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全員どころか、そんな仏教学者など世界の何処を探しても一人もいない。
仏典の中で 比丘(釈尊)は四諦認識をした後に解脱したと述べているのだから、上記の文章に解脱の意味が無いことは当たり前。
仏典では、この文章が示す比丘は白い布を頭からかぶった状態であると説かれている。これのどこが解脱なのだ?
だから学者たちも当然、上記の文章を解脱ではなく、神通を使う基礎となる禅(四禅)に入った状態、もしくは八等至の自在だと解釈している。
またフランスのアンドレ・バローは四諦認識の前では菩薩、認識後ではブッダと表現しているのを見れば、上記の文章を解脱とは解釈していないのは明白だ。
上記の文章を解脱だと解釈して憚らない深山とそれに賛同するユビキタスは、仏典を改造したという大罪を犯したわけで、彼らには過酷な未来が待っているであろう。
こちらが心配することでは無いがねwww