【教えて】聖書のディボーション【みこころ】
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ガイドを活用しましょう。
『manna』いのちのことば社
リジョイス 改革派
febc キリスト教放送局
ほか 媚びず、馴れ合わず、議論せず、をモットーに
孤独なディボーションを続けていきます。
狭く先鋭化します。
倦まず弛まず、淡々と、日課をこなします。 昨日のリジョイス
ルカ10章 ただ一つの必要
「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(ルカ10:42)
この「マルタとマリア」の物語は、本来この場所にあるのはおかしいのです。なぜなら、彼女たちが住む村は「ベタニア」であり、その村はエルサレムのすぐ近くにあるからです。
本当なら、主イエスの旅の終盤に差しかかる19章に置かれるべきです。しかし、ルカは「ある村」ということにして、この場所に置きました。それは「善いサマリア人」のたとえ話のすぐ後にこの物語を置きたかったからでしょう。 🎈本日の『manna』ガラテヤ 2:15-21
神の恵みを無にしない
21
私は神の恵みを無にはしません。もし義が律法によって得られるとしたら、それこそ、キリストの死は無意味になってしまいます。
(ピッピ談)
この箇所はぜひリビングバイブルで確認してください。とくに17節18節19節を読んでください。
とはいえ偽兄弟と呼ばれる人たちが、律法を行うように教えていることも間違いではありません。十戒は一点一画も失われないとイエズスは仰いました。
問題となるのは、誰一人行えるはずのない律法を、すべて守れなければ罪びとのままであると矛盾を含んだまま教えていることだと思います。
キリストを信じる者はすでに義とされました。キリストとともに生きるなら罪はその人から逃げていくのです。
十字架から離れないで十字架を見上げ、十字架を信じ、キリストを内に迎えましょう。 リビングバイブル
ガラテヤ2章
16しかし、私たちユダヤ人クリスチャンにしても、律法の行いを守ることによって神の前で正しい者と認められたのではありません。ただ、罪を取り除いてくださるキリスト・イエスを信じる信仰によって認められたのではありませんか。
だからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。それは律法によってではなく、信仰によって神に認められるためです。律法の行いを守って救われる人など、一人もいないのですから。」
17しかしもし、キリストの救いを信じた私たちが、あとになって、それはまちがいだった、やはり割礼を受け、律法もみな守らなければ救われないとわかったとしたら、どういうことになるでしょうか。
キリストを信じたために、さんざんな目に会ったことになるわけです。しかし、そんなことは絶対にありえません。
18前に打ちこわした方法――律法を守ることで救われようとする方法――でもう一度建て直そうとするなら、それこそが罪なのです。
19というのは、いくら律法に従おうと努力しても――それは失敗以外にないのです――神の恵みは決して受けられないことがわかったからです。キリストを信じて初めて、神に受け入れられることがはっきりわかったのです。 http://netradio.febcjp.com/2018/09/29/ksps180929/
忍耐についてと万事を益となす救いについて。
febc 加藤さゆりさんの詩篇説教集が最終回でした。
さゆりさんは故人であり、再放送だけれど。
詩篇119は176節まであります。
長い…。
聖テレジアのアドバイスまで持ち出すほど
忍耐、忍耐、また忍耐。
忍耐を推奨されてます。それしかないのか。
私も少し前までは、この忍耐こそ、
救いの秘訣であると信じてきました。
(私自身が忍耐できたかどうかは別です)
去年の苦難を思うと、忍耐なんてトラウマには無力と感じるこの頃です。
歴史的事実は消えないのですから。
「苦しみは私にとって良いことでした」
そうとも言えます。
ただ私は思うのです。
ここまで苦しまなければならない理由とは何だったのだろうと。 🎈本日の『manna』民数 13章
約束の地の偵察
32
彼らは偵察して来た地について、イスラエルの子らに悪く言いふらして言った。「私たちが行き巡って偵察した地は、そこに住む者を食い尽くす地で、そこで見た民はみな、背の高い者たちだ。
33
私たちは、そこでネフィリムを、ネフィリムの末裔アナク人を見た。私たちの目には自分たちがバッタのように見えたし、彼らの目にもそう見えただろう。」
(ピッピ談)
40日間の偵察の後、ある者たちは怯んでしまいました。
神はイスラエルの民に誰もいない土地を与えようとはなさらず、すでに人が多く住み着いて肥沃な土地になっているものを分捕り、その地の実りもまるごと分捕るご計画をお与えになりました。
地にあるすべては、神のものだからです。
もっともヤコブ一家がもともと住んでいた場所なのですが。 🎈本日の『manna』民数 14章
神の決定
6
すると、その地を偵察して来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとフンネの子カレブが、自分たちの衣を引き裂き、
7
イスラエルの全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて偵察した地は、すばらしく、良い地だった。
8
もし主が私たちを喜んでおられるなら、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さる。あの地は乳と蜜が流れる地だ。
9
ただ、主に背いてはならない。その地の人々を恐れてはならない。彼らは私たちの餌食となる。彼らの守りは、すでに彼らから取り去られている。主が私たちとともにおられるのだ。彼らを恐れてはならない。」…
33
おまえたちの子どもは、この荒野で四十年の間羊を飼う者となり、おまえたちがみな、屍となるまで、おまえたちの背信の責めを負わなければならない。…」…
(ピッピ談)
ヌンの子ヨシュアとフンネの子カレブは会衆から石打ちにされそうにもなったそうです。
モーセのとりなしのおかげで会衆の不信の咎は赦されましたが、世代交代を余儀なくされました。
カナンに住む人々も同じです。エジプトでの神の偉業は親の代に起きたことで、双方が生きていた頃、実際に体験したこととは言えなくなりました。しかし神はご自分の民イスラエルとともにおられます。
神は約束を取り消し、今のイスラエル人には土地を与えず、モーセによって新しい国民をつくるという判決をお下しになりました。 🎈本日の『manna』ガラテヤ 3:19-29
律法の目的
22
しかし聖書(旧約聖書)は、すべてのものを罪の下(もと)に閉じ込めました。それは約束が、イエス・キリストに対する信仰によって、信じる人たちに与えられるためでした。
23
信仰が現れる前、私たちは律法の下で監視され、来るべき信仰が啓示されるまで閉じ込められていました。
24
こうして、律法は私たちをキリストに導く養育係となりました。それは、私たちが信仰によって義と認められるためです。
25
しかし信仰(イエス・キリスト)が現れたので、私たちはもはや養育係の下にはいません。
(ピッピ談)
信仰とはキリストのことです。リビングバイブルにははっきりと、「キリストが来られたので」25節 と書いてあります。
神はイエス・キリストを信じるすべての人を分け隔てなくアブラハムの子孫とされます。それはアブラハムに啓示されていた約束です。
神の律法は今もクリスチャンの生活の指針であり、信仰を促す保護者のような働きをしていると解説は述べています。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています