【仏教】 悟りを開いた人のスレ307【天空寺】
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>>872
私が悟っているかどうかも、
あなたが悟ってみないと分かりませんよ。 仏典にも六神通が説かれている以上、それが無いという論証なしに否定する人は
仏教者としてはジエンド(笑)
認めたくないのは自分にその能力がないからに過ぎず
ブッダにはそういう能力があるという以上、闇雲に否定するというのは
ブッダに帰依してない証左になる。 >>873
その個人主体という概念も、自我の錯覚ですからね。
自我という間違った概念を前提に論を展開しても、全部間違いです。 それから輪廻というのは、六道輪廻じゃないの?
過去生とか来世の話になっちゃうわけ?
六道輪廻、十界思想は、各人の心の状態を表すものとして、合理的に理解することもできる。。
しかし同一の魂が転生してってのは、それこそどうやって確かめるのかって話になってしまう。。
無我説と矛盾するというのもうなずけるし。。 >>876
?
個人主体がなければ、業報論は成立しないでしょ?
じゃあ、魂の輪廻は、自我の錯覚じゃないと言えるのはなぜ? >>874
違いますよw
貴方が、自分を覚者と認識しているかどうかをきいてるだけです。
>>875
人間は、自由に空中を飛び回れる身体構造をしていません。
よって、六神通は、「神格化」の一環です。
はい、論証終了w ダンマパダの90〜99は阿羅漢の章と呼ばれ釈迦から阿羅漢へ説法しているわけだがここでも輪廻という言葉が使われており
輪廻は修行完成者同士でも方便ではなく普通の観念として使われている
https://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201007/article_10.html
例えば95や97はサリープッタ長老への説法である 神足通否定しているけど、まだ五つありますよ(笑)
神足通というのは空間を飛び回ることだと決めつけてるが本当にそういう意味かは検証しないとね。 >>879
私が「はい」と答えたとして、あなた信じますか?
危ないですよ。信じたら。信じないで下さい。
確かめて下さい。自分で。悟れば分かります。 >>880
知らん。。
どの経典に書いてあるにせよ、合理的に説明できないと、仏教の将来は無いんじゃないの?
その意味で、パーピマンの科学的態度を僕は、評価したい。。 学者タイプは「ブッダは我々人間と同じだ」という凝り固まりがあって気持ち悪い(笑) >>883
君がどう思おうと仏教の将来がどうなろうと自分の知ったことではない
ただ2500年前のインド人であった釈迦や弟子の阿羅漢は輪廻を信じていたという客観的証拠を提示しただけ
あとは各々が勝手に判断すれば良い >>878
個人主体、魂、自我、全部錯覚です。
錯覚を見破った人、すなわち悟った人だけが業報論が分かります。
それ以外の人はなんとなくです。
分かったような、分からないような。
しょうがないです。
申し訳ない。 王家に生まれ何不自由なく育ち、そんなお釈迦様が何故わざわざ王家を飛び出して山に入ったかと。
それも前世からの修行者としての因によるわけですよ。
明らかに他の王子とは違うし、ましてや一般庶民とはまったく違う。
そこを学者連中は勘違いしてるんだよなあ。 僕は『仏教誕生』という新書をだいぶ前に読んだのだけれど、仏教にはもともと転生の話はない、ということだった。
ただ当時のインドでは転生があたりまえに信じられていたので、それを取り入れざるを得なかったということが書いてあったと思う。
そもそも十無記って、そこら辺を断言しないということでしょ。。 >>881
だから何?
天耳通 とかも、書けと?
・・・はい。「人間の耳は、その音声を受信するには一定の距離的限界があり、
構造上それが驚異的に拡張することはありえません。」
はい、これでいい?w
>学者タイプは「ブッダは我々人間と同じだ」という凝り固まりがあって気持ち悪い(笑)
え〜〜〜〜〜〜????
同じ人間でしょ?
だからこそ、皆が悟れる可能性があるわけであって、「来て観よ」なんでしょうが?
悟ったら、何やら「超人」にでもなれると思ってるのかい? >>889
阿羅漢は普通の人間ですけど、ブッダはちょっと…
ケタが違いすぎます。
同じ人間ですけど、能力が半端無いです。 >>882
>私が「はい」と答えたとして、あなた信じますか?
そういう話じゃないんだってww
貴方がね、「自分を覚者だと認識してるような人」なら、これ以上話しても
無駄だと思うから聞いたのw
自分のことを覚者だと認識してるような人は、全てが上から目線で決して
自己正当化をやめることはないでしょうから、対話を打ち切ろうと思っただけさw >>891
本当の事を言うと自分も覚者も無いですけどね。
無我ですよ。本当は。 俺が読んでるやつね。
95
大地のように防げることもなく、インドラ柱のように、よく慎んでいる。
湖のように泥がないこのような人には、輪廻は生じない。
確かに輪廻が入っているね。
これ読んでいると、妄想のない人は輪廻がないと読めるんだけど。
輪廻とするという概念に触らなければ、輪廻は生じない。
ブッタは超人じゃないからいいんだけどね。 調べたけどこれだな。
宮元啓一『仏教誕生』ちくま新書 1995/講談社学術文庫 2012
みんなで勉強しよー。。 >>893
それだと、単に心が動揺しない、有為転変がない、といことじゃないの。
転生がない、とは読めないわな。。 それから、ダンマパダ書いてる人がいたが、その記述を輪廻肯定論の証左と
するなら、まず、最古層文献(スッタ二パータの4章、5章、初めの導入は除外、それと
犀の角の章)・・・・アショーカ王以前と確定できるのはこれだけだが、そこに
殆ど輪廻の記述がないことの理由説明もしないとねw
確か、「業」については全くなかったと記憶してるんだがw >>895
>転生がない、とは読めないわな。。
そうかな。
非想非非想だからね。
思うということに触わらなければ、と読むけど。 >阿羅漢は普通の人間ですけど、ブッダはちょっと…
>ケタが違いすぎます。
>同じ人間ですけど、能力が半端無いです。
人間ですよw
だから、時々、他者の見解に従って自己のスタンスも変えるし、
最後にはきちんと死にます。
(アナンが懇願しなかったから・・なんてアホはなしねw) 悟ったら、転生があることがわかるじゃなくて、逆に自我があるから、未来にもそれがあるように感じてしまう、なければいけないように思うということじゃないかな?
あとは、パーピも言ったけど、倫理的要請。
すなわち、悪いことした人が死んだら終わりじゃなくて、地獄で塗炭の苦しみを受ける、と思うことで、被害者は納得する、
ということなんじゃないかと思うが。。
もちろん、ヒトラーが死んでもヒトラーの残した業の影響は、残るわけで、ヒトラーという個人が無我でも、業報というのは成立するとは思うんだけど。。 因果があるんだから、業とその報いがあるのも当たり前だけど、ぜんぶこの生きてる人の世界でだと思うんだよね。。
悪業の報いは、悪業をなされた人となした人が受ける、悪業をやった時点で、多くの因果を生んでいるわけだ。。
で、この業をもし、それをなした人が来世にまで持って行ったとしたら、因果が2倍に増えるというか倍増しないか?
なんかおかしな話になっちゃうと思うぞ。。 ぶっちゃけ言うと釈迦本人が得た悟りと本人がその後に作った仏教は微妙にズレた別物になっちゃったんよ >>896
そう言うのならそこに無我(アートマンがないこと)についての記述が殆どないことの説明をまず君がしないとね
信用に足る文献はそれしかないと君が思っているのならね バチカン市国=八寒地獄
自国=地獄
イエス・キリスト=エンマヌエル=エンマ大王
お前らはつまり自分が地獄に落とされたことも気づかん亡者
あとは自分で考えろ >>906
>そう言うのならそこに無我(アートマンがないこと)についての記述が殆どないこ>との説明をまず君がしないとね
>信用に足る文献はそれしかないと君が思っているのならね
まず、仏教における基礎知識として・・・・・
全ての経典において、「アートマンはない」との断定記述はありません。
このことは知ってるかな? (だから、中村元などが、非我論を展開することにもなったわけだがw)
そして、スッタ二パータの4章と5章だが、一体どういう読みをしてるのかな?
4章では、「見解を立てることの否定」・・・・即ち、当時のヒンドゥーにおけるアートマンの
主張に対するアンチテーゼなんだが・・・
5章の内容は、まさにほぼ有我論の排斥で貫かれてるんだがw
特におすすめはw
1119の「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。
そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
かな?w
さらに、補足しておくと、俺は何もこの最古層文献しか信用するに値しない なんて言ってないぞw
その他の初期仏典の中にも釈迦の金口はあると思っている。
また、同時に後代の付加、増稿、曲解なども山のようにあるので、取捨選択は必要というスタンスだよ。
だから、「経典に記述がある」⇒「それは釈迦の教説。あるいは事実」なんて単純な見解はとらないw
そして、現在、「釈迦は、輪廻業報論を少なくとも自己の教説の一環として説いてはいない。
(倫理的要請などから、言及はしたと思うが)」 とする立場の学者さんは多いのだよ。
その論拠が主に二つ・・・
@最古層文献における輪廻業報論の記述に関して・・・・これは複数の学者が文献を精査して論証している。
A無我との論理矛盾・・・・こっちから、否定する学者の方が多いがね。そして、現時点まで、このAの矛盾
解消に成功した肯定論者はいません。代表的なところでは、スマ、魚川、佐々木・・・など、その著作を
読んでみればわかるが、決してそこには深くふれないで、誤魔化しますw
・・・・・ということですよw >>902
スッタニパータ 蛇の章
9.
行き過ぎることもなく、おくれることもなく、
世界における「この一切は虚妄である」と知って
修行者は、此の世と、彼の世を、捨て去る。蛇が古くなった前の皮を(捨て去る)ように
これは輪廻転生もしいて言えば入るんじゃないかなぁ。
ややこしいのはブッタがバラモンの語句で語ったからじゃないかなぁ。 インドの人々には、インドの世界観というものがあるのだから。 量子脳理論
「脳で生まれる意識は宇宙世界で生まれる素粒子より小さい物質であり、重力・空間・時間にとわれない性質を持つため、通常は脳に納まっている」
が「体験者の心臓が止まると、意識は脳から出て拡散する。そこで体験者が蘇生した場合は意識は脳に戻り、体験者が蘇生しなければ意識情報は宇宙に在り続ける」あるいは「別の生命体と結び付いて生まれ変わるのかもしれない。」
輪廻転生は科学でも大真面目に研究されてます。
仏教は科学の先取りだった! 仏教は輪廻転生を説いているが
それに執着してはあかんということや^ ^ お前らは劣化コピーなのじゃおwww
糞が詰まってるのじゃwww
だから、ラオスのダム決壊も起きたのじゃwww
糞が詰まってるからマスメディアは何も言えんらしい、相手にしないのは正解だけど、ニュースにならんだろうwww
劣化コピーと言うか、コピー自体が実体に即してないのじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 919.涅槃の境地に至っても、生死がある。バカには理解できない。 そうじゃwww
お前らの糞が詰まった頭で何をしようとしてるのじゃwww
糞を洗い流す事じゃwww
糞を洗い流して悟りがあるのじゃwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 釈尊が説かれたか、説かれてないかは重要ではない。
釈尊の心の内を、説かれた事から完全に知ることはできない。
しかもまた、釈尊の心の内も、重要ではない。釈尊は、自灯明、法灯明と言われた。
自らの心に真理を見ることこそが重要。
学者さんが、経典学を展開するなら徹底的に研究しても良いが、
そこから真理を導き出そうとするのは間違い。
レシピだけを徹底的に研究しても、実際に作って食べなければ味は分からない。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ鬼和尚さんに教えて頂いたパーリ仏典経蔵中部第57経『犬行者経』もありますね >>922
横からすみません。
「心を求むるに不可得なり」と言いますが、あなたはそこに真理を見られるのですか?
見られる心がそのまま見る心ではありませんか? >>910
全ての経典において「アートマンはない」と断定していないのなら「無我説と輪廻の矛盾」と言う設問自体がナンセンスだわな
スッタニパータの4章での見解を立てることの否定
…当時のインドではバラモン教の有我論だけではなく六師外道の何人かに見られる無我論もあるよ
スッタニパータよりも後代の成立とみなされるが梵網経には62の見解が紹介されていてその中にはアートマンはないとする断滅論もある
http://www.ko-kon.net/religions/buddism/62ken_03.html
見解を立てることを否定しているのなら断滅論も否定されるものである
5章は学生ウパシーヴァやピンギヤへの質問に対しては輪廻前提で問答している
http://suttanipata.com/
1119は「自我に固執する見解」とは何であるかの検討が必要
しかしいくら検討しても答えは出ないだろうけどね >>44
縁によって現れている
現象は
わたしの為すことではなく
自然にある
としても、ある人は幸福に見え、ある人は不幸にある
思い違いによって、わたしが抱えている業の因子がとれないでいると同じようなことになっていくのだが、私だけでは、気づくことが難しい >>925
>全ての経典において「アートマンはない」と断定していないのなら「無我説と輪廻>の矛盾」と言う設問自体がナンセンスだわな
は??
仏教は、「アートマンはない」との断定記述は経典に見られないが、(その言明を釈迦が避けた理由は諸処あるが・・)、 無我を支持するのは、仏教各宗派に通底する
教説なんだが。 お宅がどこの宗派だか知らないが、お偉いさんにアートマンを
支持しているかどうか? 聞いてみなw
(ただし、アドヴィタ系なら知らんw)
そして、輪廻は常に「何が輪廻するのか?」が問題となって「輪廻する基体」を設定してしまうとアートマンの否定、即ち無我に抵触してしまうから問題とされてきたの。 論点わかってるの?w >スッタニパータの4章での見解を立てることの否定
>…当時のインドではバラモン教の有我論だけではなく六師外道の何人かに見られる>無我論もあるよ
・・・・・これ以下は何が言いたいのやらもわからんw
断見、並びに 常見 の二つを共に、釈迦は退ける・・・ことは知っているよね?
>見解を立てることを否定しているのなら断滅論も否定されるものである
wwだから無記なんでしょ? 心の問題として視座をおけば、牛になれば「モー」ヤギになれば「メー」って、本来、牛は牛のままにヤギはヤギのままに解脱しているという自覚があれば、輪廻を問題としないと思いますけどね。 >1119は「自我に固執する見解」とは何であるかの検討が必要
>しかしいくら検討しても答えは出ないだろうけどね
いやいや、一般的に 普通に解釈は定まっていると思いますよ。
換言すれば、・・・・・
自我⇒「自分、即ち、『我』 というものが、あると思っている通常の認識」
普通の人は、「自分」というものがあり、また、それが当然と思っていて、
そこに疑いを挟まないのが普通の見解。
まず、そのような見解を離れなさい。
ということだよ。 それは、続く「世界を空と観ぜよ」 から明らか。
この「世界」は、通常の認識対象たる外部世界は勿論、「自己も内包した」意味ですな。
自己も空。 一切皆空さ。
その他にも「名称と形態」による錯誤を正しなさい。 という言い方でも説かれているが
それも同じことw 「そんな事をしたら犬に生まれ変わりますよ?」って言うのと「食べてすぐ横になったら牛になりますよ?」って似てる気がしてね。
お釈迦様の輪廻に対する態度も実際にはそんなもんだったのでは? 仕事しないで能書き垂れてばかりいては
糞凡愚になりますよ。 こんにちは^^)
ジャンキー大山さんって仕事してないの? 最初は営業の仕事をしているとほざいていたけど
糞凡愚に社会性がまったくなかったので、でおーが問い詰めたら
開き直ってニートを認めた(笑) その前にも妻子持ちをアピールしていたけど
どう見ても妻子がいるように見えないので、妻子持ちのリアリティのなさから疑問を投げかけると
それ以来妻子持ち設定を封印した(笑) >>924
心を認識作用と同一視すると、認識を認識するとはどういうことかと、混乱します。
心は、受蘊、想蘊、行蘊、識蘊からなります。見るというのは、観察する、念じる、気づくという意味です。
まず受蘊を観察します。人間の感覚は常に生滅変化しています。
ゆえに虚しく、実体はありません。因縁により生滅しており、私の思い通りになるものでありません。
想蘊を観察します。思考、イメージ、妄想、概念などは常に生滅変化しています。
ゆえに虚しく、実体はありません。因縁により生滅しており、私の思い通りになるものではありません。
行蘊を観察します。意志、志向、欲求などは常に生滅変化しています。以下略。
識蘊を観察します。認識、判断、意識は常に生滅変化しています。以下略。
しかしこれらはかなりの集中力を要します。レベルが高いです。
ですので四念処の順番でやるのが良いです。身、受、心、法の順です。
上に書いたのは、四番目の法念処です。 >>937
内容から察するに、上座部系の方ですかね?
一応、仏教関係の研究機関に出向してましたし(総合職ですがw)、現在も臨済宗の老師に参じており、なんとか最初の一関は通らして頂きましたし、基本仏教の話は私には一切無用です。
で、
>心を認識作用と同一視すると、認識を認識するとはどういうことかと、混乱します。
という事ですが、心は認識作用に他なりませんし、混乱も生じませんと思っております。
確かに、混乱が生じやすい問題ではありますが、そこら辺は唯識の四分説で明確に分析されておるようですよ。
則ち、認識とは自証分で認識の認識(メタ認知)は証自証分で、自証分が証自証分を相分とするので、無限遡求は生じません、って事だそうです。 >5章は学生ウパシーヴァやピンギヤへの質問に対しては輪廻前提で問答している
ちと補足説明しとくが・・・・
ウパシーヴァの話のどこが輪廻前提なのかわからんが?w
あれは、通常、「十無記」の話のルーツとされるものなんだが。
ピンギヤの話は、それこそ、最古層の中で、数少ない「輪廻を想定させる表現」の例として
あげられる。 (詳しくは並川などの研究参照。)
しかし、それも全体を通して読めば明らかなように、「輪廻を説いている」わけではないの。
「再び再生しないようにせよ」 って、とこねw
あれは、あくまでも、その前に述べられている教説が主眼なのであって、
「〜〜〜〜〜〜のように心がけなさい。」が主要項目なわけ。
そして、最後に「輪廻を断ち切れ」的な「叱咤する」語句が続く。
このパターンは他にも見られるが、全て「否定的な意味」で言及されている と
並川言ってるけどね。
なぜなのか? 言うまでもなく当時、インドでは「輪廻転生が常識」として受け取られてたの。
そして、輪廻は苦 として認識されて、「輪廻しないようになること」が目的として、
バラモンは修行していたわけで、 一般民衆にも、釈迦の多くの(輪廻を信じ込んでいる弟子たち)
にも、輪廻に絡めて教えを説く方が理解されやすいわけ。
(釈迦の弟子には多くのバラモンがいたしね。)
言い換えれば「方便」さ。 それで、きちんと「理解するべきこと」がわかるのならばOK
というのが釈迦のスタンスw
だから「前提」というのは間違い。
その証拠に、各、釈迦の言説から「輪廻に関する部分」を除去して読んでみな。
全くそれらの言説(輪廻に関する語句)が、釈迦の教説の趣旨と関係なく、
意味内容が変化しないのがわかるから。 >>939
そうですか。
ではしっかり実践してみて下さい。
心は認識作用よりも複雑で広大なものだと分かります。
唯識の説も必要無い事も分かるでしょう。
論より証拠ですからね。 >>927
だから釈迦はアートマンはないと断定してないのに「ないと断定していることにしているその仏教各宗派」がおかしいのさ
「釈迦はアートマンはないと断定してない」それで本来は話は終わりだよ
君が聞いてみなよ「釈迦はアートマンはないと断定してないのに何故お仏教の偉いさん方はアートマンを支持しないのですか?」って
それともう一つ「釈迦は輪廻転生は説かなかったのですか?」って
>>928
>>910で君が書いたことを再読してみなよ
>4章では、「見解を立てることの否定」・・・・即ち、当時のヒンドゥーにおけるアートマンの
>主張に対するアンチテーゼなんだが・・・
このレスを受けてその見解が有我論のみに限定されるのがおかしいという話をしてるのさ
@我は色があり、四大要素から成っている(肉体)が、身体が滅ぶと滅亡し、死後には存在しなくなる。それを根拠として死後の断滅すると主張する。(51)
こういった見解を立てることも否定されなきゃならない
>>931
上の話から自我に固執する見解とは「自我はある」という見解のほかに「自我はない」という見解もあるかもよ
釈迦は見解を打ち破ると同時に見解を立てることも否定してるのだからね
有我にも無我にも固執しないのが死王から逃れる術なのさ
固執は渇愛をもたらすからね めちゃめちゃ混乱したレス書きながら
混乱しませんと思います
だってさ(笑) 現代は現実の仕組みがあからさまに覚醒されている野鴨。仕組みは良くも悪くも関係なく。心の曲がった人が悟りとか覚醒
してもこの世を馬鹿にして思い通り使おうとして麻原いや浅はかな行為する損な人は天国も地獄になるし.この世でも
社会的に偉い役につくと威張りちらかして思い通りに団体を使おうとするのが我々心の小さな普通の人なのか。わ私は社会的
に何の権力もないから大人しくしている野鴨。かっこよい悟りを得たら悟った像と威張る野鴨。でも古い経典なんて何の役立
つのだろうか古いばかりで威厳があるけど今は古く進歩もない僧言う人も何の力も無いけど人は良いからまあ良いか?結局
集まりでは古い人は穏やかでまあまあとか無難な考えをするから未熟な妄想の暴走を止めて平和と言えば平和に生きる野鴨。
でも昔の経典の道具は夢しかたとえられないけど?今は新しいバーチャル映像のテレビや映画DVDでドラマー現実魅せられて
いる。心の用意の出来ていない人は六でも内覚醒剤にはしり天国を夢見地獄の身の欲望に走る野鴨。真実なんて仏の様に
優しくなく.心がけが欲ナイト神憑かれる。ものすごい夢法のエネルギが暴走して覚醒した世界で地獄に落ちる。そんなら
何も覚醒しないでも何も解らないまま庶民として権力も無く我々は頭ぶつけながら方便の仏の経典で小学生として学ぶ法が
まだましな生き方なのかも。宗教の本当の根本は如何に正しく幸せな法を学ぶかなのかも幼稚園小学江中学と山あり谷あり
でコツコツと行きますか。山根会長は見るからにヤクザもの権力は偉い
現代は仕組みがあからさまに表れているけど普通の人の眼は不通で幸せな野鴨 これだったら世間話の方が全然マシだよ^^;)
>>938
どんなお仕事?
差し支えなければ。
今は何をしているの?
ちなみに私は今日は14時からいくつか仕事がある。 >>942
釈尊はアートマンはないと断言しないのは当たり前です。
アートマン自体があやふやな概念、虚妄であるのに、それを無いと断言するのは、
その断言自体も虚妄になってしまうからです。黙っているのが正解です。
無我には固執できませんよ。無いものに執着はできません。
無我は見解ではないです。真理です。 >>942
wwwwwwwwwwww
その辺のところも、全てかつての別スレで多くの碩学たちによって検証済みなの。
今は時間がないので、夜にでも解説してあげるよw
ちなみに、その「各宗派のお偉いさんに直電したやつもいる」んだよw
黄檗宗では、怒鳴り散らされたとよww (まあ、黄檗宗は知ってる奴は知ってるだろうが、きっついからねえw あそこはw) >>940
ウパシーヴァと釈迦の問答は解脱者の存在について問答している
「またそのような人の識別作用は(あとまで)存在するのでしょうか?」と訊いてるのは解脱者じゃない人の識別作用はあとまで存在する
つまり輪廻することを前提に訊いている
とも考えられる(異論は認める) >>940
方便などどいう概念は初期仏教にはない
>>257
<資料> 釈尊(ブッダ)は成道以降は論争を好まなかった。偽りを方便として肯定しなかった。
397 会堂にいても、団体のうちにいても、何人も偽りを言ってはならぬ。また他人をして偽りを言わせてもならぬ。また他人が偽りを語るのを容認してはならぬ。すべて虚偽を語ることを避けよ。
661 嘘を言う人は地獄に墜ちる。また実際にしておきながらわたしはしませんでした」と言う人もまた同じ。両者とも行為の卑劣な人々であり、死後にはあの世で同じような運命を受ける(地獄に墜ちる)。
895 これらの偏見を固執して、「これのみが真理である」と宣説する人々、──かれらはすべて他人からの非難を招く。また、それについて(一部の人々から)称賛を博するだけである。
896 (たとえ称賛を得たとしても)それは僅かなものであって、平安を得ることができない。論争の結果は(称賛と非難との)二つだけである、とわたしは説く。この道理を見ても、汝らは、無論争の境地を安穏であると観じて、論争をしてはならない。
973 他人からことばで警告されたときには、心を落ちつけて感謝せよ。ともに修行する人々に対する荒んだ心を断て。善いことばを発せよ。その時にふさわしくないことばを発してはならない。人々をそしることを思ってはならぬ。
(『スッタニパータ』中村 元訳)
※なぜ上記のような釈尊の言葉を掲載したのか。
法華経などでは衆生救済のために方便を肯定しましたが、釈尊によればそれは偽りであり、衆生救済のためには方便は必要なく、真実のみが衆生を救済するからです。 >>947
ならば君もアートマンについては黙っていなさい >>949
こんにちは^^
初めましてじゃよ^^
我輩は事務所で仕事をしているが、
嫁はんと二人でのお^^
嫁はんが、所長で、我輩は
事務員じゃのお^ー^
最近お仕事はある人の遺言執行者に
嫁はんがなって
家裁まで付き合ったのお。
遺言書の検認の時はは嫁はんは一人で
家裁に行くのじゃのお^^
我輩はお留守番じゃよ^^
守秘義務があるのでお話は
ここまでじゃのお^ー^ >>949
こんにちは^^
初めましてじゃよ^^
我輩は事務所で仕事をしているが、
嫁はんと二人でのお^^
嫁はんが、所長で、我輩は
事務員じゃのお^ー^
最近お仕事はある人の遺言執行者に
嫁はんがなって
家裁まで付き合ったのお。
遺言書の検認の時はは嫁はんは一人で
家裁に行くのじゃのお^^
我輩はお留守番じゃよ^^
守秘義務があるのでお話は
ここまでじゃのお^ー^ >>954
エッチでリッチなナメナメおじさん、初めまして^^)/
おじさんは何宗とかありますか? ブッダちゃんの境地になればわかる^ ^
ヒントは十二因縁にある^ ^ >>956
浄土宗の檀家じゃがよ^^
空海さんが好きで光明真言には
世話になったのじゃよ^^w
仏壇では、なんまんだぶじゃがのお^^w 取(しゅ、upādāna) - 執着。
有(う、bhava) - 存在。生存。
生(しょう、jāti) - 生まれること。
老死(ろうし、jarā-maraṇa) - 老いと死。
これは無明から始まる^ ^
無明から生 老死が生じる^ ^
ということは分かるな^ ^ 訂正じゃよ^^
お墓でも仏壇でも
光明真言を唱えちょったのお^ー^ >>960
空海さんはすごいパワーをお持ちですからねえ
宗派を超えてそのエネルギーは伝わるでしょうね。。
誰かが言ってましたけど、私のHN照隅という観点でも、
他の仏教者が宝石とすれば空海は燃え盛る火の玉だと。
光明真言の効果は感じられましたか? >>952
そうですね。
くだらない妄想概念に関わるのは時間の無駄ですからね。 ブッダちゃんには生死がないんや^ ^
ということは^ ^ >>965
嫁はんが去年、夜半に腹痛で倒れて
意識がもうろうとしてのお^^
救急車を呼んで病院に運ばれてじゃよ
我輩は病院の待合室で待たされてじゃよ、
非常に長かく感じたのお。
後で救急で運ばれてきた人の家族は
お医者さんが出てきて、いろいろ
説明等会話をされていたのじゃが、
我輩はそのまま放置で、何の話もしてくれないので
病室に入ろうとすれば、止められて
入れないしじゃよ。
脳裏には最悪のことが浮かんできたのじゃよ^^
その時じゃのお、空海さんが
心に浮かんできたのじゃのお。
我輩は、何故かしら、光明真言をブツブツ唱え始めたのじゃよ。
唱えていると、この状況はなかったことにはならないのを知り、
この状況は(嫁はんが、お腹を押さえて意識はもうろう
、救急車で病院に運ばれて、我輩は医師の返答を待っている。)
変えられない、しかしこの状況でも最善は必ずあると
思ったのじゃよ。
その瞬間じゃよ、診察室・病室から看護師さんが
笑顔で出てきてのお、
我輩に言うのじゃよ、「この後、レントゲンを撮ったら
すぐに家に帰れますよ。」とのお^^
急に我輩の心に安心感が芽生えたのじゃよ。
待合室で1時間半近く待たされたのも嘘のようにじゃよ^^
結果は尿路結石で、薬ですぐに症状は治まったのじゃよ。
その後手術もなく自然に外に石が出たのじゃろうのお^^
本人は自覚なしじゃよ^ー^
これも空海さんのお陰じゃよと、感謝しておるのお^ー^ >>971
自らの置かれた状況をありのままに受け止め、
そこを起点としてのベストを考えるというのはとても大切なことだと思います。
お大師様がそこへと導いてくれたのでしょうね^^)
南無大師遍照金剛m(_ _)m レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。