--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 いっておくけれども、
己れの無知を恥じること無く自ら露呈して、ヒンドゥー馬鹿にするのも大概にしておいたほうがいいぞ!
仏教瞑想ですら、そのすべてが元々、バラモンヒンドゥーから学んだものだ。
すべてがヒンドゥーにあるのであって、ココこそあらゆる叡智の源泉そのものなんだから。
何? たしかヒンドゥーは有我論だから初禅レベルに過ぎない低い瞑想だとかもいってましたっけ?
その低レベルのヒンドゥーには、近代においても滅尽定レベルがゴロゴロといる。
長老は、ラーマクリシュナも馬鹿にしてたけれども(長老の理解では、アートマンを語ればすべて低レベルだ)、
ラーマクリシュナ最愛の高弟スワミ・ヴィヴェーカーナンダは心肺機能完全停止の仮死状態で一週間後に意識を戻すといったことが何度もあった。
外的には完全に肉体死と同一の状態であり、彼らは自らの深い瞑想の境地によってそのような状態になるのであり、
そして、その定から覚めれば肉体蘇生して通常意識へと戻るわけ。
ヴィヴェーカーナンダは何度も、その境地のあまりの素晴らしい心地良さ(至福の境地といわれる)のために、
もう、そのまま肉体意識には戻って来たくないこと (それは苦痛であるから) を師に嘆願すると、
「この馬鹿者め!」と師であるラーマクリシュナからは、“肉体生存は義務である”と何度も叱られるといったことが続く...。
もちろん、二度と意識を吹き返さない場合にはそのまま肉体死を迎えることになる(それは本人の意志に拠る)...。
パラマハンサ・ヨガナンダも同じくマハー・サマーディ(同様の滅尽定レベル)のままで、
自らの意志で肉体を放棄しこの世を去った(若くして使命を全うしたことによる自殺)。
ヨガナンダはこのマハー・サマーディでヨーガの本物の科学的奇跡を示すといってから定に入った...。。
そしてその通り、ヨガナンダの遺体にはまったく腐敗しないという奇跡の不朽現象が示されたのです。
当然、ヒンドゥーにおいては今日もまったく同じであって、今も随所にそういう驚嘆すべきレベルの聖者が何人でもいる。
ということなので、仏教僧侶たちの状況について提示を願う。
繰り返しいう。
「ヒンドゥーを知らない人しかヒンドゥーを馬鹿にしない」
>滅尽定レベルを現実に示せる人というのはいったい何人います?
↓とりあえず有名な?上座部系の僧
ウ・ジョーティカ・セヤドー
マハーシ・サヤドー
サティア・ナラヤン・ゴエンカ
パオ・セヤドー
パオ・セヤドーの弟子の山下良道僧侶の場合は
阿羅漢道智によって余す所なく滅尽する時
五蘊もまた般涅槃の時に
余すところなく滅尽します
因縁滅を了知する智慧
因縁滅智
↑ここまで4年掛かったらしい
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
上座部 パオ・セヤドー
因縁滅を了知する智慧 因縁滅智
世界の中には
因縁滅を了知する智慧まで逝っている阿羅漢もいると思うけど
日本には何人いるのかな?ということで ヨロ m(_ _)m
>>592の補足として
上座部 パオ・セヤドー
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/23/065209
…
一歩一歩修行する事によって
非想非非想処まで到達する事ができます
その他の止禅業処の修行もできます
その後に観禅の修行をし
各段階における観智を証します
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/09/27/175858
因縁生滅智
刹那生滅智
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
(どこの誰が?)
戒から定(三昧)を生じ、定によって智慧を得、智慧によって解脱に到達し、解脱によって解脱智見を知る
戒・定・慧・解脱・解脱智見
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若(の智慧も慈悲も)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%AF%E3%83%BB%E3%83%8A%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%8F%E3%83%B3
ベトナム出身のティク・ナット・ハン
マインドフルネスの普及活動を行なっている
日本の場合は
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐? スマナサーラ長老の「聖者論」も面白かったです。
これ全部聴いてみてくださいね。MP3ダウンロード
「インドでグルと名前の名乗っている人のほとんど99,99インチキなんですね」
「インド人も言うんです」
「グルはいくらでもいるんですよ」
「本物はひとりもいやぁせんのです」
「だから、何で自分を宣伝するのかて、それが自我(エゴ)なんです」
いいですよ。スマナサーラさんの辛口は! 仲間だと思いました。
http://teruterulog.jugem.jp/?eid=420
ttps://blog.goo.ne.jp/hhynk/e/135d45345210d9384075a6349cf75349
大念住経(大念処経)
(「仮設としての」という意味で)
地の要素、水の要素、火の要素、風の要素がある
(最終的には、地水火風の微細な粒子も手放していく)
ttp:// mor fov.blog 79.fc 2.com/blog-en try-62.html
現代のミャンマーで行われているパオ流の「四界差別観」
ttp://yamaneko.hatenablog.jp/entry/2015/07/18/061429
(上座部 パオ・セヤドーとかの場合は)
通常は、四界分別観から修行を始めなければなりません
(ちなみに
おじゃるには難しいので全く四界分別できない
それゆえに
呼吸も 3秒も見れない おじゃる)
ttp://www.geocities.jp/bodaijubunko/h/paauk.jhana.htm
第一禅定を支える五つの要素
ヴィタッカ(尋)
どこかへ飛んでいってしまう心を集中対象である呼吸に戻してくる要素があります
五禅支
尋(ヴィタッカ) - 認識対象把握
伺(ヴィチャーラ) - 認識対象維持
喜(ピーティ) - 喜悦
楽(スカ) - 安楽
一境性( エーカッガター) - 集中
空海『菩提分法是れ法宝なり』ということで ヨロ m(_ _)m
>インドでグルと名前の名乗っている人のほとんど99,99インチキなんですね
この論法でいくと
人間の力や自然の力を超えた存在を中心とする観念
宗教・崇拝・信仰
科学崇拝・科学信仰
「仮設としての」という意味で
無明に依存しているのなら「99,99インチキなんです」
とりあえず↓一応、念のために
仏教は「他の宗教の信仰とは違う」という人も、いるかもしれないけど、それでも
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭を裂け落とさせるものである
(他の宗教の信仰とは違うものであったとしても、それでも)
仏教には、仏教としての
信仰と念いと精神統一と意欲と努力がある
という対機説法なので ヨロ m(_ _)m 591.そんな聖者にはなりたくない。
なんでか。
それは自己満足でしかないからである。 仏教はひょっとしたら
カルトではないのか?
