或る纏まった思想体系に反論するなら、対抗可能なる思想を予め用意せねば
反論足り得ない。
当たり前の世界なり、例え話しで判り易くしてみよう。
人類の生活や進歩に貢献した道具に、刃物が在る事は認めるだろう。
1石器、2青銅器、3鉄器、他にセラミック包丁、(レーザーメス、ウオーターカッターもあるがオマケ)
1から2、3への発展は歴史的な事実であり、一端3を手にした人達が1に戻る事はまずあり得ない。
其処で考えるべき事とは、テーマの宗教は如何なのか?阿含を立てると提唱した桐山師の存在と
旧態依然として檀家制度が大事の儘、眠りこけているのか?のように見える坊さん達。
敢て云うならば桐山師は進んだ『ザックリ切れる刃物』を立宗で提示したと考えるべき。
桐山師を批判される方々の弱点は、『もっと進んだ激しく切れる刃物』が見本提示も出来ない事。
卑近な例で御腹立ちの諸氏も居られようが、批判以前に自ら用意可能なる物件が見当たら無い。
こうやって思いつくままに書き込んでいると、冒頭の『或る纏まった思想体系云々』には
桐山に纏まった思想体系が有ったか?と書き込まれ非難される危惧ではない予想が立つ。
このスレは、桐山批判スレだから、余計な事を書くなと愚痴を漏らす弱者を見かける。
まとめ、批判しても構わないが、是に利益(りやく)が在ると違う何かを示す、それが望ましき
有能な布教である。
漱石なら云うだろう、他人の落とした屁の数を数えても己の宗門は栄えない、が落ち。