マインドフルネス Part13
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
頭の中で想像を連鎖させないで、マインドフルネス(ヴィパッサナー)の基本、常にいまあることにだけ気づいていくをやってればいいだけなんだけどなあ 仏法とか、聖書解釈とかってやっぱり奥の深いものだから
瞑想進めていくと、あっそうか!となるんだけど、まだその先があるもんなんだよな
こういうのはさ、わからないならわからないままにしておけるかどうかが肝心
表面的な浅い理解で、わかったことにしてしまうことは何より自分にとって有害じゃない?
わからなくたって良いじゃない、凡夫だもの マインドフルネスが宗教色をできるだけ消したことは大英断だったんだなぁと確信を持てるスレ進行なので、このスレの存在をステキだしアイシテルわ
時代や社会の要請に従ってreviseする柔軟性があったから仏教は今も残っているので、禅が今後も生き残るためにはマインドフルネスからの逆輸入的なreviseが必要なんじゃないのかな 宗教的知識が逆に捉われになってる人ってのはたしかにいるよなあ
そのためにちゃんと師に逐一報告して指導を受けろって言われるわけなんだろうけど 目的によるんです 仏教にも出家と在家があるように立場によって適切な心構え 実践があります 瞑想の実践もそうです 解脱なのかただ一つの辛いエピソードの解決なのか 健康体操的なものなのか
上座部でいう預流果でさえも実生活でhs 実生活で困ったことが出てきます 困っても不安や悩みにはならないんですけどね
普通の人は預流果までで充分 そこまでは観察に次ぐ観察!でok
! ストレス解消、健康目的、気づいているだけでいい、観察すればOK・・・
ぬるいなーマインドフルネス
昔のバッチバチの禅僧とかからしたら、噴飯ものだわ 衆生無辺誓願度
煩悩無量誓願断
法門無尽誓願智
仏道無上誓願成 >>860
悟りきった道元禅師の安楽の法門は、一般人からしたら苦行レベル
新幹線の徐行運転にチャリンコで追いつこうとするレベル 気づいているだけで「いい」、観察すれば「OK」・・・
ってとこに分かってない感が表れてていいね 自分の中に何らかの基準をもうけて、現実に対して良し悪しの判断をするってのが普段の思考だからね
判断をしないってのは、なかなか理解できないんでしょ
まあ人それぞれ
心の中に基準を描いてよしこれはOKとか言ってるタイプの修行が合ってる人はそれでいいんじゃないかな… ライトユーザーとヘビーユーザーは違うからね
ライトがヘビーを、ヘビーがライトを批判してもしょうがない 昔のバッチバチの禅僧様がいらっしゃってるんだ…
今日も朝から テンプレに書いておいた方がいいね
悟り志向の方はご遠慮下さいと
話が合わない、はっきり言って 5ちゃんのバッチバチの禅僧様は自分の妄想を真実だと言い張るからめちゃめちゃ安楽そう 考え方や信念は人それぞれだから合わなくてもいいんだけどね。
その考え方で、他人の考えや信念を評価して来なければ、
「私はこう思って自分を律しているんですよ」「へー源流は同じなのに違いがあるもんですねー」くらいで、特に問題ないのに。
自分の価値基準で他人を評価したくてたまらない。そういう人もいるってことで。 比較や想像を加えずあるものをただあるままに観るが仏教でもマインドフルネスでも基本なんだけど
そんなシンプルなことが一番難しいってことを証明してるスレ進行だな 認識を示しただけで、評価は示していないつもりだけど
俺間違ってたかな?
認識しても示さないと、時には相手が気づいてない場合もあるから
オラオラが始まるでしょう
そうなってしまうと認識の齟齬を埋めるのが難しくなるよ なんというか、まず悟りが必須派もそうじゃない派も、他者否定をやめること
悟りを目指すものも、自分自身がバチバチの禅僧でも道元でもないんだから。
悟りを目指していないからと言って自我が厚いとは限らないし、逆もまたしかり
クリスチャンやイスラムの人でも尊敬すべき人はいるし、悟りを目指していても
自我がガチガチの人もいる
人それぞれの因と縁があるんだからそれを良いものとしなければね 他人の目的ややりかたは
自分の目的ややり方と同じように
価値があるとして接するのが好きだな
話す相手が何が目的で
何を大切にしているかわかったなら
自分が大切にしていることと
同等な態度で接したらいいと
思うけどなあ 怒りで他者否定したくなったときは、慈悲の瞑想か、チベット仏教の入菩提行論を
読むのがいいかも
「ダライラマ 怒りを癒す」が入菩提行論のよい入門書
悟りを目指していても他者を愚弄するような態度はいけない
悟りを目指していなくても自利利他を指針にすればそれは功徳を生むでしょう
悟りを目指すのも結構だが、その前に不善心を起こさず心を善心所においているか
それに留意もせず「お前らは悟りを目指してないからだめ」というのは不善心でしょう おほけなくうき世の民におほうかな
わが立つ杣に墨染の袖
ガチ僧侶が衆生の我々、凡夫の我々がぬるいと言って噴飯するものでしょうか? タイでもミャンマーでも日本でもあくまで解脱は出家者に任せて、在家は悟りを今生の目標にしなくても
とがめられることはない
過去生で波羅蜜を積んでいれば在家でも悟れることはあるだろうが、在家の務めは徳を積むこと。
マインドフルネスも十分徳をつむので僧も在家に推奨している。
私も参禅会に行くが、特に僧に噴飯されてしまうことはないですね。
昔のバチバチの僧がなんというかは知らないですが、誰もあったことがないんですから妄想しても仕方ないでしょう >>881
人類がみんな解脱してしまうと、きっと人類は絶滅すると想うんだよね
在家と出家の区別はとても大事だ
持ちつ持たれつで
在家に解脱を強いるのは、今風にいえばパワハラだよね〜w 「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり
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ただいま予約受付中です。 ●本来のお釈迦さまの教えと、テーラワーダ仏教徒たちの「いつか解脱に達するぞ」という考え方は、一致しません。
●「執着を捨てたくないが、ブッダの教えはありがたい。実践したい」と言っても矛盾があります。ブッダの説かれた「生きることは苦である」という真理を否定しているのです。その真理を否定すると、「解脱は最高の幸福である」という真理も否定しているのです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa165.html 現代日本語で言い換えてみます。やると決めたことはやりなさい。断固としてその道を進みなさい。
諦めず、不撓不屈の精神で、結果を得るまで進みなさい。ということになります。何か原理主義者の言葉のように聞こえるかも知れません。
しかしこれは原理主義にはならないのです。なぜならば仏道では、いま・ここで解脱という結果を得ようと努力するからです。
http://www.j-theravada.net/howa/howa187.html >>883
マインドフルネスと禅は対立するものではなくて
禅があるところにマインドフルネスがあり
マインドフルネスがあるところに禅がある このスレに出てくる禅の人は強烈な自我の持ち主だったり妄想にとらわれていたり執着心のかたまりだったりする >>888
あなたの妄想だよ
それさえ分からなくなっている自己愛性パーソナル障害 >>889
マインドフルネスをやってると
こんな風になっちゃうんだね
下品で理性の欠片もない
すぐに人を障害者扱い ある人の脳と心の表現にある人の脳と心が反応している 筋トレも瞑想も効果を高めるにはストレッチをすると良い。
このスレを見ると「自分は真面目に頑張っている部類なんだな」と思える。下を見て安心してちゃ駄目だけど……もっともっと上を目指したいけど頑張る事が正しいとも限らない訳で……けどそれは結果を出してこそ言える事で……。
とりあえず今週の土曜日、明後日ですね……ステーキ食べてくるんです。ヒレ肉。凄い美味しいんですよね。
最近はスクワットもやってます。オウムだと1分に3回のペースで6時間ぶっ続けでスクワットするらしいです。オウムのスレで知りました。 しかし、「心と宗教」の話題度をたまに見てれば、必ず暴れとるな。
同一の前のめり自我主張自己愛性パーソナル障害が。 「このスレに出てくる禅の人」も「
マインドフルネスをやってると」も心に描いてるものの典型だからもうお腹いっぱいです勘弁してや >>897
ただのネガティヴ無限ループ妄想モンスターのはけ口ですよ 世の中の、禅をやっている多くの人のことではなく
マインドフルネスというタイトルのこのスレにわざわざ出てくる禅の人の傾向性というのはありますな >>899
禅にもマインドフルネスにも失敗してした成れの果てですよ
それでバームクーヘン、じゃなかったアウフヘーベン(弁証法的止揚)を自分だけ成し遂げたことにして、自己愛性を満たそうと このスレ見て思ったことは
マインドフルネスは自己愛が強くなる
禅は虚無が強くなる
マインドフルネスも禅も関わった年月が長ければ長いほどどちらも自我が強くなる
困ったことにこのことへの自覚が無くなるのが恐ろしい
なれの果てを見るようだ >>901
まあおおよそ共通するのは、結果的に己れや人類を巻き込んで、心を嫌い、否定することにひたすら邁進するのですよ。心が可哀想じゃないですかね。そりゃ反逆したくなりますよ。心も。
>>888 みたいな成れの果ては、何故こうなってしまったのか、マインドフルネスに観て洞察してやって下さい。
呆れ果てるでしょうが、教訓の足しにはなるかもしれません。 14歳に、X軸の2項対立は分かっても、Y軸が出た途端、数学が理解できなくなって落ちこぼれ出した時からだそうですけど。 *「死後のことはどうでもよい。落ち着いて幸福を感じて生きていきたい。それが人生の目的だ」と考える人々は、
それに相応しいプログラムを考える。そのプログラムを冥想だとするならば、「良い気持ちに達する実践」になるのです。
ですから、「冥想なら何でも宜しい。どんな冥想も同じ目的を目指しているのだ」というのは、正しくない考えです。
*ブッダのヴィパッサナー冥想以外、こころの煩悩を完全に無くす方法は無いのです。このポイントを明確に言わなくてはなりません。
こころの汚れが機能しない睡眠状態と、こころの汚れが残りなく消えた状態は、決して同じではないのです。
*せっかく修行の道に入って、こころの一時的な安らぎに達しても、解脱を目指さないひとは、また矛盾の道に迷いこんでしまうケースもあるのだ
http://www.j-theravada.net/howa/howa208.html 900も超えたことだし、ここで次回のテンプレづくりにとりかかりませんか?
悪口、両舌に巻き込まれないように
衝動的、感情的にならずに意見交換するのもマインドフルな修行の一環だと思います
それも人間だからたまには仕方がないとしても、スルーするのも修行かと
自分も全然出来てませんが、感情に巻き込まれた言葉はなにより自分のためにも周りのためにもならない
ちょっとづつ思いついたことを皆さんも書いて欲しいです
道元様の言葉を紹介したい。自分としてはこれを指針に日常を送りたい。
およそマインドフルに徹せられれば、このような心がけも自然に身につくかと思います。
「正法眼蔵」「四攝法」
「愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。
おほよそ暴悪の言語なきなり。
世俗には安否をとふ禮儀あり、佛道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。
慈念せし衆生を、猶ほ如もし赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。
徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。
愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。
しかあればひごろしられず、みえざる愛語も現前するなり。
現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし。
世世生生にも不退轉ふたいてんならん。
怨敵おんてきを降伏こうぶくし、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こころをたのしくす。
むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。
しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。
愛語よく廻天かいてんのちからあることを学すべきなり、ただ能を賞するのみにあらず。」
http://www.kokin.rr-livelife.net/classic/classic_oriental/classic_oriental_26.html マインドフルの定義は前スレの1でいいとして
@マインドフルの定義は前スレ1で示されたものを採用
Aこのスレに限っては、禅・テーラワーダ(仏教)の立場から、医療的なマインドフルネスを否定しない
それは自分で別のスレをたててやってもらう
B他人の境地やメソッドを否定しない。意見があるときは否定ではなく「自分はこう思う」
との見方の提示にとどめる。
C上記ができなければ書き込まない。ルール違反については指摘して改められなければスルーする。議論はしない。
正直これだけできればスレは荒れないと思う >>904
「自分の集中力を高めたり、幸福感を得たりすることが目的となっているマインドフルネス」
ここに誤解があると思うんだよな
マインドフルネスもビジネス書ではそんなことを書いてあるけど、専門書では
ゲインを求めるなとくりかえし注意している。
ダライラマは仏教の目的について聴かれると常に「幸せになることです」と答えている。この幸せという言葉にも、そのときそのときの文脈があるので、適切なこともあればそうでないこともある。
ビジネス書に書いてあるようなマインドフルネスだけをとって、マインドフルネスは駄目だ、といっても仕方がない。 >>909
いいですね
「自分は思う」というのは主観事実ですから、客観事実との区別にもなります
また、情報一般の話になりますが事実、認識、評価の区別を心がけて読み書くこと
これも役立つのではないかと思ってます
読んだ時に感情的にならないためにも、書く時にも揚げ足取りを気にしたりされたりしなくなりますよ 私の主張したいことは、迷っているのに筈だ論で己れの自尊心の構築の為だけに、人に迷惑を撒き散らすなってこと。
一発逆転で恋焦がれる解脱主義で他人を己れの固着した隠滅さにアリ地獄のように普通の人を巻き込むなってこと。
その事例収集、構造分析は、ほぼ終わってるわよ。
覚悟しなさい。 なるほど、こういうところに文を書いてる禅僧からしてマインドフルネスを誤解してるから、それを鵜呑みにする人間も出てくるのか ID:bbe0pPR6
↑5時間ほどで10回書き込みコテまで付けだした(外し忘れた?)アホw 愛語を言ったつもりのリアルな相手が、どんどん苦しみの深みにはまってゆく。
示した技法はさらに深みにはめてゆく。
もう逃れられない。
己れの経験できなかった解脱、光の涅槃に飛べば、一発それで解決。 >>910
> 専門書ではゲインを求めるなとくりかえし注意している。
それ確認してませんでして、なるほどと思って貼ってしまいました
カバットジンはここらへんどう書いてるのか知らないのですが
個人的には、結果的にゲインは起きるのだけど、やってる時はゲイン求めずやってます
只管打坐ではないけれど、効いた実感があってもなくてもひたすら続ける姿勢が
この手のメソッドのコツをつかむには必要だと思います
語学学習でも只管音読というのがあります
音読を何百回も続けていくと、段階的でない質の変化が現れるんですね
つまり、あるとき飛躍的に理解力が高まる
それと類比的だと思っています メーテルさんというコテはどっかで見た気がするんだが… >>916
自分でメーテルと名乗れるほど酩酊してるんだろうな >>919
反論はそれだけ?
どうぞ、どんどんどうぞ まがい物めが
完全にマインドフルネスの悪貨よ
悪例及び、その分岐点として体現してくれていることには、評価しているけど。 キョトーンとしてしまってるんだがw
何が起きてる? >>917
たとえば「マインドフルネスストレス低減法」にはP309より、「成果への期待を手放し、あるがままに生きる」
という節があります。
「瞑想はゴールを目指すものではないからです。あまりにも期待感や目的意識が強すぎると瞑想の精神が損なわれ、効果どころか
逆に障害になってしまうのです」
「なにかを獲得しようとすると、この基礎が揺らぎ、損なわれてしまいます」
ただ、IMSやカバットジンの本、あるいは
ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本をみて瞑想について書かれていることをみれば、
瞑想とはある特定の感情や身体の状況を目指すものではなく、「混乱があれば混乱、
雑念があれば雑念を見て、それを支えにする」ものだという教えだとわかると思います。
「目的を持ってはいけない」と強調するとそれがまた執着となってしまうので、
「何が現れてもどんな状態でも、それに気づいているかぎり瞑想は間違っていない」
「瞑想をしようと思ったときそれ自体が瞑想」(ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェ)ということを
正直ビジネス書系のマインドフルネスではなく、ちゃんとした本ででも素直に読めば、獲得目的に執着してしまう陥穽に陥ることなど普通にないと思います。
マインドフルネスは特定状態の獲得を目的にしてしまっている、という批判は、ちまたの
ビジネス系自己啓発系を眺めただけの浅い理解だと感じます。 そりゃ、「穏やかで怒りのない状態」「感情的に波立たない状態」を「得よう」としたら、
自分の状態に好悪の感情を持たざるを得ない。それは「あるがままの観察」から離れてしまう。
かといって、「目標」や「目的」を「持つまい」というのも同じことで一つの執着です
だから、かたくならず、「続けていればいろいろいいことがあるらしい、結果はダンマに任せて、
軽く期待は持ちつつも、焦らず執着しないようにしよう」くらいがいいんだと思います >>924
日本マインドフルネス学会理事長の越川房子さんの古典的訳書を読んだ時、世は「to do」一色だけれども、これからは時に「to be」も大切にしていい時間があってもいいのではないか?できれば、それが人が生きてゆく基盤になればと
本来は、マインドフルネスとは、そういった地(生活姿勢)に足着いたものだと私は思っています。
世の流れに逆らう流れと自覚なされた釈尊も、これを否定しましたか? 「to be」を基本というのは賛成です
どういう文脈でそれを語られたかはわからないですが「to do」というのは
必要以上にある状態、状況を獲得しようと行動することでしょう
人間は獲得しなければ不幸になる、という思考や感情に本能的に突き動かされていますが本当にそうなのか。たちどまってその思考や感情を観察して、距離を置いてみれば、突き動かされずにすむのでは
「足るを知る」「心田を耕す」というのは関連したキーワードではないでしょうかね あれもしなきゃ、これもしなきゃと不安でいっぱい。
何とかしなきゃ、と飛びつくまえに、ちょっと座って、そのモンキーマインドを観察すれば、案外する必要は
なかったり。
そうすると不安も落ち着く。足るを知れる。 「to be」ティク・ナット・ハン師の御言葉では「be mindfulness」、座る程でもなくとも、1日数度立ち止まって観回してみると、可笑しいことばかり 自分を含めてね
可笑しさに愛情込めればいいのじゃないかな >>923
こういったものは最初はほとんど効果なんか感じないですからね
少しだけ頭の整理が付きやすくなったかもしれない、程度で
最初は1分とか短い時間で呼吸を感じるのをやるのが良いと思いますけどね
ひたすらそれでやると良いと思います >>923
リンポチェみたいになりたい、あるがままに生きたい、正しい瞑想をしたいと思った瞬間に我が生まれる。
結果失敗する。
目的、期待を持たない人は初めからマインドフルネスを真剣にやらない。
マインドフルネスが抱える自己矛盾。 何も難しく考えなくても良いですよ 観察系の瞑想では徹底徹尾 瞬間瞬間を観察するだけなんです ああなりたい こうなりたい なにかを得たい 全く問題ありません とうより瞑想以前にこれらの意識を払拭できるなら瞑想は必要ないわけですから...
話を極端に故意にわかりやすくいうと 物を盗みながら ドキドキしている 集中している 興奮している
相手を八つ裂きにする妄想をしながら 体に力が入っている 高揚している ボロボロの相手の姿を妄想している
これだけです 次の瞬間にはお年寄りを実際に助けてお礼を言われて 嬉しい と感じているで良いんです 本当はこれを仕事の間もご飯を食べている間も一瞬の隙もなく休み時間もなくずっとやるだけなんです
実際にはそれでは大変なのでできるだけ 自分の熱意の分だけ限定してやるというだけのことですよ 道元みたいになりたいと思って禅をやる人だっているだろうに 観瞑想においては心と身体に生じる反応をただ観るだけ
心と身体の状態がどうであるかは全く関係ない
心と身体の状態が気になったら気になったと観るだけ リンポチェみたいになりたい、あるがままに生きたい、正しい瞑想をしたいと思ったら、そういう思いも、"今"という瞬間の現実の一つとして尊重し、受け止める
そして、それはその瞬間の一時の感情や思い、希望、判断であると受け止め、その中に引き込まれたり自分を見失ったりしない
それがマインドフルネス >>935
>気になったと観るだけ
とは良く聞きますが、それで済ませようとすることで躓いている人が多いそうです。
で、結局あなたは何を観ているのですか? 盗みをしても、煩悩が生まれても、我が出ても、観察し続けてはいるが、
悟れないので死後はどうなるか分からない。
それがマインドフルネス。 >>931
なるほど。ヨンゲイ・ミンゲール・リンポチェの本には、こうありました
・一日に短い時間の瞑想(1分〜30秒)を何度も繰り返すこと
・ほんの少し時間を作って、白昼夢にふけるのではなくただ単に 自分の心を観察して
みようとすれば良い、一滴ごとにという調子で
>>933.935
まさしく同感です。少しづつそれが常態になればいい。やりがいのあることだと思います
>>934
同感です。人間、発言するときは無自覚に自己のドグマへの防衛機制が働き、他者攻撃に
走る。マインドフルにならなければ「愛語」で話せない。それを踏まえても、上の正法眼蔵の
一節は見習いたい >>934
禅ではきちんと誓願を起こし、悟りに達するまで不退転の覚悟をもって行じる。
我も煩悩も最後には無くなる。 次スレですが、書き込み参加者に「マインドフルネスの実践者、または実践したいと思っている人」という要件をつけるのはどうでしょうか
それでかなりすっきりすると思います。 悟りに執着していたり死後という未来を心配していたらマインドフルネスにならないので、そのへんを気にかけるなら別スレで話したらよい *「死後のことはどうでもよい。落ち着いて幸福を感じて生きていきたい。それが人生の目的だ」と考える人々は、
それに相応しいプログラムを考える。そのプログラムを冥想だとするならば、「良い気持ちに達する実践」になるのです。
ですから、「冥想なら何でも宜しい。どんな冥想も同じ目的を目指しているのだ」というのは、正しくない考えです。
*ブッダのヴィパッサナー冥想以外、こころの煩悩を完全に無くす方法は無いのです。このポイントを明確に言わなくてはなりません。
こころの汚れが機能しない睡眠状態と、こころの汚れが残りなく消えた状態は、決して同じではないのです。
*せっかく修行の道に入って、こころの一時的な安らぎに達しても、解脱を目指さないひとは、また矛盾の道に迷いこんでしまうケースもあるのだ
http://www.j-theravada.net/howa/howa208.html >>937
躓いてると思ったらそう思ってると観るだけです
常に自分の心と身体ににいま生じてる思い、反応を観るだけです
わたしは心と身体に生じるものを観ているだけです
私だけではなく誰でもそうなのです
ただ心と身体が自分であるという錯覚がその上にかぶさっているためそれがわからなくなっているだけです
あなたもわたしの書き込みを見て心に判断が生じそれを書き込んだということを観ている(認識している)でしょう
自分とは認識されるものではなく認識する側でしかないということです
それをはっきりわかるために心と身体に生じるものをただ観ていくのです 認識されるもの(客体、心や身体やそこに生じるもの)は自分ではない
自分とはいつでも常に認識する者(観る者)だから
認識する者(ただの認識主体としての自分)はただ認識を続けているだけでそれは減ることも増すことも変化することもない
それゆえ苦も悩みもない
認識されるものである心や身体という変化するものを自分だと錯覚しているのでその変化に苦や悩みを生じさせているだけ
しかしその苦や悩みも心や身体に生じてる認識されるものであり、認識している(観ている)わたしとは全く関係ない
それがわかるためにただ観ていく
それが観瞑想 その観瞑想がそのままマインドフルネスだということだよね そうです
仏教でいうとヴィパッサナーで欧米で広まるときにマインドフルネスと訳されたものですね >>946
ヴィパッサナーとは違いますね。
ヴィパッサナーでは、身体、感覚、思考、意志、認識の五つについて、
無我であると観ます。
どこにも私という存在は無い、ゆえに生老病死が無くなり、四苦八苦が無くなる。
というのが仏教ですね。 >>949
そういうことを書いたつもりですが、違うことだとあなたが思ったならあなたは違うと判断したということでしょう
それだけでそれ以上言うことはありません >>939
リンポチェ師というのは多分チベット密教でしょうか
オウムで迷惑かかったとか仰っていたのもリンポチェ師という方でしたが
体験的にも1分くらいの短い瞑想をひたすら繰り返すのが掴みやすいと思うんですよね
徐々に感情が静かで思考のおさまった瞬間が育ってくるというか、キャッチできるというか
毎回でなくても1分以内にそこに入るようになります
それだけで、ストレス、モンキーと離れつつある実感があります
二ヶ月くらいでかなり効果感じますよ
出来るようになったらそのうち安定して入れますから
カバットジンのやり方とは違うかもしれませんが レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。