原始 小乗 大乗 密教と
プラユキ・ナラテボー
カトリック司祭ルベン・アビト教授に師事し…
キリスト系とかからの → (チベットも含めて)上座部系へ
という場合も結構あるらしいでつね
ttp://www.onedhamma.com/?p=6674
(キリスト系)
柳田神父とかは
ゴエンカ系そして 3.0とかもやっているようでつ
いま現在の崇拝・信仰を手放して超えて
他の宗教の崇拝・信仰に移る場合もあるかもしれないので
それゆえに
他の宗教の崇拝・信仰を批判しない方がよい場合もあるかもしれない
ということで ヨロ m(_ _)m
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%99%E3%83%83%E3%83%88%E4%BB%8F%E6%95%99
チベット
(極力、幅広く?ということで)
根本説一切有部律の厳格な戒律に基づく出家制度から
大乗顕教の諸哲学や、金剛乗の密教までをも広く包含する総合仏教であり…
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%92%E3%83%83%E3%83%94%E3%83%BC
ヒッピー(今までの?)人間生活を否定することを信条とし… 仏教 の 「 無為 」 とは 何か ? ── アビダルマ の 犯した 間違い、その@ ──
https://blog.goo.ne.jp/waikei2008/e/ed0c0059c84087c3ab1b06553b811c77
この和井恵流と言う人によると、
部派仏教で無為に対して「 永遠不滅 ( 恒常・不変 ) 」 という 解釈がされるようになり、お陰で無為を真我と同義であると錯覚するようになってしまったらしい。
本来は無為とは不可知であるはずなのに
>後世の アビダルマ論師たち が 解釈 してしまっているような、
>「 無為 」 とは、 〈 因縁によって造作されないもの。生住異滅の四相の転変がないこと 〉 であり、
>〈 人為的に作られたものでないもの。因果の関係を離れ、生滅変化しない永遠絶対の真実。真理。 〉 であり、
>〈 仏教では原因や条件 ( 因縁 ) によって作り出さたものでない、不生不滅の存在をいう。
>涅槃のことを 〈 無為 〉 というが、それは涅槃が生死輪廻を超越した、不変のものであることを表現した 〉 のである。
>… というような 諸々の 解釈 ( 定義説明 ) は、全て 、 誤謬見解 ( 迷妄 ) である ── と、断言 すること が 出来る のです。
となってしまったと。 だから、
シンプルに、 ≪「有為」でないもの≫「作られたのでないもの」(→「生じさせられたわけではないもの」)
として言語化されただけで、特別なもの・ことではない、
(まさしく、無我が非我「an-attan、an-Atman」であるように。 ・・・a-sankhata、a-saMskRta )
と理解すれば、何の不具合も無い筈なんだけどね・・。
有為でない、という意味しか持たなかったものが、
いつのまにか『永遠なるもの』という性質を帯びてしまい、
終には、修行者が目指すべき本来の自我、真我と見做されていくw
(なんという主人公、なんという本来の面目、なんという無位の真人w
そうかぁ・・・臨済禅師も、実は神智学徒だったのカモナー・・・ )
↓これでつかね?
ttp://www.sets.ne.jp/~zenhomepage/rinzairoku1.html
臨済録:その1
…
今の喝は無位真人(本来の面目=真の自己)に収まりそこから出ている
_ _ _
無住処涅槃を前提として
仏そのもの
仏性からの真如縁起をもって…
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1528362218/501
栄進師匠からの、お言葉
『本当の私、自分を探せ!』
_ _ _
大乗 1.0の世界をもって
上座部 2.0を実践して逝く
3.0とかも
本当の私に・本当の自分に
如来我(仏そのもの)に戻る帰る
という対機説法で おじゃりますので ヨロ m(_ _)m
道元 普勧坐禅儀
(本来自性清浄涅槃に留まっているのなら)
そもそも仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない
>神智学徒だった?
ttp://soto-tokai.net/cgi-bin/kotoba.cgi?page=41&bl=0
正法眼蔵生死の巻より - 曹洞宗 東海管区 教化センター(禅センター)
この生死は、すなはち仏の御いのちなり
この生死は(無住処涅槃を前提としてる?)仏の御生命であり…
道元禅師も?
神(仏も含めて?)とむすびついた神智学(theosophy)?
日本土着の神祇信仰(神道)と
仏教信仰(日本の仏教)が混淆し
一つの信仰体系として再構成(習合)された神仏習合?
その当時の、インド・中国・日本とか(その地域)の
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない。という法もある
というような『想い』も一応認めて
日本土着の神祇信仰(神道)
というような『想い』も一応認めて、さらにその理解のうえで
その結果としての、本来自性清浄涅槃?
あるいは、無住処涅槃? ブッダゴーサ(清浄道論Visuddhi Magga)
『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。 結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』
ブッダゴーサはアートマンを認めてないのだろう
全ては現象であり縁起であり無常・苦・無我(空)であるとしている様子 >>598
あなたは「カルト」の意味を分かっていってます?
宗教や霊的がカルトということではないですからね!
この日本では、「宗教」は公然のものとしてその信教の自由が認められています。
単に、「宗教」ということだけでは”カルト”などとはいわない。
ここに私が纏めたページがありますから、
それを読んでカルトの正しい意味を知ることです。
でないと、恥ずかしいことですから。
『宗教:
神または何らかの超越的絶対者、或いは卑俗なものから分離され禁忌された神聖なものに対する信仰・行事。
またそれらの連関的体系。帰依者は精神的共同社会(教団)を営む。(広辞苑第4版)』
宝珠編著:「カルトの特徴とは」
http://houjugusya.web.fc2.com/cult.htm >>592
情報ありがとうございます。
おじゃるさん、さすが調べるのが早いですね。
で、この私が知りたいのは、
ただ単に「滅尽した (する) 」といった言葉ではなくて、
それは、いつ何処で誰々といた際の出来事だったのか?
そして、その時の周囲の状況や、最も肝心の瞑想者当人の状態
(特に肉体の外的状態の変化等々)についての詳細情報のことです。
何処かに、その情報や記録があるのですか? >>607
同じことはヒンドゥーでも説くよ。
あなたが知らないだけのことだ。元々、アートマンは行為しないから。
マハリシを学び『ギーター』を読むならあらゆる疑問はすべて消散する。
単に、部派に洗脳された上座部仏教の注釈者に過ぎない人間によるアートマン否定論などに価値などない。
ゴータマ・ブッダ同様、本当に解ってる者はアートマン否定などしない。
『人間の自我意識(アハンカーラ)がマーヤー(幻)である。その自我意識に幻惑された人は、「私は行為者である」と思うのだ。
自我という「私」が死ぬと苦しみは無くなる。もし【神の慈悲】によって、「私は行為者ではない」という自覚を得たのであるなら、
その人は生前解脱者になったのだ。その人にはもはや恐れるものなどない。』
(ラーマクリシュナ)
『行為する、あるいはしないについて心を悩ませてはならない。汝自身を知りなさい。行為とは一体誰の行為なのか、観察しなさい。
それは誰のものなのか。自然に行動してみなさい。行為する者がいる限り、行為者は行動の成果を刈り取らねばならない。もし彼が自
身を行為する者であると考えなければ、彼にとって行為は存在しない。そのような人間こそは、世俗的生活を捨てた行者なのである。』
(ラマナ・マハルシ) 『心の実修を修めた者は、この世において善行と悪行の二つを捨てる。それゆえに、おまえは実修に専念せよ。(私欲のない)行為に熟達
することは、この(心の)実修にある。(2-50) 心の実修を修めた賢者は、行為から生ずる結果を捨て、生の束縛を脱して、わずらいのな
い境地(解脱)に到達する。(2-51)
行為はわたしに影響せず、また行為の結果をわたしは期待しない。わたしをこのように理解する者は、行為に束縛されることはない。(4-14)
すべての行為が欲望や意図を離れた人、その行為が智恵の火で焼き尽くされた人を、智恵のある者は賢者とよぶ。(4-19) 行為の結果
に対する執着を捨て、常に心が満ち足り、他に依存しない者は、たとえ行為にたずさわっていても、なんら行為を行わない。(4-20)
期待を抱かず、心身を制御し、すべての所有物を捨て、身体のみによる行為(生理的行為または、なんら期待を求めない行為)を行う者は、
なんら罪過(輪廻)を得ることはない。(4-21)
行為の結果を期待せず、義務的行為をなす者、彼は遠離者サンニャーシンであり、実修者である。(6-1) パーンドゥの子よ、遠離サンニャーサとよ
ばれるものは(行為カルマの)実修ヨーガであると知れ。なぜなら、意図を遠離することがないならば、いかなる者も実修者ではないのだから。(6-2)
実修にのぼろうとする者にとっては、行為がその手段とよばれる。すでに実修にのぼりついた同じ者にとっては、静寂(行為の止息)が
(解脱を得るための)手段とよばれる。(6-3) なぜなら、感覚器官の対象や行為に執着せず、すべての意図を遠離するならば、彼は実修
にのぼった者とよばれるから。(6-4)
自己の本性によって規定された行為を行う者は、罪過を招かない。(18-47) 』
(宇野 惇訳『バガヴァッド・ギーター』) >>608
『イニシエーション』とは、
これは“文化人類学及び民俗学用語”であって
英語では一般に通過儀礼を意味するものとして使われます。別に神智学の専売特許ではありません。
西洋オカルティズムの系譜においては「秘儀参入(儀式)」を示すものとして、
これは近代神智学が発生する以前から西洋のオカルト世界においては広く使われてきたものです。
尚、神智学においては人類の霊的進化促成のためにハイアラキー(聖白色同胞団)の覚者方によって導入された内界での秘儀灌頂の儀式です。
1-2段階イニシエーションはMaitreya (仏教での弥勒存在)によって与えられ、3段階以降〜の高位階はサナート・クメラが司ります。
『アストラル』は、
パルケルスス(ヨーロッパ16世紀に活躍した医師にして錬金術・自然哲学者)から神智学へと流入した言葉で、
神智学においては情緒・感情の意味であり、普段は主に「アストラル体」(情緒エネルギーで形成される不可視の体/幽体)や
「アストラル界」(想念界/アストラル体が過ごす階層)などとして使われます。
間違いなく、この言葉を全世界に広めたのは神智学運動による功績であり、
現在では世界中のスピリチュアル組織において、
そして、ヒンドゥー関係においてもヨーガの説明のために導入されるケースが増えました。
とにかく、誤解を招くような発言は控えてもらいたいものです。
別に麻原教祖やオウム団体が神智学協会やその他の継承グループと交流したなどというものではなく、
彼が勝手に自身の教義を説明するための語句として神智学用語を多用したということ。 >>603
だから、アビダンマそのものが間違いなのです。
まっ、実際には「有為」「無為」という語句そのものがもビダンマ考案のものなのですが....。
そのサイト著者に対しては、「一切(法)」の中へ勝手に無為/涅槃を含めたのが部派である
ということが理解されれば、別にそれですべて済む話だといいたい。
一切(有為)とは異なるものがあると説いたのもゴータマなのです。それが無為/涅槃なのです。
だから、『ウダーナ』経を読めばすべて済むことですから。
>>604
『「無為法(asamskrta-dharma)とは不生不滅の永遠の存在とされているものである。無為の語は原始経典にも涅槃の同義語として
しばしば出ている。しかし原始経典で説く無為とは存在論的なものではなく、涅槃が生死輪廻を超えているとされるために、生死
にわたらないということを無為といったものであって、それは主観的な心情を述べたもので、客観的事実としてのものではない。
それを部派仏教では不生不滅の客観的事実としての存在として無為を考え、有為という存在に対するものとした。これは原始仏教
では説かない概念であって、仏教本来の立場を逸脱したものである。」(p145)
「原始経典に涅槃の同義語として、無為、終極、無漏、真諦、彼岸、微妙、極難見、不老、堅牢、不壊、無譬、無戯論、寂静、
甘露、極妙、安泰、安穏、愛尽、希有、未曾有、無災、無災法、無瞋害、離欲、清浄、解脱、無住、州(灯明)、避難処、救護処、
帰依処、到彼岸などの語が掲げられている点から知られる。
涅槃の語は仏教以前から存在したらしく、---中略---しかし涅槃と同じく生死輪廻を超えた悟りの境地として、パラモン教では
古くから不死(amrta甘露)の語があり、仏教でも不死は涅槃の同義語とされた。」(p170-171)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) 「ある」と言っていないことを、「ある」という意図である、
と読み替えてる人間が、部派の考察を批判する『資格』も『権利』も『正当性』も、
どれ一つとして欠片も無いと思うんだけどねぇ・・。
いったいどれくらい厚い面の皮なんだかw >>宝珠 仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。
仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じというような宝珠論には無理がある。
涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから
そちらの方向に流れてしまうというのは分かるけどさ。 >>621
@仏教には無為(法)があるから神も真我も肯定される。
A仏教の無為(涅槃)は梵我一如と同じである。
というような宝珠論には無理がある。 >>594
そりゃ〜ダメ導師や偽導師もいるでしょうよ。沢山...。
けれど、「殆ど99.99インチキ」などとは悪口もほどがある。
ラーマ・クリシュナのレベルならそんなことはない
(まっ、長老からみれば所詮はアートマンを口にする者はすべてインチキグル扱いなのだろうが?)。
ラーマ・クリシュナはNHK講義の教科書でも扱われるほどの世界的な評価の歴史的聖人の一人です。
受信料払いたくないからNHKは見てないのかな? >>621
>涅槃と梵我一如の境地は同じとする津田真一のような学者はもともと真言宗の住職だから
なるほど...。
では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 >
の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、
“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と?
まっ、ヒンドゥーも学び神智学徒であるこの私からみれば、
津田氏同様に「涅槃と梵我一如の境地は同じ」ものとみますけれど。
しかし、そうではないあなた方が無理に同一だと見なす必要性はありません。
私があなた方にいいたいこととは、その可能性は残されるということと、
ヒンドゥーを有我論という理由で愚弄する行為は即刻、辞めるべきだということです。
それは無知に拠る仏教側の醜態的な恥晒しなのだから。 >>604
>実は神智学徒だったのカモナー・・・
自分たちのミス(無知や誤解で勘違いしていたこと)を
神智学のせいにしたり、このわたしのせいにしたりしないでもらえます?
部派の教義を鵜呑みにして洗脳されていたのはあなた方の勝手ですよ
(ちなみのこの私も仏教を学んだ当初はあなた方とまったく同じだった。
「アートマンなどは無い」、「ヒンドゥーでは解脱できないから仏教が在るんだ」、
「唯一の真理は仏教だけだ」と見なしていた。けれどもそんな間違った偏見などは約三年で気付いて脱却している)。
仏典(の記述)を読んでなかったあなたがた自身が悪い。
私がすでに論証したように、
最初から、すべて仏典の教えに忠実でさえあれば何も問題がない。
「一切」(「一切法」とは、一切の諸法則についての教えとその中における人間の正しい生き方、及び修行の在り方を説くもの)
とは、「六根.六境/十二処」のこと。これは「五蘊」ということであり、「五蘊」は“厭い離れべき悪魔”であるとゴータマはいった。
「五蘊」は「無常」であり、「無常」であるものは「苦」(自分の思い通りにならないこと)である。
そして、「苦」であるものは「無我」(わたしのものではなく、わたしの本体でもない)であるといった。
“厭い離れべき悪魔”であり、「苦」だという「五蘊」(つまり、これが「一切」です)の中に、
仏教の目指すべき究極のゴールである「涅槃」が含まれる筈がないでしょう。
「五蘊」というのは、“五取蘊苦”とか“五盛陰苦” (五蘊/一切法に対する取著執着はすべて苦である-水野氏)として知られる。
そして「一切」は、“一切皆苦”(正しくは、「一切行苦」であるが、
この場合「行」は五蘊の「行蘊」に限定したものではなく一切法そのものを指している-水野氏)だといわれる。
“苦の滅”(苦悩から永遠に解放された安らぎの境地)である「涅槃」が、「苦」の根本要素である原因となる「一切」の中にある筈がない。 仏教のすべてのスタートは“四門出遊”のエピソードにある。
ゴータマが人々の“病→死”“老→死”といった姿を目の当たりにして衝撃を受けて、それらの苦悩からの救済を求めたことに始まる。
であるから、苦を滅した安らぎの境地である涅槃が一切皆苦の中にあるわけがないのです。
涅槃はあくまでも、一切法における修行の最終結果としてあるものであって、
その境地は、“一切とはまったく異なるもの”です。
それは“没することなく(終わりがない/永遠)、依り所のないもの。生起せず、所縁のないもの”。
そして、涅槃は「無為」(「有為」ではないもの)であるからこそ「有為」(現象界)からの“出離を覚知する”と教えている
(当たり前のことですが、同じものならば出離を覚知しない。異なるからこそ出離を覚知する『ウダーナ』8.1-8.3)。
“涅槃とは無為”であり、
「無常・無我・無自性・空」(現象界の諸性質)ではないことが明らかになったのならば、
元々、現象界を超越しているアートマンを否定する根拠にはならないのは自明の理です。
仏教においては確かに、ヒンドゥーのようなアートマンは説かないが、
仏教が求めるべき“真実の自己”(Vin.Maha^vaggaT,13.p.23)、本来は煩悩に拠らない“心性清浄である自己”(AN 1.6)、
そして、『煩悩を滅して死の領域を超えた真人は「わたしが語る」と言ってもよい』(SNT,3-5 )
と、説かれたゴータマの教えがアートマン性質の核コア部分に相当することは素直に受け止めなければならない事実だということ。
従ってつまり、最終的な結論としては、仏教ではヒンドゥーのようなアートマンを説いていないからといって、
彼らの実体験に基づくアートマンについての教えを「妄想だの」、
「在る筈がない」だのということはできない(そういう発言は恥ずかしいから辞めなさい)。
まして、ゴータマが「アートマンは無い」といったなどというのは、
自分たちの無知からくるまったくの妄想に過ぎないことを恥じて早く自覚しなさい、
ということです。 あなた方が悪いのではなくて、
あなた方は部派教義に洗脳されしまった云わば被害者なのです。
その自覚が大切なのであり、心を落ち着かせて事実に対して素直になる必要があります。
さて、今でも麻原に拠って洗脳され続けている後継団体『アレフ』の現信者たちと、
あなた方では、どちらが先に洗脳が解けて真実に目覚めることができるでしょうか? citta = 自己、自我 とか、 citta = 真我、ましてや、無為涅槃だとか、
御笑い種だろw
cittaは、縁起性の諸法じゃないのかい?
(真我や無為涅槃は、制御されるようなものなのかい?) >>心性本浄 バカ宝珠はカルトの信者である。バカだからして、自分では理解できないのだよ。 >>624
>では、水野 弘元氏< 日本のパーリ語仏教(原始仏教)の研究者にして駒澤大学総長を務めた同大名誉教授 >
>の場合は、曹洞宗僧侶(長崎県天諫早市『天祐寺』元住職)だから、
>“涅槃と梵我一如の境地はそれ程違ったものではない”という評価に留まった、と?
(正法眼蔵の)「仏性」で道元は「世界が1つの自我によって成り立っているというのは、外道の邪見である」と言います。
これはヒンドゥーイズム(インド思想)のブラフマン(真我)の否定です。
また道元は「仏性のことばを聞いて、修行者達の多くは、外道の唱えた永遠の我のように誤って考える」とも言います。
これもブラフマン(真我)やアートマン(真我)の否定です。
https://blog.goo.ne.jp/anandabhavan/e/f841f2ac08de31220754546e08838705
上記引用文のソースとなる正法眼蔵の仏性の章(↓)
http://www.dogen-shobogenzo.com/bussho2.html
その後曹洞宗は密教化してきてるし、
また中興の祖と言われた井上義衍禅師の思想も無我論者でありながらもどこか宇宙意識のようなものを認めているようでもあり、
道元の頃とは違ってきてると思う。
水野氏もその流れの中にいるのかもしれない? >>633
水野氏が何で密教化なんですか?
都合が悪いと「密教だから」ですか???
水野氏は、パーリ語仏教(原始仏教)の日本を代表するエキスパートですよ。
対する「道元」(日本仏教の大巨人としては評価しますけれど)は、まだ近代仏教学を知らない鎌倉仏教の時代の方。
五時八教の支配下にあって原始経典である阿含経を小乗扱いしていた時代であり
(天才道元は阿含の価値に独自で気付いた形跡はあるが...)、
当然、すべて部派仏教のアビダンマ教学に洗脳されていた人間の一人ですよ。
その道元の説くアートマン否定意などには正論などは何処にもないのです。
そんなもの無価値ですから。 >>628-629
貴重な学生時代のテキストの開示をありがとうございます。
とても真面目で熱心に勉強されていたことが伺えてとても嬉しく思いました。
私の感想と理解としては、ご指摘の通りで確かに「citta」(心)では、自己の究極の本性としての真我(アートマン)を示すものとは
いえないでしょう。けれども、仏典というのは意外と使用するその言葉はかなり広義的で曖昧だったりもします。第一、仏典では自己
(わたし)を意味する言葉そのものが、すべて「アートマン」なんですから。
原語はパーリ語でアッタン(attan)、サンスクリット語ではアートマン(ãtman)ですが、幅広い自己の状態を示す明確な使い分けがな
く何でもアートマンです。日常の会話で使用されるごく普通の意味合いでの仮和合的自己もアートマン、形而上学的な意味合いの自己
でも、ウパニシャッドの究極的存在でもアートマン。
だから、仏典に出てくるアートマンについては、それがどのような自己のことを指しているのかを前後の文脈から読み取らなければ
ならないのです。私はそのことを、セブンと対話を始めたばかりの9年以上も前にそのことを指摘しましたよね。けれども当時のセブ
ンはそのことをあまり取り合わないようでした。「アートマンなどある筈がない」という決め付け理解のあなたにとっては、さして重要
なこととは見なされなかったのでしょう...。
しかし、これは非常に重要なことですから。でないとそれが、日常の自己の否定なのか? またはどのアートマンを否定し、或いは肯
定しているのかも何も見えなくなるからです。 因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimmáça)の三つの語が用いられているところから、「citta」
の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
の語を使い分けしてるのでしょう。
ユング心理学では人間の意識レベルを、「表層意識」、「個人的無意識」、「集合的無意識」、「類心的領域」という段階によってその意識
の深さを説明します。「citta」にも本当は、「識」の中の最奥深層域である阿頼耶識(魂)の意味を含めて語る場合も当然あるのだろうし、
その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。
で、結論なのですが、
道の修行において自己の心(citta)を制御することなく、
真我(アートマン)や“仏教の説く真実の自己”でもいいですが、
それが顕れることができるとする教えが何処かにあるのならばどうぞ教えてください。
私はそんな教えは、仏教にもヒンドゥーにもまったく皆無だと思っていますが...
制御すべきは当然、日常のこの心の状態のことですよ! 真我が顕れるのはその結果ですから。
〜如何ですか?
水野氏は、
あなたの学んだその大学総長にして名誉教授。そして、宗門の大先達ですよ!
是非、心を開いて水野氏の言葉に向き合うことを私はお薦めしますが...。 さて、
次はどうしたら日本仏教界から“唯物論(唯物僧侶)”を排除できるか?
そして、霊供養を信じてない僧侶による詐欺供養、詐欺法要(詐欺の通夜葬儀)を駆逐できるのか?
でもいきますか!!! >>636
>因みに仏教では、異名同義として「心」(citta)、「意」(mano)、「識」(vimmáça)の三つの語が用いられているところから、「citta」
>の語そのものに奥深い意味を含ませているものと理解できます。たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つ
>の語を使い分けしてるのでしょう。
独自解釈すごいな
都合よく解釈して自己正当化するのが宝珠流アビダルマだな 隠居や在家とやったみたく、一言一句添削しなきゃならんかねぇ・・・w(呆 >>635
このように私は聞いた(如是我聞)の時の私はme
無我を表す時に2番目に来るこれは私ではないの私はahaṃ ああ、一部抜き出しとくか。参考に・・
> 「これあらばこれあり」という此縁性を否定するものは、もはや仏教徒ではない。
> 「これあらばこれあり」という認識論、言語習慣を尊重することが
>「これあらばこれあり」という認・・・ はマズイっしょw 後者は「かれ」でないとw
> いやいや、これは原語ママですよ。
> 「これ」という指示代名詞は、名指し、言葉の働く根源状態をよく表していると思う。
> 例えば、「これ」と指さしながら説かれていることを想起すると分かりやすいと思う。
> 釈尊のお言葉は、一見すると単純なことを述べておられるように見えて、
> 重層的にいろんな段階でも対応できるようになっていて、流石ブッダと
> 驚愕することが沢山ありますが、中でもこの此縁性は最も含蓄の深い言葉ではないかと思われ。
> 水野片山を始め、どちらをも「これ」と訳している者は居ないと思われるが、
> その意図も汲むべきでは?(特に「この場面(隠居相手)」に於いてはw)
> その使用に際しての曖昧さは日本語の指示代名詞でも同様だが、同一であることが示されているわけではなかろう?
> 文脈として別個であるから(→時間的先後を加味するから)、「かれ」と訳されているのではないかい?
> それとも、中観的には「同一」であることが強調されねばならない?
> そこはママがいいと思ってる。 > 「これあらばかれあり」と訳すと意味が損なわれるように思うっす。
> 生命教とかタヌポンは何書いてもどうせ分からないから、彼に書いてるわけではないです。
> 峻別(断絶)の危険性を怖れれば、その方が良いかもしれない。
> その意味で気持ちは解るが、格変化のない日本語での表現に於いては、
> 言い換えておいた方が良いように思うわけさ。 ―― 以下略 >>639
心に意識を入れるのは有部や唯識だと確かにそう分類されるが日頃部派仏教やアビダルマを否定している人がそれやっては駄目だよね
初期仏典に「比丘たちよ、心とは何であるか。意と識である」と書いてあるのを探してもってこないと
いつも人にそうやって要求してるのだからw >>639>>644
あまりにも偏見が酷いね!
そうやって素人イジメですか?
この私は、
水野氏の解説に深い全面的な信頼を寄せてるので、どうもすみませんね。
『原始経典では識の異名として心(citta)、意(manas,mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称が異なっても同じものを指
すとされている。部派仏教もこの立場を採用しているが、瑜伽行派になると心・意・識の三者はその名称も体も別であるとされている。』(P134)
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊)
文句あるの? たとえ、草野球や草サッカー程度でも、そこに参加するなら、
最低限のルールや、プレー上の約束事は「知っていて」「則る」ことが必要だろうに。
観戦するだけだったとしても、指摘や野次が見当外れでは、言われた方も気分が悪かろうてw
「何も知らない素人なんで・・・(テヘペロ」
が許されない場面ってのも、大人の世界にはあるのよw >>645 19 比丘たちよ、では、どのようなものが、識(識別)なのでしょうか。
比丘たちよ、これら六つの識別にかんするあつまり(カーヤ)のことです。
色(いろかたち)についての識別、音声についての識別、香りについての識別、味についての識別、触れられるものについての識別、意(心)についての識別、
比丘たちよ、これが識(識別)であると言われます。
名色の集起によって、識の集起があります。
名色の滅から、識の滅があります。
この聖なる八支の道が、識の滅に向かう道(方法)です。すなわち、正見、正思、…、正定であります。
(サンユッタニカーヤ )
http://manikana.la.coocan.jp/canon/upadanaparivatta.html >>647のサンユッタニカーヤの説法に従う限り
心=意=識
ではなく
識=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識
また心=意識ではなく心=受想行識ではないかと思う(これは私個人の解釈)
------------------------------------------------------------------------------------
(参考)
説一切有部五位七五法だと
心(心王)=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識
唯識五位百法だと
心=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識+末那識+阿頼耶識
軽量部だと
心=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識+(受+想+行+慧+念+触…などの心所)
テーラワーダだと
心=欲界心(54法)+色界心(15法)+無色界心(12法)+出世間心(8法)
部派仏教では部派によって心に含まれる法の数や種類に違いがみられる
にしても>>645の水野氏の解説は上記と照らし合わせるとちょっと違うのではないかと思う
・原始経典では識の異名として心(citta)、意(manas,mano)をあげているが、この心・意・識の三者は名称が異なっても同じものを指
すとされている。
→サンユッタニカーヤの釈迦の説法ではそうではない
・部派仏教もこの立場を採用しているが
→部派仏教の中でも確実に心・意・識を同じものとしているのは知られているなかでは有部のみ
・瑜伽行派になると心・意・識の三者はその名称も体も別であるとされている
→全く別ではなく同じ心法の中にカテゴライズされている >>650
>水野氏の解説は上記と
別に宝珠の肩を持つわけではないが、
心的作用・意識作用(特に「意図のあるもの、意欲的に方向性を持ったもの」)は、
「意manas」であり「行であり、「心による行為(→業)」である、と見做せるならば、
広く「心citta」と括った場合、そこには「意」としての働きも「識(認識)」としての働きも含まれざるを得ないのでは?
その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。
勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、
最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである―
という言い方が妥当かどうか、だが・・・。 つーか、
「固定的決定的絶対的な、善なる・浄なる・安穏たる様相」を持たない、
そのような(縁起性の)千変万化なる「心」なるが故に、
それを、善き方向へ向かわせねばならんし、三毒に染まらぬようにせなならんし、
一切を放著して、静めねばならんのじゃなかろうかね・・。
その意味で、慧可の安心も、その後数多の禅家の言わんとするところも、
そうした、静まりきった心(≒境地)かもしれん。
おっと、ここで ≪「心」=「(寂滅の)境地」≫ という新たな等式が出現してしまった!(汗 Σ(゚д゚; >>650自己レス
>→部派仏教の中でも確実に心・意・識を同じものとしているのは知られているなかでは有部のみ
有部は
心(心王)=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識
なので心=識=意ではなく
心=識=眼識+耳識+鼻識+舌識+身識+意識
になる
と訂正します
>>651
識といっても意識mano-vijñānaだけではなく他にも色々な識があるので、厳密には心と意と識は違うという話でしたが、
ダンマパダの最初の句「ものごとは心にもとづき〜」を正田先生は「諸々の法(事象)は意を先行[の因]とし〜」とありこの場合の意は心にで良いと思う。
ダンマパダ33の「心は、動揺し、ざわめき、護り難く、制し難い。」の心は意に置き換えられない、理由はあなたのレスの通り意欲的方向性(志向性かな)があるものではないから。
ちなみにダンマパダ1の心は原文でmano、33の心はcitta。
>その意味で、初期原始仏教に於いては同じことを指す場面は多々ありそう。
ダンマパダ1が好例ですね。
で、>>636に戻って
>その辺は仏典というのは実に曖昧ですよ。
曖昧ではなく先にあなたが書いたように
>たぶん、微妙なニュアンスとかそれぞれの意図によってこれらの三つの語を使い分けしてるのでしょう。
厳密に使い分けしていると思う。
もちろんアートマンではないチッタをアートマンとみなす比丘がいたらゴータマから叱責されたことでしょう。 >>645
>水野氏の解説に深い全面的な信頼を寄せてるので、どうもすみませんね。
>文句あるの?
そういうこと言ってると
★スマナサーラ長老の見解に深い全面的な信頼を寄せてる人の意見
★スマナサーラ長老自身の見解
★上座部の教義
にも文句や反論を言えなくなるよw ANの心性本浄系の内容も、
≪辛くて、困難で、自分には到底無理そうで、そもそもこんな苦労して汚れ・煩悩・欲望・怠惰が無くなるだろうか、
いや、無くなったからと言って、その先に安穏・寂静なぞあるんだろうか?≫
という不安に対する説示であり、(→実はこれはウダーナ8も同じ)、
≪『染まらないようにし』、『タブララサな状態をキープし』、『顕現した清浄な状態(≒境地)を持続させる』≫
べきであるということを説示しているものと思うんだけどね・・・。 つか、ウダーナは、
そのおしえが説かれることになった原因も、
前フリとして言及されてるけどね。
勿論、それもまた、権威付け・正当化のために付加された後代の改竄、
という見方もあり得るけれども。 参考1:
Pabhassara (adj.) [fr. bhAs] shining, very bright, resplendent
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/35/1/35_1_38/_article/-char/ja/
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/20/2/20_2_503/_article/-char/ja/
ttp://fallibilism.web.fc2.com/051.html
参考2:(一部隠居用餌) 、 (墨括弧は引用者挿入。大括弧は引用者による註。)
ttp://www.journalarchive.jst.go.jp/japanese/jnlabstract_ja.php?cdjournal=ibk1952&cdvol=20&noissue=2&startpage=503
「心性本浄の意味」水野 弘元/印度學佛教學研究, Vol. 20 (1972) No. 2 pp.503-511 (著作選集2巻p219〜)
『心性本浄説については、今日までわが国多くの学者によって取り上げられ、すでに論じ尽くされているといってよい。
しかし、本浄説の源流は阿含経の原始経典、パーリ仏教や法蔵部などのような上座部系の文献にも見出され、
それは大衆部系の心性本浄説から発達したとされる大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、
清浄なる本性としての【常住不変とも見られる心性】が考えられているのに対して、
原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、
【むしろ現象として生滅変化する心相が清浄であると】説いていると考えられるからである。
元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、
これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである。
周知のように、仏教が【存在するもの(一切法)】として現象界だけを考察の対象としたことは、 外教の説く形而上学的実体を排除するためであった。ところで積極的自主的に作用する心のあり方について、
外教ではこれをどのように説いていたかといえば、正統派[バラモン、ウパニシャッドの系譜]と
非正統派[正統以外の遊行者達、沙門と呼ばれる系譜]ではまったく違った解釈をしていた。
正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、
有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、これを不生不滅の本体的存在とした。
我は心の中心となって自主自律的に活動する主体である。
これに対して、非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、
精神的存在をも物質的に考え、我(霊魂)を不生不滅の本体であると説くとしても、
それは自主的な積極活動をなすものではなく、他の力によって機械的に動かされるにすぎないとした。
周知のように、仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、
心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという
無我縁起の説を立てた。
このように仏教では生命活動や精神作用を自主自律のものとして認めるとしても、
【その奥に常住の本体があるかないかはこれを問題とせず】、【現象として表面に現れているものだけを】考察した。
この意味の生命や精神の自主的活動力のことを仏教では根(indriya)と呼んだ。[生物学的器官も含。]
根の概念は仏教以前のウパニシャッド等で既に説かれており、仏教もこれを採用しつつ、仏教独自の立場から解釈した。』 さて・・・
水野大先生の有難いお言葉だが、
宝珠尊師の耳には、どう聞こえるだろうかね。 すでに繰り返し言っているように、心性本浄説について考えるとき、まず問題となるのは「性」であった。
このことについて水野弘元博士は、
「大乗仏教における如来蔵説や仏性説では、清浄なる本性としての常住不変とも見られる心性が考えられているのに対して、原始仏教や上座部系の部派では、そのような常住の心性は考えられず、……。
元来原始仏教では、外教で説くような常住不変の実体を問題とせず、経験可能の現象界だけを考察して、これを一切法と呼んだ。従ってそこには常住の心性というような考えが入る余地はないのである(25)」
と述べておられる。
http://fallibilism.web.fc2.com/023.html
水野先生の視点だと原始仏教では一切法は現象界に限定されるので全てが無常であり、
仏性や如来蔵などの心性本浄つまり常住不変の(浄らかな)心が入る余地はないとのこと。
また同じサイトに
自性清浄心思想に対する論難の一つに、「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。
如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。
これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。
とあるが確かにそうだ。
自性清浄なら十二因縁の最初は少なくとも無明ではないでしょう。 >>661
ありゃ、チンタラチンタラ文字打っている間に水野先生の私の引用とほぼ同じ言説を引用して自性清浄説への疑問を呈していらして、内容が被りましたね。
私の方が後になりましたがw
さて、宝珠さんはどう答えるのでしょう。 >>663
プロパティ見ると、テキストファイル自体は4年前くらい前っぽいけど。 >>664
スマホから打ってるのでプロパティは見れません… >>665
いやw
自分のPCでのファイルデータ(作成時期)の話。 ああ、初出は
仏教 議論スレッド 19
http://toki.2ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/485-486
485 神も仏も名無しさん sage ▼ 2011/08/04(木) 19:44:36.40 ID:eost3eKv [6回目]
のようだwww >>659-660 面白いの見つけたw
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/524
> >> 485-486
> >正統派では転変説(pariNAma-vAda)[≒継続するモノの変化変遷]に立ち、
> >有機的な生命体としての我(Atoman)という実体を立て、> >これを不生不滅の本体的存在とした。 --中略--
> >非正統派では積集説(Arambha-vAda)[≒物質的、機械的集合離散及び作用による存立]に立ち、
> >精神的存在をも物質的に考え、
>
> これなら、“間違いだ”といわても当然ですね。
> アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです。
> どうも何故か・・・こういった現象界的な表現にしていかないと
> アートマンを「存在」や「実在」としては理解されないようですね。
> これならダメに決まってる。アートマンはそういうものじゃない。
> >仏教では外教の本体説と違って、【心を生滅変化する現象としてのみとらえ】、
> >心に自主自律の積極作用があるとしても、それは他の種々なる条件(縁)によってはじめて作用するという
> >無我縁起の説を立てた。
> そりゃー仏教のいう通りですよ。心は違いますから。 > 「心」そのものはアートマンじゃないから。
以下 URLのみ
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/525
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/528
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/530-531 http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/530
> 「心」の中には肉体崩壊後にも存続を続ける部分もあり、
> 魂など呼ばれている「識」等々も在るけれども、アートマン本体はそこにはない。
> 「心」はアートマンではないし、心の中にアートマンが内在しているわけでもない。
> けれども、双方それぞれ別物でありつつも、この「心」と「アートマン」は“繋がっている”
> という言い方は可能でしょう。
http://toki.5ch.net/test/read.cgi/psy/1311575436/524
> アートマンというのは有機的でもなければ、物質的に見えるものなんかじゃないからです
> 「心」そのものはアートマンじゃないから。 話はぶっ飛ぶんだけど、今更ながら量子力学ってあるよな。
なんかよくわかんないんだけど、量子同士の情報は光速を超えて伝達するらしい。
すでに量子テレポーテーションって実験も成功してるとか。
ほんで俺たちの脳も量子コンピュータと同じ原理で、死んでも情報は失われず宇宙の原意識と一体化するらしい。
これってアートマンやブラフマンのことじゃねえか!?
この仮説が本当なら昔のインド人やお釈迦様マジやべー。
何言ってるのか自分でもわからねえが、パーピマン、宝珠、おじゃるならわかってくれるよな!
さて、薬飲んで寝る^^ いろいろ間違ったこと書いた。
恥ずかしいから寝る^^ >>671
一皮剥けたにゃん♪
栄進に (-∧-)合掌・・・ さて・・、
一千億歩譲って、アートマンこそが、求めるべき境地だとして、
一神教系に対しては、どう、折伏する論立てをするんだろうね。 >>神智学
結局、
仏教、禅宗、キリスト教カソリック、キ教プロテスタント、 イスラム教、ユダヤ教、
道教・老荘思想、儒教、古神道、エジプトや南米の太陽信仰、
古代インドの各種信仰、バラモン教・古ウパニシャッド、etc.etc.
の中で、真我やブラフマン等、永遠なる実在から、最も遠いスタンスを取ったのが、
新興外道の沙門達であり、抜きんでて異彩を放ったのがシッダッタだったわけ。
だから、反感を買い、迫害を受け、(イスラムの侵攻があったにせよ)インド本土では潰えたわけでね・・
仮に、仮に、アートマンの肯定が最終段階であったなら、
なぜ、釈子は迫害されねばならなかったのか?
なぜ、諸宗諸外道は合流しなかったのか?
なぜ、「自分たちもアートマンを求めてるんですよ」「自分たちも梵我一体となりましたよ」
と言わなかったのか?
(言えば、自分たちもあなた達と同じですよとちゃんと説明していれば迫害されずに済んだだろうに・・・) >>674
釈迦が迫害されたのは、バラモンの四住期を無視したからでは?
アートマンを求めて出家するのはバラモンの老人の道楽だった。
それを無視して老若男女誰でも出家を許した仏教はインド社会を破壊する危険思想と迫害されたと^^ 釈迦は人気がありすぎてライバルの教団(どこの教団だったかは失念)から女性を使った謀略という迫害を受けたりはしたけど
当時の二大大国のマガダ国とコーサラ国の国王は釈迦に帰依してたしそんなそんな大きな迫害はされてない
釈迦入滅後100〜200年後のアショーカ王は仏教を国教にしたしその後の王朝(クシャーナ朝など)も仏教の迫害はしてないよ
ただ仏教側が大衆の支持を失っていっただけであって 先日は、
地下鉄サリン事件の実行犯のなかで唯一死刑判決にならなかった林郁夫受刑者(無期懲役)についての、
再現ドキュメンタリー・ドラマ『オウムを終わらせた男〜 林受刑者はなぜ全てを告白したのか?』を見たが、
昨夜はまた、 “オウム真理教でサリンを作り、先日刑を執行された土谷正実元死刑囚の半生と事件に至るまでを再現する”を見た...。
被害者側の皆さんからの反感を買うかもしれないけども、この私の目から見れば正直、
彼らのすべてが無知で純粋な心の持ち主だったために洗脳されてしまった可哀想な被害者にしか見えない。
この土谷正実は、わたしとまったく同じ生年なんだなぁ...。
とにかく、このような悲劇が二度と起こらないことを願うばかり。
それとやはり、どんな犯罪者に対しても死刑は行うべきではないという思いについては変わらない。
数年前に、死刑廃止を訴える文書を政府に提出したことがあるが...。
それから洗脳マインド・コントロールや思い込み決め付け等々については、
その思想が過激であるかどうかは別にして、
既成仏教であっても人間の反応については同じこと。
討論が続いてヒートupしてきたときにはそのまま投稿せず、
一晩〜二晩の一呼吸おいてみると冷静さを取り戻すもの。
改めて自分や相手の投稿を読み直してみると、
あの時の印象はそうでもなかったりと受ける印象はガラリと変わる。 >>651
>勿論、今問わるべきは、そうした(心的作用を含む)「心」が、
>最終的に目指される(≒求められるべき)「境地」である―或いは百億歩譲って、目指すべき真我・アートマンである―
>という言い方が妥当かどうか、だが・・・。
>>635-636でも述べたように、
心(citta)そのものは、もちろん「真我」(アートマン)などではないけれども、
しかし、訓練によって心(citta)を制御することで、
心(citta)の奥深い「識」の更に深層で繋がっている“本来の清浄で輝いている自己”が顕現できるようになる。
心(citta)〜意(manas,mano)〜識(vijnana,vinnana)までは現象界(有為)に限定された一切法ですが、
これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、
それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。
次元のネジレの果てにおいて繋がっている的な云い方しかできないでしょうね。
“本性清浄心”が一切法の中に在るというわけではない。
私の見方では、この問題はその辺の誤解なのだろうと思われます。 >>659
同じく、
“心性本浄説”の誤解については上記の通りであって、
その清浄心は元々、現象界の一切法内のことではないと理解。
従って元々、一切法の無常・無我・無自性・空の規定法則には抵触しないから問題。
>>660
については、
その>>668-669で述べられている疑問符の指摘は的を得たものだと思います。
そもそも、この私には>>660にあるような正統派非正統派の双方についての説明が意味不明に映ります。
そんなものを説いていたというのは今一つ、聞いたことが無い...。判然としない...。
正直、それらは仏教徒側(当時の?)の偏見によって全く誤解した異なる内容へと改変されてしまったアートマン論なのではないか?
と、私には思えてしまいます。とにかく意味不明ですよ。アートマンの説明にすらなってない(それアートマンじゃないじゃん)...。 >>662
>「本来清浄である心性になぜ無明があるのか」という素朴な疑問がある。
> 如来蔵思想的に言えば、「衆生には如来と等しい法性があるにもかかわらず、どうして煩悩の殻に蔽われるのか」という疑問である。
>これに対し自性清浄心・如来蔵思想を主張する側は、明快な答えを与えてはいない。
そりゃ〜その説明はないですよ。
縁起は何故あるのか? 縁起は何時から在るのか? というのと同じく愚問なわけです。
仏教というのは元々、そういうことを説明しようという教えではない。
ヒンドゥーや神智学では説かれています。仏教とはアプロ―チと姿勢が違う。 >>670
アートマン.ブラフマンはおいといて...
その量子論が、
濃密物質レベルの自然科学における常識を超えた超常的領域について理解するカギです。
理論上ではすでに超常領域については肯定しており、また量子レベルでの素粒子実験では、
とっくに人間の思念エネルギーが素粒子に作用することを確認済です。
ただ普段、我々の眼に見えるものとしては確認がないというだけであって、
しかし、驚異的な精神エネルギーを発動できる人間ならば理論的に物質に影響することは不可能ではない。 >>674
ゴータマがヴェーダ・ウパニシャッド同様のアートマン論を説かなかったのは、
バラモン達に蔓延る数々の生贄やらその他の迷信や儀式万能主義やらの...非常に宜しくないのが氾濫していたからでしょう。
バラモン伝統のアートマン論をそのまま支持してしまうと、それらも一緒に肯定したものとして誤解されるからです。
それだけは絶対に避けたかったというのが、ゴータマの意識であったと私は見ています。
最後の涅槃死についての自身の遺体の置き方でなされた北枕の指示も然りで、
バラモン達の行う生贄の寝かし方がどうやら南枕だったからというのが真相らしい...。
バラモンのアートマン論を認めれば、彼らと一緒扱いをされることになるし、
かといって否定しては唯物論だと誤解される。だから、明確に返答をしない姿勢を採った(それが無記の理由)、と。
迫害というか....
インドで仏教が消滅したのは後代の(部派に始まる)弟子たちがゴータマの教えを誤解して、
“アートマンは無い”という意味の無我論を説き、
その教義に頑なに固執し続けたためにインド人から見放されたことが一番の原因とみています。
インドではそういう宗教は誰も入信しません。少し手だけ勢力を維持できたのはインド大乗〜密教というヒンドゥー化だけです。 >>680
訂正:
×「抵触しないから問題」
○「抵触しないから問題なし」 >>654
確かに、“信頼している”ということでは同じです。
そもそも信仰心というもの自体が、あらゆるどの宗教においても等しく同じですよ。
尚、スマ長老と水野氏の違いは明確ですよ!
スマ長老は部派の継承教団そのものの高僧です。
本人は、自分の信奉しているのが部派教団だという認識は無いかも知れませんが、
しかし、アビダンマの信奉教団ということは変わりがない。
対して水野氏は、原始仏教の文献学者です。
それは何を信じて何を信仰するというものではなく、
純粋に原始経典の記述を学問的に研究しているのです。
そして、アビダンマは部派による成立であって、
その内容は原始経典とは異なっていることを知っている。
それが両者の違いであり、私が水野氏の側を支持する理由です。
部派仏教とアビダルマ哲学の成立:
『ブッダの入滅後100年ころ、教団は律の解釈をめぐって、保守派の上座部と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)に分裂した。その後さらに分裂
をかさね、成立した部派の数は18あるいは20と伝えられる。各部派は、自派の教理にもとづいて聖典を編纂しなおし、独自の解釈を立てて
論書を生み出した。それらはアビダルマといわれる。そして、これを集めたものが論蔵(アビダルマ蔵)で、ここに経蔵・律蔵とあわせて三蔵
が成立した。1)論 (abhidharma) は、部派仏教時代に成立した教理の解釈である。』
(インド思想史略説) 水野センセも、草葉の陰で嘆息しておられることだろうw >>679
>これを制御した結果として、つまり煩悩を制御し鎮めたその結果として、
>それまでそれらの煩悩で隠されていた「無為」としての“本性清浄心”が発現するとものと理解します。
なんで清浄心が無為になるの?
論理が飛躍していますねえ。
自分がそう思うというそう信じるに止めるのならそれでも良いけど、
人の前で「本当の仏教では煩悩を制御すると無為なる本性清浄心が出てくる」などという独説を唱えたりはしないことですな。
>>680
>その清浄心は元々、現象界の一切法内のことではないと理解。
>従って元々、一切法の無常・無我・無自性・空の規定法則には抵触しないから問題。
これもさ…
結局清浄心というのは現象界の無常無我無自性とは違うものといったらアートマンと変わらなくなるじゃん!
結局清浄心こそがアートマンであるといいたいんでしょ?
あなたが全面的な信頼を寄せている水野弘元氏はそれとは反対のこと言ってますが。 >>688
時間がないので、これについてはまた後で返答します。
まず、一つだけいっておきます。
私は何も水野氏に洗脳されているわけじゃないので、
水野氏のいうこと100%に同意するというわけじゃない。
私はもし、仏典の記述とテーラワーダの間に差異がある場合は迷わず仏典の記述を支持します。
同じく、水野氏の説明と仏典の記述に差異があれば、同様にして仏典の記述の方を支持します。
当り前のことですが...。
論争の起こるすべての原因は、
仏教では、ものごとの疑問符に対する説明解答がないことに尽きます。
ゴータマ・ブッダが在世の当時であれば、疑問が湧けば聞いて確認することができたでしょうが、
残念ながら今はそれができないということにある。 書かれてる内容は別として、本の帯に書かれている「初期仏教長老・・・」
流石にそれはないでしょw ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています