認識されるもの(客体、心や身体やそこに生じるもの)は自分ではない
自分とはいつでも常に認識する者(観る者)だから
認識する者(ただの認識主体としての自分)はただ認識を続けているだけでそれは減ることも増すことも変化することもない
それゆえ苦も悩みもない
認識されるものである心や身体という変化するものを自分だと錯覚しているのでその変化に苦や悩みを生じさせているだけ
しかしその苦や悩みも心や身体に生じてる認識されるものであり、認識している(観ている)わたしとは全く関係ない
それがわかるためにただ観ていく
それが観瞑想