マインドフルネス Part13
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>>146
妄想の外側から語っていることに気づくことは出来ませんか? 私もどっちかって言うとご利益は考えてない方向性だけど
ご利益追求するのも別に悪くないと思うけどね
現世利益を求めるのも涅槃を目指すのも欲として全然変わらんでしょ 現世利益とは煩悩を満たすことではなく、苦を滅して平穏に現世を生きていくこと
マインドフルネスが目指してるのはこれだと思っます 涅槃を目指すのは本来の状態に戻ろうととすることだから何かを望むような欲とはまたちょっと違うと思うけどな
何かを望むように涅槃を目指す凡夫は多いから欲に見えるかもしれんけど 最初の動機としては、欲に近い形で始めるのは仕方ないのでは まず世界はどこにあるのかを突き止めなければならないよ
世界はどこにあるのだろう
分かりきったことだ
頭の中にあるのだよ
お前のぼんくら頭の中に世界はあるのだよ
そこで独り相撲やってるのがお前ら、傑作、笑わせるw
いや、客観的物理世界があるとお前らはのたまうがそんなものを認識できるほど優れた頭を持っていないんだよ
物事の一面を観てとりあえず生きているだけなんで自分が無知でバカでゴミのような存在であることを自覚するべきだ つまりその お前ら という存在も
あなたの頭の中にあるだけですよね >>155
そのとおり
お前も俺の頭の中のゴミでしか無いんで速攻でゴミ箱行き 世界に実在しているのはあなた一人だけということですか >>157
俺自身も実在してない
幻想空間を漂うだけ
それが悲しいのか?虚しいのか?
そうじゃないだろ
面白いんだよ
結構奇跡的なことなんだよ
面白いんだよ
バカには分からんだろうがね 悲しいとも虚しいとも言ってないんですが
独り相撲をとっていませんか? 俺自身のことを言ってるんだから
人が悲しいとか虚しいと言ってないのは当たり前のことだな
勝手に自分のことに置き換えてるだけで
俺自身のことを言ってるんだから独り相撲でも問題ないな あなたは実在していないそうですが、では何が幻想空間を漂っているんですか?
あと、頭の中にしか存在しないという他者に対してバカだと発言することに何か意味はあるのでしょうか バカにはわからないと言ってることから、如実知見できる世界ではなく、頭で作り出した世界に強引に自分を当て嵌めようとしてるようにみえるが如何 まあホントいうと、このスレでのこうした議論も、職場のパワーゲームや
サークルの主導権争いとまったく質的には同じなんだよな.
題材が悟りになってるだけで。
実際の悟りにとって、絶対きわめて有害なことやってるんだけど、そこは絶対認めないんだろうけど。
これは法論だみたいなエクスキューズ使って、自分の心にきわめて有害なことをやってる G由来のマインドフルネスは悟りを目指してないのでは?
いかに自分が成果をあげて
得をすることを志向しているんじゃないの?
我が我がの貪りの世界
貪欲マインドフルネス 心の中にエミュレータを飼うことになるからな。
議論の相手の反応を予想し、気持ちや行動原理といった内面を推測し、どう発言すればどう思うか、心の中でエミュレーションを繰り返して発言を決めることになる。
そのうち、エミュレータ用の仮想人格を本物と思い込んで、「お前らは…だろう」みたいに言うようになって…
事実のみを議論のもとにすること、議論の俎上に載せられるか載せられないかを峻別すること、それさえ出来てれば問題無いんですけどね。 >議論の相手の反応を予想し、気持ちや行動原理といった内面を推測し、どう発言すればどう思うか、心の中でエミュレーションを繰り返して発言を決めることになる。
つまりは議論の相手に「勝ちたい」ということかな?
議論の相手に勝ちたいから心の中でエミュレーションを繰り返して悪業を重ねる 実際には知らないのに思い込みだけで批判するタイプか 己の勝手な思い込みでこうだと決めつけて批判するタイプ ありのままにみるのが仏の道だとしたら
その逆が自分の想像に現実を寄せたがるということかな マインドフルネスはテーラワーダ仏教などが由来と言っているが、
仏教本来のやり方と全然違っているよ。
仏教本来のやり方では、自発的なアクションは取らない。
「気づく」といっても、能動的に気づくことはしない。
ところがマインドフルネスでは能動的に気づくことをしている。
これはおかしい。
マインドフルネスは、瞑想の正念ではなく、
戒律にある感覚器官を護る正覚でしょう。
はっきりといえばマインドフルネスは顕在意識を使った自覚の連続。
仏教のサティ(正念)ではありませんね。 山下良道さんがそういうことを言ってニー仏さんから突っ込まれてなかったか はじめはそれで良いのだけど、どこかでひっくり返るというかジャンプする
ところがありますよ >>170
「仏教本来のやり方」とは誰がどこで説いたやり方?
>戒律にある感覚器官を護る正覚でしょう。
八正道のことかな? >>170
そうです あなたのいう通りですよ 徹底的にハッキリ スポーツのように今の自分を自覚的に見ていく方法です 仏教じゃないから別に違っても良いのでは?
どこまでやるのかだけが問題で 最後までやれば悟りに至ります そこまでやらなくても苦しい思考 思い込みの軽減 除去 冷静さの獲得程度は簡単に(数年で)獲得できるでしょう
というか自覚的 能動的にやらない修行ってどんな方法?
思いつくのは禅で全てを手放した状態 ヴィパサナやマインドフルネスで自動的に観察が起こって観ているだけの状態ぐらいしか思いつかない 後学のために良かったら教えて下さい ゲームに周りが見えなくなるくらい集中するのもマインドフルネス? 六根の活動に任せきるって事でしょうね
自分から意図的には何もしないのですよ
相手にせず邪魔にせず放っておく >>176
ということは私が今 お茶を飲んでテレビを見てぼーっとしている(30年以上同じ)この状態が 既に理想的な修行状態ということなんですか?
放っておくというのは既に 放っておくという意思が 意図が働いているのでは? 本当に放っておくというのは時に相手にしたりしなかったりという 自然な状態を言うのでは? >>176
六根開放は禅のメソッドであって、マインドフルネスのメソッドとは違うよ >>174
テーラワーダも禅も要領は同じです。
マインドフルネスは、テーラワーダや禅における技法の上辺だけを真似て、
意志を使って行じてしまうところに問題があります。
けれどもこの方法であっても、異常な状態になっている人には効果があります。
意志を使うことで行動に自覚的になり、悩みの連鎖に入り込むことが減り、
この連続の末に悩み繰り返す習慣を減らして健常者に立ち戻ることができます。
これが世間で言われているところのマインドフルネス効果でしょう。
しかしこのことは普通の人なら誰でも行っています。
嫌なことに会ったり聞いたりすれば、無意識のうちに心を別のものに向けて切り替えます。
切り替える対象が、今行っている仕事や作業そのもの、同僚との会話、楽しい思い出等々。
能動的に自覚したり心を切り替えることで嫌な感情の連続性から回避しています。
今流行っているマインドフルネスは誰もが当たり前に行っていることです。
というか、意識をますます使ってギクシャクしてしまうことすら促しています。
マインドフルネスに頑張れば頑張るほど、意識を使えば使うほどギクシャクもしてきます。
これは仏教本来の瞑想でも無ければ、テーラワーダや禅に由来も無い、
ほとんどの人が無意識に行っている心の切り替えを、
あえて意識化し自覚化して、意識の過剰を高めてしまう技法です。
マインドフルネスに効果を感じている人は、
心の悩みが重たく、うつ病を発症している人などに効果があっても、
普通の人には意味不明な行為として感じられます。
なぜなら、常に当たり前に行っていることだからです。
仏教本来の瞑想もあえて瞑想といわなくてもよく、当たり前の延長にあることで、
言葉で言えば「なにもしない」となります。
しかし、これを言語や観念で理解すると失敗します。 >>178
禅とマインドフルネスはまったく違うということですね
認識を滅するには六根に手を付けない訓練が最良というのが禅なんですよ 1110「どのようによく気をつけて行っている人の識別作用が、止滅するのですか?それを先生におたずねするためにわたくしはやってきたのです。あなたのそのおことばをお聞きしたいのです。」
1111「内面的にも外面的にも感覚的感受を喜ばない人、このようによく気をつけて行っている人、の識別作用が死滅するのである。」
(スッタニパータより) マインドフルネスって分かりやすく説明したらダメって空気なんですか? >>180
と言うことはテレビを見てるような見てないような 意識せずたまーに飲み物を手に取ったりしているその状態が既に最良の方法ということで良いんですね?
