輪廻の主体をめぐって

ナーガセーナにとっては、仏教の輪廻を理解させるうえで、ミリンダ王に対して二重の壁を前にしたようなものであったといえる。

一つの壁は、インドに伝統的な輪廻の思想をまず理解させること、もう一つの壁は、輪廻の思想を認めつつも、
その主体や霊魂の存在を否定し、無我を主張する仏教の輪廻観を理解させること、その二点です。

一つの壁は簡単。

二つめの壁にに関して

※中村元博士によると、この問題は二つに分かれ、

<第一の論点>は、人の死後や生前に関係なく、ただ現世の現象だけにかぎって、はたして人格的個体が同一のものとして存続しているかどうか、ということです。

<第二の論点>は、人格的個体、あるいは霊魂が死後においても同一性を保ちつつ存在するか否か、またこの世に生まれでる前にも現在の人格的存在と同じ実体として存在していたか否かということです。

※輪廻を認めるかぎり、第一、第二の二つの論点は同じことの二つの側面です。

第二の論点が過去、現在、未来の三世を一貫する問題であるのに対し、第一の論点は、それを現世に集約して論ずる視点です。

しかし、双方とも切り離すことのできない密接な関係にあります。

第一が成り立って、第二が成り立たなければ、その論は論理的矛盾に陥るし、その逆の場合も同じです。

仏教の無我説による輪廻論がいかにして、この二つの論点を矛盾なく通過できたかを検討するのは、じつに興味ある問題だと思う。