【イエス】 これはわたしの愛する子part40 【キリスト】
レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。
愛のシリーズ 第40弾
✝イザヤ書 51:15
わたしは海をふるわせ、
その波をなりどよめかす
あなたの神、主である。
その名を万軍の主という。
前スレ
【イエス】 これはわたしの愛する子part39 【キリスト】
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1535859328/ 私の書き込みを理解できているのはカフェラテさんだけ。 カフェラテさんは自ら裏付けて私の書き込み内容の真実を確認したのでしょう。
でもたぶん、英語のサイトが自由に読める人の特権かもしれません。 真理はひとつしかありませんが
神学は数通りあります
争いをなくすためには 相対化するしかありません エゼキエルが幻のうちに見たケルビムはまるでスフィンクスでした。
セラフィムが蛇に形容されるのは
そのような姿を幻のうちに見た預言者たちが古代にいたからでしょう。
だからといって、蛇そのものではないのです。セラフィムはセラフィムです。 Πατερ ημων ο εν τοις ουρανοις.
pater emon o en tois osranois
父 わたしたちの * 〜なかに * 天
αγιασθητω το ονομα σου.
agiaspheto to onoma soy.
あがめる * 名まえ あなたの >>965
最大のへりくだり(人性)が十字架でした。
子なる神は その神性を受肉から復活まで隠されました。 十字架を蛇に、イエズスのいけにえを悪魔との契約にしたのは、
まちまりとまちまりのご主人と彼らのメンターであるケネスヘーゲンです。
十字架は蛇と関係ありません。セラフと関係します。
イエズスより1500年前にモーセが荒野で柱に掲げた「青銅の蛇」は
イスラエルの民を打った神の使いセラフをかたどったものです。
セラフは旧約聖書でイザヤ書以外はすべて蛇と訳されています。
イザヤ書のセラフだけセラフとそのままにされています。
それは蛇が神に仕える最高の天使であるとイメージされたくないから
翻訳者はここだけ訳さずにセラフと音訳するにとどめたのです。
これも蛇と訳すべきでした。でなければ、ほかのもすべてセラフと音訳すべきでした。
ユダヤ教エンサイクロペディアのセラフの項目を引くと、セラフはドラゴンとも訳されています。さすがに竜とは和訳できないでしょうね
したがって、ヨハネ福音書に書かれているイエズスのことば
「モーセが蛇を荒野で掲げたように私も掲げられなければなりません」も
蛇ではなくセラフと読み替えるべきなのです。
わかりましたか?すべては翻訳の問題なの。
セラフは天使の最高階級でありサタン、悪魔、毒マムシではありません。
セラフ、あるいはセラフィムは6枚翼をもつ天使なのですが、
図象に描かれるときには竜や蛇のように描かれるのが普通です。
翻訳の問題がここにも影響しています。
「蛇」と訳されている二種類のものをはっきり区別しましょう。
1 ナハシュは地を這う「蛇」です。神の戒めにそむいたために
手と足と羽をもがれて、地面と地下を這う爬虫類にまで落ちてしまった「蛇」です。
エデンの園の蛇ははナハシュです。
2 セラフは天を舞いかける「蛇」で神の使い、天使の最高階級です。
イスラエルの民を処罰するために神が差し向けた「火の蛇」はセラフです。
神の戒めに従う、神のお使いです。
エゼキエルが幻のうちに見たケルビムはまるでスフィンクスでした。
セラフィムが蛇やドラゴンに形容されるのは
そのような姿を幻のうちに見た預言者たちが古代にいたからでしょう。
だからといって、蛇ではないのです。セラフィムは天使です。 >>973
荒らすな自殺禿
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。
(ニコリ 5:21)
木にかけられる者はだれでも、のろわれた者である。
(ガラ 3:13)†
モーセが蛇を荒野で掲げたように
私も掲げられなければなりません
(ヨハネ 3:14)‡
†黒崎幸吉 注解
キリストが全人類の罪を自己のものとなし、
罪そのものとなりて神より詛われ給うより外に全く道がなかった。
‡予型論的解釈