ということは仏教には修行(本来修行は必要ない 必要無かったと気づかせるための修行も含めて)は存在しないと このシンプルな問いにどう答えるか
禅の基本が分かってるかどうかが問われてますよ >>181
そうなんですよね 私も最初はヴィパサナなど自覚的になる方法は自己を強く意識して強化するために遠回りじゃないか?と思ってサマタやただ座っている という方法でやっていました
当時は花を見れば花だけになる経験をしたりしましたが
それ以上修行が進まなくなり ヴィパサに移行して3年ほどで悟りを得ました(自己は存在せず現象に過ぎないというレベルの悟り)
ヴィパサナを実践中に誤解していたことがたくさんありましたよ やればやるほど自己がなくなっていく 得たと思った理解もどんどん過ぎ去って忘れていく 禅はダイレクトなのはわかるんですが 簡単過ぎて難しい どういう技法が合うかはその人によるだろうね
俺は禅の公案解けたし神秘的な体験もいろいろしたけど自分から禅定はうまく入れないしヴィパッサナーも苦手だった
結局アドヴァイタで私が在るということがどういうことかと自他は気づきそのものであることがわかってから
禅のただ座る座禅もヴィパッサナーもわかるようになった
どのような技法もたしかに根っこは同じだけど入り方や心身の用い方がそれなりに違うから当然合う合わないがある
禅やヴィパッサナーをどのようにするかは分かった人からはこれこれこうだと言えるけどいくら言ってもわかってない人はわからないし、
分かった時に初めてできるからあまり言ってもしょうがないという部分はある
わからないうちは合いそうな本をいくつか読んで調べて自分で工夫したり試したりしながらいろいろやるしかないだろうね マインドフルネス瞑想とヴィパッサナーてやってることほぼ一緒じゃないの
アメリカでは出家しろとか結婚するなとか輪廻を信じろとかが文化的に合わないから
そういう宗教性を省いたのがマインドフルネスだと説明されてるの見たことある そうだ、マインドフルネスとひとことで言っても多少の毛色の違いみたいのは色々あるよね
MBSRのカバットジン
ベトナム禅のティクナットハン
タイ森林寺院のプラユキナラテボー
仏教3.0とか言ってる山下良道 etc…
仏教本来の…とか言えるもんなんだろか マインドフルネスの由来がヴィパッサナーだから同じとも言えるし、名称が違うから少し語られる範囲が違うとも言える
寿司とアメリカに輸出されたsusiが同じかどうかみたいなもんでしょ
どっちも同じなんだけどアボカド巻きは寿司かどうかで議論が出たりもする あと、意識の問題についてだけど、道元の
ただわが身をも心をも放ち忘れて仏の家に投げ入れて
と、マインドフルネスでいう「自分で評価をくださない」は同じことを言っているのでは >>184
テレビをみてるときにそんな事意識する必要はないです
そのような事を意識しているということは一瞬でも思い起こしてるんです
任せてることにはならない
修行は必要です
坐禅すればわかります 自転車乗れるようになるのに筋トレ(修行)は必要ないけど
なんの運動もしてこなかった人間はそうそう自転車乗れないから修行はしたほうがいい
まあ自分に疑問を持ったり考えたりするのも修行のひとつだし修行してないひとなんていないんだけどね 陸上してた人間は陸上してたおかげ、水泳してた人間は水泳してたおかげと自分の経験からそれによって自転車乗れたと言うけど
それは自転車に乗れた直接的な原因ではないんだよね
でも自転車乗れるようになるには水泳も陸上もやってみてたほうが近道 陸上してなくても水泳してなくても
幼稚園児でも自転車に乗れる ほとけに任せるというのは他力のことだよね
で、それはどういうことかというと、自分の欲望や感情にコントロールされることではない
つまり無意識のうちに茶を飲んでいるというようなこととは違う それと、例えが間違っているのでは
自転車に乗れるようになるためには、自転車に乗る練習を意識的に行う いや、自転車乗れる練習したって実際に乗れることとは直接的には関係ないって言いたかったんだよね
機が熟していれば教えを聞いただけやちょっとしたきっかけでも心身は脱落するし、
どんな関係しそうな練習したところで直接は関係ないと
意識的であろうとすることは努力だし、努力したからどうにかなるようなもんじゃないし
もちろん間接的には関係するし努力も意識的であることもしたほうがいいと思うよ マインドフルネスについて誤解があるような気がするので書いておくと、マインドフルネスの瞑想も「何もしない」ことを体得するためにあるし
マインドフルネス瞑想による「全体性の獲得」は無我と縁起の世界を如実知見することとイコールでしょう いいえ違います。マインドフルネスをいくら行っても悟りになりません。
マインドフルネスは別ものです。
これがわからないから仏教の指導者もマインドフルネスと同じことを教えるのです。 どういったものをマインドフルネスと想定して話していますか
あと、悟りとはどういう状態を指していますか まあこの辺りで悟りの話はやめましょう スレ違いでしょうからね きっと
悟りもテーマに入れるならタイトルはヴィパサナの方が適切でしょうし マインドフルネスと違うものの話をするなら、単純にスレチなんじゃないのかね… 無意識に行ってる心の切り替え=逃避や無理してしまうことに気づきをもっと距離をとるのがマインドフルネスであり、禅の藤田一照氏が言ってる「感じて、ゆるす」だと思う マインドフルネスに悟りは密接に関係してるしスレチだとは全く思わないけど
マインドフルネスを知って実践してる人で悟ろうと思ってやってる人は少ないだろうからスレチ扱いされるのはわかる 認識を滅するとか六根を開放するってのはどういうこと?
無感覚になることなの? そのへんの専門的なことは人によって説明の仕方や立場によって定義も変ってくるし
ウ・ジョーティカ師の自由への旅が無料でPDF配布されてて、そこにいろいろ詳しく書かれているからとりあえずそれ読んでみたら?
http://myanmarbuddhism.info/2013/01/10/22/
ウ・ジョーティカ師(Sayadaw U Jotika) “A Map of the Journey” 本文の全訳です。
テーラワーダ仏教の「ウィパッサナー瞑想」について、初歩から涅槃に至るまでの階梯を、
豊富な具体例・経典への言及を交えつつ詳細に解説したもの。
瞑想のみならず、仏教一般にご関心のある方に、ぜひお読みいただきたい著作です。
下のリンクより、PDFファイルをダウンロード(右クリックからリンク先を保存)してご利用ください。 >>211
認識を滅するとは無感覚になることではありません
そもそも認識は錯覚なんです
実際の生活は認識する間もなく前に進んで終わってるんです
正しい坐禅を続けていると日常生活で度々その事に気付くようになってきます 坐禅中は相手にせず邪魔にせず一切掴まずに転がしておく事です
それが出来ればいずれ認識が止みます
認識が止めば自分を遮るものはなくなります
マインドフルネスは逆に認識を強化してるるんです つまり認識がやんだ状態というのは
自動操縦状態というか自身の傾向性の奴隷というか動物化と呼ばれるアレですか >>214
それだったらずっと寝てればいつか認識が止むし寝てればいいことになってしまうね
あなたの言いたい心身が脱落した状態はわかるけどここで言うことではないんじゃないかな
それからマインドフルネスは単に自分に生じてる認識を意識することじゃないし別に強化もされないよ
あなたもマインドフルネスというものに特別な認識を持たず>>212を読んでみたら? >>214
> マインドフルネスは逆に認識を強化してるるんです
私も座禅やってるので云わんとすることは分かりますけど…
マインドフルネスで悟りを目指してる人なんて多分少数派で普通は日常での現実的な効果を求めてる
そういう人にとっては認識を強化?だから何なの?ポカーンでしょう
一方マインドフルネス入口でも悟りとか目指す人はヴィパッサナーとか始めちゃってるだろうし
それで目指すのも悟りじゃなくて阿羅漢でしょ
もう目的も違えば方法も違う
それがここで禅を語ることのスレチっぽいとこじゃないすかね 実際の生活は認識する間もなく前に進んで終わってるんです
この物言いには興味がある
この発言はどの時点からの観測なんだろう
禅では常に過去だけが存在する? 今ここしか存在しない即今を言ってるんでしょう
マンドフルネスで言われていることと変わらないですよ 常に今だけがあるというマインドフルネスの世界の中に
時間が前に進むとか終わるなんて捉え方がありますか? 言い方、ニュアンスでしょう
>認識する間もなく前に進んで(次々と新しい今が現われて)終わってる(さっきの今はもうここにはない)んです
ってことでは 時間というのは人間が頭で決めたお約束の世界ですよね
頭を取り外した現ナマの生命体験としての今というのは
過去や未来が存在しなくて、まさしく今だけがある
マインドフルネスのいう今というのは、そういう今だという認識なんですが
禅はそのへん頭で考えた世界に引きずられているのかなあと
現ナマの生命体験という言葉は禅の人の言葉だったりはするんだけど 自分はその発言した者ではないので口をはさむのもなんですが禅にも時間はなくただ今しかないですよ
進むと書かれているのは時間が進むという意味ではなく認識主体(自分)が進むということでしょう
実際は過去も未来もないので進んでもないですが次々と今が生じ消えていくので主体にとっては常に新たな今へ進んでいるように表現できるという意味で
それとは関係ないですが禅でもマインドフルネス(ヴィパッサナー)でも考えや自身の体験に引きずられているひとは多いと思います 勝義諦と世俗諦をごっちゃにして語っても他人を惑わすだけなのでは 瞑想中にあらわれた思いに対して握りしめたりせずに、ただ観察していればそれは消えていくというのはマインドフルネスも同じ
禅だと認識すべてが消えるとするみたいだけど
目に映るもの耳に聞こえるもの等に対して、意味つけしているのは人間だというのがマインドフルネスだと思うんだけど、それを禅ではすべてが錯覚だとするのかな
錯覚ではなく目にうつるもの耳に聞こえるものは生成変化している=諸行無常というのがマインドフルネスだと思う >>228
勝義諦と世俗諦という分別は説一切有部などの部派仏教とか大乗の龍樹とかがしたもので釈尊は世俗の真理と出家者の真理などという分別はしてないと思うよ
世俗の生き方と出家の生き方の違いは口にしてたけど
あと部派仏教だと苦諦集諦が世俗諦で滅諦が勝義諦だと思った >>230
真理視点の言い方と現実視点の言い方という意味です
それがごちゃまぜに会話に含まれていると見えたので
仏陀も対機説法していましたし、見比べれば矛盾するようなことを相手によって言い分けていたと思います
しかし矛盾するようなことをわざわざ言っても相手を惑わすだけでよくないのではと言いたかったのです >>227
誰もが認識の届かないところで生きてるんです
認識が止んだら温度がわからなくなるなんてことないです >>232
その温度が体感できているのはいつなんでしょうか >>180を見ると今に在ることが気分転換の一種みたいな語られ方をしているけど、楽しい思い出に浸りましょうとか同僚との会話に解決の糸口を見つけましょうではなく、マインドフルネスが殊更に今に在ることを大切にするのは
真理に触れるものがあるからと違うんすかね >>233
いま体感してるなら今と言えば良いのでは
でも言い留めた瞬間もう的はずれです >>235
言わなくていいから、あなたが温度を感じてるのはいつなのか うーん まあ今っていうのは瞑想を続けていけばわかると思う 多分紹介されたPDFにも書いてあるとは思うけど 観察を続けていけば1秒間に物凄く多くのことが自分に起こっていることがわかるようになるんだよ
私でいえば観ているだけの状態になったとき 音楽が細切れに聞こえてただの音になる 単純な一つの動作は何十もの動作の合成で出来ていることがわかったりする
動作の起こりも自分が関与しておらず 機械のように勝手に動いていることがわかる もっと進むと認識の瞬間に自分と世界が現れることがわかる
ただ能力開発なんかが目的だとここまでやるのは逆効果かも
色々カラクリがわかって人生に対する闘争心が無くなってしまうかもしれない 例えば慢性的な痛みがある場合にマインドフルネスではどうするのか?
もちろん「別なことに気を逸らしたり紛らわしたり」はしません
その反対のことをします
慢性的な痛みがある人は何とかしてそれを取り除こうと思ったり
「どうして自分だけこんな目に」と憤慨したり悲しんだり
「この痛みは一生続くのだろうか?」と不安や失望を感じたりします
痛みそのものよりもネガティブな感情や考えがダメージをさらに大きくするのです
しかし身体に感じる本来の痛みと苦しみ悩むこととは別物と捉えるべきです
マインドフルネスでは
「痛みの感覚を拒否しないで観察する」という方法を取ります
無理の無い範囲でエクササイズを何日か繰り返していると
痛み本来の大きさを把握できたり痛みには大小の変化があることや
実際は痛いのに痛さを忘れる時があること等が分かってきます
そういった観察による体験を何度も繰り返すことによって
痛みは恒常的なものではなく常に変化するもので
また痛みとネガティブな感情や考えは別物だということや
さらには自分と感情や考えは別物だということ等を
体験として理解する(覚る)ことで痛みを低減させていく方法なのです
この例を見るだけでも明白ですが
マインドフルネスのベースになっているのは仏教の「念処経」であり
ここには「無常・苦・無我」への覚りがあり
また「箭経」(二の矢を受けず)の教えも含まれてます
臨床心理学的に言えば痛みを受け入れて(受容)
痛みに正面から向き合って逃げようとせず(曝露法)
痛みと自分との距離を置くことで(脱中心化)
症状を和らげていることになります マインドフルネスの定義(Kabat-Zinn)は
「今ここでの経験に、評価や判断を加えることなく、能動的に注意を向けること」です
>>238の痛みに対する方法の例ではこの定義の「経験」を「痛み」に変えて
そのままを実施しているだけなのが分かります
不安障害の場合なら定義の「経験」を「不安な症状」にすれば良いわけです
ちなみにマインドフルな状態というのはこの絵を見れば非常に理解し易いです
https://files.allas.se/uploads/sites/20/2016/10/Mindfullness-Heidi-Forbes-%C3%96ste.jpg
右の女の子の状態が理想的なマインドフルな状態です
でも片っ端から雑念を消そうとしたりしてはだめです
そんなことをしたらますます雑念が増えてしまいます
能動的に今の経験に注意を向けるだけで良いのです
徐々にマインドフルな状態になっていきます
これをマインドフルネスと言います(上記の定義そのままです)
ただし今の経験に評価判断を加えるとそれをきっかけにして
それが好ましくない場合はそれを取り除こうとしたり
好ましい場合はそれをもっと欲しくなったりして
新たなドラマを作り出して雑念が増えてしまうので注意が必要です
よくマインドフルネスはただほっておくだけだと誤解されますが
ほっておけば左の大人のようになるから
能動的に今の経験に注意を向けなければならないのです だから、その手のマインドフルネスが効果があるのは、
心に問題を抱えている人に多くなるのですね。
病的な人には、ギプスをはめるやり方が効果があって、
毒をもって毒を制すやり方が役に立つということです。
いわしの頭も信心で、思い込みやプラシーボ効果も手伝っています。
能動的に注意を向けるとはそういうことです。
操作するとはそういうことです。
しかしこれは本来のやり方ではありません。
この手のマインドフルネスも、困っている人には役に立ちます。
仏教の技法とは違うことだけは理解する必要があるでしょう。 人の話を聞かないで自分の思い込みだけを語りたがる人 仏教のマインドフルネスだろうと世間に広まってるマインドフルネスだろうと最初初心者には同じようなことやらせると思うけど >>240
そうです!貴方の言う通りですよ!特に最初は(初めて1年ぐらい)これでやり方は合っているのか 自分は進んでいるのかなど わからないことばかりなので 分かりやすい印が必要なんです
あ 自分は本当に何々なんだ!なんていう いわゆる気づきです 親に縛られていたとか 傷ついていたとかね そこで気づいただけで重荷が降りていく 順風満帆ぽい私でさえも色々自分で自分の気持ちに蓋をしていたことに気づきましたからね
そこを超えるとただ観る意識になっていきます 要はそこまでいくための餌です 頑張るための餌みたいなもんです
普通の人間ならどんなに恵まれた環境でも本人は何かしらの問題を抱えていると思います 100億円持っていても1000億円持っている人に嫉妬するかもしれません
むしろ病的でない人には修行は必要ありません 既に問題がないのですから 頭に浮かんできたイメージを握らずに転がしておくということが、つまり能動的に観察するということじゃないかい
能動的と言っても何にもしないんだから 毒をもってとか、最初から悪意に縛られて発言しているように見えます 例えば暑い時に暑さを感じて、反射的に感情的になって実際の暑さそのものに関係なく暑くてやってられん!と騒ぎ立てるのは、何も心に問題を抱えている人でなくても普通の人でもやりがちだよね
マインドフルネスがやっているのは、暑さを感じた時に、即感情に流されるのではなく、暑さを微細に感じること(暑さに対して対応しないということではない)
このへん禅も同じだと思うんだけど違うんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています