善い人間と悪い人間
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みなさんに質問があります。
Q1.
善い人間と悪い人間はどちらが好きですか?
Q2.
善い人間のふりをしている人と、悪い人間のふりをしている人ではどちらが好きですか?
Q3.
自分は善い人間だと思いますか? >>74
ごめん
あの嘘つきにだけは一言言ってやらないと気が済まなかった。
もう追い詰めないわ >>72
主観を捨て
真実の目を養えば、
利他=善
はシンプルで
民衆を腐らせる。
イエスは、
悪魔主義の典型で、
地上の倫理道徳を破壊して、
殺戮を推進した
悪魔である。 >>71
善悪のそういう分類なら
わからない人はあまりいないと思う >>78
意味が解らないです。
どちらにも受けとれる。
@私の書いた分類では解らない人はいない。みんなそれ位は知ってる考えてるよ。
Aみんながそういう分類によって善悪を突き詰めていき、結果的に解らない人はいなくなる。
Bそれ以外か?
( ̄∀ ̄)/? >>79
そんなこと考えるだけ無駄、って78さんはおっしゃっているんだと思います。 >>80
ヨコレスに言われてもねえ。
貴方が貴方の意見として「そんな事を考えても無駄だと思う。」と発言したら、
貴方に話が出来るけど、
それは言葉と発言者が一つだから、
貴方に話して意味がある。
他人が何と言ってるのかを貴方が代弁しても、
貴方の他人の発言への分析。
何処まで言っても、
貴方が分析した他人の発言。
主体者が存在しない発言となる。
不明では何の意味もない。
自分自身の思いを他人の発言への分析として伝えてるのかもしれない。
それもあやふやになる。
学校のクラスで
耳打ちして来た。
○○ちゃんがなんかね悪口を言ってたみたいだよ〜
何とも嫌な気持にしていながら、
○○ちゃんが本当に言ってたのか?
良く解らない。
自分自身が悪口を言いたいならば言う。
他人が陰口を言ってたら、陰口を言ってる人に自分自身が異論があれば言う。
立場があやふやなのは対人関係で迷惑だ。 偏ってようが間違ってようが
自分が感じて思うことを
はっきりさせる作業が好きだな
誰かの言った素晴らしい考えや
多くの人が良いと思うことをではなく
私が感じて思うことをはっきりさせる作業がいい
他人との会話やおしゃべりは大方
自分のことをより理解するためって感じだな ブログはともかく、長文の時代は終わったと思います。
今後はますます短文でないと伝わらないでしょう。
長文のおじいさん方は頑張って進化されますように。
アーメン。 良くも悪くも人々はスマホ脳になり、紙媒体の時代のような長文マインドコントロールが効かなくなっています。
長文という時点で怪しい。
もはやそんな時代です。
悔い改められるものなら、悔い改められますように。 >>84
そういう貴方も2レスでごちゃごちゃ書いてるから、
中年のオッサンだな。 >>82
感情主体。
それを自分だと思い込み。
他人の発言の理解。
良さげな善人ぶり。
自分自身も感情。
相手に対しても感情。
未熟な人間関係しか起きない時代の産物。
それを進化とは言わない。 善人と悪人のテーマから、
主観の始まりは出発点としては仕方がない。
自分自身の殻に閉じこもり、
他人に話した事がない世代は、
そんなところからが啓発なんだか。
かん黙症の自己啓発。 Q1.
善い人間と悪い人間はどちらが好きですか?
悪い人間
Q2.
善い人間のふりをしている人と、悪い人間のふりをしている人ではどちらが好きですか?
悪い人間のふりをしてる人
Q3.
自分は善い人間だと思いますか?
ごめんなさい。
自分、悪魔なもんでw こんばんわ。
Q1.善い人間 たまに悪女にクラッとするかな。
Q2. 悪い人間のふりをしている人
Q3. 私は悪党(V)◆¥◆(V)
人間は、動物や魚を食べて生きている。
生き物は全て、植物のように自分でエネルギーを合成するもの以外は、何かを食べなくては生きていけません。
生きるということは=食べることなのです。
植物も光合成のためには養分を必要とします。
全てのものは何かを自分のエネルギーの為に利用しているといえます。
それは、良い悪いという価値判断とは無関係なところにあると私は思います。
ただ、食事をする時、感謝の心は忘れません。
「一切衆生 悉有佛性」(法華経)
「この世界、人間であれ、動物であれ、植物であれ、全てのものに仏様になれる心を持っている。成仏の種を持っている」 >>91
師匠こんばんはm(_ _)m
ご回答ありがとうございます😊
今後ともご指導下さいませm(_ _)m ドキュンちゃんはお尻高く上げてバックポーズを見せつけるの好きでしょ?♪ >>93
見せつけるのは嫌いじゃないわよ。
ポーズは様々だけどね(^_^*)
見たいの? >>94
見たい見たいw
セクシーポーズwww
普通の主婦がやってるのがなんか生々しく、普段からこうゆう性生活しているんだなという妄想を掻き立てられるwwww 変態じゃないもんw
いたって普通のスケベな男子だよ。wwww
楽しみに待ってるよww せっかく来てくれたんだから、回答していってよ
メロトロンもエッチなことだけ言いに来たの?w そだよw
ドキュンちゃんがHで面白いからいじりに来たw 創価学会員の桃太郎さんという方いらっしゃいますか?
もしこれを見たら、このスレッドにお返事いただけないでしょうか? >>101
あるあるw
ペロペロしちゃうw
(^ω^)ペロペロ >>107
全部w
てへぺろw
そんなこと言わせないでw
照れちゃうわーwwww >>107
いきなり高く上げたお尻にいって、その次おっぱい、その次は・・・言えないwww >>108
一気に全部は無理でしょう?w
どこから? メタトロ。。。
まず、ささやきながら首筋とか、耳とか。
それから優しく背中、ふともも 足の指
唇をかさねながら、うちもも
そして乳首、乳輪
それからお尻。。。
俺の子分なんだからしつかり修行しろ! >>111
いきなり高く上げたお尻のポーズされたらそこから大胆にかぶりついて攻めるのが私なのだよ。。。
手も使いながら攻めてあげるwwww >>112
そうですよね^^;)
ものには順序ってものが、、 メタトロンじゃなくて、メトロン星人だ。
バルタンと対決しろ! メトロン星人って、あのおちんちんみたいなやつ?ww
ところで私のHNってちょっとウルトラマンっぽくも見えませんか?w >114
>>109のようなそうゆう楽し見方もあるじゃんw
ささやきながらは、旦那さんや野菜名人に任せておいてっと・・・・・
私は私なりの貴女へのご奉仕の仕方ってーのがあるので。。。。 >>112
ささやきながら徐々に攻めていくのって・・・・照れちゃうなwww
てへぺろwww >>119
そうねえ。。。。
一回目からはないかなぁwww >>121
以外に女子力高いんですねw
ムードがないとだめなんだw
でもいきなりお尻にかぶりつくくらいの方が旦那さんも陰で見守っているうちに興奮してくるんじゃないかな?
やってる感が強い方が背徳感があっていいんじゃないかな〜?w ささやきながら攻めるのはなんか出来の悪いAVみたいでいややわ〜。W >>123
それ、自分が恥ずかしいだけでしょ?w
相手の気持ちになってみたら? 自分が善で、画面の向こうに居るのがいつも最低のキチガイ害悪宗教信者です
リアルではそうは言えないけど
実際全ての宗教信者はこのように思っていますでしょう
なんということだ >>128
dp9さん、ありがとう!
>>129
本物の悪は、たらしの名人だよ。
嵐の素顔 工藤静香
https://youtu.be/nR3NAxKESGo >>129
私が思うに、
人間は誰しも善い部分、悪い部分を兼ね備えています。
善きこと、正しいことを行いたいという気持ちと裏腹に、
身勝手であったり、悪いことに憧れるような心さえ持っています。
ですが、誰しもみな最終的には「善きこと」を目指すように作られているのだと思うのです。
それが「仏性」というものであり、途方もない数の失敗や堕落を繰り返しながらも、
いつかはそれに目覚め、「善」なるエネルギー(神、仏)と同化しようとする「魂の欲求」を
満たすよう、導かれていくのだと信じています。 私はいい悪いはあまり気にしない
ひとと関わるとき
その人の考え方ややり方は
その人にとっての最善であり
絶対として考える
それをなにか別の基準で
いい悪いとか正しいか間違っているか
照らし合わせをしない
自分が惹かれて接したい人なら
なおさら自分の基準では決めないし
親しい人に関しては
自分には理解できない考え方や
やり方をしてるほど面白い
会ったこともない情報としての
他人のことはおしゃべりの
ネタにしかなってない 悪い人間を見るとヤハウェのような飼い主には相応しいと思いますね お互いに 善い人間のふりをするというのは、善い人間であろうとする、ありたいという気持ちの現れだと思います >>135
それもそうですよね。
心に迷いが生じているが故に、不自然な言動になっているケースも多いと思います。
そういう方は一般的には「偽善者」と呼ばれ、その言動がどうしても鼻についてしまいます。
他人を陥れようというような意図が感じられない場合は、その方の「心の底の想い」を
汲みながら接することが大切かと思います。
他人を陥れようとしている人に対しては、その人が本来持っている仏性に自ら気がつくような方向へ
なんとかして向かわせる気持ちを、こちらが持つことが肝要でしょうね。 何もしない善より、
行動する偽善の方が、
世の中の為になる。 >>139
偽善と皮肉る人よりは利他的な感覚を持ってる時点で評価できる
そもそもその感覚がない人が多いから 一燈照隅 万燈照国
(いっとうしょうぐう
ばんとうしょうこく)
最澄
〈意味〉
一人ひとりが
自分の身近の一隅を照らす。
それだけでは
小さいあかりかもしれないが、
その一隅を照らす人が増えていき、
万のあかりとなれば、
国全体を照らすことが出来る。 人は利他的な感覚を生まれつき持っている
だがそれに反する性格が形成されるのは
利他的な行動がとれないことも多いからである
いいことをしない自分は、悪なのかもしれないと思うのである
そのヒントとして「生まれてきてごめんなさい」がある。
自分は何もしていないのに、他人に迷惑をかけている。
なぜなら、自分が生きているだけでも、誰かが自分の命を維持するため行動するしかない。
過保護な親、コントロールしたがる親が子供の仕事をすべて奪うため
子供は自分で生きることもしなくなる。
子供は自分では何もせず、ただそこにいるだけ。
何もしないでいることが申し訳ないのである 『法華経』には、すべての人々は仏になることができると説かれています。
天台宗の高祖である天台大師(智ぎ)や日本天台宗を開かれた宗祖伝教大師(最澄)ほか、
実に多くの先人方の信仰と精進により、その教えは今日まで連綿と受け継がれてきました。
まさに永遠の命を持つ仏(久遠仏)が、悩める多くの人々の魂を救済しながら
信仰への意義付けや喜びを授け与えてきたことに他なりません。 仏の教えは、
声聞(しょうもん・仏の教えを聞いて悟る者)
縁覚(えんがく・仏の教えによらず自ら悟りを開く者)
菩薩(ぼさつ・一切衆生を救済しようと利他の精神を発揮する者)
という三乗に対して、それぞれ別々に説かれますが、
その根本では一乗、つまり一つです。
乗とは、衆生を乗せて悟りの境地へ運ぶ乗り物の意です。
この世で悩み苦しむ多くの人々を仏のさとりに導くために、一つの教えをそれぞれの能力に応じて説かれたのであり、
それらを最終的に包括したものが『法華経』であります。
これを法華一乗思想といい、
天台宗の中心的思想です。 『法華経』は、お釈迦様一代の教説はすべての人々(一切衆生)を一仏乗に入らせるためであると説きます。
また、お釈迦様は釈尊として永遠の過去から永遠の未来にわたって人々を教化・利益し続ける久遠実成(くおんじつじょう)の仏であることを明らかにし、
人々は永遠に救われることが説かれています。 さらには、この世に存在するもののどれ一つとっても無駄や隔てがなく、差別対立もなく、この世を構成する上で重要な役割を果たしていると説きます(諸法実相)。
あらゆるものが平等の上に存在するのは、仏はもちろん、人も草木も存在するものすべてが仏性を持ち、みな仏になる可能性を持っているのですから、
本来は声聞・縁覚・菩薩という区別などありません。 『法華経』は、
釈尊が亡くなって500年ほど経った頃(1世紀末〜3世紀初頭)に、
インド北西部で編纂(へんさん)されたと考えられています。
『法華経』の説く思想は、
この時代、特に当時の仏教界が直面していた課題と密接に関係しています。 最初は原始仏教の時代です。
原始仏教とは初期仏教ともいい、
釈尊在世(中村元先生によると、前463〜前383)の頃、
および直弟子たちがまだ生きている頃の仏教を指します。
紀元前3世紀頃、インド亜大陸をほぼ統一したアショーカ王の命により、
息子のマヒンダによってセイロン(現スリランカ)に仏教が伝えられました。
アショーカ王の妻の出身地が西インドで、マヒンダはそこで話されていたパーリ語の仏典をセイロンに伝えたため、ここにパーリ語で原始仏教が保存されることになりました。
釈尊の生の言葉に近いものが残ったわけで、これは後世の我々にとって本当に幸運なことでした。 釈尊滅後100年ほどが経った頃、
紀元前3世紀に第二回仏典結集(けつじゅう)が行なわれ、
そこで仏教教団は、
保守的な上座部(じょうざぶ)と進歩的な大衆部(だいしゅぶ)に分裂します(根本分裂)。
それがさらに枝分かれし、二十の部派にまで広がります(枝末〈しまつ〉分裂)。
その中で最も有力だったのが、
説一切有部(せついっさいうぶ)という部派です。
権威主義的で資金も豊富であり、
後に「小乗仏教」と批判されるのはこの部派のことを指します。 こうして、
紀元前3世紀末頃までに、
仏教は説一切有部を最有力とする部派仏教の時代に入りました。
そして前2世紀頃、
「覚(さと)りが確定した人」を意味する「菩薩(ぼさつ)」の概念が現れます。
覚りを得る前、ブッダになる前の釈尊を意味するものとして、小乗仏教(上座部)が発明した言葉です。 まだ仏になっていない状態の釈尊を
何と呼ぶかということで、
覚り(bodhi)と人(sattva)をつなげてbodhi-sattva(菩提薩??、略して菩薩)とし、
「覚りが確定した人」という意味の言葉ができたのです。 これに対して、
紀元前後頃、菩薩という言葉の意味を塗り替える動きが興ります。
すなわち、bodhi-sattvaを「覚り(bodhi)を求める人(sattva)」と読み替え、
覚りを求める人はだれでも菩薩であるという大乗仏教が興ったのです。 大小併存の時代の中で、
まず、大乗仏教の側から小乗仏教の出家者たちを痛烈に批判する『般若心経』が成立します。
そして、紀元一〜二世紀頃には、
保守的で権威主義的な部派仏教を糾弾する『維摩経』が成立しました。
こうした流れに対し、紀元一〜三世紀頃、
小乗と大乗の対立を止揚する、
対立を対立のままで終わらせず、
両者を融合させてすべてを救うことをことを主張するお経が成立します。 インドに於ける『法華経』は
「宥和一致」すなわち、仏教徒は属している部派や大乗・小乗等の区別は本来無く、
それらは仮初めの相違であって、
全ては等しく仏となる尊極の存在であるから、
“決して仲違いしてはならない”と説く経典です。 本来の『法華経』の精神は、
仏教の中の教えは全ては
釈尊の衆生を救済せんとする
慈悲心の発露から生まれたものであり、
そこには本質的に上下・勝劣は無く、
全ては時間と空間の制約を受けない「久遠の釈尊」の教えであると説いているところにあります。 この『法華経』の平和の精神は、
『華厳経』の「法界縁起」の思想や
『阿弥陀経』などの浄土経典とも
何一つ矛盾することはありません。
まして、
原始佛典の最古層に属する『スッタニパータ』に見られるブツダ本来の思想とも合致します。 1.初期仏教の菩薩とは・・・釈尊の修業時代を指す (パーリ語 ボーディ・サッタ)
証拠・・・ぱーり仏典
2.ジャータカにおける菩薩…釈尊に限らずあらゆる佛の前世の修行時代を指す
証拠・・・BC150のバールフトの仏塔遺跡など
3.大乗の菩薩 ver1 維摩・般若経典群…二乗否定の新しい仏弟子像
証拠・・・維摩経・般若経典群
4.大乗の菩薩 ver1 法華経…新新仏弟子像 二乗肯定の新しい仏弟子像
証拠・・・法華経
佛教は動的に進化しています 実は法華経には、
女性が法華経を護持すると、弥陀浄土に往生すると書かれているwww
確かに浄土教典と矛盾しないが、浄土教に媚びすぎているwww >>160
野菜名人さん、おはようございます。
今、ここで法華経について書いているのは、dp9さんの↓
137 dp9 ◆1KaWk8ZRnVxd 2018/08/15(水) 03:48:38.22 ID:mv+11NK2
一隅を照らす6つの約束
http://ichigu.net/person/home_promise.php
のフォローのためです。 衆生は仏になれる
天台宗の教えの根本は法華経の説く一乗仏教、
つまり、すべての人々は分けへだてなく仏になることができるという教えです。 一隅を照らす、これすなわち国宝なり
この言葉は、
日本で天台宗を開いた伝教大師最澄が著した「山家学生式」の冒頭部分に記されています。 国宝とは何物ぞ
宝とは道心(どうしん)なり
道心ある人を
名づけて国宝と為す
故に古人(こじん)の言わく
径寸十枚(けいすんじゅうまい)
是(こ)れ国宝に非(あら)ず
一隅(いちぐう)を照らす
此(こ)れ則(すなわ)ち国宝なりと 「一隅」とは、今、いる場所や置かれた立場のこと。
自分自身が置かれたその場所で努力し、明るく光り輝くことでお隣も光ります。
町や社会が光ります。
小さな光が集まっていくことで日本が、世界が、地球が輝きます。
国の宝というのはお金や財産ではなく、
そういったことのできる人こそ、何物にも代えがたい、国の宝であるのだと。
一隅を照らしましょう。 師匠おはようございます^o^)/
書き込みありがとうございますm(_ _)m
。・゚・(ノε`)・゚・。 私がこの「一隅を照らす」ことを決意して以来、
不思議なことにそれを多くの方が手助けしてくださいます。 延暦寺でゆるキャラを見つけました。
可愛いお坊さんの姿をしていました。
私はゆるキャラが休憩室のテントに入っているのを見つけ、中の人にテント越しにゆるキャラの名前を尋ねました。
私「最澄くんとか、伝教くんでしょうか?」
中の人「違いますよ。しょうぐうくん」
私「はい?」
中の人「しょ、う、ぐ、う、くん!」
私「あ、しょうぐうくんですか。どんな字を書くんですか?」
中の人「しょうぐうくん言うたら、しょうぐうくんやがな!」
私「と言いますと?」
中の人「一隅を照らすって知ってるやろ? あれやがな!」
私「ああ!なるほど!照隅くんですね^^;)、ありがとうございますm(_ _)m」 まあ変なタイミング、シチュエーションで尋ねた私も悪かったですけど、あそこまでキレなくてもw
お疲れのところすみませんでしたm(_ _)m
中の人は大変ですよね^^;) この経を説こうとするならば、
仏道を学ぶ者を軽蔑し罵って、
その長所短所を追求するようなことをしてはならない。
もしこの経を説こうとするならば、
嫉妬心や、憎しみや、高慢さや、へつらい心や、欺く心や、偽りの心を捨てて、常に素直であらねばならない。
人を軽蔑してはならないし、
教えについていたずらな論議をしたりしてはならない。
他人に向かって、
「おまえは仏になれない」などと言って、
その心を混乱させてはならない。
この仏の子が教えを説くときは、
常に柔和であって、よく耐え忍び、一切の者を慈悲して、怠け心をおこしてはならない。
十方の大菩薩で生ける者たちをあわれむ心から道を行ずる者に対しては、
「この人はわたしの大いなる師である」と恭敬の心をおこせ。
もろもろの仏に対して、
「無上の父である」という思いをおこし、高慢な心を打破して、教えを説くのに障碍がないようにせよ。
(法華経 安楽行品) >>174
改めて戒めたいと思います。
ありがとうございますm(_ _)m ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています