0388ジャンキー大山
2018/08/05(日) 01:08:08.96ID:RZSlB/KY貴方にとっては、これが荒らしなんですね?
↓
806 自分:糞凡夫.[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 00:04:24.07 ID:WkvGdMEP [1/4]
観察というものについて考えてみましょうか?
根拠は仏教の唯識学の四分説を準拠にしています。
観察は、見るものと(見分・所量・主観)と見られるもの(相分・能量・客観)があり、
それの認識(自証分・量果)があってはじめて成立し、さらにその認識の認識(証自証分・メタ認知)があります。
まとめると、
1.見るもの(見分)
2.見られるもの(相分)
3.それを認識するもの(自証分)
4.メタ認知(証自証分)
となり、このうち3.が心の本体で、1.2.4.は心の作用と云われております
心の本体・・・3.自証分(自体分とも呼ばれる)
心の作用・・・1.見分 2.相分 3.証自証分
ところで、見分と相分は個々にに独立して存在するものでなく、相依性によって成り立っております。
即ち
此があれば彼があり、此がなければ彼がない。
此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば彼が滅す。
(自説経)
です。
807 自分返信:糞凡夫.[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 00:18:23.82 ID:WkvGdMEP [2/4]
>>806(続き)
観察というのは、心の自証分(心の本体)とその作用って事です。
上記のように、一つの心(自証分)が、作用として見分と相分に分析されてるって事です。
ここで似非覚者が勘違いして吹聴しているのは、「作用」を「本心」を見間違えて「観察」を進めている事なんです。
そんな事をしても、一生見当はずれの事をしているに過ぎません。
いいですか?
観ようとすれば、それは「作用」です。
則ち、見分と相分に分析された結果、乃至、証自証分です。
知らなくてならないのは「心の本体(自証分)」であって、その作用ではありません。
だから常々苦言を呈してきたのです、「見るものが見られるものである」って。
808 自分返信:糞凡夫.[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 00:26:32.61 ID:WkvGdMEP [3/4]
>>807(続き)
勿論、眼がその眼そのものを見る事は出来無い様に、心が心を知る事は出来ないでしょう。
では、知る事が出来ないものをどう知るか?
> 隔山見煙 烟早知是火(やまをへだててけむりをみて、はやくこれひなることをしり)
> 隔牆見角 便知是牛(かきをへだててつのを見て、すなわちこれうしなることをしる)
(碧巌録)
智慧という気付きではありませんか?
809 自分:糞凡夫.[sage] 投稿日:2018/08/05(日) 00:47:33.31 ID:WkvGdMEP [4/4]
ちなみに、正しい観察方法として
1.観待道理
2.作用道理
3.証成道理
4.法爾道理
という四道理というものがあるそうですけどね。