【仏教】 悟りを開いた人のスレ311【天空寺】
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動物と植物を差別しとる。
山川木草、皆仏。じゃろ? >>664
ホトケというのはなんじゃ
仏性
尽く森羅万象が仏の世界とは
どういうことじゃ >>664
山の仏とは
川の仏とは
木の仏とは
草の仏とは
一体全体なんなのじゃ
はよ教えてくれ >>664
皆さんお好きな、宇宙も私も一如だろ。
平等性智じゃよ。
それ以上はお釈迦さんに聞いてね。 >>668
孫悟空は
仏の掌の上を飛んでいたらしい
仏の掌とは
仏の一部が全世界だったのか
では、仏は、全世界よりもデカいのか?
一体、仏とは、なんなのじゃ? 山川草木悉有仏性はおそらく、自然は自然のままに、
何も求めず、何も嫌わず、無執着だよと。
そのように生きてみなさいよと。
それが仏だよと。涅槃だよと。 >>670
で、君は風呂場が黒カビで汚れてもそれを放置しておくのか? >>671
掃除は大切な修行だからのう。
カビを落としても殺生にはならんよ。
釈尊は生命を五蘊で定義したからね。
感覚があり、感情があり、意志がある生き物を殺すのは、かわいそうだろう。
129、すべての者は暴力におびえ、すべての者は死をおそれる。已が身をひきくらぺて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
130、すべての者は暴力におびえ、すべての(生きもの)にとって生命は愛しい。已が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺させてはならぬ。
ダンマパダ うーむ
まあ、これでいくと
山の仏っていうと
山には煩悩などないやないかー
程度の意味かもしれんな、、、 山にも川にも草にも木にも
煩悩はない
無明は滅尽をしている
みな仏である
それに比べて
このノイローゼの、ワタクシは
患っておる
悩んでおる 山川草木悉有仏性でもうひとつ可能性があるのが、
山を見て、川のせせらぎを聞き、草木に触れる感覚、この全てに注意しなさい、
悟りはこの感覚の中にありますよ。気づきを常に保ちなさい。見逃さないように。
って意味もあるかもね。 >>673
すまない
人違い(ID読み違い)で不躾な質問を質問をしてしまいました
>>673のレス内容には全面的に同意します >>677
自然に癒される感じかなあ
まあ、森林浴とかリフレッシュできそうではある
沈黙しておるし
やつらは >>674
我というものが存在するという見解(我見)が無明だろ。
山川草木に我見があるんですか^^ >>685
だから仏なんじゃないの?
無明がないんだからさ >>686
カビキラーは買ってはいけない。
五逆を犯し無間地獄に堕ちる^^ >>687
仏性がある
というのと
目覚めた人ブッダ
の
意味がちがうんちゃうの?
釈迦だって微生物まで気にしてないでしょう
キノコ食べたらしいし 『仏性』 についての初歩的な解説
まず、この「仏性」と言う語についてですが、最もよく聞かれるのは
⇒「山川草木悉有仏性」 という言葉でしょう?
これは、釈迦の言葉である・・・・なんて、主張してた 「なんちゃって覚者さん」
が、他スレにいたけどw 勿論、大嘘ですw
これは、道元が 涅槃経にある「一切衆生悉有仏性」 を解釈したときの言い換えです。
(さらに、ややこしいのは、「山川草木悉皆成仏」 と言う言葉もあって、これは
梅原猛 氏の造語ですw
・・・・さて、問題はこの「仏性」と言う語なんですが、ざっくりと言ってしまえば
⇒「これは大乗仏教の概念』です。
法華経では、「仏種」、 勝鬘経 では「如来蔵」 と言われますが、どちらも同じ
意味です。
では、「仏性」というのは、大乗オリジナルのもので、原始仏教には全くないのか?
と言われれば、 「ルーツはあります。」 となります。
原始仏典に見られる「心性本浄説」が、そのルーツですね。
まあ、これは簡単に言いますと、「何物にも汚染されていない、清浄なる心、というものがあって
それが煩悩によって汚染されていく」・・・・みたいな考えです。
(なんか、(北宗禅の)神秀 の説に類似しますw) これも、詳細はかなりめんどくさくてw ここでいう「心」とは何か? 「清浄」とは
何か?・・・みたいな論点が各種あるんだけど、それは横道にそれるのでカットねw
ポイントは、ここで「仏性」に対応させられてる「こころ」とは、後に如来像思想などで語られる
「常住不変」の基体とは違う・・ということ。(水野氏 説)
つまり、あくまでも「如来と等質の本性」 ・・・と言う意味合いで理解されていたみたいですねw
つまり「変わらない何か」ではなく、これも「無常」です。
大乗では、法華経で盛んに説かれてるわけですが、「仏種」という訳語はどうなんだろう?
「種」と言う文字を用いると、いかにも何か「基体」みたいなものが、我々の中に存在するみたいで
あまりよろしくないように感じてしまうんだがw
さて、それでは、「仏性」という語彙の典拠となってる、「一切衆生悉有仏性」 から見ていきましょう。
ポイントは2つあって、「衆生」 と 「有」 ですね。
これを訳すと「全ての衆生には、仏性がある」 となるわけですが、・・・まず、
「衆生」って何? ってことになります。 この語彙は一般的に「人間」を指して使われることが
多いですが、ここでは「人間を含む全ての生き物」という意味です。
すると、当然、次の突っ込みがきますw
「ん?? すると、ゴキブリにも仏性があるのか? ゴキブリも仏になれる?
ゴキブリの仏なんていやだなあww 単細胞生物のゾウリムシにもあるのかなあ?w」 結論からいうと、「あるんです」ww
その前に、・・・・「仏性というものがあるのか? ないのか?」 ということについて、釈迦が舎利弗と
対話してる経典があるんです。 そこで釈迦は、仏性と言うのは「あるとも言えるし、無いともいえる。」
なんて、分かったようなわからんような禅問答みたいな答えをしています。「虚空」に例えてね。
「虚空」というのは、(物が存在する『場』 として確かにある。だが、しかし、誰もそれをつかむことは
できない。・・・・みたいにねw)
そこで釈迦は言うわけです。『八正道を行じなさい。そうすれば、仏性が観えてくる。』 とね。
・・・・・・ゴキさんや、ゾウリムシさんは、八正道 を行えるのだろうか??w >>688
食べるのはいいんじゃねえか。
むしろ仏を食って成仏できるかも^^ 初めは「仏性」は、『我々の中に』にある・・・だったわけですが、それが
「内包している」から、「我々そのものが仏性である」 となります。
つまり、我々がそのままの姿で仏性である・・・とくるわけです。
一切衆生即仏性 ってなります。
「え? するとオレもしかして仏? ブッダなの?」 となるわけですが、
違いますw まだ八正道を実践していませんね。
八正道により、 不浄⇒清浄 となって初めてブッダです。
(このあたりまでは、かろうじて、 仏性=仏になる可能性 という意味合いに
とれるかな?w)
では、「全ての生き物は、仏になれる」 は、いいとして、「生き物でないもの」は?
石ころに仏性はあるの? 山や川には仏性はあるの?・・・・となりますな?w
回答は、NO なんです。 少なくとも涅槃経 では、そのようなものは
「仏性がない」 とはっきり否定されています。 ところが、時代が下がるにつれて、「衆生」の意味が拡大解釈されていきます。
この「衆生」に対応する語彙の意味は「存在するもの」と言う意味で、
⇒「この世界に存在する全てのもの」 というように解釈されてしまいます。
「草木国土悉皆成仏」ってやつね。 涅槃経後期 にみえる言葉。
(中国ではおそらく、天台大師智ギ、吉蔵 あたりがこれの有力論者だと思うが わからんw)
日本では、空海が最初に言い出したと思う。
(で、それを突っ込んで説いたのが天台の安然らしい)
これ、日本では人気でw 最澄も親鸞も日蓮も道元も同じようなこと言ってんだよねw
つまり、その辺の石っコロも「仏になれる」「成仏する」って断言してんのw
(ただし厳密に言うと、道元は微妙にニュアンスが違って、「成仏」ではなくて、
「仏性がある」 それを『座禅でもって』 顕現する。・・・・と。
親鸞は勿論、「念仏によって」 という付帯条件付きでw 成仏する と言ってるw) 道元さんは、正法眼蔵(仏性) で、
「草木国土 全て心である。 心だから衆生である。 衆生であるから仏性がある。」
と言ってんのw 普通なら、「はい〜〜〜???」となるところだけど、
道元さんは、「この世の全ては、悟りの現前、現れである」って言う人だから、山や川にも
心を観るんでしょうw まあ、ある意味まさに「平等智」なわけだがw
まあ、こういう視点が日本で人気になるのは、アニミズム的な自然崇拝や、山岳信仰などの
伝統も大きいと思われるんだが。
でねw 生き物全部、生き物以外も全部 = 仏性 だとすると、
仏性 = 仏 なんで、 結局のところ行き着くところは、・・・・
「俺たちみんな仏なんじゃん」⇒「そのままで仏なら何もすることないじゃん」⇒「修行なんて
する必要なかったんだああ」 という天台本覚思想 ですw
道元が、「自然外道」と呼んで嫌ったやつですねw
「いいんです。そのままでいいんです。ありのままでいいんです。」・・・・
俺は「ありのまま教」と呼んでいますww でもまぁ、そんなムキになるほどの言葉でもないよねww 禅でいうと、馬祖同一の「作用即性」なんかは、まさに「無事禅」に直結する危うさがあるんだよね。
その弟子たちの中には、その「作用即性」に拘り、まさにそれに執着、固執する者が後を絶たなくて
百丈がそれを否定してみせたりもしている。(見かけ上だろうがねw)
馬祖が言いたかったのは「外に悟りを求めるな」という南獄の教えであって、決して単純な現状肯定
ではなかった思うのだが、これ自体いわば「麻薬」みたいなもので、きちんと容量を守れば「痛み止め」
にもなるが、一たび、容量を間違えればそれこそ悲惨なことになるとww
(ちなみに道元の晩年の弟子たちも、その傾向が強くて、道元を悩ませた形跡があるw
道元がその最晩年にオカルト系の体験を肯定するようなことがあったが、それは、そういう弟子たち
への警鐘の意味が大きかったのでは? と思うんだがw・・・しかし、それが反って後代の弟子たちが
密教を呼び込む契機になったとも思えるw・・・以上、余談ですw)
以上なんだが、簡単にまとめると
1 仏性に基体性をみてはいけない。つまり、霊魂とか真我みたいなものと思ってはダメw・・・これは
先尼外道ですよw
2 仏性を拡大解釈しすぎて、天台本覚思想、無事禅なんかに嵌っちゃダメw・・・それは自然外道ですよ
大切なのは中道ですw
仏性というのは、「我々は、如来と同じ本性を有している。即ち、やりようによっては如来になれる可能性が
あるんですよ」・・・・位の理解に留めておいた方が良いかと?ww
(ちなみに、無字の公案・・・・犬に仏性あるや?なしや? ってやつ。あれは、公案ですから、
あるも、無いも、ありません。解答 自体がないんです。・・・・あしからずw) まあ、上記の話は実は全て方便です。
ここだけの話、 真実は・・・・・・
(仏性とは、実は、マグロのことなんです。) >>700
マ・グ・ロ、フォーーーーーー!!!!^^ >マ・グ・ロ、フォーーーーーー!!!!^^
悟ったなw うーーーーーーむ
結局、どういうことになるんだ?
山川草木に仏性があるというのは
真っ赤な嘘ってことか?
パーピマンの言ってるのは >>669
> 一体、仏とは 』
医療関係従事者、医務 イ ム
毒は苦、もっともだ、独白 ブツブツ佛佛
佛 とは、わたし、
過干渉 ホットケェー!!
結局、佛は 私が在るから 仏が在る。 多くの人は差別智の中で七転八倒しながら生きている。私も。カビも掃除しないと。
しかし差別智だけでは偏することになる。苦しむ。
そこで、平等智を探ることになる。無我とか仏性とか。
しかし平等智だけではこれまた偏することになる(平等智が分るだけでも大したもんだが)。
差別智も必須。
ともあれ、ここら辺の処は、言説の及ぶところにあらずじゃよ。
難儀なものじゃ。
言葉で答えてみても必ず外れることになるし。。。
お盆じゃ、明日も墓参り。 栄進は有頂天になっているwww
そろそろ仏罰が当たるのじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 元々、仏なのに
それを見抜けてないだけやろ
如来になる
とか言うと、これから如来になるんかい
っことになるし >>703
最終兵器、鬼和尚さまにジャッジしてもらいます。
鬼和尚さま質問です。
山川草木に仏性はありますか? >>571
輪廻の外にいるなら業は作らないからやっぱり善なる目的でも殺人はしないんじゃないかな ちなみに山川草木も輪廻の外にあるので悟りを得て仏になる機会は三世にわたってない あなたは光だ。
星空を見てみなさい。
なかには何十億光年も離れた星の輝きを、
何十億年かけて地球に届いた光を見ている。
その光があなただ。
その星はとうの昔に滅びて消え失せているかもしれないのだ。
ただ光だけがある。
それがあなただ。
死とともに生きなさい。 >>708
あると思えばあるのじゃ。。
無いと思えばないのじゃ。。
わしにはもはや観念は無いのじゃ、わっはっはわっはっはっは、わははのは。。 >>711
おめーは何となく牧民教の臭いがするwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www >>709
結局は心がどう思うかだな。
業を作ると思えば作る、思わなければ作らない^^ 仏性は森羅万象に宿っている。
あなたが目覚めればその種子は
爆発的に開花し全世界に行き渡る。 >>713
鬼和尚さまご回答ありがとうございます。
って、ろんかよ^^ >>715
心の持ちよう、は違うと思うよ
無知かそうでないか、の違いかと
無知の民は業を作ろうと思って執着するわけではない
でも執着して罪をおかし、結果として業を積む
これは法について無知だから起きること
覚者は原因と結果について全てを見通せるから菩薩の最終段階で仏陀を目指さないなら業を逆に犯して菩薩行を続けるんじゃん
逆にもう役目を果たした人は最後の輪廻で業を積まず輪廻から外れる
キリスト教的にはこれは自由意志についての話でもある 「自由意志」は存在する(ただし、ほんの0.2秒間だけ)
うわっ^^ まぁ一般レベルでは完全な自由意志はない
なぜならみな、無知だから 無意識でほとんど決定されてるんだよな^^
顕在意識で0.2秒ということか・・^^
ということは・・・^^
阿頼耶識説も理に叶うな^^ 「逆にもう役目を果たした人は最後の輪廻で業を積まず輪廻から外れる 」
最後の輪廻で業を積まず輪廻から外れる・・
ここらへんがいまいち^^ >>718
解脱とはあらゆる見解から束縛されないことじゃね^^ >>721
反射行動は肉体レベル、魂レベルの少なくと2層では別れるだろうな
でも反射行動の一切は自由意志とは関係ない
なぜなら、身体と魂の性質に強いられているから
自由意志が働く前提条件は、今行う内的、外的身振りが、生全体き対し結果的にどのような影響を及ぼすか、を知っていて初めて自由と言える
それ以外の意思は何かに強いられている >>720
予定説ですね。
神が決めたことは人間には無知^^ 阿頼耶識が輪廻するとよく聞くが・・^^
こうゆうことか^^ わたし
オレ
ボク
が問題であるのは間違いない
わたしが苦しむ
私でなければ苦しまない
問題は、わたしなる意識がなにゆえ消失したのか、、、
その方法である >>707
> 元々、仏なのに それを見抜けてないだけやろ。 如来になる とか言うと、これから如来になるんかい! っことになるしぃー 』
ほとけとは、人類専用のコンテンツではない、
ほとけは人ばかりを言うものではない。
先に
山川草木国土 悉有 仏性
さんせん そうもくこくど しつう ぶっしょう
を、あれこれ言い回っていたが、
山川草木国土は わたしである。
此処が分からないと、対象物と観る。羽目の陥る。
公案に
全宇宙は佛だよ、学んだばかりの入門したての修行僧が、問います。
門前にいつも寝そべってお寺にやってくる人にまとわりついて尾っぽを盛んに振っていくばくかの餌にありつこうとするあのイヌにもまさか仏性は無いですよね。
この新参(しんざん)の修行僧の問いに、師家は、有るよ、と答えた。
このやり取りを物陰から盗み見していた古参(こさん)の修行僧、答えを知ってるぞ、とニンマリとして、ポンと手を打ちほめてもらいたくて、師家の前に転がり出た。
犬にも仏性がございますか?
師家は しばらく見つめ 重い口を開きます、無。
これは、犬を他者としか見ない長年修行に明け暮れてきた修行僧にさtろらせたい!と慈悲の公案で、自他が一の如し、と言う。
二は二では無い、二は一の如し。
この関門を透れば、色即是空、初祖古佛と供に手を把手(とって、はしゅ)歩み行く、のである。
それをもともと、佛である私が、何故、修行しなきゃならないのか、とマブダチ道元は日本中の先輩僧に聞き回った。
だが、答えは得られず、中国へ。
幼い頃から中国人と接し読み、書き、話すことができた道元は、当時、ほとんどの人が文盲の人ばかりの中にあって、師家の侍者にと望まれるほどであった。
その夜坐に於いて隣りの僧が早朝からの激務に坐睡し始めた。
これを見とがめた師家が履いていた皮のスリッパを脱ぎ、片手に持って思い切りよく激しく打ち据えた。
道内には、天地が割れる音がとどろき、道元はさとる。
道元も同事に打ち据えられた、のである。
片手の人が叩く拍手の音を聞いてこい、白隠は江戸時代の人であるが、二つの事は、同じである。
初関を透るは、色即是空である。 >>708 今の世で悟れる性ならばないのじゃ。
いつか悟れるための性ならばあるといえるのじゃ。
仏性が悟るための意識で在るならば全てが仏性であるともいえるのじゃ。
山川草木全てが仏性の現われなのじゃ。 >>726
俺はプロテスタントじゃないから予定説の立場ではないす
>>724に書いてある条件が満たされないと本物の自由意志とは言えない、と主張してるかんじ >>729
結局は心の持ちようや。
私があると思えばある、ないと思えばない^^ 訂正
道内には、天地が割れる音がとどろき、道元はさとる。
↓
堂内には、天地が割れる音がとどろき、道元はさとる。 >>727
いや、外部の見識に左右されないのは預流果でもそうなんじゃないって意味 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ葉っぱになるのも難しいです
まだ葉っぱになりきれていません
ジャンキーたんが教えてくださった四料簡
奪人不奪境
奪境不奪人
人境両倶奪
人境倶不奪 >>738
> ♪輪廻は続く〜よ〜ど〜こまでも〜〜。。
o( _ _ )o〜† ドテッ
(*´з`)コソッ・・・・・浅学非才、学者向きではない >>730
あるといい
ないといっている
その師匠は
同じことを言ってるんだよ わたしなるもの
これが問題である
わたしでないなら苦しまない
わたしが苦しんでいる
わたしが受けるから苦しむ
もしも、無我であるなら、苦しむはずもない >>741
> >>730
> 同じことを言ってるんだよ
(*・ω・)(*-ω-)(*・ω・)(*-ω-)ウンウン♪
同じことって、どんなことなの?! >>742
どちらかというとキリスト教徒(カトリック)だけど仏教も好きです
学生の頃は禅かじったりしました >>743
階級というかステップ、プロセスなんじゃないでせうか 道元ちゃん^^
「山川草木悉有仏性」
空海ちゃん
高野山の静かな林中、暁の草堂に独り坐して無我夢想の境地に居る時、どこからともなくブッポーソーと鳴く鳥の声が聞こえる。
鳥は無心に鳴いているのであろうが、この鳴き声のうちに仏法僧の三宝を悟ったのである。
鳥の声と人の心とが、更に山中の雲と川の流れとまったく一つに融け合って、
ここに仏の教えをはっきりと悟ることができた。
だいたいおなじ^^ 「鳥の声と人の心とが、更に山中の雲と川の流れとまったく一つに融け合って、」
この境地^^ >>751
キリスト教では自由意志は根幹の概念すね
アダムの原罪がそもそも自由意志から生まれ、それが原因で仏教でいうところの輪廻の世界に束縛されるようになったので
(カトリックでは輪廻の概念は否定しますけどw >>752
悟りはスポーツみたいなものなんじゃないすかね
ボールを蹴らないとサッカー上手くならないじゃないすか
んで、サッカー上手くなるにしても初心者から世界トッププレーヤーまでグラデーションがあって、その幅間の中のどの位置にいるか、みたいなものなのではないでせうか >>754
> 〜なのではないでせうか
憶測、推論では 結論が無く、書き込まないことと、同じ・・・・・ボソッ"(´ω`*) >>753
自由意志は神への冒涜でないの。
すべては神が決めてると聖書に書いてますよ^^ >>745
えらい難しいことを聞いてくるのお
まあ
同じことというのは
その仏性のある
ということと
仏性の無であるということは
全く同じことなわけでしょう笑
どんなことって、それは、仏性なるものは、全てに浸透しておるが
仏性なるものは
ない
ということであろうww
あかん!
よくわからんかも >>759
> よくわからんかも つまり、それはつかまえられない のだよ
わからんを 二度 言ってるよ。 >>760
わからんわからん
まったくもってわからんが
苦しんでおるのは我であることはわかるってもんよ >>757
うんにゃ、神への冒涜じゃないでつ
教派によって微妙にスタンス違いますが、アダムの堕落により悪を選ばざるを得ない性質が人間に遺伝たんだけど、それをキリストが贖った
それ以降は悪への避け得ない性質は贖われたので、自由意志で神を取ることが出来るようになった、っつーのがマジョリティの理解です
ただし、プロテの一部で予定説をとってる極端な層はいます ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています