マインドフルネス Part13
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例えば、グナラタナはマインドフルネスと題した本でサティを説いている
仏教をベースにした説明ではあるが、そこには宗教性はほとんどない
続編で八正道を説いた本を出しているがサティ=正念が出てくるのは七番目
八正道を育ててサティをしていくならばサマディに至るとしている
だから正念でなければサティではない、と言ったようなものではないが
八正道がなければサマディには至らない >>780 最後訂正
だから八正道を守らなければサティではない、と言ったようなものではないが
八正道がなければサマディには至らない
という理解をしている つまり、現代の僧たちがマインドフルネスとして説明している文脈では必ずしも厳密な意味での
正念=サティというわけでもないということだ
実践している人ならわかることだが
八正道を行わなくとも、瞑想を行っていくと次第にその要件は整っていくものだ
すなわち、八正道は必要条件というより、十分条件だろう
しかし、人によっては抜けが生じることもあるからリファレンスとして
釈迦が説いたということだと思う
マインドフルネスのサティが、厳密に仏教の正念でないということは
言葉の上ではそうですね
けど、だからマインドフルネスの気づきはサティ=正念ではなく邪念になるというのはただの言葉遊びだと思うよ >>775
>ブッダの定義は、
>正念=正しいサティ
>邪念=間違ったサティ
それって自分で作った定義では?
サティに正しいも間違いもないでしょ。あるがままをあるがままに気づくことなんだから
サティは端的にサティ。そしてサティの漢訳が正念。英訳がマインドフルネス
君の言うことに従うと「正しい正念」ってことになるよ このスレみてると禅やってる人が邪念のかたまりに見えてくる スマ師もマインドフルネス本でサティをただの気付きとして説明してたかな 関係ないけど子供の頃よく行ってたスーパーの名前がサティ
今日は8時間座禅できた、後は夕方の1時間で終わりにしよう
明日はもっと良い日になるよね?ね、ハム太郎! >>782
そんなとこだよね
原始仏典でも釈迦の説法聞いただけで悟ったり仏教外の人間が釈迦と出会ってすぐ悟る例があるし
結局その人が八正道的な生き方してれば問題ない
マインドフルネスしてるひとだって八正道を守ってないかっていうとその人によるし
出家してる仏教僧だって八正道ちゃんと守れてない人は当然いるだろうし
結局その人の素養と生き方次第
実践してれば意識してなくても八正道的になっていくってのもその通りで、
そういう意味じゃマインドフルネスやっていくことで八正道的になっていく部分も当然あると思う
実践してる人と頭の知識で語ってしまう人でギャップが出てるとこはありそうだよね 仏教のサティとマインドフルネスのサティを分けてる人がいるけど、
どちらもちゃんとサティできればサティだし、どちらもできてなければサティできてないというだけでしょう
仏教で観瞑想に取り組んでるひとがみんなちゃんとサティできてるわけじゃない、初心者はできてないでしょう
同じようにマインドフルネスでも出来てる人と出来てない人がいるでしょう
仏教の修行僧でも日が浅い人は無駄話してしまってるだろうし八正道はちゃんとは守れてないでしょう
マインドフルネスの人でも無駄話しない人はいるだろうし、サティであれ八正道であれその人次第って話でしかないと思うけど >>788
それだと、八正道を知らず、正見、正思惟、正語、正業、正命を目指さなくても、
瞑想だけしていれば自然に解脱に達することになります。
ブッダなみの能力が無いと無理だと思いますが。 Satiを「気づき」という言葉で表現するのは適切じゃないと思います
「気づき」というと「何かにその都度気づく」ことだと解釈されます
それだと「気づく」までは「気づいていない」のを許すことになってしまいます
Satiは「気をつけること」「注意すること」であって
それは「あらかじめ気づいている」ことを要求しているものです
だから本来の意味するところとは違ってしまいます
「足で蛇の頭を踏まないようにするのと同様に、よく気をつけて諸々の欲望を
回避する人は、この世でこの執著をのり超える。」(スッタニパータ768)
あらかじめ蛇がいることに気づいていて気をつけていなければなりません
蛇の頭を踏んでから「今、蛇の頭を踏んでいる」と気づいても遅いのです >>791
観瞑想をしていけば自然と八正道に沿った生き方になるから結果的に八正道も守っていくことになると思うよ
っていうか、観瞑想によって心身への捉われがなくなっていくのだから八正道にそぐわないことは興味なくなるでしょ
それから原始仏典読めば釈迦に出会って法を聞いてその場で悟る例はけっこう出て来る
最初の悟りに入れば自然と八正道を守るようになっていくわけで、八正道を意識的にやるか自然とできていくかの違いでしょ
別に八正道はいらないという話ではなく、人によっては八正道なんて知らなくても自然とそうできていくって話 ヨガの人は八正道なんか知らなくてもジャーナに至るんじゃないのか
と、ここでヨガナンダ信者を召喚したらどんだけカオスになることか >>791
それって要するに三学の戒と慧だけど
まっとうに生活してたら戒は自然に守られるし
慧は阿羅漢にならないと完全じゃないから仏法修行者であっても有学ならまだ欠けてる状態
そこから定を基礎に慧が育つんだから、まさしく瞑想をしてれば解脱に達するんじゃない?
それが瞑想として正しい実践であればって限定付きだけど
まあマインドフルネスの世間的効果を主に考えてる人にとっては思わぬ意外な結果ってことになりそうだけどw >>793
説法を聞いて悟った人は、一瞬で真理を理解して、正見を得たんだと思います。
一瞬で八正道を実践したのだと思いますよ。
観瞑想をやって、心身への捉われが無くなるのは、ブッダの言う正念を実践した場合だと思います。
邪見、邪思惟、邪語、邪業、邪命のまま観瞑想をしても心身への捉われは無くならないと思います。
ブッダの教えのエッセンスを除いたマインドフルネスが現れるまでは、
仏教のヴィパッサナーしか無いので観瞑想=正念相続で問題ないのですが、
解脱を目指さない、能力開発の為、ストレス低減のためのマインドフルネスが登場した以上、
観瞑想、サティの実践も、正しいサティか、間違ったサティかが問題になってくると思います。
野球のバットを素振りしている人に、「何が目標なの?」と聞いて、「ホームランを打つため」と答えれば、
正しい素振りだと言えますが、「人をぶん殴るため」と答えれば、それは間違った素振りです。
素振りは素振りですが。
だからこそ、ブッダは大四十経で、八正道について、正と邪について説いたんだと思いますよ。 >>797
素振りになるために素振りをするんじゃないかな?
素振りになった自分がボールを見てボールを打つ、
それぞれの段階、その瞬間に全力を注ぐこと、
素振りはホームランを打つためじゃない
そう思うけど >>783
> サティに正しいも間違いもないでしょ。
ところがある
正念 サンマー・サティ
邪念 ミッチャー・サティ >>797
そう思いたいならあなたにとってはそうだってことでいいけどさ
八正道を知ってて八正道を守ってる人と、八正道を知らなくてたまたま八正道を守れてる人の違いってあるの?
仏陀のエッセンスを除いたマインドフルネスって前提で話してるけど、その前提に則せばそうとも言えるけど、
仏教知らずマインドフルネスやってる人にも慈悲の瞑想したり道徳的実践などいろいろしてる人はいるわけで、
マインドフルネスの人たちが皆仏教のエッセンスを除いてマインドフルネスをしてるかっていうとそれはわからないよね
つまり仏道とマインドフルネスを分けるより、人それぞれの問題じゃない? 仏教信仰を基準に正と邪を語られてもねえ…
実践している内容が同じだったら、描いてる目標にかかわらず、結果は同じなんじゃないか? >>801
八正道を知らずにたまたま八正道を守れている人はいないと思いますよ。
世間の道とは真逆の道ですから。ブッダも6年修行してやっと悟った道ですから。
八正道をきちんと守っている人は、あらかじめ仏教の勉強をしているはずですよ。
人それぞれといえば確かにそうですが、
問題は解脱を目指す、真理を理解するという目的意識があるかどうかだと思います。
八正道の最初にして最重要の正見は、真理を理解して正しい見解を得るという意味ですから、
これが無ければ正念、正しいサティとは呼べない事になります。 >>803
それじゃあ全く別カテゴリーですよ マインドフルネスを実践している人で解脱を目指している人は数パーセントじゃないかな? 一瞬で解脱できる魔法のボタンを渡されても何か怖い気がして押さない人がほとんどでしょう まずさ、今日的な意味を考えてみようか
ストレス解消というのは何のため?ってさ
今受けてるストレスを上手く対処しながら社会生活をスムースに進めていくためであって、
より社会で役に立つ人間に成長していくことでもあるでしょ
そして、瞑想が効果を上げて差し当たってのストレス対処は上手く生きましたと
それだって完璧に自分の人生を全うしていると言うには程遠いことを自覚させられる
もっと成長すれば周りの人も幸せになるし、あらゆる瞬間にもっと真剣に生きられることがわかる
成長欲というより、続けていかないことが一種の後ろめたさすら感じてくるかもしれない
そうしたらより深く、仏教なり他宗教なりで深い意味で自己を律しつつ成長をしていくことを選ぶだろうね
そう感じない、もう十分だと思うなら止めたって良い
必要に応じて教えに触れていけば良いんだよ
瞑想をやっていてその段階段階に応じて起きてくることがあるんだよね
最初から超越世界目指すんだとか思ってると下手するとオウムになるからね
入門段階から中観的な見方が必要だと思うよ >>803
じゃあさ、あなたの言い方で言えばマインドフルネスの人でも仏教の勉強してる人はいるだろうし、マインドフルネスしてる人は仏教のエッセンスを欠いてるとは言えないんじゃない?
あと具体的に言えば例えばスマ長老はアビダルマの解説書の中でクリシュナムルティは最低でも預流果以上に達してるだろうって言ってるわけね
で、あなたと似たような言い方でマインドフルネスには足りないものがあるって言ってる山下良道さんは自分の見方を説明するためにニサルガダッタ・マハラジの引用をしてるわけ
山下さんは自分の見方をわかってくれた人たちが最近二人いたけどその人たちは二人ともクリスチャンだったとも言ってる
で、クリシュナムルティもマハラジも仏教徒でもなんでもないし、ただ二人とも八正道に則したような身のふるまいできてるわけなんだよね
あなたはあなたの見方があるだろうし自分が言いたいことは言ったのであとはあなたが主観に捉われないように正しい見方を自分で探せばそれでいいと思うよ >>803
それは、解脱を得るためのサティを仏教的には正しいサティと定義します、てだけの意味しか持たないんですよ いや、クリシュナムルティさんは不倫してたんだ
八正道守れてないんじゃないかな
それでもあの人は悟ってるんだろうなぁと思う、多分 現代はストレス社会だし、宗教アレルギーもあるから、
宗教色の無いストレス低減法が必要ってのは分かるんだけど・・・
仏教徒としては、ブッダの説を外れると、ろくなことが無いだろうって思うんだよね・・・ >>807
そうですよ。
でブッダは解脱以外のありとあらゆぬものに価値は無いと説いたんですよ。 人類70億人が解脱した世界を夢想するとたぶん持続不可能で人類は滅ぶ気がするよね あと、何も得られていないのに最初から全てを目指してやっていたら
焦るだけでしょ
8つも守るべき道がある、それを暗記して日常の行動にピリピリしてる
そんなの能動的が意識は強まるだけ
あ、飲酒駄目だぁ?無理だよ俺には!
と思うなら飲めばいい
瞑想続けたらそのうち飲めなくなるからねw
行動も心根も改まってくるもんなのよ
瞑想をちゃんと続けていくことなんだよ
それによって、釈迦の教えが頭でなく腹に入るようになる
釈迦だけでなく、聖書でもなんでもさ
それは文字が読めて、語義を知って、論理的な関係がわかるという以上のことなんだよね
瞑想をやっていればそういう体験をする、必ずする
たからID:8lpZFrSxさんの言ってることは座学知識なんだなと思う
坐禅組でもヴィパッサナー瞑想でもやればいいのに >>808
その点は噂だから本当かどうかわからないけど、そもそも戒は後から決められていったもので元からあったものではないしね
仏典にも預流果に達してる人が酒を飲んいて、あの人は本当に悟ってるのかって弟子が釈迦に聞いたら、仏法への疑がなくなってるからあの人はちゃんと預流果なんだって釈迦が答えた話とかある
こういったら怒られるけど戒は行為上から判断できるアウトラインで重要なのは行為してるその人の精神がどうなっているかだと思うよ
精神状態がどうなのか見かけからわからないから見かけで判断しやすい行為上の戒になっただけで >>811
だから、そう言ってしまうと、
仏教的に正しいサティと、マインドフルネス的に正しいサティは、そもそも違いますね、用語の違いですね、という結論しか出ないわけですよ >>813
私もずいぶん瞑想しましたけど、だんだんブッダの偉大さが身に染みてきて、
仏教原理主義みたいになってきましたw
八正道こそ唯一の道で、解脱こそ唯一の目標だと・・・
まぁキチガイですかね。 禅宗なら仏に逢ったら仏を殺せっていうけど
仏法だろうと執着するものや依存するものになったらそれはもう仏法じゃないでしょ
仏法という何かを頭で想定して個人性がそれを盲信してるだけ >>814
そんなところでしょうね
言葉や行為の外形でガチガチに規則を作るのでは、古代バラモン教やイエスの現れた時代のユダヤ教、カトリック などと同じになる
凡人の認識できる外形を超えたところの世界でなければ、悟りなんて意味ないですもんね >>816
正しいサティを説くならば、あなたは正しいサティを得ているんですね?
ということになる
つまり、あなたはもう悟りの一歩手前だ
素晴らしい
あなたが邪念とするところのマインドフルネスの気づきと正念のどこがどう違うのか
具体的に実感を伴った説明がお出来になるはず
どうかお聞かせ願えませんか? >>819
瞑想を初めて最初のうちは楽しいし、上手くいっている気がしてどんどん瞑想できるんですが、
ある時から瞑想が全然上手くいかなくなってくるんです。
自分が煩悩の塊に見えて、妄想だらけで全然集中できない。
その状態になると、ストレス低減法とか、能力開発が目的の人なら瞑想しなくなると思うんですが、
悟りを目的にしている場合は止められない。止めたくなっても、自分に鞭を打つ覚悟で瞑想する訳です。
そうしているとある時点で、急に瞑想が楽にできるようになる。
楽になったら楽になったで、今度は瞑想に張り合いが無くなる。つまらなくなってくる。
そうなると逆に瞑想したくなくなるんです。ストレスは無いから毎日楽しいし、遊びたくなってくる。
私の場合はしばらく遊びました。でも結局、遊びも飽きてくる。瞑想の楽しみを前に経験しているから、遊びもそんなに面白くない。
結局思い出したように瞑想し始めて、苦しみも、楽しみからも心が離れた時に、やっと真理が見える訳です。
戒を守って、瞑想し、解脱を目指すという目的意識が無ければ、長い瞑想の波を乗り超えられない、
途中で嫌になったり、飽きたりすると思います。 >>820
それと私は瞑想の為に、仕事も減らしましたし、テレビとかパソコンとか、瞑想の邪魔になるものは全部捨てました。
なるべく出家と同じような条件になるように努力しました。
ストレス低減法、能力開発が目的の場合、欲を減らす、人となるべく会わないなどの努力は普通しないと思います。 マインドフルネスは能力開発だとかストレス低減目的でやってるからという言い方するけど、それって実際には瞑想の副産物でしかないでしょ
マインドフルネスはカバットジンのしか知らないから能力開発をうたうマインドフルネスは知らないけど ずっと誤解してる気がしてるんだけど、マインドフルネスストレス低減法はストレス低減を目的に瞑想しましょうなんて言わないからね
目的なんかもたない >>798
私が言いたいのは言葉の使い方が相応しくないということです
paying attention(注意を払うこと)によって
awareness(認識、意識)を得るのです
Satiは「気をつけること」で、注意を払うことを指す言葉です
「気づき」はawarenessの方を指す言葉です
仏陀が何度も言っているのは「気をつけること」です
この「気をつけること」がSatiです、「気づき」はその結果であり
そのためにSatiが大切だと言っているのです
そこが分かっていないから、
「気づき」という曖昧な言葉のイメージから
Satiを何だか神聖で神秘的なものだと勘違いして
正念だ、マインドフルネスだ、それじゃ悟れない、ということになるのです
Satiは単に「気をつけること」です
Sati(気をつけること)によって、認識力(気づく力)を養うのです
瞑想(四念処)でそれを繰り返す(気をつけて観る)ことによって
洞察力(智慧)を養うのです
洞察(智慧)によって、真理(無常・苦・無我、縁起の理法)を悟るのです(悟り)
悟ることで、無明が無くなるのです
無明が無くなることで、執着がなくなるのです(無執着)
執着が無くなることで、渇愛が無くなるのです
渇愛が無くなることで、煩悩が無くなるのです(解脱)
煩悩が無くなることで、苦から解放されるのです(涅槃)
Satiで涅槃へ達するというのはこういうことです 原理主義より
ほとけに会ったらほとけを殺せ
の方に真理を感じる >>813
言っちゃ悪いけど脳天気だねw
> あ、飲酒駄目だぁ?無理だよ俺には!
> と思うなら飲めばいい
> 瞑想続けたらそのうち飲めなくなるからねw
> 行動も心根も改まってくるもんなのよ
マインドフルネスやってこれが出来た人は少ないよ
出家してるとか恵まれた人でないと無理
ID:+S+JjujYさんはかなりやり込んでいる人だと思うけど
どこかズレているなあ
なんだろう、この違和感 マインドフルネスやってこれ出来た人は少ないよ
というのは自分の脳内の物語だよね >>825
殺仏殺祖は、仏を妄想するな、祖師を妄想するなという意味ですよ。
ブッダを否定せよという意味では無いです。
ブッダだろうが、祖師だろうが、頭に浮ぶ概念は全て無我であり、実体は無い。
ありがたいものでは無いという意味です。 >>828
原理主義の人はありがたがってるわけでしょ ID:8lpZFrSxさんは木曜あたりに来てた ID:oIE2ofGnさんだろうか
八正道にやたらこだわってるが >>820
それだと、やっと瞑想になってきたらいきなり真理が見えちゃった感じですかね?
>>826
少ないというのは、何千人かリサーチされた結果とかなのでしょうか? 見ていて感じるのは
仏教を勉強したことによる自我の強化
だよねこれ >>829
ありがたいものは無い=一切皆苦です。
諸法無我を説き、一切皆苦を最初に説いたブッダは偉大です。
原理主義の人は、偉大なブッダを実体視して、崇めるようなことはしません。
ブッダも無常であり、苦であり、無我であると知っています。
ブッダに対する執着も捨てています。 >>824
私も最初のレスをよく読んでませんでした、失礼しました >>831
リサーチはしていないけれども、
人から聞いたことなどだけどね
マインドフルネスで性癖や悪い習慣が改まる人もいれば
できない人もいるみたいだね 自分の解釈を強く持ってしまう人なのかな
他人にどういう言う暇あったら自分の実践したらいいのに
自分の実践がうまくいかないからって他人に主張することでストレス発散してもしょうがない >>837
でも、想念を一つずつ消していくと、微妙に行動変わってきません?
大の酒好きがパッと止まるとかそんなことはないでしょうが >>833
ブッダの言ったことへの絶対視と執着はあるわけだよね 欧米マインドフルネスを「ストレス解消」と定義している人がいるけど、
ほどんどの人は「ストレス=苦しみを呼ぶ煩悩」と考え、それを何とかしたいと思ってる。
するとあら不思議、欧米マインドフルネスの目的「ストレス解消」=「煩悩からの解脱」となるw
なにか問題あるんですかね 欧米マインドフルネスの参加者は大体煩悩で苦しんでるのを何とかしたいって人たちでしょ
煩悩が問題だと知って、生き方やものの見方を学びたいという
苦を何とかしたいという
おまけに自利利他、与楽抜苦の慈悲心も持ち合わせている
正しい生き方、新しい存在様式を学ぼうとしている
それって仏道とどう違うのかなぁ
そりゃ能力開発に焦点をあわせる不純な動機の人もいるけど、ほぼ指導しているほうで、そんなことを
肯定しているところなんてないでしょ、むしろ戒めている。怪しげな自己啓発団体がマインドフルネスを
取り入れてる場合は別として 煩悩というか、西洋人はストレスはストレスと認識してるんじゃないのかな…(偏見
今日は自分が連投王になってしまった、いかんいかん
自分、 ID:8lpZFrSxこの方ちょっと心配なんですよね >>820
瞑想が上手くいく上手くいかないってのは、マインドフルネスでは無いよ…
上手くいく上手くいかないの判断は自分の中に何かの基準を描いているからだよね?
マインドフルネスはいまの事実にいることであって、心に描いた基準で今の現実の答え合わせをする事じゃないからね
その…貴方の実践している修行では、目の前の現実意外の何だか正解みたいなものがお勧めされてるの? >>848
誤 目の前の現実意外
○ 目の前の現実以外 ちらっと見てみれば
ストレス低減目的の人は瞑想中に妄想だらけになったら瞑想をやめてしまうだろうという妄想
をよりどころにした自分スゴい
というお話だった 頭の中で想像を連鎖させないで、マインドフルネス(ヴィパッサナー)の基本、常にいまあることにだけ気づいていくをやってればいいだけなんだけどなあ 仏法とか、聖書解釈とかってやっぱり奥の深いものだから
瞑想進めていくと、あっそうか!となるんだけど、まだその先があるもんなんだよな
こういうのはさ、わからないならわからないままにしておけるかどうかが肝心
表面的な浅い理解で、わかったことにしてしまうことは何より自分にとって有害じゃない?
わからなくたって良いじゃない、凡夫だもの マインドフルネスが宗教色をできるだけ消したことは大英断だったんだなぁと確信を持てるスレ進行なので、このスレの存在をステキだしアイシテルわ
時代や社会の要請に従ってreviseする柔軟性があったから仏教は今も残っているので、禅が今後も生き残るためにはマインドフルネスからの逆輸入的なreviseが必要なんじゃないのかな 宗教的知識が逆に捉われになってる人ってのはたしかにいるよなあ
そのためにちゃんと師に逐一報告して指導を受けろって言われるわけなんだろうけど 目的によるんです 仏教にも出家と在家があるように立場によって適切な心構え 実践があります 瞑想の実践もそうです 解脱なのかただ一つの辛いエピソードの解決なのか 健康体操的なものなのか
上座部でいう預流果でさえも実生活でhs 実生活で困ったことが出てきます 困っても不安や悩みにはならないんですけどね
普通の人は預流果までで充分 そこまでは観察に次ぐ観察!でok
! ストレス解消、健康目的、気づいているだけでいい、観察すればOK・・・
ぬるいなーマインドフルネス
昔のバッチバチの禅僧とかからしたら、噴飯ものだわ 衆生無辺誓願度
煩悩無量誓願断
法門無尽誓願智
仏道無上誓願成 >>860
悟りきった道元禅師の安楽の法門は、一般人からしたら苦行レベル
新幹線の徐行運転にチャリンコで追いつこうとするレベル 気づいているだけで「いい」、観察すれば「OK」・・・
ってとこに分かってない感が表れてていいね 自分の中に何らかの基準をもうけて、現実に対して良し悪しの判断をするってのが普段の思考だからね
判断をしないってのは、なかなか理解できないんでしょ
まあ人それぞれ
心の中に基準を描いてよしこれはOKとか言ってるタイプの修行が合ってる人はそれでいいんじゃないかな… ライトユーザーとヘビーユーザーは違うからね
ライトがヘビーを、ヘビーがライトを批判してもしょうがない 昔のバッチバチの禅僧様がいらっしゃってるんだ…
今日も朝から テンプレに書いておいた方がいいね
悟り志向の方はご遠慮下さいと
話が合わない、はっきり言って 5ちゃんのバッチバチの禅僧様は自分の妄想を真実だと言い張るからめちゃめちゃ安楽そう 考え方や信念は人それぞれだから合わなくてもいいんだけどね。
その考え方で、他人の考えや信念を評価して来なければ、
「私はこう思って自分を律しているんですよ」「へー源流は同じなのに違いがあるもんですねー」くらいで、特に問題ないのに。
自分の価値基準で他人を評価したくてたまらない。そういう人もいるってことで。 比較や想像を加えずあるものをただあるままに観るが仏教でもマインドフルネスでも基本なんだけど
そんなシンプルなことが一番難しいってことを証明してるスレ進行だな 認識を示しただけで、評価は示していないつもりだけど
俺間違ってたかな?
認識しても示さないと、時には相手が気づいてない場合もあるから
オラオラが始まるでしょう
そうなってしまうと認識の齟齬を埋めるのが難しくなるよ なんというか、まず悟りが必須派もそうじゃない派も、他者否定をやめること
悟りを目指すものも、自分自身がバチバチの禅僧でも道元でもないんだから。
悟りを目指していないからと言って自我が厚いとは限らないし、逆もまたしかり
クリスチャンやイスラムの人でも尊敬すべき人はいるし、悟りを目指していても
自我がガチガチの人もいる
人それぞれの因と縁があるんだからそれを良いものとしなければね 他人の目的ややりかたは
自分の目的ややり方と同じように
価値があるとして接するのが好きだな
話す相手が何が目的で
何を大切にしているかわかったなら
自分が大切にしていることと
同等な態度で接したらいいと
思うけどなあ 怒りで他者否定したくなったときは、慈悲の瞑想か、チベット仏教の入菩提行論を
読むのがいいかも
「ダライラマ 怒りを癒す」が入菩提行論のよい入門書
悟りを目指していても他者を愚弄するような態度はいけない
悟りを目指していなくても自利利他を指針にすればそれは功徳を生むでしょう
悟りを目指すのも結構だが、その前に不善心を起こさず心を善心所においているか
それに留意もせず「お前らは悟りを目指してないからだめ」というのは不善心でしょう おほけなくうき世の民におほうかな
わが立つ杣に墨染の袖
ガチ僧侶が衆生の我々、凡夫の我々がぬるいと言って噴飯するものでしょうか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています