1万円札の肖像といえば福沢諭吉である。聖徳太子
のほうが良かったという人も少なくないが。

 福沢諭吉は自分を頼むことができない者が他を頼む、
神さんも仏さんもイエスもひっくるめて往古片輪の時代に
適した教えだと断言、「馬鹿と片輪に『宗教』は丁度いい取り合わせ」
と言い、この世に馬鹿と片輪が多い以上は彼らを手懐ける
ために宗教が有用だと考え、多くの宗教論とその功徳を説いた。
馬鹿と片輪とは、単純に無教養の者と障害者という意味かも
しれないが、合理的思考を嫌う者と精神的奴隷という意味にも
とれそうだ。
 彼は晩年の日記に、若い時神社のお札を踏んだり、
稲荷の祠の御神体を路傍の石に換えたりしてバチが
当たらなかったことを誇らしげに書き残している。
彼は人間の宗教心じたいは否定していないが、彼自身
は八百万の神など少しも信仰の対象と思っていないだろう
(しかし、そんな諭吉も「お前の母親の写真を踏み
つけられるか」と問われたら間違いなく躊躇うはずだ)。
 「束縛化翁是開明」(造化の神(自然)を縛り上げ、
是を人間の生活の幸せの為に使いこなすこと、是が文明
開化というものだ)という言葉を残しているように、
神を人間の進歩の前に立ちはだかる存在と捉えている。