ』と。」すると、兵のうちの二万二千人が帰って行き、一万人が残った。 (ピッピ談) 強い者に怯えていたギデオンが神の御力によって短期間で3万人以上を従える中心人物となりました。 エルバアルとは父親がギデオンにつけたニックネームです。「バアル(神)は争え」という意味です。ギデオンがバアルとアシェラ像を倒したからです。 主はご自身の力を圧倒させようとしてなお兵を厳選し、最終的に三百人が残りました。 こんばんは、猫らは元気? 朝晩寒くなってきたので、うちの猫らは肩トントン(お布団入れて!)してきて大変です(* ̄∇ ̄*) http://imepic.jp/20181110/757460 障害猫の白饅頭と、AIDSのモジャ公も、微妙ながら仲良く遊ぶようになって、やや落ち着いたかな? 野良らは、まあ色々だけど、よそから来てるのはナカナカ馴れなくて、 まあでも、そのうち仲良くなるといいかなw 愚かな五人のおとめたちのために、主イエズスキリストが開けてくださる! そのために主は十字架にかかってくださった… エェェー、そんな結論? febc日曜礼拝番組の説教を聞いて思ったこと。 説教 「花婿の来るとき」(マタイ25:1〜13) http://ch.febcjp.com/2018/11/11/susv181111/ 日曜礼拝番組「全地よ主をほめたたえよ」 日本福音ルーテル神水教会 説教●角本 浩牧師 >>145 ガラバンダルの聖母の啓示がそれなんだろうか。 すべての人に悔い改めの機会と準備期間を与えてくださるから。 🎈本日の『manna』士師 7:9-25 ギデオンの戦い、主の戦い 9 その夜、主はギデオンに言われました。 「立って、あの陣営に攻め下れ。それをあなたの手に渡したから。 18 私と、私と一緒にいるすべての者が角笛を吹いたら、あなたがたもまた、全陣営を囲んで角笛を吹き鳴らし、『主のため、ギデオンのため』と言わなければならない。 22 三百人が角笛を吹き鳴らしている間に、主は陣営全体にわたって同士討ちが起こるようにされたので、軍勢はツェレラの方のベテ・ハ・シタや、タバテの近くのアベル・メホラの岸辺まで逃げた。… (ピッピ談) ギデオンはまず従者プラとともにこっそりミディアン人の陣営に下り、彼らの胸の内を探り出します。夢の中でもギデオンとともにおられる主を恐れていました。 そのことを知ると、ギデオンたちは三隊に分かれて闇夜を下りました。 この戦いは主のものです。主はミディアン人を混乱させ敵味方の区別がつかなくされました。 🎈本日の『manna』イザヤ 53:1-10 苦難のしもべ 10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは、 主のみこころであった。 彼が自分のいのちを 代償のささげ物とするなら、 末長く子孫を見ることができ、 主のみこころは彼によって成し遂げられる。 (ピッピ談) 人間の目から見ると、ただ残酷なだけの十字架だけれど、ここにどんな摂理といつくしみが潜んでいることか。 私たちは人間であるゆえと言っていいほど罰されずには済まない存在でした。 私たちが本来受けるはずのあらゆる罰を神ご自身が代わりに受けてくださいました。 この大いなる愛といつくしみに感謝して、十字架の主にならい生きていきましょう。 🎈本日の『manna』イザヤ 55:1-9 新しい世界への招き リビングバイブル 6 見いだすことのできる間に主を探し求めなさい。 近くにいる間に主を呼び求めなさい。 7 悪をやめ、悪いことしようとする思いを捨てなさい。 主に立ち返るなら、 主はあなたをあわれんでくださいます。 私たちの神に帰りなさい。 神はあふれるばかりに赦してくださるからです。 8 「わたしの計画はあなたがたの計画と違い、 わたしの思いはあなたがたの思いと違う。 9 天が地より高いように、 わたしの道はあなたがたの道より高く、 わたしの思いはあなたがたの思いより高い。…」 (ピッピ談) 渇いている者、飢えている者は、代価を払わずに食べよと主はおっしゃいます。 最上のぶどう酒と牛乳と穀物を与えると約束なさいました。それは魂を元気にしてくれるまことの食べ物です。 3節に「あなたがたは立つか倒れるかの瀬戸際なのだ」(リビングバイブル)と書いてあります。新改訳では「そうすれば、あなたがたは生きる」と書いてあります。 人間に本当に必要な良いものとは、みことばなのです。みことばに聞き従うことが「生きる」ということです。 【創価学会は朝鮮族支配のカルトです】 オウムに人材と資金提供していたようです。 犯罪教団のお手本であり創価学会は、現世利益を看板にしてし、おびただしい数の出版物を半強制的に買わせる異常に気持ち悪い卑劣鬼畜外道ドブネズミです。 創価学会は、批判者や脱会者に対し、脅迫、尾行、見張り、嫌がらせ、怪電話、怪文書、暴行、傷害、盗聴等々、あらゆる犯罪的手段を用いて攻撃します。 創価学会を私物化した池田大作の野望は、日本の国家機構を乗っ取り、絶対支配者となる ということです。 同時に、創価学会は、司法界、官僚、警察、マスコミ界等へ、池田大作私兵を送り込む作業を長年にわたり組織的に続けています。 j 創価学会の会員は何かにつけ込まれ、無理矢理入信されられた方がほとんどです。 つまり、被害者なわけで救い出すチャンスはあると思います。 皆様とともに、どうしたら彼らを救い出すことができるかどうかを話し合ってみたいと思います。 池田大作先生を信じ、崇拝したところで、幸せが訪れるでしょうか? 創価学会は撲滅するべきです p 備考 その他の入ってはいけないランキングです アレフ、統一教会、顕正会、エボバの証人、法の華 創価学会被害者の会 浪速建設 岸本晃(キシモトアキラ) 🎈本日の『manna』イザヤ 57:1-10 偶像崇拝の罪 リビングバイブル 6 おまえたちの神々は、 谷川に転がっているなめらかな石ではないか。 おまえたちはそれを拝み、 わたしとは似ても似つかぬその神々を、 相続財産としている。 そんなことをして、わたしが喜ぶと思うのか。 7-8 おまえたちは山の上で偶像を拝み、 わたしを捨てて姦淫の罪を犯した。 とびらを閉めて偶像を据え、それらを拝んだ。 9 おまえたちは、かぐわしい香と香水を モレクへの供え物にした。 遠い道をいとわず、地獄にまでも行って、 愛を注ぐ新しい神々を見つけようと必死になった。 10 長い旅に疲れても決してあきらめず、 気持ちを強く持ちながら旅を続けた。…」 (ピッピ談) 正しい人は災いがくる前に取り去られる(1節) ということを、私はファウスティナの死と世界大戦の始まりを見ても不思議に思います。 ファウスティナは結核のため三十三歳の若さで亡くなりますが、その一年後に、ポーランドはナチスとソ連によって分割されてしまうのです。 第二次世界大戦は1945年に終わりました。しかしポーランドのある修道女たちは、戦争が終わる頃、ソ連兵による強姦を受け妊娠して、何人かは出産後子どもを森の中に捨てて見殺しにしました。 私たちはどうすれば良かったのでしょう。 当事者になれば善性など吹き飛んでしまいます。 🎈本日の『manna』イザヤ 59:1-8 罪による神との断絶 1 見よ。主の手が短くて救えないのではない。 その耳が遠くて聞こえないのではない。 2 むしろ、あなたがたの咎が、 あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、 あなたがたの罪が御顔を隠させ、 聞いてくださらないようにしたのだ。 (ピッピ談) 痛いことばです。 しばしば私は傷ついてきました。 自分の罪とはどんなことか、疲れ果てるほどにあらゆる罪を掘り起こしながら、決定的な罪を見出し悔い改めることができませんでした。 私たちは皆、罪深いのです。人間であるかぎり罪とは切り離されないものです。 罪のないかたはキリストお一人だけでした。 ※ ローマ3:15-17 参照 ディボーションガイド『manna』 11月号は、vol.111です。 🎈本日の『manna』イザヤ 61:1-9 油注がれた者のわざ 1 神である主の霊がわたしの上にある。 貧しい人に良い知らせを伝えるため、 心の傷ついた者を癒やすため、 主はわたしに油を注ぎ、 わたしを遣わされた。 捕らわれ人には解放を、 囚人には釈放を告げ、 2 主の恵みの年、 われらの神の復讐の日を告げ、 すべての嘆き悲しむ者を慰めるために。 (ピッピ談) 「わたし」とはキリストのことです。 「恵みの年」とはヨベルの年のことで、50年ごとに訪れる解放の年でもあり、キリストによる罪の贖いが告げ知らされる日なのです。 主の御名によって呼ばれる民は廃墟を建て直し、栄光を受け、永遠に祝福されます。 🎈本日の『manna』ルツ 1:1-14 モアブの女性ルツ 3 するとナオミの夫エリメレクは死に、 彼女と二人の息子が後に残された。 4 二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。 一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。 彼らは約十年の間そこに住んだ。 5 するとマフロンとキルヨンの二人もまた死に、ナオミは二人の息子と夫に先立たれて、後に残された。 8 ナオミは二人の嫁に言った。 「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。 (ピッピ談) アブラハムの甥ロトの姉妹が父親によって身ごもり出産した子がモアブ人です。下の娘から生まれたのがアンモン人。(創世記19:36-38) 「アンモン人とモアブ人は主の集会に加わってはならない」(申命記23:3) ルツはナオミから去らず、のちに再婚して、ダビデ、ソロモン、イエズスの先祖となりました。 異邦人について【参照】 http://netradio.febcjp.com/2018/11/17/atte181117/ ※ 11/30まで視聴可能です 7 救いがここに実現するため イザヤ56:1、6〜7、ローマ11:13〜15、29〜32、マタイ15:21〜28 小田武彦(カトリック大阪教区司祭、聖マリアンナ医科大学特任教授) https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleB/b_ord33sun.php マルコの終末を語る小黙示録は、まず、陣痛のはじまりとして、偽メシアの出現、戦乱、地震、飢饉、迫害がおこり、次いで「荒らす憎むべきもの」の出現、偽メシアと偽預言者が人を惑わし、最後には、今日読まれる天の異変と同様、そして、人の子の出現となります。 今日の個所はマルコの小黙示録の最後の部分です。 主の再臨は、イエス・キリストの復活とその栄光の現れによって、すでにはじまっており、世界は終末の時代に生きているのです。 イエス・キリストこそ、世界を完成させる新しい再臨の形であると、聖書は教えています。実に、キリストの来臨を教会は今、生きているのです。 >>157 「荒らす憎むべき者」のことを、偽メシアのことだと理解していたのですが、偽メシアが最初に現れ次に…とは別の者と解釈するのでしょうか。 http://netradio.febcjp.com/2018/11/18/200s181118/ 杉田太一「200字説教」 11/18 投稿者: Staff03 父の約束を待つ 使徒1:1〜14 🎈本日の『manna』ルツ 1:15-22 あなたの神は私の神 16 ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まわれるところに私も住みます。 あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。 17 あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」 (ピッピ談) とても胸を打たれる信仰告白です。 ともに夫を失った姑と嫁の関係は、もう同志のようではありませんか。ルツにとっては見たこともない異国ですが、ついて行くというのです。 自由に勘ぐれば、老いた義母が心配だったこともあるでしょう。それでも死さえ引き裂くことを望まないのですから、嫁の鑑といえます。 ナオミ(私は甘いという意味)はベツレヘムに帰ると、知り合いたちにはマラ(苦いという意味)と呼んでくれと頼みます。神が自分を大いに苦しめたからというのです。 しかしルツが一緒でした。 🎈本日の『manna』イザヤ 63:1-6 悔い改めと救い リビングバイブル 1 「エドムから来る、あの人はだれですか。 目にも鮮やかな深紅の衣を着て、 ボツラの町から来る、あの人はだれですか。 王の衣をまとい、威風堂々とやって来る、 あの人はだれですか。」 「それは、あなたに救いを告げ知らせる主だ。 大きな力をもって救う主だ。」 2 「どうしてその衣が、 ぶどうを踏み絞ったときのように真っ赤なのですか。」 3 「わたしは、ひとりで酒ぶねを踏んだ。 手伝ってくれる者はいなかった。 わたしは激しく怒り、 敵をぶどうのように踏みつぶした。 真っ赤になって怒り、敵を踏みにじった。 着物に染みついているのは彼らの血だ。 4 わたしの民のかたきを討ち、 虐げる者の手から救い出す時がついに来たのだ。 (ピッピ談) 解説より外科医の言葉。 「悔い改めとは、後悔と異なります。後悔とは、自分の過ちを、失望をもって振り返ることで、正しい道に戻るには遅すぎると感じることです。一方、悔い改めは、自分の過ちを、希望をもって見つめることです」 私ピッピは、ふと『炎のランナー』を思い出していました。主人公がレースの最中にコケる、しかし起き上がりまた走るのです。分析なんかしている場合ではありません。ただひたすらに走ることが目下の使命ではないでしょうか。 エドムは死海の南方にある地域の名前で、ボツラはエドムの中心的な町です。ヤコブの双子の兄がエサウでその子孫をエドム人といいます。イスラエルに敵対している異邦民族の代表のことだそうです。 深紅の衣を着ている方はキリストです。エドムで復讐をしてくださったキリストが敵の返り血を浴びて、エルサレムに戻って来てくださるという預言です。 http://netradio.febcjp.com/2018/11/19/eofv181119/ Echo of Voices11/19 投稿者: Staff03 長倉崇宣(日本FEBCスタッフ) 34 私もユダと同じです ラザロと金持ちのたとえでもわかるように、 後悔役に立たずなのよね… http://netradio.febcjp.com/2018/11/20/post181120/ 恵子の郵便ポスト11/20 投稿者: Staff03 吉崎恵子(日本FEBCメイン・パーソナリティ) 私は笑うことができません >>164 明日の米もない人に施しせず、教会が見捨てる現代 いつも疑問に思うこと。 なぜ祈りしか与えないのですか。 🎈本日の『manna』イザヤ 65:1-10 神の応答 8 主はこう言われる。 「ぶどうの房の中に甘い汁があるのを見れば、 『それを損なうな。その中に祝福があるから』 と言うように、 わたしも、わたしのしもべたちのために、 そのすべては滅ぼさない。 (ピッピ談) 明日からエペソが始まります。イザヤは66章まであるので最後まで読みたいものです。 さて今日の副題は「神の応答」とあるように、神の祝福と罰についてです。 聖書の神は徹底して唯一です。悪霊がどんな不思議をしてみせても信じてはいけないことが語られます。誰にも知られていないと思っても、他の神々を拝んでいればかならず報いを受けます。 しかし悪を取り除き、きよい一部の者が残されて私たちはまた繁栄をゆるされるのです。 小池先生の祈りを聞いて、何度もアーメンしました。 http://netradio.febcjp.com/2018/11/21/mias181121/ 御足の跡を11/21 投稿者: Staff03 小池与之祐(日本基督教団神の愛キリスト伝道所牧師) 高齢者の福音 ヨハネ15:1〜10 🎈本日の『manna』エペソ 1:15-23 パウロの祈り 17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。 18 また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しにより与えられる望みがどのようなものか、聖徒たちが受け継ぐものがどれほど栄光に富んだものか、 19 また、神の大能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が、どれほど偉大なものであるかを、知ることができますように。 (ピッピ談) まことにアーメンなり。 わかったつもりの私たちにどうぞ理解させてください。 今日も私は罪の奴隷となって「ごめんなさい、ごめんなさい」と過ちを辿りつぶやきました。私が今日出会う人のすべてが私の隣人です。大切にすることができますようにと祈りました。 いつも神とキリストに立ち返り、生き直すことができますように。 🎈本日の『manna』エペソ 2:11-22 キリストこそ私たちの平和 11 ですから、思い出してください。あなたがたはかつて、肉においては異邦人でした。 人の手で肉に施された、いわゆる「割礼」を持つ人々からは、無割礼の者と呼ばれ、 12 そのころは、キリストから遠く離れ、イスラエルの民から除外され、約束の契約については他国人で、この世にあって望みもなく、神もない者たちでした。 13 しかし、かつては遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスにあって、キリストの血によって近い者となりました。 14 実に、キリストこそ私たちの平和です。 キリストは私たち二つのものを一つにし、ご自分の肉において、隔ての壁である敵意を打ち壊し、 15 様々な規定から成る戒めの律法を廃棄されました。 こうしてキリストは、この二つをご自分において新しい一人の人に造り上げて平和を実現し、 16 二つのものを一つのからだとして、十字架によって神と和解させ、敵意を十字架によって滅ぼされました。 (ピッピ談) 日付に合わせて11-22 にしたのでしょうか。 神を敬うしるし(※ リビングバイブル)がどうして男子の性器の包皮を切り取ることなのか、いまだにわかりません。でも確実に子孫を増やすことと関係があるのでしょうね? アフリカでは女子の割礼を風習とする文化も残っています。どんな意味があるのでしょう。 エビの養殖のやり方で知るところでは、エビの目に性欲をコントロールするものがあるので、目を切り取り性欲を制御できないようにされるらしいです。 旧約から新約へを見るとき、祝福された肉の繁栄から祝福された霊魂の繁栄へと変えられるイメージがあります。 🎈本日の『manna』エペソ 3:14-21 キリストの愛を知るように リビングバイブル 16 どうか、父なる神が、その栄光に満ちた無限の富の中から、御霊を通して人を内面から強くする力を、あなたがたに与えてくださいますように。 17 こうしてキリストが、信じるあなたがたの心に住んでくださいますように。 18-19 そして、神の愛がどれほど広く、どれほど高く、どれほど深いかを理解することができますように。 さらに、あなたがたがキリストの無限の愛を知って、キリストの愛といのちに満たされますように。 20 どうか、私たちの祈り、願い、考え、望みをはるかに超えたすばらしいことを、その偉大な力でなされる神に、栄光がありますように。 (ピッピ談) 膝をかがめてパウロはエフェソの教会のために祈りました。(14-15節) 御霊により強くされ、信仰によりキリスト(アガペー)を住まわせ、人知をはるかに超えた神の愛(アガペー)を知るようにと願いました。 https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2018-11/general-audience-commandment-20181121.html 教皇「聖書の掟は、神との真の出会いに開かせるもの」一般謁見で 教皇フランシスコは、一般謁見で、モーセの「十戒」の最後の部分を考察された。 教皇は、「十戒」の最後の部分は、すべての人は「救いを乞う者」であるということに気付かせるものであり、自分の心の乱れを見つめ、自己中心的に生きることをやめ、 「心の貧しい者」となるためのもの、「御父の御前に正しい者となり、御子に贖われ、聖霊から教化される」ためのものである、と話された。 21 11月 2018, 16:05 晩秋の夜のただの落書き(独り言) −−− 闇(過度の利己的な欲)は不誠実に光を理解しないが、 光(清い利他的な想い)は誠実に闇を理解する事が出来ると思います。 だから、 人は、誠実さをもって神殿の闇を光で照らし、真摯に悔い改め続けゆくものと思います。 何故なら、 暗闇の中マッチを擦ればそこから燈が照らされる様に、闇は光を避けて道を譲るから。 その様にして、種から育つ御霊の実を少しずつ出来るだけ光で育ててゆくものと思います。 そして、その実により育ちゆく翼。 翼から舞い落ちる羽根は、人の神殿に燈照らしゆく色彩。 弟子(仮)"アリとキリギリス"などに倣いて。 −−− 2018/11/24 stranger coin 冬支度(ふゆじたく) コツコツ準備 しておいて 鍋を楽しみ 此処書き記す 此処に私の身勝手にて書き記す事を失礼致します。 🎈本日の『manna』ルツ 2章 落ち穂拾い 8 ボアズはルツに言った。 「娘さん、よく聞きなさい。ほかの畑に落ち穂を拾いに行ってはいけません。ここから移ってもいけません。私のところの若い女たちのそばを離れず、ここにいなさい。 10 彼女は顔を伏せ、地面にひれ伏して彼に言った。 「どうして私に親切にし、気遣ってくださるのですか。私はよそ者ですのに。」 (ピッピ談) ルツは夫を亡くした寡婦なのに「娘さん」はないだろうと思いますが、ボアズの目には若い女だったのでしょう。 ボアズはナオミの夫の一族で有力な親戚でした。ルツが落ち穂を拾いに行った先の畑がはからずもボアズの畑だったのです。 親切なボアズと健気なルツの出会いです。 🎈本日の『manna』ルツ 3-4章 買い戻しの権利のある親類 3:4 あの方が寝るとき、その場所を見届け、後で入って行ってその足もとをまくり、そこで寝なさい。あの方はあなたがすべきことを教えてくれるでしょう。」… 3:8 夜中になって、その人は驚いて起き直った。見ると、一人の女の人が自分の足もとに寝ていた。 3:9 彼は言った。「あなたはだれだ。」彼女は言った。「私はあなたのはしためルツです。あなたの覆いを、あなたのはしための上に広げてください。…」 3:12 ところで、確かに私は買い戻しの権利のある親類ですが、私よりももっと近い、買い戻しの権利のある親類がいます。 3:13 …もし、その人が親類の役目を果たすことを望まないなら、私があなたを買い戻します。…」 4:13 ボアズはルツを迎え、彼女は彼の妻となった。ボアズは彼女のところに入り、主はルツを身ごもらせ、彼女は男の子を産んだ。… (ピッピ談) 買い戻しの権利とはルツを妻にすることでもあったので、第一候補者は買い戻しの権利をボアズに譲りました。 昔のイスラエルにどんな風習があり、この行為にどんな意味があるのか知らなければよくわからないところです。 私はまず雅歌2章とくに2:4を思いました。王が恋人を奥の部屋に誘って愛のマントを広げる場面です。そしてキリストの御足下に入り涙で拭うマグダラのマリアの姿でした。 マリア(マグダラ)が主の御足の近くに座り、また汚れを洗うことが、自分を婢女と宣言するに等しいことと買い戻しによる解放を願う訴えとして映ります。「私を気に入ってくださるなら妻にしてください」と自己推薦していたのではないかと思えてきました。 教皇ツイッター 男女はその内側に神の似姿をまとい、神の無限の愛の対象です。どのような状況にあってもその中で生まれ出るよう招かれてきました #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #神の似姿 #無限の愛 引用ツイート Pope Francis @Pontifex Men and women bear God’s image within and are the object of His infinite love, in whatever condition they were called into existence. 午前10:42 · 2018年11月24日 http://www.febcjp.com/2018/11/26/info181126/ この待降節、主イエス様のご降誕を記念し心を備えて待つ期間なのですが、 でも、それだけじゃないって知ってました? 実はもうひとつの大切な意味があるのです。 それは、主イエス様が再び地上に来られる日、 再臨を待ち望むことです。 カトリック教会では、アドベントの前半には主の再臨に関する聖書箇所が朗読されます。 実はもうひとつの大切な意味があるのです。 それは、主イエス様が再び地上に来られる日、 再臨を待ち望むことです。 再臨って? イエス様はいつもあなたのそばにおられるのに? >>177 イエス様が再び来て下さる時、救いを完成して下さり、 私たちの目から涙をすべて拭い取って下さる。 だから今、どんなにうなだれていても、 頭を上げるようにと語りかけられているのですね。 幼子イエスと再臨の主イエスを、 積極的に待ち望む季節となりますように。 🎈本日の『manna』エペソ 4:17-24 新しい人としての歩み 22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言えば、人を欺く情欲によって腐敗していく古い人を、あなたがたが脱ぎ捨てること、 23 また、あなたがたが霊と心において新しくされ続け、 24 真理に基づく義と聖をもって、神にかたどり造られた新しい人を着ることでした。 (ピッピ談) 21節の後半に「真理はイエスにあるのですから」というみことばがあります。 私たちには造り主のために生きることが求められています。それゆえ、神を知らない人たちの暗い知性による虚しい生き方を改めて、ただキリストのものとなって生きるように招かれているのです。 🎈本日の『manna』エペソ 5:15-21 知恵ある者としての歩み 15 ですから、自分がどのように歩んでいるか、あなたがたは細かく注意を払いなさい。 知恵ある者として、 16 機会を十分に活かしなさい。悪い時代だからです。 18 詩と賛美と霊の歌をもって互いに語り合い、主に向かって心から賛美し、歌いなさい。 19 いつでも、すべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって、父である神に感謝しなさい。 20 キリストを恐れて、互いに従い合いなさい。 (ピッピ談) 神の国を完成させるとは、もしかしたら全人類をキリストの民にすることではないでしょうか。キリストを永遠の神として認めることが神の国の到来なのでは。 キリストの再臨の時はどのようにして来られるのでしょうか。私たちはスペクタクルな想像をしがちです。 しかし主はこうおっしゃいました。「神の国は見える形では来ない」と。 どういうことでしょう。 みこころは測り難く、また理解しがたく、神秘に満ちています。 教皇ツイッター 今週教会は、次のように自ら問うようわたしたちを招いています。主がわたしを呼ばれるとき、どのような姿で主に見出してほしいでしょうか #SantaMarta #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 #召命 #準備 引用ツイート Pope Francis @Pontifex This week the Church invites us to ask ourselves: what state do I want the Lord to find me in when He calls? #SantaMarta 午前2:00 · 2018年11月28日 · Twitter Web Client 晩秋の頃のただの落書き "主"に"私"を見出だして(今の"私"を判断して)頂くならば。 私なら、「ありのまま」で。 何故なら、 "主"は"私"が"私の事"を知るよりも前に、"私自身"を通してもう既に"私"の全てを知っておられていますから。 従って、 "どの様な姿"を要求しても全く無意味なのだから。 ただの独り言 🎈本日の『manna』エペソ 6:10-20 クリスチャンの戦い 10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。 11 悪魔の策略に対して堅く立つことができるように、神のすべての武具を身に着けなさい。 12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、支配、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです。 13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、一切を成し遂げて堅く立つことができるように、神のすべての武具を取りなさい。 (ピッピ談) 去年、私が5ちゃんの生活ブログで純潔や貞潔に反する押し付けを受けて苦しんでいたときに、この神の武具を身につけました。 ところが洗礼を受けたクリスチャンである中から神の武具を侮辱するような発言がありました。信じられない気持ちでした。 私はみことばから離れて聖書もろくに読んでなかったので、苦しみをはねつけるみことばが見つかりませんでした。 友だちですらない男性が突然我が家を訪ねてきて、同意もなく家に入ろうとするのは、おかしいのではないですか? 私はこの人を喜んでもてなさなければならなかったのでしょうか? 悪魔は私を偽善者のように責めたてました。 >>184 私だったらやる気のあるときがいいです。 すぐ行動できるような体勢でいるとき、指示を受けて、従いたいたいです。 つるべ落としの秋の夕暮れ、ただの感想 レスNo. 186の、 「友だちですらない男性が突然我が家を訪ねてきて、同意もなく家に入ろうとするのは、おかしいのではないですか? 」 「私はこの人を喜んでもてなさなければならなかったのでしょうか? 」 の文章にて、私個人招かない方が「正しい」と思います。 "律法(行いとしての"隣人愛")"は、"貴女"を護り導く為の律法であって、"律法"を守らされる為の"貴女"では無いと思いますから。 即ち、"自分と相手"をお互いに護り導き合う為の"律法"だと思いますから。 (行いとしての律法の目的(存在意義)) 悪魔は、それを逆転させて"人"を惑わすと思います。 (即ち、主に認められし人の"尊厳"を消失させ、律法の"奴隷化"(律法と言う名の偶像を崇拝)にさせる事) 悪魔は律法と言う名の偶像を利用し(律法の悪用)、人/人々を思い通りに支配するものと思います。 花は、自ら咲き誇るからこそ可愛く美しいものと思います。 勝手に書き記す事を失礼に思いながら、乱文にてのただの独り言 本日のリジョイス(改革派) より キリストは復活して天に昇り、父なる神の右の座に着く王となられました。そしてこの世の終わりの日に栄光に輝いてやって来られます。私たちは頭を上げ、身を起こして、主イエス・キリストを栄光に輝く王と認め迎え入れるのです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 1:1-10 エレミヤの召命 4 次のような主のことばが私にあった。 5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から あなたを知り、 あなたが母の胎を出る前からあなたを聖別し、 国々への預言者と定めていた。」 6 「ああ、神、主よ、 ご覧ください。私はまだ若くて、 どう語ったらよいか分かりません。」 9 そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。 主は私に言われた。 「見よ、わたしは、わたしのことばを あなたの口に与えた。 (ピッピ談) エレミヤは南王国のユダの時代四十年あまりを預言者として生きました。 王はヨシヤ、エホヤキム、ゼデキヤ。イスラエルのバビロン捕囚まで続きました。 解説を読むとどの時代の預言者も恐れを抱き逃げようとしています。 ◾まずモーセ「ああ、わが主よ、どうかほかの人を遣わしてください」 ◾イザヤ「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者」 そういえばヨナも船で逃げようとして嵐に遭い、海に投げられて鯨の腹の中にいたのでしたね。 🎈本日の『manna』エレミヤ 3:1-5 自覚のないイスラエル 1 「…『…もし、人が自分の妻を去らせ、彼女が彼のもとを去って、 ほかの男のものになったら、 この人は再び先の妻のもとに戻れるだろうか。 そのような地は大いに汚れていないだろうか。 あなたは、多くの愛人と淫行を行なって、 しかも、わたしのところに帰るというのか。 ー主のことばー 4 今でもあなたは、 わたしにこう呼びかけているではないか。 「父よ、あなたは私の若いころの恋人です。 5 いつまでも恨みを抱かれるのですか。 永久に持ち続けるのですか」と。 なんと、あなたはこう言っていながら、 あらん限りの悪を行なっている。』」 (ピッピ談) エレミヤの時代ヨシヤ王は、偶像を取り除き、神殿を改修し、律法を厳格に守るように命令し(列王ニ 22章)、祭司や民は王の命令に従いました。しかし心からではなかったのです。 「心のすべてをもってわたしに立ち返らず、ただ偽ってそうしただけだった」(10節) とは言え、遊女を娶るように主から命令された預言者もいましたね。夫は誠実に愛して、全財産と引き換えに妻を取り戻しました。 【エレミヤ3:1-5】 リビングバイブル 1 「.…ある人が妻を離縁し、彼女が再婚した場合、 彼女が再び戻って来ても妻にすることはできない という律法がある。 彼女は汚れた者となっているからだ。 だが、あなたはわたしを置き去りにして、 幾人もの恋人と結婚しておきながら、 あつかましくも、またわたしのもとに帰ると言っている。 2 ほかの神々を拝む姦淫の罪で汚れていない所は、 国中どこにもない。 あなたは娼婦のように道ばたに座り込み、 相手が来るのを待っている。 荒野のベドウィン族(遊牧民)のように、 たった一人で座っている。 あなたは、赦しがたい淫行の罪で 地を汚してしまった。 3 今は春の雨も降らなくなった。 あなたが恥知らずの娼婦だからだ。 4-5 それでもなお、あなたは臆面もなく言う。 『神よ。あなたは、これまでずっと私の夫でした。 だから、こんな小さなことで お怒りになるはずはありません。 私の罪など、きれいさっぱり忘れてくださるはずです。』こう言って、 相も変わらず、 ありとあらゆる悪を積み重ねている。」 🎈本日の『manna』出エジプト 20:3 唯一の神 3 あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。 (ピッピ談) 『ウェストミンスター小教理問答』問4 問 神とは、どんなかたですか。 答 神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。 父・子・聖霊の三位一体である神を唯一とするのがキリスト者です。 昨日、febcに出演された正教会の神父は、このお3方が愛によって一致しているということを仰っていました。一名なのか三名なのか。神の奥義は極め難く、私たちにはわけがわかりません。 キリスト者は、祈るとき、ナザレの主イエズスキリストが地上生活をしておられたとき「アッバ、父よ」と呼ばれたかたに祈ります。 私がこんな形で祈るようになったのは去年からです。それまではイエズスキリストに直截祈ってきました。型通りではなく、隣人に語りかけるようにしてお話ししてきました。 聖霊とはどんなお方か。私はそれがキリストご自身というよりは、忠実な御使いのように感じてきました。 まったく別々の存在でありながら性質として一致しているというイメージでした。 ですから三位一体の神は、時に年寄りで、また若々しくもあり、物言わぬ風のようでもありました。 https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_adv01sun.php ◾ ここに共通して見られる「来る」という言葉は、今日からはじまる待降節の意味を表していると言えます。 ◾ 待降節と訳されたラテン語の“Adventus”は、今は離れているものがだんだん近づきつつあることを表す「来る」という言葉です。いったい何が来るのでしょうか。 ◾ 待降節は、クリスマスが来るのを待つと思われていますが、典礼の聖書朗読は、終末の時、完成の時にキリストが来るのを待つことなのだと教えています。 ◾ そこで、待降節のはじまりにあたり「いつも目を覚まして祈りなさい」という緊迫感のこもった呼びかけの言葉が告げられます。 ◾ 新しく巡ってきたこの時を、「主よ、来てください」と祈り求める時といたしましょう。 讃美歌21 242番 1 主を待ち望むアドヴェント、最初のろうそく ともそう。 主が道をそなえられた この時を守ろう。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 2 主を待ち望むアドヴェント、 第二のろうそく ともそう。 主がなされたそのように、 互いに助けよう。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 3 主を待ち望むアドヴェント、 第三のろうそく ともそう。 主の恵み 照り輝き、 暗闇を照らす。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 4 主を待ち望むアドヴェント、 最後のろうそく ともそう。 主はこの世に来たりたもう。 心をこめ、うたおう。 主の民よ、喜べ。 主は近い。 https://www.vaticannews.va/ja/pope/news/2018-12/papa-francesco-avvento-2018121.html 教皇フランシスコ「待降節はわたしたちの人生のもっとも大切なこと、兄弟たちの中にキリストを見出すことを教えてくれる」 12月2日日曜日、待降節第一主日をもってキリストの降誕祭を準備する待降節が始まる。教皇は待降節の意味を解説。 神の子、キリストは、クリスマスの祝日に私たちのもとに来られる。 貧しさの中に、謙虚な条件の中に誕生された神の子の歴史上の到来を記念するたびに、心から迎えようとする人々の中に神の子は再び来られる。 そして世の終わりには生者と死者を裁くために再び来られる。だからわたしたちはいつも希望を持って主の来臨に備えていなければならない。 教皇フランシスコは2016年11月27日、日曜正午のアンジェラスの祈りに際して、キリストの三様の来臨について話されている。 ◾第一の来臨は受肉の神秘を通して、すなわちベトレヘムの馬小屋での誕生。 ◾第二の来臨は現に毎日絶え間なく実現していることで、いつもわたしたちの傍らに現存し、愛と慰めを持ってともに歩み続けてくれている。 ◾そして第三、最後の来臨は世の終わりに際しての最後の審判の際での出会いである。 教皇はマタイの福音書第25章「わたしが飢えていたとき食べさせてくれた、わたしが渇いていたとき飲ませてくれた、わたしが旅人だっとき宿らせてくれた、わたしが裸だったとき着せてくれた、わたしが病気だったとき、牢獄に入れられていたとき見舞ってくれた。 まことにわたしは言う。あなたたちが私の兄弟たちであるこれらのもっとも小さな人々の一人にしてくれたことは、つまりわたしにしてくれたことであると」を引用しながらわたしたちは皆、最後には兄弟をどのように愛したかによって裁かれるだろうと想起している。 >>196 この最後の裁きについて、個人的な死後の裁きのことであると解釈しているクリスチャンがいますが、 そうしたら死者の裁きについてはどうなるのでしょうか。 🎈本日の『manna』出エジプト 32章 唯一の救い主 11 しかしモーセは、自分の神、主に嘆願して言った。「主よ。あなたが偉大な力と御手をもってエジプトの地から導き出されたご自分の民に向かって、どうして御怒りを燃やされるのですか。…」 14 すると主は、その民に下すと言ったわざわいを思い直された。 15 モーセは向きを変え、山から下りた。… 19 宿営に近づいて、子牛と踊りを見るなり、モーセの怒りは燃え上がった。 そして、手にしていたあの板を投げ捨て、それらを山のふもとで砕いた。… (ピッピ談) 笑うところでしょうか。 仲裁した人が怒りを燃やすとは。でもよくありますよね。 誰かが攻撃されていると守りたくなり、罰がなければ不満に思います。 自分に関係がなければ忘れたり笑い事にもできますが、自分の身に降りかかる火の粉は何とかしたいと思うものです。 神の大いなる特質の一つが忍耐です。 神は怒りを燃やされても思い直されますし、さばきを決められていても執行するのはずっと先です。(14節、34節) このことが私たちにみこころを見えなくする時もあります。忘れた頃にやってくるのが神の報いですから。 【リジョイス 改革派】 マルコ13章24-37節 目を覚まして主の到来を待つ だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。(マルコ13:35) ◾ 本日からアドベント(待降節)が始まります。「アドベント」とは、「到来」を意味するラテン語に由来しています。アドベントは、キリストの第一の到来を祝うクリスマスを待ち望むと同時に、キリストの第二の到来である「再臨」を待ち望む大切な期間です。 ◾ クリスマスの日付は決まっていますが、再臨の日付を私たちは知りません。ただ父なる神のみがご存じです。 キリストが天に昇られてから2千年ほど経ちました。キリストの再臨はまだ先のことだろうと、私たちは油断してしまいがちかもしれません。しかし、その時がいつかわからないからこそ、主イエスはおっしゃいます、「目を覚ましていなさい」と。 ◾ それは、何か特別なことをすることではありません。主の僕として、主から与えられた仕事を責任をもって果たしていくことです。私たちは、主がいつ来られてもよいように、主の御前に忠実に日々を生きていきます。 ◾ 「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」(37節)。このように、主は「すべての人」に語っておられます。 🎈本日の『manna』エレミヤ 6:1-8 エレミヤの警告 6 まことに、万軍の主はこう言われる。 「木を切って、エルサレムに向かって塁を築け。 これは罰せられる都。 その中には虐げだけがある。 7 井戸が水を湧き出させるように、 エルサレムは自分の悪を湧き出させた。 暴虐と暴行がその中に聞こえる。 病と打ち傷がいつもわたしの前にある。 8 エルサレムよ、懲らしめを受けよ。 そうでないと、わたしの心はおまえから離れ、 おまえを、人も住まない荒れ果てた地とする。 (ピッピ談) 北王国は百年前に崩壊していました。南王国ユダはヨシヤ王の時代に宗教改革を行い、バアルの祭壇を取り除き、神殿礼拝を回復させました。 しかし神の目には外見上のものでした。神は懲らしめのためバビロンの手にエルサレムを渡されるのです。 エルサレムが懲らしめを受けるとき、私はよくわからないといつも思うのです。民が虐げられ、病も打ち傷もそのままの弱者にとってはエルサレムの懲らしめは二重の苦難とならないでしょうか。 どうして弱者はいつも二倍の苦難を身に受けて苦しむのでしょうか。 🎈本日の『manna』エレミヤ 7:1-15 神殿における説教 リビングバイブル 11 わたしの宮は強盗の巣なのか。ありとあらゆる悪がはびこっていて、目も当てられない。 12 わたしが初めに、わたしの名にふさわしい町としたシロへ行きなさい。そこで、イスラエル人の悪のために、わたしがどんなことをしたかをよく見て来なさい。 13-14 あなたがたの行ったもろもろの悪のために、ここでも同じことをする。 わたしは何度も語りかけ、しきりに呼び続けたのに、あなたがたは聞こうとせず、答えようともしなかった。それでシロでしたように、この神殿を壊す。あなたがたの心の拠り所である、わたしの名で呼ばれるこの神殿、あなたがたと先祖に与えたこの場所を。 (ピッピ談) 主はエレミヤを通して語られますが、初めに3節で、神に立ち返るよう訴えられました。 「イスラエルの神である主は、こう言う。今からでも遅くはない。悪の道を離れさえすれば、あなたがたをこの地に住まわせよう。」 イスラエル人がやっていることはこれでした。 9節「あなたがたは盗み、人を殺し、姦淫の罪を犯し、うそをつき、バアルや今まで知らなかった神々を拝んでいる。」 5節6節「悪い思いと行いを捨て、人には公平に接し、みなしご、やもめ、外国人をだましたりしないこと。人殺しをやめること。偶像を拝んで自分を傷つけるような愚かなまねはしないこと。」 罪に対して鈍感になるのはどんな時でしょう。それは「皆がやっている」「もう遠い記憶だ」「今は安らいでいる」この三点に要約できるのではないでしょうか。 嘆きの時は罪を犯していた頃の気持ちを忘れています。「今は被害者である」という時はとくにそうです。 恵みの時、私たちは感謝と同時に自分たちの悪を思い巡らすことも必要です。人はいつも高ぶりやすいからです。 4節8節10節 「主の神殿のあるエルサレムが破壊されるのを、神が黙って見ているはずはないと言う者たちのことばにだまされるな」 「神殿があるから災いに会うはずはない、と考えて、自分をあざむいてはならない。」 「しかも、わたしの宮に入ってわたしの前に立ち、『われわれは救われています』と言いながら悪を繰り返す。」 ダビデがその罪を預言者ナタンを通して咎められたのは、人を殺し、姦淫した相手を妻に迎えてもうすぐ子が生まれるという時期なんですよね。 赤子と会えるのを楽しみに待っていた頃に、それまで沈黙を貫いてこられた神がメッセージを送られたのです。 いつのどんな罪に対してなのか、私たちはもう忘れているかもしれませんね。 そしたら懲らしめに対してどう悔い改めたらいいかわかりますか。難しいと思います。 >>202 罪を犯したという自覚もないのに、どう悔い改めるのでしょう。 説明されて、そうなんですかこれから気をつけますなんて言っても 気をつける余生はもうありません。 人生が終わっていて、裁きの場にいるのですから。 🎈本日の『manna』エレミヤ 9:10-16 エルサレムの荒廃 リビングバイブル 13 「それは、わたしの民がわたしの戒めを捨て、おきてに従わなかったからだ。 14 それどころか、好き勝手なことばかりして、先祖が伝えたバアルを拝んだ。 15 そこで、イスラエルの神であるわたしは言う。彼らに苦い物を食べさせ、毒を飲ませる。 16 彼らを世界中に散らし、遠くの国々に追い払う。どこへ行っても、剣に追い回され、ついに滅ぼし尽くされる。…」 (ピッピ談) 外面上は偶像を取り除いたかに見えても、心はそうではありませんでした。 私たちがこの記録を読んで真相を知ったように思い、私たちの現在の信仰を振り返ることは難しいです。 私はエステルの養親のモルデカイを思い起こします。信仰によってハマンへの会釈を拒みました。今、誰がこのようにするでしょう。 日本の公立学校で式典があるとき、日の丸の国旗と君が代斉唱を拒否する人は問題となります。クリスチャンはハマンのように撤退しているでしょうか。 心で拝まなければ、なんて、甘い発想してませんか。 🎈本日の『manna』エレミヤ 11:1-8 契約のことばを聞け リビングバイブル 1-3 主はまた、エレミヤに語りました。 「ユダの民と、エルサレムの全住民に、わたしが彼らの先祖と契約を結んだことを思い出させなさい。その契約を守らない者はのろわれる。 7 わたしは、あなたがたの先祖をエジプトから助け出した時から今日まで、くり返し、『わたしのすべての命令に従え』と言い続けてきた。 8 だがあなたがたの先祖は、従うどころか聞こうとさえせず、頑として、好き勝手にふるまった。彼らが従うことを拒否したので、わたしは契約の中にある災いをみな下した。』 (ピッピ談) 体の割礼から心の割礼へと私たちは招かれています。それは男も女もなく、自由人も奴隷もなく、イスラエル以外の外国人も含まれています。 「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)、「御霊によって歩みなさい」(ガラテヤ5:16) ガラテヤ5:16の続きは新共同訳では 「…そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません」 それは必ずしも地上の安楽ではないことが明らかです。「あなたがたには世で苦難がある」(ヨハネ16:33)からです。 律法にも福音にも共通することは、軋轢と平和です。 国と国の同盟や人と人の同盟や神の教えと他の教えとの同盟ではないはずです。また強制的に従わせるものでもありません。 教皇ツイッター 「語るか、行うか」。自分はことばのクリスチャンか、行いのクリスチャンか。「砂か、岩か」。神という岩の上に自分の生活を築いているか、荒れ野の砂の上に築いているか。「高いか、低いか」。 自分の人生は「マリアの賛歌」に触発されているか #SantaMarta #教皇 #法王 #カトリック #キリスト教 引用ツイート Pope Francis @Pontifex "Saying or doing?" Am I a Christian of words or deeds? "Sand and rock?" Am I building my life on the rock of God, or on the sand of worldliness? "High or low?" Is my life inspired by the Magnificat? #SantaMarta 午前9:15 · 2018年12月7日 · Twitter Web Client >>206 プロテスタントは行いを軽視する傾向が強いから、ヤコブ書を否定した宗教改革者は責任をとるべきですね。 🎈本日の『manna』エレミヤ 14:1-9 さばきとエレミヤの訴え 7 「私たちの咎(とが)が、私たちに不利な証言をしても、 主よ、あなたの御名のために事をなしてください。 まことに私たちの背信は大きく、 私たちはあなたの御前で罪の中にいます。 8 イスラエルの望みである方、 苦難の時の救い主よ。 どうしてあなたは、この地にいる寄留者や、 一晩だけ立ち寄る旅人のようにされるのですか。 9 なぜ、あなたは驚いているだけの人や、 人を救えない勇士のようにされるのですか。 主よ、あなたは私たちのただ中におられ、 私たちはあなたの御名をもって 呼ばれているのです。 私たちを置き去りにしないでください。 (ピッピ談) 地上の日照りについて、エレミヤは主からおことばをいただきました。エレミヤはとりなしをします。 自然の恩寵は善人も悪人もともに受け、災害も例外ではありません。 「この民のために祈り、幸いを求めてはならない。 …」(11節)と主はエレミヤに語ります。 それでもエレミヤはすがりつくようにしてとりなしを続けるのでした。 🎈本日の『manna』詩篇 139:1-16 全知全能の神 1 主よ、あなたは私を探り 知っておられます。 2 あなたは 私の座るのも立つのも知っておられ 遠くから私の思いを読みとられます。 3 あなたは私が歩くのも伏すのも見守り 私の道のすべてを知り抜いておられます。 4 ことばが私の舌にのぼる前に なんと主よ あなたはそのすべてを知っておられます。 8 たとえ、私が天に上がっても そこにあなたはおられ 私がよみに床を設けても そこにあなたはおられます。 16 あなたの目は胎児の私を見られ あなたの書物にすべてが記されました。 私のために作られた日々が しかも その一日もないうちに。 (ピッピ談) 解説より。 「…神の義自体のうちに愛やあわれみ、恵みが含まれているのです。人間にはこの両方を同時に存在させることは困難です。 善悪に厳しい人は愛に欠ける面があり、愛情あふれる人は善悪の基準を多少甘くしてしまう傾向があるからです」 奇しくも解説は詩篇の85:10を引用します。 「恵みとまことは ともに会い 義と平和は口づけします」 神はすべてを知っておられ、神にできないものは何一つありません。 しかし私たちに自由意志を与えてくださることで、ご自身の全能を放棄してくださいました。 https://www.pauline.or.jp/calendariocappella/cycleC/c_adv02sun.php ▪待降節第1主日では、終末の時に来られるキリストを記念し、救い主を待ち望む思いを新たにしました。 ▪待降節第2週、第3週では、救い主を長いこと待ち望んだ旧約時代(キリスト誕生以前の時代)をあわせて思い起こし、それにあやかろうとします。そこで、キリストの到来を直接準備した旧約最後の人物として洗礼者ヨハネが登場します。 ▪今日第1朗読で読まれるバルク書は、第2正典に属します。バルクは預言者エレミアの書記官(秘書)をしていたと言われています。 バルク書は預言者バルクが記した言葉という形式をとっていますが、実際は紀元前2〜1世紀ごろのいくつかの伝承を、エルサレム陥落後の記念祭儀を行う朗読として、70年以降にまとめられたものと言われています。 ▪今日読まれる5章は、バビロン捕囚という暗闇の中にいて苦しんでいる民に、やがて訪れようとしている救いを告げ、慰めと希望を与え、エルサレム帰還の準備をさせます。 ▪「エルサレムよ」と語りかけるこのエルサレムは、イスラエルの民にとってユダヤの首都としてのエルサレムを意味していましたが、キリスト者にとっては、パウロがいう 「上のエルサレム」、ヨハネの黙示録が語る「天のエルサレム」、「新しいエルサレム」を意味します。 🎈本日の『manna』詩篇 139:17-24 神の御思い 19 神よ どうか悪者を殺してください。 人の血を流す者どもよ 私から遠ざかれ。 20 彼らは敵意をもってあなたに語り あなたの敵は みだりに御名を口にします。 21 主よ 私はあなたを憎む者たちを 憎まないでしょうか。 あなたに立ち向かう者を 嫌わないでしょうか。 22 私は憎しみの限りを尽くして彼らを憎みます。 彼らは私の敵となりました。 (ピッピ談) 神の裁きを願う時、委ねるという時、私たちは自分のために有利になることを期待しています。 不正な裁判官にしつこく裁きを願うやもめの話も、私を勝たせてくださいと訴えているのです。 罰を受けるのも覚悟の上で「神に委ねる」人がどれくらいいるのかわかりませんが、私は去年のような苦しみには耐えきれないことを知りましたから、祈るときはいつも「私が不利でも助けてください」と切実に願っています。 みこころが理解できない側、みこころを行うことができない側からの願いが多くなりました。反抗したいのではなく、私たちはわからないのです。 理解できない者もはっきり理解できるようにしてくださいと祈ります。私が意図せずみこころに適うことをしていますように。 🎈本日の『manna』エレミヤ 神からの答え リビングバイブル 5 エルサレムよ。 だれが、あなたのために心を痛めて泣くだろうか。 だれが、あなたの安否を尋ねるだろうか。 6 あなたはわたしを捨て、わたしに背いた。 だからわたしは、あなたを打ち据えようと、 こぶしを振り上げる。 立ち直る機会を与えるのがいやになったのだ。 7 あなたを町の門でふるいにかけ、 大切にしている物をみな奪い取る。 わたしの民は悪の道を振り切って わたしに立ち返ろうとしないので、彼らを滅ぼす。 (ピッピ談) ユダの王ヒゼキヤの子マナセがエルサレムで行ったことの罰が予告されました。 マナセは55年にわたり南王国を統治しましたが、偶像崇拝や殺人などあらゆる悪を行なっています。 バアルの祭壇とアシェラ像の造営、自然崇拝、人身犠牲、占い、まじない、霊媒、口寄せ、罪なき人々の殺害…(列王記二 21章)。 神は「たとえモーセとサムエルがわたしの前に立ち、この国のために嘆願しても、わたしは彼らを助けない」(1節)と言われます。 こうして罰は民を襲います。今、安らかでいても、神の御目にはどう映っているのかわからないのですから、自惚れず身を低くして仕えましょう。 >>212 🎈本日の『manna』エレミヤ 15:1-9 現代そっくりです。 宗教の多様性が平和に共存する社会を求める人が多いですから。 初冬の夜、落書きとして書き記す事 −−− どんな容姿を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな腕力を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな財産を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな権力を持ったとしても、自分では決して得られないものがある。 どんな知識(叡智)を知ったとしても、自分だけでは決して叶わぬものがある。 それは・・・、 あなたの私に向ける"本心"による純粋な愛情(善意)。 何故なら、何かによって身勝手、無理矢理にあなたを従わせた(従えさせようとした)時点で、もう既にあなたの"本心"は消え失せてしまっているのだから。 (私に対する愛情(善意)の"ふり"を向けられる事(本心ではない)) また、あなたは自分から"好き"を語る事が出来る様に、自分から"嫌い"を語る事が出来るのだから。 "驕り・傲慢"はその目を曇らせます。 −−− 栄誉、賞賛、名誉等、即ち「愛される事」について思う事。 2018/12/11 stranger coin https://www.youtube.com/watch?v=ajiHUgkyimo Ettore Bastianini - Vergin tutto amor (Durante) - STUDIO recording - RARE レスNo.214について思う事 "宗教の多様性"を"党派心の多様性"にすると・・・。 主の御心について、皆一様に同じ理解をされれば宜しいかと思われますが・・・。 (最近の他のスレッドを拝読させて頂きまして思う事として) 先程のレスも含めて勝手に書き記す事を失礼致します。 上から目線な差別の教えの差別だけ取り出したようなゴーンとマクロン >>211 不正な裁判官 → 神を畏れず、人を人とも思わない裁判官 🎈本日の『manna』エレミヤ 17:1-11 罪とその結果 リビングバイブル 1 「鉄のペンかダイヤモンドの先端で、 石の心と祭壇の端に、 悪いおきてが刻み込まれているように、 わたしの民は罪を犯す。 2 若者でさえ罪を犯すことだけは忘れず、 木々の下で偶像を拝み、 高い山でも平地でも偶像に仕えている。 だから、あなたの全財産を、 罪に見合う代価として、敵に渡す。 9 人の心は何より欺きに満ち、芯まで腐っている。 それがどんなに悪質であるか、 だれにもわからない。 10 ただわたしだけが人の心を知っていて、 隅々まで探り、 一番奥に隠された動機まで読み取る。 そして一人一人に それぞれの生き方に応じた報いを与える。 (ピッピ談) 大変な言われようですが、身に覚えがある人ばかりではないでしょうか。 「私は良い心しかない。悪いことは何もしてない」と言う人は偽り者です。 裁きの日にはどんな恥をかくことでしょう。 それは人の目によるのではなく、神の御目による裁きだからです。 人の目の延長で神を判断しないようにしましょう。 🎈本日の『manna』エレミヤ 20:1-6 迫害を受けるエレミヤ リビングバイブル 1 神殿を管理する祭司であるイメルの子パシュフルは、エレミヤの語ることを聞くと、 2 彼を逮捕してむちで打たせ、神殿に近いベニヤミンの門にある足かせにつなぎました。 3 エレミヤは一晩中そこにさらされ、 翌日、パシュフルが釈放すると、エレミヤは言いました。 「パシュフル、主はあなたの名を変えました。あなたはこれからは『おびえながら生きる者』と呼ばれるようになる、と主は言います。 4 主があなたとあなたの友人に、恐怖を与えるからです。あなたは、友人が敵の剣で殺されるのを見るでしょう。 主はこう言います。『わたしはユダをバビロンの王に引き渡す。王はこの民を奴隷としてバビロンへ連れて行き、そこで殺す。 5 またわたしは、敵にエルサレムを略奪させる。この町の財宝は、王の宝石や金銀もろとも、遠くバビロンへと運ばれる。 6 パシュフルよ。おまえと家族、一族の者どもはみなバビロンで奴隷となり、そこで死ぬ。おまえをはじめ、万事うまくいくという偽りの預言を聞いた者もみな、同じ運命に会う。』」 (ピッピ談) 偶像礼拝を糾弾することがどうして気が触れているように見えたのか、現代の私たちの信仰生活の中で考えたら理解できるでしょう。 狭量、頑な、独善、平和的ではないなどと言われ、偶像崇拝者たちから反発を食らうでしょう。 エレミヤは「気がふれて預言する者」(29:26)に見えたのです。そういう者には「足かせや首かせをはめる」(同)という責任が祭司にはあったそうです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 王への警告 2 『ダビデの王座に着くユダの王よ。あなたも、これらの門の内に入って来るあなたの家来も、またあなたの民も、主のことばを聞け。 3 主はこう言われる。公正と正義を行い、かすめ取られている者を、虐げる者の手から救い出せ。寄留者、みなしご、やもめを苦しめたり、いじめたりしてはならない。 また咎(とが)なき者の血をここで流してはならない。 4 もし、あなたがたがこのことばを忠実に行うなら、ダビデの王座に着く王たちは車や馬に乗り、彼らも、その家来も、またその民も、この家の門の内に入ることができる。 (ピッピ談) 現代では誰が地上の神の国の王なのでしょうか。カトリックでは教皇、プロテスタントではルターでしょうか。 教会ごとに司祭や牧師がいますから、彼らが信徒たちにとって王でしょうか。それとも地上の王は誰でもなく、私たちの王は天におられるイエズスキリストだけでしょうか。 「寄留者、みなしご、やもめ」神は何度も何度もこの三者を苦しめてはならないと教えておられます。 社会的弱者をとても大切にしておられます。 王たる者は権力を用いる時は社会的弱者を下支えして仕える者になるのです。 🎈本日の『manna』エレミヤ 23:1-8 牧者と羊 リビングバイブル 5-6 やがて、わたしがダビデの王座に、 正義の若枝を置く時が来る。 彼は知恵と正義をもって治める王となり、 地上に公義が行き渡るようにする。 その王は、『主は私たちの正義』と呼ばれる。 その日、ユダは救われ、 イスラエルは平和のうちに生きる。 7 その日には、誓いを立てるとき、人々は『イスラエルの民をエジプトから救い出した主は生きておられる』とはもう言わずに、 8 『ユダヤ人を、追いやられた国々からイスラエルの地に連れ戻した主は生きておられる』と言うようになる。」 (ピッピ談) キリストの来臨は降誕に始まりました。次は再臨です。 イスラエルの子らは再臨の日に完全に救われます。その日、惑わす者である悪魔サタンが滅ぼされるのです。 🎈本日の『manna』ルカ 15:11-32 捜し求める神 28 すると兄は怒って、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て彼をなだめた。 31 父は彼に言った。『子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部おまえのものだ。 32 だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。』」 (ピッピ談) 三つのたとえ話の二つ目です。 一つ目は失われた子羊の話。二つ目が戻ってきた放蕩息子の話。三つ目はラザロと金持ちの話です。 二つ目と三つ目の間には唐突ともいえるような姦淫のことが語られます。 「…妻を離縁して他の女を妻にする者はだれでも、姦通の罪を犯すことになる。離縁された女を妻にする者も姦通の罪を犯すことになる。」(18節) キリストによって福音が語られるようになっても律法が崩れ去る訳ではないというのですが、その真意は何だったでしょう。 私はこう思います。神様が願われているのは「憐れみであっていけにえではない」のだと。 🎈本日の『manna』ヨハネ(一) 4:7-21 愛を示す 14 私たちは、御父が御子を世の救い主として遣わされたのを見て、その証しをしています。 15 だれでも、イエスが神の御子であると告白するなら、神はその人のうちにとどまり、その人も神のうちにとどまっています。 21 神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。 (ピッピ談) 7節から10節は詩の形式で書いてあるそうです。教会の賛美歌か信仰告白のようなものだったのではないかと解説にはありました。 「私たちが神を愛したのではなく、 神が私たちを愛し、 私たちの罪のために、 宥(なだ)めのささげ物として御子を遣わされました。 ここに愛があるのです。」(10節) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
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