旧約に新約の予型を見出す解釈法。
例えば 青銅の蛇は十字架の贖罪と理解される。
『キリスト教大辞典』(875頁、1094・1095頁、教文館、昭和52年改訂新版第四版) >>972
聖書からの根拠のない、
そういう嘘を広めないように。 「キリストがすでに現れた祝福の大祭司としてこられたとき、手で造られず、この世界に属さない、
さらに大きく、完全な幕屋をとおり、かつ、やぎと子牛との血によらず、ご自身の血によって、一度だけ聖所にはいられ、
それによって永遠のあがないを全うされたのである。もし、やぎや雄牛の血や雌牛の灰が、汚れた人たちの上にまきかけられて、
肉体をきよめ聖別するとすれば、永遠の聖霊によって、ご自身を傷なき者として神にささげられたキリストの血は、
なおさら、わたしたちの良心をきよめて死んだわざを取り除き、生ける神に仕える者としないであろうか。
それだから、キリストは新しい契約の仲保者なのです。
それは、彼が初めの契約のもとで犯した罪過をあがなうために死なれた結果、召された者たちが、
約束された永遠の国を受け継ぐためにほかならないのです。」ヘブライ人への手紙 >>954
えっとですね、「申」に組み合わせる言葉によって色々と変わります >>972
聖書からの根拠のない、 そういう嘘を広めないように。
神の血でなければ完全なあがないは完成しません。
黒崎幸吉のように聖書と違うことを広める者は、神の裁きで厳罰の対象になりますよ。 時代劇を見て育つと、お殿様の言葉やお侍さんの言葉を日本語として覚えてしまうのですよ
申す >>956
カジュアルな言葉も使えますよ
その方が気楽にやれますか?
英語のニュース記事でも良いですか?
寝落ちしたらごめんなさい オンリーオンリービガットンって何でしたっけ???w ヤコブの手紙
「私の兄弟たち。多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです。
私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、ことばで失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。 」 黒崎幸吉 注解だとか、また予型論的解釈
『キリスト教大辞典』関連など
このようなものは聖書からかけ離れた
サタン的神学であり、
この教えを広める者たちは神の裁きに会うでしょう。警告しておきます。 「あなたがたがこんなにも早く、あなたがたをキリストの恵みの内へお招きになったかたから離れて、
違った福音に落ちていくことが、わたしには不思議でならない。それは福音というべきものではなく、
ただ、ある種の人々があなたがたをかき乱し、キリストの福音を曲げようとしているだけのことです。
しかし、たといわたしたちであろうと、天からの御使であろうと、わたしたちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、
その人はのろわるべきです。
わたしたちが前に言っておいたように、今わたしは重ねて言います。もしある人が、あなたがたの受けいれた福音に反することを宣べ伝えているなら、
その人はのろわるべきです。」ガラテヤ人への手紙 >>959
うーん
「私は許さない」と言うのはイエス様では無くパウロの個人的な意見ですよね >>966
気の所為か堂々巡りをしてる気がします(´・ω・`) 「申す」の「申」は稲妻だよね。自然に宿る神さまを意味する漢字。
カローラ・レビン(稲妻)とスプリンター・トレノ(雷鳴)はパワーあったもんな・・・
まあプッシュロッドなどという古式ゆかしいA12エンジンは、チューンすればスゴかったけど。 >>985
イエス・キリストのみことばだけでなく、使徒とパウロの手紙も神の啓示なのです。
「律法も言って いるように、婦人たちは従う者でありなさい。」と聖書に書いてあるように、
パウロは、自分の考えで意見を述べてるのではなく、イエスの教えとヘブライ語聖書(旧約聖書)の律法から
神の教えをわたしたちに手紙を宛てています。 >>984
聖書を書き換えたらダメという事と捉えていますが、言語や翻訳をする人によって違う言葉や表現が用いられています
その事についてはどう思いますか?
ちなみにChristian dinner さんがお使いの聖書のバージョンは何ですか?
差し支えなければ教えていただけますか? >>987
スプリンターのセダンに乗ってましたよ(°▽°)
こちらに無くてショックを受けた記憶… 「人の子」が最初に出てくるのはエノク書です。
エノクが天に上げられて、火の中で変性したときに
エノクに与えられたメシアの号なのでした。
年代的に、エノク書の次に「人の子」が出てくるのがダニエル書です。
ここには「人の子のようなもの」という言葉が登場します。
イエス・キリストは自らを「人の子」と呼びましたが
それは、エノク書、ダニエル書のメシア予言がユダヤ教社会に
流布していたからでしょう。 >>989
聖書は書き換えはありません。写本全て一致しています。このガラテヤ人への手紙もテトスの手紙もそうです。
パウロは律法から根拠を書いているので、言い訳は通用しませんよ。 世界的な権威であるブルース・M・メツガー博士の証言を参考サイトより
写本の正確性を示す二つの証拠
新約聖書の写本数の多さ
今日の新約聖書が原典の内容を正確に伝えていると言われる最も重要な根拠は、その「写本の多さ」にある。
ではなぜ写本数が多いと信頼できるのだろうか?それは、同一の写本が多いほど、特に違う場所から同一の写本が見つかったという事例が多いほど、
それらを比較研究し、原典の内容を推察しやすくなるからだ。 今日の新約聖書が原典の内容を正確に伝えていると言われる最も重要な根拠は、
その「写本の多さ」にある。ではなぜ写本数が多いと信頼できるのだろうか?それは、同一の写本が多いほど、
特に違う場所から同一の写本が見つかったという事例が多いほど、それらを比較研究し、原典の内容を推察しやすくなるからだ。
新約聖書の写本数は、ギリシャ語・ラテン語を合わせれば、約25000もの数に上るが、この数字は他のいかなる古代文献とも比較にならない。
聖書の次に多くの写本が残っている古代文献は、古代ギリシャでバイブルとして読まれていたホメロスの「イリアド」だが、現存するギリシャ語の写本は650部を切っている。
また、他の有名な「タキトゥス」や「ガリア戦記」などの著名な古代文献でさえ、その写本数は僅か20程度であり、
これら古代文献の写本の数は、新約聖書のそれとは全く比較にならないのだ 原典と最古の写本の時間的隔たり
次に重要な要素が、聖書の原典と現存する最古の写本との時間的隔たりだ。当然のことながら、この時間的隔たりが少なければ少ないほど、写本の内容の信憑性が増していくこととなる。
新約聖書の場合、現存する写本と原典との時間的隔たりが30~300年程であるのに対して、他の古代文献の多くは、500年〜1000年もの時間的隔たりがあるのだ。
既に挙げたタキトゥスやガリア戦記などの著名な古代文献も、その時間的隔たりは、およそ900年に及ぶことからも、聖書との信憑性の大きな違いが容易に理解できるだろう。
以上に挙げた二つの点「写本の数が多いこと」「原典と写本との時間的隔たりが短いこと」を踏まえた上で、ブルース・M・メツガー博士は次のように語っている。
「(他の有名な古代文献と比べて)大変優れております。ですから、自信を持って、聖書の内容が正確に筆写されてきたと言うことができます。特に、他の古代文献と比べた場合、正確さは顕著になります。」 >>993
全てイザヤ書14:12から
“黎明の子、明けの明星よ”
イザヤ書 14:12 口語訳1955
“暁の子、ルシファー(天使)よ”
イザヤ書 14:12 リビングバイブル
“O Lucifer, son of the morning!
Isaiah 14:12 King James Version
“morning star, son of the dawn!”
Isaiah 14:12 New International Version
“O Day Star, son of Dawn! ”
Isaiah 14:12 New Revised Standard Version
一応何千とあるバージョンの数種類だけですが
この言葉の相違についてはどう思いますか? >>997
そのあたりに関しては、カフェラテさんと、
見解は同じかもしれません。
まず、あなたはどうみてますか。
お聞きします。 このスレッドは1000を超えました。
新しいスレッドを立ててください。
life time: 2日 19時間 23分 51秒 レス数が1000を超えています。これ以上書き込みはできません。