>>447
訂正:
(29)節
 ×『アーマンを、「私」という観念の主体であり、』
 ○『アートマンを、「私」という観念の主体であり、』

>>448
>だから、涅槃に到達したものは、「わたし(アートマン)が語る」と言ってもよいということになる、と。

補足:
 これが核心に迫る決定的な根拠部分でしょう!

【〔尊師いわく、---〕
 [なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、『わたしが語る』と
言ってもよいでしょう。<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいでしょう。]
 [心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまったので、『わたし
が語る』といってもよいであろう。また人々が〔これこれは〕<わがもの>である、と語っている』と言ってもよいであろう。] 】
(サンユッタニカーヤ.T,3:5)

【註: 『わたしが語る』と言ってもよい---これは我(アートマン)が存在すると主張する議論である。『雑阿含経』には「何言説有我」。
   わがもの---mamam = mama patto,mama civaran ti a^di katha^voha^ram su^tva^(Comm.p.51). 「我所」(『雑阿含経』)。】
(中村 元訳『プッダ 神々との対話』岩波文庫p248)