阿含宗という宗教294
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http://agama.zouri.jp/
議論スレ:「阿含宗と桐山氏について」(したらば)
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http://thebbs.fc2.com/ (阿含スレは”桐山氏と阿含宗について”)
テーマ別の阿含宗批判「agama galage」
http://agon.konjiki.jp/
過去ログ倉庫:「阿含宗という宗教」
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過去ログ倉庫:ザビビ「阿含宗と桐山氏について」
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阿含経の分析や研究に 「agama 研究室」(アーガマ 研究室)
http://agon.genin.jp/
退会について考えたり相談できるサイト 「agon secession club」 略称ASC
http://agama.jounin.jp/
※前スレ
阿含宗という宗教293
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1523189480/ >>76
「釈迦が桐山靖雄を出現させるために現れた>>3」などと釈尊を前座に仕立てたしたたかさ。
これは傲慢不遜身の程知らずの失礼千番で仏罰に匹敵する業罪でしょう。
合掌。 >>80
そうなのですよ。
桐山靖雄はエロ川さんが送りつけてきた大妄想の作文を
平河社員に見せてこれは凄いこと言ってるよ みたいな。
強引に高◯在住の天道一希(Y氏)とかの説をくっ付けて
「メシア出現」なる本を出した。
「釈迦は桐山靖雄を出現させるために現れた」まさに基地害です。
誇大妄想 もう病気のレベルです。
阿含宗みたいな邪教は衰退に衰退を重ね消えてゆくべきです。
オウムも阿含宗も邪教です。世の中に必要のない邪団体です。 ユビくんが四向四果について、曖昧なレスしかしなくなったのは、預流向を預流の階位に入れるのは間違いだと気づいたからではないのかね?でも、深山くんにそれを指摘するのは忍びない。深山自身で気づくまでは指摘出来ない。それが深山家来の道義なのだとか。考え過ぎ? 異常者(>>82)を回収する
天の声を待っているかと。 重ねてレスするが、深山くん提示の佛教語大辞典のどこにも阿羅漢向を阿羅漢の階位に入れるなんて書いてないし、釈迦も経のどこでもそんなこと言っていない。深山くんが勝手に、阿羅漢の名称で勘違いして、阿羅漢向を阿羅漢の階位に入れただけです。それは間違いです。 阿羅漢の階位に阿羅漢向を入れてはいけないのです。それを明確にするために阿羅漢を得た者を阿羅漢果として、阿羅漢向と区別しているのです。阿羅漢果は阿羅漢の階位であるが、阿羅漢向は阿羅漢の階位には入れないのです。 不還や阿羅漢向はぼ阿羅漢だ、阿羅漢に近いとかは理由にならない。釈迦が不還と阿羅漢と明確に階位を区別しているのだから、それに従わないといけない。阿羅漢向は煩悩が残っているのだから阿羅漢ではない。阿羅漢の階位には入る資格がないのです。 >>79
>稚拙ですよ、坊や。
インチキですよ、爺さん。 火滅品の不還(阿那含)の涅槃界がどうのこうのも、阿羅漢の階位と不還の階位になんの関係もない。阿羅漢の階位は、阿羅漢を得た阿羅漢果の階位であって、阿羅漢に未到達の阿羅漢向が入れる階位ではないのです。阿羅漢向の向とは阿羅漢ではないとの徴なのです。 分かりますか?阿羅漢向の向とは阿羅漢ではない徴であり、阿羅漢果の果とは阿羅漢である徴なのです。その区別のために向と果があるのです。それを無視して、阿羅漢向も阿羅漢果も阿羅漢の階位に入れる深山くんの考えは、釈迦が決めたことを理解出来ていないのです。 >>87
インチキの中のインチキ その中のインチキのトップ
それが桐山靖雄ちゃんです!
(信者の若いムチムチ内弟子愛人にしてました!)
阿含宗はインチキのホームラン王です!
(ちなみに館長はホームラン館長さんです)
そういえばオウム何とか教の教祖も内弟子愛人を侍らせて
金庫番とかに使ってましたね〜
何で似てるんだろうか?
(あっそうだ!阿含宗はオウムの母体系教団だったね!
納得!) 🔥霊視五人衆は
ただちに
氏名を
信者に公表せよ!!
誰が霊視したのか公表もできない解脱供養に一体10万も払えるか!💢
《信者一同》
https://i.imgur.com/cech3uf.jpg 今も5人全員が揃っているなんて誰が言った?
桐山氏は、自分はガンの因縁であると若い頃に言ってたが、
実際に起きたのは脳障害の因縁でしたね。
献身的にご奉仕をしていた会員がガンにかかったときに言った言葉を
全部、桐山氏、あなたに返してあげましょう。
因縁が切れなかったのは、あなたの周囲の因縁に引きずられたからですよ、桐山氏。
また、来世で、我々と同じように修行をしてください、 >>82
曖昧も何もレスしなくなったのは忙しいから。
次号でなく趣味の方で。
夏の高校野球選手権の各地の予選がたけなわで、甲子園以上に力を入れるから猛暑なんて言ってられない。
ちなみにネタなら展開したいものもあるが、そちらは利害不能なのはどうでもよいとして、時間ができてから。
しかしそちらはこの猛暑の折、危険な外出などは避けて、冷房の効いた部屋で書き込みなどしていればよい。
毎日書き込んで充実してるだろ?
道場に足を運んでボン行に励みなさいなんて言われても絶対に拒否して、こちらを選ぶだろ? 相手にされていると思っているんだな。 可哀想な奴w まぁ、深山ユビくんは四向四果の仕組みを何十年も誤解していたのだから、今更2〜3年理解するのが遅れたってどうということもないさ。こちらは同じことをレスするしか手はない。しかし仏教は不思議だね。理解するとすごく簡単な仕組みの四向四果が、なぜ理解されないのかと 三結断じたら預流だと釈迦は定めた。
そして、預流を得ようとの目標に向かっている者を預流向と定め、その目標を果たした者を預流果と名称を定めた。それなのに、三結断じる目標を未達成の預流向を、預流の階位に入れて何で平気なのか?不思議であるね。 預流を目指している者を、預流に向かっているが未到達の者を、その意味を込めた向を使用して預流向と名称を定めたのです。向の意味のパーリ語を私は知らないけどね。預流向とは預流に未到達という意味なのですよ。三結断じていないから預流に未到達なのです。 >>92さん(>>76です
>来世で、我々と同じように修行をしてください
桐山さんと違うのは、私たちは生きています。間違った行いがあればなおせるチャンスがあるということです。
教義云々色々問題はありますが、桐山さんが反面教師だという最大の理由が、生きているうちに自らの行いを正すことをしなかった、なおすべき心グセを助長させていた。
何に寄ってかというと、本来それらを気づかせなおすべき「釈尊の教義」を心グセで解釈し用いたからではないでしょうか。
例えば「護摩」。前スレ293で中村元先生の解説を投稿させていただきました。
そこでは釈尊の言われた護摩の姿が桐山さんそのものと感じました。
私見ですが、護摩そのものを否定していると解釈しておらず、桐山さんが当にドンピシャ釈尊の禁止した護摩だと。だから釈尊の教団では護摩や咒(毒蛇避けは別でしたか?)を禁止したと私自身は解釈しています。
何はともあれ私達は生きています。
間違った行いをなおすチャンスがあります。自身を理解でき気づけるのは自身のみです。
対機説法でしたが釈尊の言葉を指針として自身がどうであるのかを見つめチャンスを掴みましょう。私はそう思います 預流向を預流の階位に入れるなど、釈迦は決めていないし、仏教辞典にも書いてない。深山くんが勝手に決めただけです。四向四果の八つの名称を見て、内容を考えず、名称だけで単純に四つの階位に二つずつ入れただけです。一つの階位に二つ入るなんても、決まっていないのよ それにね、教団に階位が四つだけなら八つの名称を付ける必要もないでしょう。四つの名称だけで済むでしょう。凡夫の階位を含めて五つの階位があるから、八つの名称が必要だったわけですよ。 阿羅漢向は、ほぼ阿羅漢だから阿羅漢の階位に入れた、という理屈もおかしいね。通用しないね。ボクサーのミドル級の体重制限は75キロです。少し体重が75キロを超えるとライトヘビー級となる。体重が75キロを少し超える者が、ミドル級に入れてくれと、通用するかね? 脳障害を引きずってお亡くなりになったかたの骨を拝むなんてとんでもない。 >>1
宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
科学的自然説を用いるなら未来が無限というのは理解できるだろうが、過去の時間軸も無限ということになってしまう
時間軸が無限ということは、今存在している空間の前には無限数の高度な文明が存在したことになる
(神がいないのであれば)空間(宇宙とは別)にも(有か無かは別として)無限の過去があったと推定できるが、これも科学では説明しえない領域ではあるし
無限の過去があるなら(人類以前に)知的有機生命体ないしは機械が何らかの知的・技術的臨界点に達するための時間が無限にあったということであり、
それだけの時間があれば例えば宇宙を作ることさえも不可能ではないだろう
そう考えると自然として考えてきたものが機械的にエンジニアリングされた環境であったと考えることもできる
この疑問に対する宗教の答えを単純化すると3つに分けることができる
空間に無限の過去が無いという説においては永遠の全体を持つ神(時空間創造説)
存在と意識を小宇宙として限りなく細分化し死によって滅ばない主観と因果律(諸行無常、輪廻思想)
創造−存続−終末的破滅−創造を永遠に繰り返す(円環的時間)
始まりの存在を考えるのは科学の領域でもあるが、人類や(宗教も含む)文明の価値にも影響してくる >>106
>宗教というのは一点の疑問にいかに答えるかで全く姿勢や教義が変わる
「宗教というもの」の枠ではなく、日々の生活この世そのものがそうであると思いますよ?
だから注意深くあれということかと。
重箱を仕切ってわかりやすくしたものの、重箱お料理を捉えず仕切り板に囚われていたら美味しい御馳走も台無しですw
あとはスレ違いにて申し訳ありません。
呟きにレスでしたら更にスミマセンw あー…
>>106は>>1にアンカーですから
持論パラサイトでしたか?(笑)
>>107レスはスルーでお願いしますw 阿含宗を批判するなら、せめて四向四果の仕組みくらいは理解した者に批判してもらいたいと思うのよね。当たり前でしょう?釈迦仏教の基本だもの。四向四果の理解が間違っている者には改めて欲しいわけさ。 向の意味とは→「目標に向かって進んでいるが未到達を示す」→「修行の目標」←岩波仏教辞典の説明。果の意味とは→目標などを果たしたという意味だから →「到達した境地を示す」←「岩波仏教辞典」。これが四向四果の向と果の意味だよね。 向と果の意味に基づいて、聖者の四つの階位に、その条件を満たした者を入れていけばよいだけね。ボクサーは体重で階級が決まる。聖者の階位は煩悩を断じた度合で釈迦が決めた。その条件を無視したら話にならない。 >>109
阿含宗を批判するには以下の二点のみおさえておけばいい。
@開祖の桐山靖雄さんは「念力の護摩」というトリックを
間違いなくやったという事実を認識する。
Aエロ川さんという若い信者の内弟子愛人がいたという事実。 >>110
邪教徒がどうして仏果について駄弁してるの? >>111
邪教を信じてる煩悩は何でしょうか?
戒取かな。桐山さんお骨礼拝している段階で偽仏教徒ですね!
何故なら桐山さんはどさくさ仏教徒ようするに偽仏教徒だから。
それにボクサーとか入れちゃって 説法のつもり。
あなたの信者は幾らかおるのかい?
あっそう、信者はゼロなんだー
じゃあお導きは?
あっそう、ゼロ人なんだー
教団への寄付金・勤労奉仕は?
あっそう、ゼロなんだー
溶解ヨル公ってホントに馬鹿なんだねWWW >>112
1、そういう事があると君は困るのかな?
さて、ボクサーの体重でその階級が決まるように、四向四果のそれぞれについて、四つの聖者の階位のどれに属するか調べてみよう。煩悩を断じた度合で決まるのだから簡単だ。まず預流向だが、三結さえ断じていないのだから、四つの聖者の階位には、何処にも入れない。 預流果は三結を断じた者だから、その階位は預流の階位になるね。次に一来向の階位だが、一来向が断じている煩悩は三結だけですね。欲貪と瞋恚の二結は薄らいでもいない。二結が薄くなったら一来の階位に入るけどね。一来向は三結断じただけたから預流の階位になるのです。 一来果は、三結断じて欲貪と瞋恚の二結が薄らいだ者だから、その階位は一来です。次に不還向の属する階位だが、不還向の断じた煩悩は三結と、欲貪と瞋恚の二結は薄くなってはいるが断じてはいない。二結も断じたら不還の階位だが、断じてないから不還向の階位は一来です。 不還果は五下分結を断じた者だから、その階位は不還です。次に阿羅漢向の階位だが、阿羅漢向が断じた煩悩は五下分結だけで、五上分結は断じていないので、阿羅漢向の属する階位は不還です。阿羅漢向の名称で判断しては間違いなのです、 阿羅漢果は全ての煩悩を断じたわけですから、当然、階位は阿羅漢です。
これで四向四果の所属する階位は全て決まりました。断じた煩悩に着目すれば、簡単にわかることです。 つまり、四向四果の所属する階位は、
預流→預流果 一来向
一来→一来果 不還向
不還→不還果 阿羅漢向
阿羅漢→阿羅漢果
ということになるわけですね。 預流向は三結さえ断じていないので、聖者の四つの階位のどこにも入れないのです。三結断じたら預流と釈迦が定めたのですからそうなります。これに反する解説をする学者がいるとしたら、不勉強な学者ということですね。 波の無い、プールで犬かきも出来ない程度の【仏教徒らしき態度の素人考え、生煮え
宗教評論家が口から排出する、駄文のスレが此の辺ですね】嗚呼暑苦しいこと。
くるぶしよりも浅い磯なら溺れる者は居ない、安全駄菓子菓子
そういう人は永遠に泳げないのが道理、そんなんばっかりじゃな。 御仏:仏教と仏陀とは何か。
生と死を分つモノ、人間の進化
と次元飛躍、率直に人間関係?
問題提起なりようなら、即ち、
貪嗔痴よる三毒のに有り様か?
しかし、
欲貧とする心と躰が、欲愛とする
存在の好む、在在を嫌うコトが。
あるいに心の浮動及び疑する
ある相応あるべきかどうか。
霊というよな随眠、魂というよ
な十結、つまりは、無と空の間
に老死、愁、悲、苦、憂、悩
または、
空と無の隙間に既得感応して
選択、欲望、知識、感情を伴なう。
霊の障り並びに霊障、且つ、
人間性の豊かさ、体カと精神カ
、共有用創造性、構築的行動力
、潜在発見カより依りて生じて
信と呼ぶべき「信頼、清浄、
喜悦、満足、理解」が成れれば >>123さん
「くるぶしよりも浅い磯」に
浮木が着くこともあるかも
しれませんよねー(笑) 雑阿含経・向経で、釈迦は「修行しない者は外道凡夫だぞ」と弟子たちに言っている。つまり、修行しない者は外道凡夫であり、修行を始めたら預流向なのですね。釈迦の教団でも修行は凡夫がスタートなのです。 釈迦教団の修行過程をイメージするならば、
1、外道凡夫〜預流向〜2、預流果〜一来向〜3、一来果〜不還向〜4、不還果〜阿羅漢向〜5、阿羅漢果
ということになるね。聖者は2の預流果からであり、預流向は預流の階位には入れないのです 1、外道凡夫〜預流向〜2、預流果〜一来向〜3、一来果〜、というように修行が進んでいくのであり、預流向は三結を断じて預流果に到達するまで預流の階位には入れないのです。深山くんもマインドコントロールから醒めて、このことに気づくことですね。 高原の千草の影の風さやか
そぞろに君のしのばるるかも🍁
靖.
1993.9.12
https://i.imgur.com/lg8cU8d.jpg >>125 寄せる波 浅きにつくは ちりあくた
願もかなわず すぐる人の世 >>127神も仏も名無しさん2018/07/22(日) 07:58:06.30ID:/+KccKRt
>釈迦教団の修行過程をイメージするならば、
>1、外道凡夫〜預流向〜2、預流果〜一来向〜3、一来果〜不還向〜4、不還果〜阿羅漢向〜5、阿羅漢果
他の信者さんたちは良く見てください。
四向四果(四双八輩)が上記だというのです。
滅茶苦茶、支離滅裂、意味不明です。
四向四果だから四種類の分類なのに、五種類です。
1.5来補さんは4という数字が5に見えるらしい。
信者さんたちは「これは1.5来補教であって、阿含宗と関係ない」
と言いたいかもしれないが、違います。
桐山説はたしかに上記のような五段階は説いていないが、
桐山説を強引に四向四果にあてはめると上記のようなってしまうのです。
1.5来補さんは一生懸命に桐山説を擁護したつもりかもしれないが(実際は違う)、
結果が上記で、桐山説がいかにデタラメかをわざわざ示してくれた。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
四向四果の考えは釈尊その人の分類ではなく、
後のアビダルマ仏教徒が「適当」に分類し、命名したものです。
だから、学者の中には、四向四果の内、「向」は後に作られたものだと
いう説を唱える人もいます。
アビダルマによる分類整理は後世の人たちにわかりやすくなった一面、
分類が強引で、適当に番号を付けて並べるなど、誤解を招いたり、
教義に矛盾を生じるようなこともあります。
それを知らずにアビダルマを使うから、桐山さんや1.5来補さんのような
理解力の低い人たちがデタラメな解釈をしてしまう。
例えば、阿含経の分類整理は長さと番号でなされています。
教法の分類なら、内容や時間順序でするべきなのに、
長阿含経、中阿含経など長さで分類しています。
信者さんたちが読誦している三供養品も同様で、あれは3という数字で
分類した経典群の一つにすぎないから、あの三供養品には
供養のクの字も出てこない。
供養で分類したのではなく、3という数字で分類しただけで、読誦している経典は
供養とはまったく関係ありません。
題名に三供養品とあるから、供養の話であるかのように信者の多くは
錯覚させられた。
錯覚させられたことないと断言できる信者さんはいますか?
桐山さんの宗教詐欺師としての真骨頂です。 釈尊が説いた教法とは対機説法とよばれるように、相手や場面に応じて
説いたものであり、整理統合され、体系化されたものではありません。
ところが、これを体系化された教法であるかのように思い込んで、
シチカ三十七道品などという造語まで作り出した人がいる。
桐山さんは三十七道品を七科目の体系化された修行法だと思い込んだ。
仏教の三十七道品には「七科」なんて付いていない。
「七科」は桐山さんが勝手に作り出した言葉で、
本人は知ったかぶりで、わかりやすく示したつもりだろうが、
彼が三十七道品を理解していない何よりの証拠です。
なぜなら、三十七道品はアビダルマが、釈尊が一つの事を切り口を変えて、
繰り返し述べたものを、数字の小さいほうから並べただけにすぎない。
三十七種類でも、七種類でもなく、内容はたった一つです。
八正道です。
四念処から七覚支まで、これらは八正道の中にすっぽり入ってしまう。
ところが、桐山さんは中身を理解していないから、八正道を
七種類の教法の一つにすぎず、「初学の教え」としてしまった。
そして四神足こそが法だなどと書いた。
爆笑です。
なぜなら、四神足とは八正道なのです。
無知丸出しで、これで四神足を体得したなんて吠えても、お笑い四神足です。 なぜ、アビダルマは七科三十七道品と命名しなかったのでしょう。
三十七の中には重複しているものもあり、四念処から八正道まで七つあるのだから、
七科道とでもすればいいはずなのに、アビダルマはしなかった。
理由は簡単で、七種類の修行法などではないからです。
一つの八正道を七回、切り口を変えて言い変えているにすぎない。
それをアビダルマは知っていたから、七科道とはしなかったのです。
知っていた、と言っても特殊なことではなく、釈尊が説いた修行法とは
八正道であることは仏教の常識中の常識で、他人に仏教を説教する桐山さんが
知らない方がおかしいのです。
内容を理解できない桐山さんは、超能力の開発法にしか興味がないから、
四神足こそが法で、八正道など教えにすぎないと唾棄した。
これが桐山さんの仏陀の智慧の正体で、爆笑です。
鈴木さんは立派だが、一朗さんは馬鹿だと言ったようなもので、両者は同一人物です。
幸い、信者も無知だから、桐山さんは死ぬまで自分の間違いを知ることはなかった。
だから、未だに阿含宗ではシチカ三十七道品なんてオカルトを説いている。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
三十七道品と同様に、後世のアビダルマが適当に分類したのが四向四果です。
体系化され、整理統合されたように桐山さんはみなしているが、違います。
「向」は後世のアビダルマで作られたという説を唱える学者もいるくらいです。
初期からあったと言われるのが四沙門果(上記の四つ)で、
この場合は「預流=預流果」を意味します。
これをもって、預流には預流向は含まれないという主張は無意味です。
なぜなら、四沙門果だけが唱えられていた初期には預流向なんて言葉がなかったからです。
四沙門果と四向四果では分類が違うのだから、言葉が似ていても、
両者を混ぜてはいけないというそれだけです。
四つの分類と八つの分類は同じ内容なはずなのに、
両者を混ぜて使うことはありません。
嘘だと思ったら、学者の解説書でも辞典でも見てください。
阿含経の中ではアビダルマのように厳密な分類はしていないからです。
預流を預流果の意味で使うこともあれば(四沙門果、上記の四つの分類)、
預流向を含めることもある(四双八輩、上記の八つ分類)。
だが両者を混ぜて使うのはダメです。
ところが、桐山さんも1.5来補さんも両者を混ぜて、
「預流=預流果」という意味で使っている。
それを使うなら、四沙門果の話なのだから、預流のみで論じるべきで、
預流向という四向四果の分類を持ちだしてはならないのに、
理解していないから、グチャグチャに混ぜた。 「ちなみに、この須陀オンをめざして修行している人を須陀オン向といいます。須
陀オンに向かっているから須陀オン向です。」
(『仏陀の真実の教えを説く阿含経講義 中』197頁)
桐山さんは須陀オンと須陀オン向を同列に取り扱っている。
四沙門果と四向四果の区別がつかないのです。
正確に書くなら、
「ちなみに、この須陀オン果をめざして修行している人を須陀オン向といいます。須
陀オン果に向かっているから須陀オン向です。」
と書くべきです。
ところが、桐山さんは四沙門果と四向四果の区別がつかないから、
分類や中身の違う両者を混ぜている。
つまり、
1.四つと八つの分類の仕方の違いを理解しておらず、
2.「預流向=聖者」だと商売に差し障るから、
という理由で、桐山さんは四つと八つの分類を混ぜていた。
だが、こんなことをすればどうなるかは、>>30-32などに示したとおりです。
桐山説のように四向四果を用いて「預流=預流果」としたら、
「預流=預流果=一来向」になってしまい、
ついには比丘とは、預流向と阿羅漢果しか存在しないことになってしまう。
四つと八つの分類を混ぜて同列に取り扱ってはいけないのです。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
信者さんたちは桐山さんや1.5来補さんの真似をせずに、上記の分類を混ぜないことです。
これを見るなら、四向四果は聖者なのだから「預流向=聖者」です。
もちろん、1.5来補さんは絶対に認めず、この後も、暇に任せて
一日中、自己満足の自説を書き続けるでしょう。
だが、信者さんたちに彼の文章での証拠、根拠を見てほしい。
彼は自分の解釈を述べるだけで、根拠となる阿含経も、学者の説も出したことがない。
7年ほど前に追及されて「預流向≠聖者」の証拠として経典を一度だけ出したことがある。
それが前スレの863で私が引用した阿含経です。
もちろん、そこには「預流向≠聖者」などとは一言もなく、彼の勝手な
解釈を加えて自己満足に耽っていただけです。
しかも、彼が「預流向≠聖者」の証拠として出した経典を、
私から逆手にとられ、「預流向=聖者」の証拠に使われた。
阿含経では「預流向=聖者」なのだから、彼に証拠など出せるはずがない。
出せないから、一日中、同じ自説を書きまくって、誤魔化して、逃げている。
彼の姿はまるで猛暑の道端に残された生ゴミみたいです。 深山くんは自分の意見を勝手に表明するのは勝手だが、それを釈迦の教えだというのはやめたまえ。アビダルマが四向四果を勝手に展開させたのは私も前から指摘していることだ。預流向を聖者としたのもアビダルマからであると、私は何度も指摘している。 四向四果が聖者の四つの位だというのは、確かに四果は聖者の四つの位だが、四向は聖者の四つの位ではないのだよ。預流向を聖者としたのはアビダルマからだと何度もいう。それでもアビダルマでさえ、阿羅漢向を阿羅漢果だとはしていない。そんな馬鹿いうのは深山くんだけだよ。 深山くんの間違いは、阿羅漢向は「ほぼ阿羅漢」だからと、勝手に阿羅漢の階位に含めたことです。マラソン大会で、ゴールに近いからといって、勝手にゴールイン前にゴールさせてよいのかね?許されないよ。阿羅漢向は阿羅漢果でないから阿羅漢向なのだよ。 いかに阿羅漢果に近づいたからといっても、阿羅漢向は阿羅漢果ではない。阿羅漢の階位には入れないのです。深山くんみたいな解釈をされたら中村元先生も笑う。佛教大辞典だけでなく岩波仏教辞典も参照しなさい。向と果の違いを知ること。それも中村元先生責任編集だから。 預流向についても同じこと。いかに預流果に近づいても預流向は預流果ではない。三結を断じるまでは預流果ではないのです。それを知らずに勝手に深山くんは、三結を断じてない預流向を阿流としている。釈迦の決めたことを勝手に破っているのは深山くんなのです。 何度も繰り返すが、釈迦仏教の四向四果とアビダルマの四向四果は違うのです。そして私がレスしている四向四果は釈迦仏教の四向四果です。佛教大辞典の深山くん解釈は、アビダルマの四向四果ならよいが、釈迦仏教の四向四果なら間違いだということです。 >>132さん
その通りですね…
寄せる波にその浮木が着くことを期待するなど無に等しく、大海に泳ぎ出てその浮木を見つけようと試みるのも難しく。たとえその浮木に泳ぎ近づいても自ら立てる波で遠退く。
されど、鳥の羽ばたきと眼をもって大海を渡り続ければ、果てしなきいつかはその浮木を見つけ留まることができるかもしれませんね。
ありがとうございました。
※その浮木
=盲亀浮木の譬喩(>>76 >>140>>141>>142
>>143>>144>>145
桐山さんみたいに
中村元先生の名前汚すの
やめていただけませんか?
前に中村元先生の手帳の記載の件をコメントさせていただいてます。
貴方の自己解釈酷すぎですよ?
桐山さんと同等我流甚だしいです。
毎日書込み諭そうとするならば、正式な山門叩いて一からやり直してください。
ちりあくたなコメント迷惑です!
磯にいる私が塗れて不快ですw
(って言っても垂れ流すのでしょうけどwww >>143
>深山くんみたいな解釈をされたら中村元先生も笑う
こんなバカなコメント!
辞めてください!
貴方のコメントにでも中村先生は笑わず解説してくれるでしょう。そういうお人柄ですよ?
※エピソード≫Wikiより
中村が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』が完成間近になったとき、ある出版社が原稿を紛失してしまった。中村は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直し、8年かけて完結させ… 何度も言うが、私は釈迦仏教の四向四果の仕組みをレスしているのだよ。そして預流の定義を釈迦の言葉を根拠として提示している。「三結断 得預流」がそれだ。阿含経のあちこちに出ている。深山くんも釈迦の言葉を提示して預流向が聖者=預流、であることを示してくれ。 釈迦仏教で最初の段階の聖者が預流向であると言い張るなら、その根拠の釈迦の言葉を提示してくれ。深山くんの言葉など百万言聞いても意味ない。私のように釈迦の言葉を提示したまえ。預流向が聖者=預流、だと説いている個所が、ただの一つでも阿含経にあるのかね? 四向四果について、仏教辞典だけ根拠にされても正確にはわからない。部派仏教からは預流向を煩悩をいくつか断じた聖者としているからね。仏教辞典には部派仏教をどこまで含めているか明確ではない。釈迦の言葉が決定的なのだ。私のように、釈迦の言葉を提示してくれ。 >>149>>150>>150
>私のように、釈迦の言葉を提示
していないでしょ?
脳内解釈剥き出し。
失礼ながら何かに憑依されていらっしゃる物言いコメント。
レス?何処に?過去の皆さんのコメントを読み直して出直しなさーい! 蛇足だが付言すると、私は深山くんが提示した仏教辞典を見ても、預流向を預流の階位には含めない。預流向は三結を断じていないことを知っているからだ。仏教辞典にも四つの階位にどのように八輩が入るかは記していない。深山くんが勝手に単純にその名称で入れたものだ。 四向四果・・・聖者の四つの位、と説明するのは当たり前だ。正確には四果だけが四つの位なのだが、四向四果に四つの位が含まれているのは間違いないからね。向とは位と位の中間に位置する者だから、正確には位ではないのだね。凡夫と預流の中間に位置するのが預流向だね。 笑いをこらえてレスするしかないが、深山くんの四向四果説は、三結断たなくても預流であり、五下分結断たなくても不還であり、煩悩が残っていても阿羅漢である、という説なのだよ!分かっているの? 預流向とは三結断っていないから預流向なのであり、不還向は五下分結断っていないから不還向なのであり、阿羅漢向は五上分結断っていないから阿羅漢向なのですよ。それ、分かって深山くんはレスしているのかね?思いきり釈迦説ぶっ壊しているね、笑うしかないよ。 深山くんの説だとさ、阿羅漢と不還は同じになってしまうね。不還は五上分結が残っている。阿羅漢向も五上分結が残っている。その阿羅漢向が阿羅漢の階位に入るならば、不還だって阿羅漢の階位に入るだろうよ。 不還と阿羅漢向の違いを深山くんは説明出来るかね?釈迦仏教では不還と阿羅漢向は呼び名だけが違うのだよ。不還が五上分結を断とうと修行しているのを阿羅漢向と呼んでいるだけなのよ。阿羅漢向が阿羅漢ならば、不還も阿羅漢だ >>157>>158
>思いきり釈迦説ぶっ壊しているね
釈迦説…?
「自称:釈迦の言葉提示」(>>152参照)が
「脳内:釈迦説」に変わっていますよ?
貴方の脳内釈迦説が壊された
としか読めないのですが…。
自分でご自分を笑っていらっしゃるのですね?
あとは時間の無駄なので離脱します。
過去の皆さんの投稿を
良く読んでくださいね。 開祖霊諭なんか出してる阿含宗は仏教ではありませんね。
溶解ヨル公は開祖霊諭が阿含経のどこに記されているのか
答えてみろよ。おまえ光秘密お曼荼羅買うたんだろうなw
こんなもの信じてる分際でよお クズ爺さんwww
↓ ↓ ↓ ↓ ↓
開祖霊諭』 (最高霊怪在住の桐山ちゃんより)
「昨年、私は、肉体をはなれ、完全に霊魂となってニルヴァーナに
入り、最高最上の霊界である仏界に至った。そして、今年の星まつ
り大柴燈護摩供において、多くの方々から盛大な供養を受け、釈尊
に続く「第二の仏陀」として復活することができたわけである。」
(開祖霊愉、2017年12月)
「来春には、まず以前に法施として授けた「ブータン堂本尊最勝曼
茶羅」を中心とした完全仏教秘法の瞑想法を伝授するつもりである。
そして、諸君が、この瞑想法で修錬を積んでから、今度お授けす
る『霊光秘密曼荼羅』を使った奥義の瞑想法の伝授を行おうと考え
ているので、まずは、しっかりと瞑想法の基本を身に着けておいて
ほしいのである。」(開祖霊愉、2017年12月) >>140-146、〜>>159
他の信者さんたちは見てごらんなさい。
1.5来補さんはクドクドと同じ事を午後もたくさん書いているのに、
「預流向≠聖者」の根拠となる経典や学者の説明を何一つ引用できない。
こちらが書いてもいないことを書いたかのような言いがかりや、
あれこれと詭弁を並べて勝利したかのように錯覚して、独りで浮かれる。
何を議論しているのかすっかり忘れているようだが、1.5来補さんが
示す義務があるのは「預流向≠聖者」の証拠です。
7年前も、その証拠を出すようにアゴンさんから迫られて、
1.5来補さんが出したのが平河版の阿含経だった。
だが、私に逆手に取られた。
大ドジを踏んで笑い者になったことを1.5来補さんはすっかり忘れていたのに
私に思い出させられて、怒り狂って>>140-145を書き連ねた。
しかし、相変わらず、何の証拠も示せない。
吠えるだけ。
岩波仏教辞典にあるとあなたは書いたが、恒例の嘘ハッタリです。
毎度のことで、証拠を示せないから、グチャグチャとタワゴトを並べて、
さも自分が勝利しているかのような高笑いをして、話をそらしてごまかす。
あなたは日常でも周囲の人にそれをしているでしょう。
だから、嫌われるのです。 これで理解してくれ。
四受験四学生・・・学生の四つの位。
階位、小学生・中学生・高校生・大学生
内容、小学受験生:小学生、中学受験生:中学生、高校受験生:高校生、大学受験生:大学生
小学受験生は幼児だから小学生には入らない。 >>156神も仏も名無しさん2018/07/22(日) 18:35:14.05ID:1Xf4zWHy
>笑いをこらえてレスするしかないが、深山くんの四向四果説は、三結断たなくても預流であり、五下分結断たなくても不還であり、煩悩が残っていても阿羅漢である、という説なのだよ!分かっているの?
一人ですっかり盛り上がっているようだが、私がいつそんなことを書きましたか?
1.5来補さんの悪質な点は、理解力が低いだけでなく、あなたが反論しやすいように、
こちらが書いてもいないことを勝手に作り上げて、反論したかのように見せかけて、
上記のように小馬鹿にしながら、勝利宣言をすることです。
これまでも何度もそれをして、私やユビキタスさんから反撃された。
あなたは日常でも周囲の人にそれをしているでしょう。
だから、嫌われるのです。
笑うというなら、あなたの四向四果こそお笑いです。
「預流=預流果=一来向」だそうだ。
1.5来補説「預流向、一来向、不還向、阿羅漢向、阿羅漢果」
これでは四向四果ではなく四向一果、四双八輩ではなく五輩です。
自滅、自爆しても気が付かないのだから、
「笑いをこらえてレスするしかない」のはあなたのことです。
私はあなたと違い、経典にあるがまま、学者の説明のままの、以下の
四つの四沙門果と八つの四向四果、つまり四つの聖者の階位を受け入れている。
そして、1.5来補さんや桐山さんと違い、私は両者を一緒にはしない。
だから、あなたと違い、深山説などありません。
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」 前レス続き。中学受験生はまだ小学生だから中学生の階位には入れない。高校受験生とは高校生にまだ未到達だから中学生の階位である。大学受験生はまだ大学生に未到達だから高校生の階位である。向とは受験生に等しいのである。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
前スレから、1.5来補さんの書き込みで気になっていることがある。
四沙門果(四つ)をそのまま四向四果(八つ)にあてはめて。混ぜれば、
「預流=預流向+預流果」・・・「阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果」
になってしまうことはあまりに明瞭です。
これを私の主張だと思っているのではありませんか?
違います。
これは桐山説と1.5来補説のモノマネです。
桐山さんや1.5来補さんの真似をして四つと八つの分類を混ぜれば、
「預流=預流向+預流果」・・・「阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果」
となると示したのです。
また、そのようにすれば、桐山さんが出した火滅経の
解釈もスムーズに行くとわざわざ味方してあげた。
だが、両者を混ぜることは私の主張ではない。
むしろ私は両者を混ぜてはならないと繰り返し主張しています。
なぜなら、混ぜると矛盾することを知っているからです。 小学受験生:小学生 中学受験生:中学生
高校受験生:高校生 大学受験生:大学生
この四受験四学生で、大学生の階位に入れるのは大学生だけです。小学受験生とは幼児だから、四学生の階位のどこにも入れない。
向とは受験生と同じような意味です。 「預流=預流向+預流果」・・・「阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果」
の分類は桐山説や1.5来補説と同じように、二つの分類を混ぜたものです。
私は桐山説のように二つの分類を混ぜると矛盾すると指摘しているのです。
ところが、1.5来補さんは、まるで私の主張のように解釈している。
違います。
1.5来補さんへのからかいの気持ちがないとは言わないから、
表現がわかりにくかったかもしれないが、私は何度も何度も、前スレから
下記のように、四つと八つを混ぜるなと述べている。
>677深山 ◆lDoupiXSYZNC 2018/07/10(火) 21:24:07.14ID:MBywPkjt
>信者さんたちにまず気を付けてほしいのは、
>「預流・一来・不還・阿羅漢」
>「預流向・預流果・一来向・一来果・不還向・不還果・阿羅漢向・阿羅漢果」
>この二つの分類を混ぜないことです。
これ以降も、書くたびに混ぜないようと主張している。
混ぜると矛盾することを知っているからです。
その私がどうして両者を混ぜて、
「預流=預流向+預流果」・・・「阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果」
と主張するはずがあるのだ?
1.5来補さんの知性では理解できないのだろうが、ありえません。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
1.5来補さんの理解力では難しいだろうが、私は議論とは前提と
なっていることはわざわざ本文では繰り返さない。
この場合の私の前提とは上記に引用した辞典の文言と、四つと八つの分類です。
一つに、辞典での文言で、四向四果は聖者とあるから、「預流向=聖者」は
あまりに明瞭です。
子供でもわかるほどに明瞭に大学者が辞典に書いているのだから、
これはもはや議論の余地がない。
1.5来補さん以外の普通の知性のある人なら「預流向=聖者」と理解します。
あなたが、>>163,166,168などで、私の学校の例えを逆手に取ったつもりで、
意味不明の例えをしても無駄で、大学者の説と1.5来補説では勝負になりません。
このように預流向が聖者であることは、明瞭で十年以上も前に決着がついている。
1.5来補さんがどうしてもこの大学者の説を覆したいというなら、
あなたの根拠のない自説を例えるのではなく、
阿含経から「預流向=凡夫」と釈尊が述べている文言を引用することです。
それ以外のあなたの例えなど誰も聞いていないし、私も読んでいない。 向とは受験生と同じような意味です。預流受験生は合格すると預流果となるのです。預流受験生とは預流向のことです。受験生(向)を合格者(果)に含めるからおかしくなるのです。名前だけで判断するから間違ってしまう。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
次に四つ(四沙門果)と八つ(四向四果)の分類だが、
私は両者を別にしろ、混ぜるなと繰り返し述べている。
なぜなら、桐山さんも1.5来補さんも、預流向を聖者から外すために混ぜているからです。
混ぜるというよりも、二人とも区別がつかないのでしょう。
混ぜるとどうなるかというと、私が示した見本が典型で、
「預流=預流向+預流果」・・・「阿羅漢=阿羅漢向+阿羅漢果」
となり、内容がおかしい。
すると、1.5来補さんは自己矛盾を指摘されていることが理解できず、
むしろ、私の矛盾を見出したかのように、阿羅漢向は阿羅漢なはずはないという。
そのとおりで、二つを混ぜるとこんなふうに矛盾するのです。
桐山説と1.5来補説の「預流=預流果」は四つと八つの分類を混ぜているのです。
だから、矛盾が生じて、「預流=預流果=一来向」になり、
四双八輩が五輩になってしまった。
1.5来補さんは幸い自分の自滅に気が付くほどの知性がない。 向と果を同じ階位に入れるから笑うようなはめになる。向は未到達を示し、果は到達を示しているのだ。それを同じ階位に入れるのは向と果の意味を知らないからである。預流向とは預流ではないという意味なのだ。預流果とは預流だという意味なのだだ。 「四向四果・・・聖者の四つの位」(『佛教語大辞典』中村元、512頁)
四つ「預流、一来、不還、阿羅漢」
八つ「預流向・預流果、一来向・一来果、不還向・不還果、阿羅漢向・阿羅漢果」
預流は四沙門果の四つの分類、預流果は四向四果の八つの分類で、
混ぜてはいけないのです。
しかも、その流れは明瞭で、それぞれを上記の四つと八つに示したとおりです。
言うまでもなく、この四つと八つの流れは私の説ではなく、
広く受け入れられ、異論もなく、しかも、わかりやすい内容です。
だから、1.5来補さんみたいな意味不明の並べ替えや例えはいらない。
誰も1.5来補さんの説にも、>>171の例えにも興味がない。
1.5来補さんは現役時代も「お前の考えなんか誰も聞いていない。
ひっこんでいろ!」と怒鳴りつけられたことがありましたね。
1.5来補さんの素晴らしい知性を愚かな連中に示してあげようとしたのに、
残念でした。
でも、この発言こそが、あなたの職場で全員が思っていた本音です。
また、気が付いていないようだから教えてあげるが、現実生活で
今もあなたと関わるしかない人たちの全員がそう思っています。
自分がどれほど嫌われているかを知らないのは、ある意味、とても幸せなことです。 岩波仏教辞典の「向は修行の目標、果は到達した境地」とは、向と果は境地の違う階位だということです。向は目標を示すのだから、果より一段階下の階位なのです。向は一段階上の階位を目標にしているのです。預流向とは一段階上の階位の預流果を目標にしているのです。 これで向と果を同じ階位に入れた深山くんの無知が分かるだろう。預流向と預流果は階位が違うのです。一来向と一来果は階 一来向と一来果は階位が違うのです。不還向と不還果は階位が違う。多い階位に入れた深山くんは向と果の違いに無知だからです。向は果より一段階下の階位です。だから目標になるのです。一来向は一来果が目標です。階位が下だから目標になるのです。 いかに批判派が阿含経に無知だとて、皆が深山くんほどに無知なのかね?無知といっても知識がないという意味ではない。ガラクタの知識は沢山集めているが、その解釈は間違っているし、笑うしかないということです。 批判派だとて、皆が深山くんほどに馬鹿ではないだろう?これまでのレスで深山くんの間違いに気づいた批判派はいないのかね?向と果は階位が違うのに、単純に名前だけで同じ階位に入れた深山くんだ、ど素人だろ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています