【仏教】 悟りを開いた人のスレ311【天空寺】
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>>287
道徳は文化がつくる
宗教は文化をつくる 意識は静寂であるからして
内容が異なるんやで
同じ大地にそれぞれの家が建つようにな
w >>295
この世界を宇宙を滅ぼすの?
ドラゴンボールの敵役かよ^^ >>305
うむ
たぶん、そんな感じでしょう
同じスレに書いていても
内容は違う
しかし、同じスレに生じている
わけだ >>306
世界も宇宙も滅ぼさないよ
世界も宇宙もないところが
滅尽したところでしょうw >>311
なにもかもが滅尽したところには
描写可能ないかなるものも存在しない
のではなかろか >>313
ええええ!
みんな、こんなこと知ってたのか
僕は、めちゃめちゃビックリした
笑 >>315
無と言えば無が存在しているので
滅尽をしていない
ので
それは滅尽をしたのではなく
無があるところ
ということになってしまうのだ
無というのは存在しないのだから
無なのだが
無と言ってしまうと、ない
無というものがイメージされており
それでは消失していないのである >>267
脇の下から生まれてすぐ立ち上がって喋るだの32相だの
エイリアンとするのが合理的です!^^ 今夜は、内容が薄いのう。
お盆か。
明日は墓掃除でもするか。 >>291
》全ては苦しみなのに、どこに逃げる場所があるんだい?
世界を捨て去る事だ。
そしてそれは心を捨て去る事によって為される >>317
そんな何もないところに居たら逆につまんなくて苦しくねーか。 >>321
世界や心を捨て去るなんて
できっこありません
世界や心の正体を見破る
これらの意識
この見抜いていることで
わたしなるものの空性を見る
そして
この、散々にある執着、習性
苦しみの因縁
を
剥がしていく
脱いでいく
解いていく
執着が完全になくなったものが
悟ったもの
ゆえに見抜いたものは、修行して、脱いでいかないといけないのであり
その迅速な方法が
坐禅、念仏だったりするのだろうか?
まったく
よくわからんが
そんなふうにイメージしている >>322
何も無いなんてこともありません!
滅尽をしたところは
何も無いというものはありません 悟りとは奉仕だというのは何か分かるな。
意識の内容は異なるていうのは分からないが。
天狗さんの呟きは示唆に富んでる。 >>327
滅尽したところを感得し
滅尽したところにブレずにあることで
執着を
くっついていることを
習性を
外していく
というイメージが、さいきん出てきている
それが方向として正解かは知らない 悟った人は奉仕のみだよね考えてみると。
お釈迦様しかり。
己がないから己のために何かするというのがないからね。 >>330
それで苦しくないんなら正解ちゃうか^^ たとえ世を捨てたと思ったとしても
また捨てた後の世があるんやw
乞食の世界にも縄張りやらルールがあるようになw >>331
サービス残業とか奉仕するもんな。
ブラック企業やないブッキョウ企業や^^ >>333
なぜか苦しいことが、沢山、起こってくる
笑
滅尽をしたところに苦しみはないが
そこに焦点があっていないといけないのであり
そうなると意識して気をつけていられる時しか、苦しみからは外れない
それを止めさせようとするかの如く
肉体や心の弱点が、行為の弱点が責められ、執着に囚われて苦しみがある
それらのものを乗り越えたら、つまり、左右されなくなったら苦しみは、我がものではなくなるだろう
が!
一体、そんなことが可能なのかw サービス残業で奉仕しても会社が良くなれば
また自分に帰ってくるやないかw
ボーナス増えたりなw >>334
しかし肉体と心から自由になれば
どこにおいても
自由になる
なれればの話だが
笑 遍歴行者であるスバッダは 、尊師のもとで出家することができた 。教団に受け入れられることができた。
(中略)
そうして 「生存は尽きた 。清浄行はすでに確立した 。為すべきことは 、すでに為し終った 。もはやこのような状態にもどることは無い 」とさとった 。
尊者スバッダは 、尊敬さるべき真人の一人となった 。
かれは尊師の最後の直弟子となった。
(大パリニッバーナ経)
最後の釈迦の直弟子スバッダの悟りを得た時の偈
「生存は尽きた 。清浄行はすでに確立した 。為すべきことは 、すでに為し終った 。もはやこのような状態にもどることは無い 」
の「このような状態」とは迷い苦しむの生存を繰り返すこと
つまり輪廻のことを指す
偈は清浄行により(迷いの)生存が尽きれば今生の老死で最後となり死後は涅槃に行くので輪廻することはない(解脱した)という意味 >>339
寂静のままにあることで
苦しみは
我がものではなくなる
それは居場所が変わったような感覚である >>340
悟った人というのは
この
生存の世界から、滅尽したところへ
行った
ということだろうか
なんという不可能に思える話だろう
どのようにして
成したのか
世界を空性と感じたとしても、やはり、我が身、我が心に
執着は残っているものである >>343
しかして寂静であることには
その寂静の箇所にあり続けるには
意識して気をつけていなくてはならず
見失われて
自己にくっついてしまう習性を
解除しなくてはならないのである
しかし、意識して気をつけていられるのは
ずっとは無理である
なんか決定的に間違えているに違いない
オレがw クンダリニーの覚醒をしないでサマディに入るのは可能でしょうか?瞑想の前提条件としてですが体が硬いため蓮華座も組めませんこんな状態からサマディを目指すのは愚かなことではないでしょうか? >>345
瞑想の姿勢は
お尻のアレが、ちゃんと地面に水平に接地されていれば、自然と背筋が伸びるので
あとはクビの角度が、上すぎたり下すぎたりしていないかを
誰かにチェックしてもらうのがいいかと
自分では姿勢の歪みは気が付かないので
他の人き頼めないなら
坐っている間の、動画を撮ってみるとか?
まあ、自己流もあるんで
わかりませんが >>349
クンダリニーの覚醒というのは
よくわからんのですよ お尻から脳天を突き抜ける
性のエネルギー?
そういうものが上昇したら
どうなるのだ?
意識が目覚めるとは?
意識というものは、世界と我を包括して存在せしめているもの
これらに開放されるの?
まあ、そんなイメージが湧く時もあるが、、、
とにかく、混迷である
迷いである >>348
ありがとうございます
>>349
クンダリニーの覚醒はグルによる教えの下に行わなければならない |⊂⊃;,、
|・∀・) 輪廻のサティちゃんです
|⊂ノ
|`J >>353
万法に証せられて
自己を忘れている
というのが
意識の世界に開かれている
開放されている
ということかもしらん >>342
八正道によって智慧を完成させてから空性とか三相(無常・苦・無我)を観じると少なくとも貪瞋痴は滅尽するのではないでしょうか?
比丘たちよ 、では 、涅槃とは何であろうか 。
比丘たちよ 、貪欲の壊滅 、瞋恚の壊滅 、愚痴の壊滅 、これを称して涅槃というのである 。
比丘たちよ 、また 、涅槃にいたる道とは何であろうか 。
比丘たちよ 、ここに比丘があって 、遠離により 、離貪により 、貪りを滅し尽して 、心平等に傾向して 、正見を修め育てる 。
また 、 … …(以下八正道を順に説く)
(相応部経典 無為相応)
>>350
ブラフマンがシャクティでアートマンがクンダリーニ
ジョン・マクラフリン シャクティ
https://youtu.be/3AzovMu-2LY 蓮華座の足が組めないねやっぱり体硬いから足痛くなるわ イチローがやってた、マタワリで背筋伸ばして腰を落とす運動をすると
股関節柔らかくなってくるよ >>355
いや、万法は万法。あらゆる存在、あらゆる法。。 >>359
万法というのは
とすると
五蘊のことなのかな >>355
そういうことだね
万法が悟りの世界ではなく
万法に証せらるが悟りの世界に目覚めさせられるということ
証が悟り
修証一如は修行と悟りは一如であるという道元の思想 >>361
悟りの世界なんてどこにも書いてないし。。 >>363
例えば現成公案の最初(一節)の
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
ここでの万法は普通にあらゆる存在でOKです
証がつくと悟りの世界となる >万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
万法ともに我にあらざる時節…諸法無我と観察できた時
かな
惑いなく悟りなく諸仏なく衆生なく生なく滅なし
はそういうものに捉われてない身心脱落の境地であると 諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
般若心経そのまま^^ >>365
うーーーーーーん
なんとなくイメージはできるのだが、、、
このあらゆるものに証せられて自己を忘れているということは
なんというか任せているとか
開放されるというか
そんなことなんだろうか
まあしかし、現に、いろんな間違いをしでかして苦しんでいる
この我なるものは、おるのだから
どうなるのだ?
んーーーーーーーー
よくわからん >>366
確かに現成公案の一節は般若心経の
照見五蘊皆空 度一切苦厄
是諸法空相〜無智亦無得
と同じだね あらゆるものが、浮かび上がって
我なるものが消失しておる
ような
状況にスイッチしてたらいいのかな、、、
( ˙-˙ )ムムム >>367
身心脱落させて自我意識(※我ではない)を捨てて悟りの世界に飛び込めれば… >>338
》肉体と心から自由になればどこにおいても自由になる
それはなれる。
精神的に死ぬ事だ。
自我の死と言っていいかもしれない。
私の言う心を捨て去るとはそういう意味だ。
その時あなたはもぬけの殻となり自分を失ってしまったかの様に感じるかもしれない。
しかし実にあなたはあなたを失う事によって、いつの間にか困った事がなくなり何の問題もなくなっている事に気づく。
誰にも知られずあなたは別人になる。
言い変えればあなたではない者が去るのだ! >>370
肉体と心が苦しんでいる
この肉体とか心の
働きを
なんというか外界のものを見るかのように
それはあるにはあるが
現象みたいなもん
と、見ていくと
まあ、苦しみはあるのだが、その苦しみは、わたしのもんではない
みたいに、、、
んーーーーーーーー
悟りの世界とはなんだろう
わからんw 色
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
空
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
色即是空 >>364
証が名詞の場合だろ、悟りの意味なるのは。。
証せらる=証明される、が直訳。。
この直訳から、どうやったら「悟りの世界」が出てくるんだ? >>374
万法に証せられている
という状態
が我を手放していることになり
悟りみたいってことちゃうの 色即是空・空即是色
色が空になってもすぐ色になっちゃうんだよな^^
つまり・・^^
五蘊皆空と悟ってもすぐ元にもどると・・^^
こんな解釈でもいいかもしれん^^ >>376
色は無常であるから空性である
けれども、その無常なるものが、現にいま、無常ながらに、流れつつ
あるわけだから
その無常なるものが色として現れているわけである
それが、あらゆるものの真相である
ってことちゃうの >>374
証が悟りだから
「万法に証せらるる」で「あらゆる存在が悟らせてくれる」
つまりちょっと意訳になるが「悟りの世界に目覚める」ということ
(引用)
仏道をならふといふは、自己をならふ也。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
仏道を学ぶとは、自己を学ぶことです。
自己を学ぶには、自己を忘れることです。
自己を忘れれば、すべての存在によって自己が明らかになるのです。
http://www.dogen-shobogenzo.com/genjyokoan2.html
ここでは「すべての存在によって自己が明らかになるのです」と訳していてこちらが直訳だね
で「明らか」は「諦める」つまり「真理を明らかにする」なので「悟りの世界に目覚める」でOK
納得がいかないのなら上記の引用での理解でもOK 道元ちゃんだって^^
修即証 証即修
と解釈してるんや^^
知らんけど^^ >>379
引用部は、そんなに間違ってないと思うよ。。
けど、「悟りの世界に目覚めさせられる」までいくと、妄想に近いと思う。。w
何度も言うが、証せらる=は証明される、で、名詞じゃないからな。。w
「悟りの世界」なんてあったら、噴飯ものだ。。w 汝自身を知るならば
汝自身を知れないのである
汝自身を知れないということは
あらゆるものが証明してくれるのである 道元ちゃんだと・・^^
「仏性の世界に目覚めさせられる」となるな^^ >>380
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ涅槃寂静が悟りになるんですか? >>381
万法に証せらるるなり
https://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/d079af209e9df7b5e9217d79d7028e86
>さらに道元禅師は「自己を忘れるということが、万法に証せられることである」と続けている。
>万法の「法」はここでは「現象」というような意味に解釈するのが妥当であろう。
>つまり、万法とは眼耳鼻舌身意に触れるものすべてのこと即ち経験である。
>「証」とは仏教では悟りを得ることを意味する。
>これを現代語に翻訳しようとすると、「森羅万象が私に悟らせてくれる」というようなことになるだろうか。
>しかし、禅語は現代語に馴染まないことがある。
>万法を森羅万象と言ってしまうと自分と縁のないものまで含んでしまうようなニュアンスがある。
>インターネットで検索すると、「宇宙の真理がどうたら」というような解説もある。
>間違っているとは言わないが、禅語の解釈はできるだけ直接的であるのが望ましいように思う。 道元ちゃんが心身脱落すれば・・^^
さとりもないと言っておる^^
「万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。」 >>386
わたしなるものは
この肉体と心の働きである
この肉体と心の働きを
よく見て感じる
わたし自身を知る
ならば
この見ているものが
己の空性を悟るのである
目撃するのである
しかし、この目撃しているものとは
なんだろう
よくわからん >>391
わたしなるものは「在る」のみですよ
肉体と心の働きは在るには何の関係もありまへん 「森羅万象が私に悟らせてくれる」
「森羅万象が仏性である」 >>384
道元の一切衆生悉有仏性の解釈がまた独特
道元は正法眼蔵の仏性の章で、「世界はアートマン(我)で構成されている」は否定したが代わりに「宇宙は仏性である」としているようす >>389
引用部、ちがう。。
自己を忘れている状態≒悟り、をすべての存在が証明してくれる、ということ。。
他が悟らせてくれる、なんてことはあるはずがない。。
他が自分の様子を知らせてくれる、はあるだろうが。。 >>388
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ迷いと悟りはコインの裏表
不生不滅が涅槃寂静かなぁって思っていまして
>諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
仏法が迷いと悟り
>万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。
万法が不生不滅の涅槃寂静だと思っていました >>393
道元の一切衆生悉有仏性はそういうような解釈だね
ところで道元ちゃんって道元と君はまるで仲良しのようなw 心身脱落前
諸法の仏法なる時節、すなはち迷悟あり、修行あり、生あり死あり、諸仏あり衆生あり。
心身脱落後
万法ともにわれにあらざる時節、まどひなくさとりなく、諸仏なく衆生なく、生なく滅なし。 >>396
>>万法ともにわれにあらざる時節、
すべての存在、法が、私の中にないとき、即ち、自分中心に解釈していないとき、無心の時、くらいだと思うな。。 >>392
わたしは在る
とインドの聖人がいう
しかし仏教では
わたしなるものはない
という
縁によって生ずるものが我とは言えないということであろうか? >>395
>他が悟らせてくれる、なんてことはあるはずがない。。
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