--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。 有爲=生住滅の相
無為=無生相・無住相・無滅相
簡単に言えば・・・^^
刹那生滅するものは有爲なんだよな・・・^^
住はどうだかしらんけど^^ 一応、スタンダードな説では、一切(法)には無為と有為が包括される。
ところで仏教では「一切皆空」と云い、大智度論では「一切皆空」の「一切」中での十八種類の空を説明している。
> 復次に須菩提。
> 菩薩摩訶薩に復た摩訶衍あり。
> 所謂、内空・外空・内外空・空空・大空・第一義空・有爲空・無爲空・畢竟空・無始空・散空・性空・自相空
> ・諸法空・不可得空・無法空・有法空・無法有法空なり。
つまり一切(有為・無為)皆空って事なのではありませんかねぇ? 皆、確認しておいた方がいいと思うが、
インド思想に於いては、「法」でない「存在」が、ないってことなんじゃねーの?
だから、所縁に依らないものも「ある」と見做すなら、それも「法」になるよね。
>所縁に依らないものも「ある」と見做すなら、それも「法」になる
それで結局のところは
「一切法」に
「無為法も含まれるのか?」ということで
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86
一切法
一切が「縁起した存在」つまり有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない
無為法を含まない場合の文脈もあるかもしれない
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%B5%E3%81%9D%E3%81%86%E3%81%8A%E3%81%86%E3%81%8E%E3%82%87%E3%81%86
不相応行
説一切有部
物質や心とおなじ程度の存在性をもつもの、つまり実有の法である
唯識
心の働きの上に仮に立てられるもの、つまり仮有の法である
唯識の場合は
(絶対的な無為法も含めて)心の働きの上に仮に立てられている
という場合の文脈もあるかもしれない
>>494の補足として
「心の働きの上に仮に立てられている」を前提とするのなら
五位
唯識
無為法 - 想受滅
唯識の場合は
(無為法 - 想受滅も含めて)心の働きの上に仮に立てられている
という意味になるのかもしれない >>492(続き)
つまり、空=無為っていうのは一寸ねぇ・・・ 無為asankhata自体、有為の対概念として希求されたものかも?
たとえば反物質とかと同様に。
>空=無為
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%A9%BA
空
十空。
内空・外空・内外空
・有為空(有為法が空であること)
・無為空(無為法即ち涅槃が空であること)
・散壊空(仮の集合であるから離散し破壊する相をもっていて空であること。散空ともいう)
・本性空(自性が空であること。性空ともいう)
・無際空(始めなくして存在する一切の諸法がすべて空であること。無始空、無前後空ともいう)
・勝義空・空空(大毘婆沙論巻八)
この場合は、やはり
無為法である。という『想い』も空性である
(絶対的な)勝義諦。という『想い』も空性である
すべて空である。という『想い』も空性である
という感じでつね?
_ _ _
>無為は、有為の対概念として希求されたもの
インド思想という意味として了解おじゃります m(_ _)m
↓インド思想の歴史?
ヒンドゥー(バラモン)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻。という法がある
この不安の輪廻から解脱。という法もある
(たとえば(絶対的な?)涅槃。という法がある)
もっとも、たとえば
涅槃は
絶対的な。という『想い』でもないけど
この不安の輪廻から解脱。という法もある
たとえば
空海 : 菩提分法これ法宝なり >>467
よく探されましたありがとうございます
とは言ってもやり方が悪いのか滅尽では調べることが出来ず、滅尽定で調べたら
>(滅受想定とは、滅尽定である。これもまた第四禅に依って、前の非非想、即ち一切の所縁を棄捨する。故に解脱という。)
>滅尽定(めつじんじょう):滅受想(めつじゅそう)、心と心所(しんじょ、心の働き)をすべて滅する。
http://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten01.htm
などというワードしか見つけることはできませんでしたが(苦笑
しかし大智度論では滅尽定にこういう解釈もあるからヒントを得て大乗仏教での滅尽定について調べたら
ウィキペディアで簡単に調べることができましたw
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
なるほど、大乗仏教では滅尽定はまだ究極ではないとする場合もあるということか
っていうか、説一切有部のころから滅尽定は有為法(心不相応行法)になってるのですがw
問題は唯識では何故想受滅を無為に入れたのかということになりますかね
↓インド思想の歴史?
クンダリニー覚醒
ムーラーダーラに眠っているシャクティ女神が目覚め上昇し
頭頂部上方のサハスラーラに鎮座するシヴァ神と再結合を果たす
クンダリニー・ヨーガにより
クンダリニーが上昇し
サハスラーラが押し開けられればクンダリニー覚醒となる
サハスラーラが押し開けられるその際に
「パチ、シュワ」「コン」という音が鳴ることがあるという
↑↓似てるような気がする?
スッタニパータ 1026
無明が頭であると知れ
明知が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
(頭頂部上方の)
サハスラーラを押し開ける
頭(無明)を裂け落とす >>468
そう考えるのが一番腑に落ちますよね(無常ではない法があり苦でない法がある)
>常なる「法」はあり得るから、楽なる「法」もあり得るから、では?
>「悟りの(解脱の)境地」、つまりは「涅槃」もまた、
>修行者(沙門)の目指すべき・求むべき、価値ある、学び・見るべき「法」であると見做されていた可能性は想像に難くない。
ですよね
だからお釈迦様はウダーナで比丘たちに
「無為がなければ有為からの出離は知覚できないものだが、無為はあるから有為からの出離が知覚される」
としてそれを目指しなさいと(感興の言葉としてですが)説いたのだと思います
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
定、サマーディ
…
大乗仏教における滅尽定の解釈
滅受想定から出定する際の観である
想受滅定
にゃるほろ =^・ ・^= ご教授 アリガト m(_ _)m
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/Jiten/Jiten6.htm#%E3%82%81%E3%81%A4%E3%81%98%E3%82%93%E3%81%98%E3%82%87%E3%81%86%EF%BC%88%E6%BB%85%E5%B0%BD%E5%AE%9A%EF%BC%89
file6:弟子、修行
十八有学
身証
不還果(阿那含果)の人の滅尽定を得たもの >>473
>とにかく、魂である識が母胎に宿ったり死後に出ていく現象とは別に、その外にアートマンは在る。次元の階層が異なるのです。
>仏教枠では、それ以上のメカニズム的理解を得ることは無理だと思います。そういうことには力説をおいてないのがゴータマの姿勢ですから。
>理解を得て疑問を氷解したいのならば、「神智学」に拠る以外にはないと思います(神智学はそのためのものですから)。
それは宝珠氏ご自身の原始仏教にはない教えを部派仏教で勝手に入れたという発言と同じになってしまうのですよ
原始仏教とは違う、更には大乗や密教まで含めての仏教とは違う学派の論を持ってくるというのは
というか別な教えを持ってきて氷解するというのであれば畢竟何でもありとなってしまいます
あくまで仏教の枠内で解決すべきであり、それが出来ないのであれば少なくとも原始仏教の十二支縁起におあてアートマンの入る余地はないということになります
また十二支縁起で入る余地がなかったアートマンが解脱して涅槃に入ると現れるというのもやはり納得がいきませんw
涅槃というのは結果としてであろうが在るとお釈迦様が言ってる以上は法(存在)です
とりわけウダーナで説明している涅槃はおそらくは想受滅の境地でこの境地も法(存在)です
別な一切ーーありもしないものーーではありません
また我があるというのが我見であり貪瞋痴であり無明である
それを滅すると涅槃に至るというのが一般的な仏教理解だと思います
>唯識では何故想受滅を無為に入れたのか
[ 唯識 想受滅 無為 ] で検索
唯識初歩: 心を見つめる仏教の智恵 - 120 ページ - Google ブック
このリンク先を見ると
妄想ではなくて
真実の不動無為
真実の想受滅。を前提としているようでつね >>508
情報ありがとうございます
早速読みましたがやはり滅尽定と受想滅の違いは分からなかったもののw
無為は真如でありそれらを便宜的に六つに分けて六法ということでやはり、とw
それらは心解脱と慧解脱を更に細分化したとも言えるのかも!?
では
世親のアートマン批判
http://nbra.jp/publications/71/pdf/71_24.pdf
こんなのを見つけましたがこれ読みながら寝るとしますw >>507
失礼しました、私の勘違いです。
そういえば、なんかの本か論文でその違いを一瞥した記憶があります。
junkie- ooyama.師匠としては
滅尽定
想受滅
の違い何だと思いまつか?
おじゃる妄想としては
>>467こんな感じでおじゃります m(_ _)m 説一切有部
有為法
心不相応行法 〜 無想定・滅尽定
唯識(法相宗)
有為法
心不相応行法 〜 無想定・滅尽定
無為法
想受滅
無想定 〜 第六識まで
滅尽定 〜 第七識まで
想受滅 〜 想と受を行じ無い(=無為)事 >>511
間違っていたら済みません。
想受滅定とは滅尽定の事で、無為法に分類される想受滅とは別ではないでしょうか?
説一切有部
有為法
心不相応行法 〜 無想定・滅尽定
唯識(法相宗)
有為法
心不相応行法 〜 無想定・滅尽定
無為法
想受滅
無想定 〜 定により第六識まで滅することが可能?
滅尽定 〜 定により第七識まで滅することも可能?
想受滅 〜 想と受を行じ無い(=無為)事、想も受も行わないときに(無為=真如)あらわれる。
>>513
(間違ってたら、訂正・修正していく。ということで)
とりあえず
真如ということで
ご教示ありがとうございます アリガト m(_ _)m ご参照下さい
「想受滅は(中略)滅尽定の想・受の滅を云うのであって」
「想受滅は滅尽定にお いて想受が滅して無作用となっている法性を云うのである。」
(無為法について/水野弘元 https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/ja)
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/ja
無爲法について 水野弘元
…
想受滅は滅蓋定において
想受が滅して無作用となつている法性を云うのである
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%9A
大乗仏教における滅尽定の解釈
…
無相の心定(想受滅?)
滅受想定から出定する際の観であると解釈されている
にゃるほろ =^・ ・^= (やはり?)そういう感じなんでつね?
ttps://kotobank.jp/word/%E7%84%A1%E7%9B%B8%E5%94%AF%E8%AD%98-1425138
無相唯識
見るものと見られるものの区別を失った絶対知が得られる
ttps://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
無相唯識
「心の輝き」は真実であるとします
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
そして
何処の誰が。解脱智見するのか?
何処の誰が。涅槃に戻る帰るのか? >>476
>が、てめぇの説明からは、 ああした分類(表記)しかできねーんだよw それくらい、異質な説だということ。
エッ、水野氏の解説がか?
用語解説の辞書で書籍タイトルは『仏教要語の基礎知識』なんだけどね?
まっ、それくらいあなた方の知ってる平均的な仏教理解というものが間違いだらけという証拠なんだけど。
>>478
>そのような「真我」の存在の仕方、我々の現象界へのかかわり方・影響の与え方は、どのようなものになるのか、
>ちゃんと説明できなきゃ、表に反映のさせようもなかろ?w
残念ながら、ゴータマはそういう解説はしなかったの。
「やればわかる」という実体験主義なのであり、理解できない今の段階であれこれ論じるような無駄については却下された。
涅槃を体験したときにすべて氷解する、と。ゴータマが語ったものは「無明」の一言だけでしょ。
尚、ヒンドゥーには近代アヴァターたちの体験に拠る説法が在る(現・仏教僧には体験を説法できるレベルの者はゼロ)。
そして、神智学には膨大にして理論的な詳細解説が提供されているので、それらのすべての疑問は解消されます。
* とにかく...私が言いもしないことを勝手に私が言ったかのようにしないでもらいたい!
でないと、ズ〜と後々になってから、“宝珠が言ってたのがコレだ”という話に摩り替えられるネタにされるから。
(早々に、「幽体」とか消しといてね!!) >>485
>ワシが2chで頭を下げるのは一代だけだw
確かに、2chきっての最大の鬼才でした。
著名な学者にして、たった独りビルマ等々の南方にて修業し、大乗〜密教まで修めた阿闍梨。
すべての仏教が素晴らしいとして、経文の一句一句すべてを完全に信じ切った仏教への愛が止まない熱烈な信仰者でした。
私も、その熱意には心から敬服します。
その一代が、
仏教学修のためにと最も推奨していた書籍のナンバーワンがこの水野『要吾』なんだな。
しかし、あの方が分かるのは“イイ本”ということだけ。
あの方が推奨した書籍を私は4冊購入した。確かに、あれほど力説するだけあって内容の濃いものばかりで満足していますが、
その内の二冊、この水野『要吾』と一代が仏教学の天才だと評した石飛氏の書籍は、
一代にとってはとても都合の悪い主張を展開するものだったわけです。
あの方はイイ本ということだけがわかるのであり、その内容は思い込みの盲信で読むから誤読だらけですよ。
そして、この水野『要吾』というのは、私にとってはトラブルで消失してしまっていたものであり、
元々、私が18歳当時から所持して読んでいたものです。 >>506
>原始仏教とは違う、--略--
>というか別な教えを持ってきて氷解するというのであれば畢竟何でもありとなってしまいます
言いたいことは分かりますが、
私の説明は(その中身としては)別に原始仏教の内容とは相反してはいないのですが・・・。
>あくまで仏教の枠内で解決すべきであり、
仏教しか知らない人には無理があるといことか...
けだし残念です。
>原始仏教の十二支縁起におあてアートマンの入る余地はないということになります
>また十二支縁起で入る余地がなかったアートマンが解脱して涅槃に入ると現れるというのもやはり納得がいきませんw
当り前の話ですよ。
十二支縁起のプロセスの中でアートマンが見出される筈がないでしょう。
アートマンを理解してないからそういうことをいうのです。
だから、無為法は一切法の中にはないといってるのです。
>とりわけウダーナで説明している涅槃はおそらくは想受滅の境地でこの境地も法(存在)です
>別な一切ーーありもしないものーーではありません
たから、ブッダの教説の中では入ってないじゃないですか。
仏典経文中に入っていることを示す文句があるのなら出して下さい(絶対にないから!)
無為法は一切法とは別なのであり、ただ勝手に無為法を一切の中に入れた張本人(テーラワーダ)の話や、
その影響下にある諸派〜大乗の理論をみて“やっぱり入ってる”とかやってたら無意味でしょ。
それは混乱するだけです。
>また我があるというのが我見であり貪瞋痴であり無明である
>それを滅すると涅槃に至るというのが一般的な仏教理解だと思います
確かにそう。そりゃ〜一切(有為)にはないでしょう。
また、間違ってアートマンでないものをアートマンだと勘違いしてるバラモン行者たちの主張(『梵網経』)
を正しいものと解することも不可に決まってます。
それらを在るものと思い込んでの修行もまた不要な想いの捕らわれになるから。 >>481
論破済なので諦めたほうがいいと思いますよ。
ただ同じことの繰り返し。書籍画像も内容繰り返し...(書籍大杉だわ)。
やればやるほど、自分(長老)の無知のレベルのほどをただ露呈するだけです。
チャクラが妄想ね....。はい、エーテルレベルの視力すらも獲得してない証拠ですから。
分かる人はそういうことは言わないから。
チャクラが霊視できる導師は、弟子の進歩の度合いは弟子のチャクラを見ることで判断する。
だから、嘘や誤魔化しは一切通用しないのです(今の感情状態から肉体の状態まですべてが一目瞭然)。
>>519
ヒンドゥーを知らない人しかヒンドゥーを馬鹿にしないから。
実際、その滅尽定が外的にはどうなのか知らないのでしょう?
ヒンドゥーにおいてはこの近代でも、滅尽定レベルを現実に示せる人が何人もいる。
現・仏教界にはいるのかな? 自分で心臓くらいは好きに止めれるレベルの人は???
いるのならその名前、個人名を出せますかね? 上で貼られたリンク。(選集二巻の教理研究にも収められてるけど)
印度学仏教学研究 10(1), 1-11, 1962-01 日本印度学仏教学会
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/ja
以上によつて、阿含における無爲は、三十七菩提分等の修行によつて到達される涅槃であり、
それは三毒その他一切の煩悩が滅しており、執著なき清浄解脱の境地であり、
不老不死なる堅牢不壊のものであり、無苦安穏にして、究極の理想境であることが知られる。
それではそれが無爲と云われるのは何故であろうか。
その参考となるものとして、自説経や如是語経に、無爲の語と共に、
不生ajAta・不成abhUta・不作akataの語が用いられている。
つまり無爲とは、
因縁等によつて発生せず、爲作されることのなかつたもの、因縁等と關係のないもの、
ということになる。
これは無爲の反對としての有爲が、因縁によつて作られた現象の法を指すことによつても知られる。
しかし原始佛教では、無爲をぱ有爲としての現象に反するもの、
即ち永遠の存在としての本髄というようなものとしては、
絶封に説いていない。
本髄的存在は繹尊によつて、我(attan,Atman ) として拒否されているからである。
それでは無爲をいかに解すべきであろうか。
>【有爲としての現象に反するもの】【としては】【絶封に説いていない】
>【本髄的存在は】【我(attan,Atman ) として拒否されているから】
水野大先生の有難いお言葉である。 恐らく無爲asaNkhata, asaMskRta とは、行saNkhAra・saMskAra による
爲作を離れたものという意味であろう。この場合、行にも廣狭種々の意味があるが、
今は十二縁起の第二支における行と同じく、
善悪の行爲及びその余力として、輪廻を起す原動力と見てよいであろう。
從つて行は善悪業や輪廻業報に關係したものであつて、
行による爲作を離れている無爲とは、因果業報に關係しないものと云えるであろう。
ところで善悪業や輪廻の行われる所が三界世間であるから、
無爲は三界世間を超え離れた出世間に属すると見られる。
しかし世間を超えていると云つても、三界の外にあるものではなく、
世間の中にあつて、世間的な業や輪廻を超えた解脱の状態を無爲と云う。
云わば無爲とは存在ではなく、さとりの状態であり、覚者の態度を指すものに他ならない。
それは要するに涅槃と同じである。
>【三界の外にあるものではなく、世間の中にあつて】【解脱の状態を無爲と】
>【存在ではなく】【状態であり】【覚者の態度を指す】
>【それは要するに涅槃と同じである】 >>524-525
仏教的には、無為涅槃は「存在」ではないからね。
仏教でいうところの「存在」の定義を確認すればわかることであって、
別に異論なし。
永遠の存在ではなくて、永遠の「境地」だな。
つまり、視点が違うのでしょう。
ゴータマは、「アートマン在り」とは言いたくないのだから(無記の理由です)、
あとは分かる者にだけ意味が解れば、別にそれでいいということになるのかな...。
つまり、
涅槃を覚知している主体がアートマンということなのであり、
涅槃という境地がアートマンということではないのだ、とね-----宝珠理解ではだが...。
だから、ゴータマの姿勢では涅槃にあるものは「わたし」ということができるのだと。
(SNT,3-5 )>>380参照のこと
●水野大先生の有難い総評!!
『この点は、仏教以前の正統バラモン教が、ウパニシャッドにおいて、梵我一如を正しく知り、それを体験することによって、
理想が達成されるとしていたのに似ている。ウパニシャッドでは梵我一如の境を涅槃の語によって呼んではいないけれども、この境
地は「非ず、非ず」(neti neti)と云われているように、筆舌に尽くすことの出来ない大歓喜の自由境であるとせられているから、
実際には仏教の涅槃が意味しているものと、それ程違ったものではないであろう。(p126-127)』
(水野弘元著『原始仏教』02年第16刷/平楽寺書店) >>525
>【三界の外にあるものではなく、世間の中にあつて】【解脱の状態を無爲と】
>【存在ではなく】【状態であり】【覚者の態度を指す】
>【それは要するに涅槃と同じである】
Sankhârâ sassatâ natthi. 現象には常住、永遠、実体、といえるものはありません。
一切は因縁により一時的に現れる現象なのです。
因縁の働きを発見して、一切の現象に対する執着を捨てることを語っているのは、ブッダだけです。
ですから、仏教以外、現状では解脱の道を語る宗教はありません。
ヒンドゥ教などで語っている真理の境地は、「現象の世界の裏」なのです。
一つである真理の裏と表の考えなのです。
仏教の涅槃は、現象の世界の裏ではありません。
「無常の裏に、無常でない涅槃がある」と言わないのです。
「涅槃の境地」と、「仏教以外、解脱に達する道はない」ということは、我々の理解能力の範囲を超えているのです。
ですから、今月の説明はとてもわかりにくいと思います。苦労して理解しようとしても、その理解も知識の一つになるので、現象でありパパンチャなのです。
実践して経験する以外、涅槃について語れないのです。
大般涅槃経でお釈迦さまがこのように語ります。
「涅槃に達するためには、四聖諦を体験しなくてはならない。その四聖諦を語っているのは、仏教だけです。
解脱に達するために八正道を実践しなくてはいけない。これも、語っているのは仏教だけです。
だから、第一の覚者も、第二の覚者も、第三の覚者も、第四の覚者も、仏教にしか現れないのです」
と。
http://www.j-theravada.net/howa/howa148.html >>527でスマ長老の言ってることは
>【三界の外にあるものではなく、世間の中にあつて】【解脱の状態を無爲と】
>【存在ではなく】【状態であり】【覚者の態度を指す】
>【それは要するに涅槃と同じである】
と大体同じだということ >>524の
>【有爲としての現象に反するもの】【としては】【絶封に説いていない】
>【本髄的存在は】【我(attan,Atman ) として拒否されているから】
これとも同じだわ
ttp://www.onedhamma.com/?p=5136
魚川祐司氏:山下良道僧侶:藤田一照僧侶
たとえば↑この podcast法話の場合は
無為法は
「縁起している」ではない。を前提としているので
それゆえに
魚川祐司氏
「無為法の世界から → 縁起している世界を見れるのか?」
山下良道僧侶
「無為法の世界から → 縁起している世界を見る。という不思議なことが起きる!」
_ _ _
たとえば
中観帰謬の場合は
世界観を一変させるほどの強烈な(あるいは絶対的な?)
変性意識状態(altered state of consciousness, ASC)も
「手放しせよ!」と云うことになるかもしれないけど ジャンキー、仮面レス頑張っているなあ、本性出さずに。
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B6%85%E6%A7%83
説一切有部などでは
涅槃は存在のあり方であるとして実体的に考えられた
経量部などでは
涅槃は煩悩の滅した状態を
仮に名づけたものであって実体のあるものではないとされた
大乗では
常・楽・我・浄の四徳を具えない
部派の涅槃を有為涅槃とするのに対して
この四徳を具える涅槃を無為涅槃とし、無為涅槃を最上のものとする
_ _ _
にゃるほろ =^・ ・^=
涅槃は
有為法なのか? : (絶対的な)無為法という世界なのか?
これを見ると(やはり?)
「インド思想の”強い癖”?」という感じがする おじゃる >>526
>別に異論なし
いやいやいやいやいやいやいやいやいやいや、
異論の権化でしょうが、貴方の言い分はw
まったく正反対の意見にしか見えないけど?www
端的に言おうか。
「境地」なるもの(≒意識の状態)が、
無始劫来の太古から、存在し続けるという「ことわり」(法・理)があり得るのか?と。
*一在家相手のポッタパーダ経の時のような意味で。
(長野の竈と鹿児島の竈、油を水底に沈め、大岩を湖底から空中へ浮遊させるが如き”ことわり”が)
>無為涅槃は「存在」ではないから
ちなみに問う。
存在ではない、2500年前のAさんの境地と、西暦2018年のBさんの境地は、同か異か?
>涅槃を覚知している主体がアートマン
更に問う。
存在ではない境地を知覚する”ソレ”は、存在するのか存在しないのか? ああ、
リンク先のリンク先の元レス、全部コピペした方がいいかなぁ・・・
何度同じ指摘をしてきたことか・・ ┐(´ー‘)┌
一個だけ貼っとくか。 参考に。 274 旧7 sage ▼ 2009/07/12(日) 18:56:40 ID:zCn+3f+Z [7回目]
1:不死と言われる理由
→ 《凡夫としての》《輪廻の中にある生死》が無い。
仏、阿羅漢、如来には「死」がない。
何となれば、≪「死」は、因により縁により生じる「果」であるから≫。
仏や阿羅漢、如来には、「死」があるのでなく《「(五)蘊の滅」があるのみ。だから「不死」。》
《「輪廻の中にある“次の生”」が無い。だから「不生」。》
※「“不死”だから“常住”」ということではない※
2:主体が不要である理由(涅槃もまた無我であると言われる理由)
→ 完全なる寂滅の境地であるが故に、
そこに、≪「誰それ」という個別性はない≫≪「誰それの涅槃」というものではない≫
完全なる寂滅という「一色」「一味」であるが故に、
そこに「アートマン(という個)」はありえない。
3:常住である理由
→ 生じたのでなく、作られたのでない寂滅は、
「一切の作用が止滅した」境地であり、生じるでもなく、
またその寂滅という境地が滅するでもなく、
何かによって(たとえば“主体”“アートマン”等によって)維持され継続されるのでなく、
縁によって生じ滅するものでないから、常住である。 (・・・・・後代の「自性」との共通性有。)
《所縁のものでない》から常住と言われる。だから(「不生」であり)「不滅」である。
※「“不死”だから“常住”」ということではない※
4:常住であることが、主体(アートマン等)を必要としない理由
→>>165及び上記2から、主体が要請されることはない。
また、3にあるように、所縁のものでないから常住たりえているわけだが、 (・・・消極的常住?www)
それは、一切の、完全なる寂滅であるが故であり、
《何がしかが常住たらしめている》のではない。 (・・・積極的常住?www)
もしそうであるなら、それは(互いに)所縁のものとなってしまうだろう。
たとえば
「…である」と定義することはできない
『「…である」ものではない』に依存しているのなら
涅槃ではなく
>(互いに)所縁のものとなってしまう
仮設としての縁起に働きかけている
サーンキヤの場合
(絶対的な)プルシャからの → プラクリティ
(縁起ではない)プルシャからの → プラクリティという
「インド思想の”強い癖”?」という感じがする
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
密教においては
仏が大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 仏の大悲・大智を受け入れる 9年も前から…
宝珠氏が立ち上げられたこのスレの住民になるということはそういう泥沼に陥る覚悟が必要というのがよく分かりましたw
私には無理なのでドロップアウトします ああ・・・・
↓のやりとりは、今のこのスレのデジャビュだわ・・・w orz
〔「無為なる意識?」 URL集〕
仏教 議論スレッド その3
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/643
つか、水野論文もw
http://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/psy/1274492365/491
> 「無為法について」 水野 弘元 印度学仏教学研究 10(1), 1-11, 1962-01
> これ↑が読めるといいんだけどなw PDF化されてない。
> 選集第2巻(p407-424)には収められているんだが・・。
> 今の流れに“ぴったり”該当する箇所も(幾つか)あるが、
> 引用するにはちょっと長いw (キーボード打つのも面倒だし・・w)
> さて、どうしたものか・・・ (;´ー`)y━~~
↓無爲法について 水野弘元
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk1952/10/1/10_1_1/_pdf/-char/en
説一切有部を代表とする部派佛教、
及びこれをうけた喩伽行派では、
三切法を
色法・心法・心所法・心不相慮法・無爲法の
五位に分類するようになつた。
この分類は、原始佛教では全く知られないものであり、
部派時代の阿毘達磨において、始めて現われたものである。
しかも阿毘達磨の初期時代には五位が明確でない。
説一切有部の阿毘達磨についてこれを見るならば、
五位の分類が明示されているのは、
七論中でも最後の獲達段階に屡する品類論においてであり、
パーリ佛教では七論や註繹書にもこの分類はなく、
後世の綱要書に始めて出ている程度であり、
また舎利弗阿毘曇論は五位をはつきり分類していない。
然し五位の要素となるものは、諸部派において、
初期又は中期の阿毘達磨時代から、
部分的には掲げられている。 >>543
どーしたぁ?
お〜〜〜〜〜ぃ(涙目)
ホント...もうすぐ十年なのか..
(コレ全部、セブンが悪いんだよぉ〜) >>533
はい、修正再upお疲れさ〜ん♪
まぁ..「幽体」が消えたから取りあえずは良しとしますけど
(しかし、十分に納得する図ではないから)。
とにかく“私(宝珠)の提示したものではない”ということだけは明確にお願いします。
あくまでも、あなた(セブン)の理解によるものです。
それと、一つだけ感想意見です。その「初期の構図」というのは、
何かまるで「初期仏教」であるかのような印象を受けるものなので良くないと思う。
「部派的構図」というのがその下にあれば、尚更のことです。「一般的理解」とか何か他の名称にすべきかと....。
まっ、わたしが作成した作成資料ではないので任せますけど。 >>539-540
何も...
そういった仏教的視点というものについては
必ずしも私も否定しない。
特には、否定しないでおくから(笑顔)
>>542
>いずれにしても、これまで及び今後の宝珠への反論も、上記及びその上のリンクで120%賄えるものであるw
どうして、そうも強気で居られるのかが不思議。
強がりなのか...意地になってるのか...それとも?
あの〜〜もう、決着はついたと思うけれど?
たとえ気に入らなくても、それがゴータマブッダの教え方だということ。
少なくとも、仏典上の記述ではそういうことになるのだから、もがいてもショウガナイでしょ。
要するに、
一切法(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから。
であるから、元々から現象界を超越している無為的性質であるアートマンに対して、
テーラワーダ信者が執拗に長老の説法書籍を提示してるけれども...
それら有為法の縁起やら、無常やら、無我/空...やらの理論などまったく通用しないのだということ。
そして、ゴータマは「アートマンが無い」とは述べたことはなく(そういった存在論そのものを扱わないから「云わない」)、
単に、「非我」としてアートマンではないものをアートマンと見なす愚を戒めているということに過ぎないから。
「アートマンは無い」そのものが存在論なのであり、そういうのが部派のアプローチなのです。
本来、ゴータマの教説にはなかったものを勝手に「無い」ということにしたのが彼らです。
それが彼らの至宝『アビダンマ』ですよ。彼らは自分らの部派論書を読み、
それに帰依してるのです。仏典にではない。以降〜すべての仏教諸派はその影響を受け、
伝統と称して二千年間、それを伝承してきたのです。
こうして真実が明らかとなり、また一歩、真理へと近づいたのです。
気持ちを切り替えて互いに邁進しましょう。
以上にて、論決 >>550
へぇ・・ 「涅槃」は、「法」じゃないんだw
インド思想に於いて、「法」以外に何があるんだろうか? (´・ω・`)
百歩譲って、「縁起する諸法」ではない、という意味で、「一切法(”壊”法)」に入ってないとしても、以下添削w
× >一切法(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから
↓
○ >一切行(有為)の中には涅槃(無為)は入ってないから
>少なくとも、仏典上の記述では
この辺も、
方が、一在家並みの裏読みをしてるだけで、
一代始め諸氏から山ほど提示されてきたろうに・・・w どこ読んでんだか・・ ┐(´ー‘)┌ >>537
では、コレは応えておきます。
>端的に言おうか。
> 「境地」なるもの(≒意識の状態)が、
> 無始劫来の太古から、存在し続けるという「ことわり」(法・理)があり得るのか?と。
そういうものなのだからショウガナイでしょ!
文句をいうような話しではないから。
この世界はあなたが作ったものじゃないからね (あなたの思い通りのものではない) !
では、逆に問うわ。ならば、縁起の法はいつから始まったの?
そういうこととまったく同じであり、それは云わば“無始の初めから”であり、
そして、また無記時な性質のものになる。
それらの「法」そのものが無始の初めから永遠に続くものだとして、
「法」そのものを永遠の存在としたのが「説一切有部」でしょう。
その視点はいいのだけれど、「存在」にしてはいけないというのが仏教ルールなんだな。
涅槃の境地は永遠であり、それを覚知してる意識(主体)も永遠だ。
で、最大の不思議ミラクルといえる涅槃に達して悟るものというのは、
もともとこれが本来の自己意識だったのだと初めて自覚することにある。
まっ、その辺はシャンカラ著『ウパデーシャ・サーハスリー』を読めば詳細ですよ(仏教枠では無理か...。 >ちなみに問う。
>存在ではない、2500年前のAさんの境地と、西暦2018年のBさんの境地は、同か異か?
ん、涅槃のこと???
涅槃にあるものの意識というのは、個のものでありながら個の垣根を超越しているのです。
つまり、あなたAとわたしBという分離も消えるし、物質(岩石)とわたしという分離すらもなくなる。
すべてのすべてが自分であるという理解も生じる。
尚且つ、そのまま自分という個も理解してる、と。
〜ということ、らしいですよ!
>更に問う。
> 存在ではない境地を知覚する”ソレ”は、存在するのか存在しないのか?
ヒンドゥーの説く“唯一なる実在” は、(涅槃後は初めて「わたし」ということができる)
『なすべきことをなし了え、煩悩の汚れを滅ぼし、今や最後の身体をたもっている真人となった修行僧は、
「わたしが語る」と言ってもよいでしょう。』(SNT,3-5 )の自己のことです。
ただし、仏教的にはそれを「存在」とはいわない。
何故ならば、それは「存在」という言葉の定義を超えたものだからです。
重要なことは、決して「無い」という意味ではないということ。 >>551
涅槃は「無為法」という「法」。
しかし、無為法は「一切法」の中にはないから。
そんなに「法」という言葉が好きなら、ではこうならばどうよ....
図表.3
---------------「法」------------
「一切法」 | 「涅槃」
(有為法) | (無為法)
--------------------------------
* 「行」はこの場合には限定意ではないと水野氏の解説にて説明済です。
そのことを一代がわかってるわけがないしょ。テーラワーダに洗脳状態なのだから!
諸行無常:すべての現象は、無常である
一切行苦:色受想行識も苦なり
諸法無我:すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである
この場合は
有為法
仮設としての
我である。という『想い』も変化している
無為法
我である。という『想い』ではない
(「…である」ものではない。という『想い』ではない)
で結局のところ
すべてのものごと(法)に
無為法が含まれるのか?ということで
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%95%E3%81%84%E3%81%BB%E3%81%86
一切法
一切が「縁起した存在」つまり有為法に限定されるのか、無為法をも含むのかなど解釈は一定ではない
_ _ _
_ _ _
「…である」ものではない。という『想い』を超えるための
(アートマン。という『想い』を超えるための)
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して(超えて) : 涅槃寂静みたいな感じ?
>>555の続き
六師外道だったかもしれない?
ウッダカ・ラーマプッタ師匠からの
『「…である」ものではない』を手放すための法を
(アートマン。という『想い』を手放すための法を)
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす瀉瓶のように
釈迦が受け継いだのかもしれない?
ttp://suttanipata.com/ae-2/
874 注釈
四無色定(非想非非想その他諸々)
のちの教義を適用した趣がある
かもしれないけど? 無自性なるものが真理を語ることができるであろうか^ ^ Dharma(dhamma,法)・artha(attha,義)・もの・こと ――仏典和訳の語彙体系の構築試論――
村上 真完 印度學佛教學研究 62(2), 841-833, 2014
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/62/2/62_KJ00009296635/_pdf/-char/ja 法(dharma)と存在(bhava)と存在しているもの(sat) 村上 真完
印度學佛教學研究 60(2), 892-885, 2012
https://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/2/60_KJ00007978330/_pdf/-char/ja
こっちだったw
スッタニパータ
21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが、
激流を克服して、
(縁起している世界を手放して超えて)
すでに渡りおわり、彼岸に到着している。
もはや筏の必要はない
874
(縁起している世界を手放して超えているのなら)
…想いを消滅した者という『想い』でもない
このように理解した者の形態は消滅する
(円成実性の世界から → 依他起性している世界を観照して
平等性智をもって正見したときに)
けだしひろがりの意識は、想いにもとづいて起る
ということが信解円通する?
ttp://www5.kcn.ne.jp/~kannon/buddhism/MiniSermon201109.html
信から入って解という土台をつくる道がありますし
解から入って信を得るという道もあります
ttps://www.jstage.jst.go.jp/article/ibk/60/2/60_KJ00007978330/_pdf/-char/ja
法と存在と存在しているもの
…
わが身, 自己, 自分自身, 主体
さらには自我を意味する一般に周知されている
我(アートマン, 魂, 霊魂) という語があるにも拘わらず
「我ではない」「私の物ではない」とは説いても
「我がある」とは明言しない
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…
縁起したものを離れることがある』とブッダは説く
…
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
_ _ _
『「…である」ものではない』という法がある
(『「縁起している」ものではない』という法がある)
とブッダは説いているようにも見えるけど? 204.
chanda-rāga-viratto so, bhikkhu paññāṇavā idha.
意欲からも貪りからも離れた、智慧のある修行者は、ここに
ajjhagā amataṃ santiṃ, nibbānapadam accutaṃ.
不死・平安・不滅なる涅槃の境地に達した 智慧のある修行者=真理を見るもの
涅槃の境地=不死・平安・不滅
スッタニパータ によるとこうなる^^
明解やな・・^^ 智慧のない修行者が・・あーだーこーだー^^
有為だー無為だーと叫んでいるだけ^^ 不死・平安・不滅の境地^^
智慧のある修行者か・・・^^
すんばらしい^^ 不死というのは死なないんじゃなくて死と同化してるんじゃないかな・・^^
生死即涅槃とか・・^^ 体が消えまわりの景色に溶け込んだことがあったがその境地だろうな・・^^ 何故ならば、
『涅槃』は、
『有( Skt.bhaava≒有為法 )』と、
『呼ばれることはない!』、
『有』とは、
則ち、
『老死の相である!』。
『有』という、
『法』は、
『老死の相』を、
『離れる!』ことが、
『無い!』。
解りやすい^^ 復た次ぎに、
若し、
『涅槃』が、
『存在する!』ならば、
『涅槃』は、
『有為ということになる!』が、
終に、
『一法』として、
『無為である!』者は、
『存在しない!』。
なるへそとなる^^ 答え、
諸の、
『因縁』を、
『受ける!』が故に、
『生、死』中に、
『輪転する!』、
諸の、
『因縁』を、
『受けない!』ことを、
『涅槃』と、
『称する!』。
うわっ^^
因縁解脱きたな・・^^
とこうなる^^ まぁ・・龍樹ちゃんの言ってることが正しいとは限らないけどね^^ ふ〜〜ん^^
という軽い気持ちで読んだほうが正解^^ 龍樹ちゃん涅槃の境地に達したことあるのか?という気もするが^^ 1レスで済む話をダラダラ書き込む人間に碌な奴はいない。
ttp://www.geocities.jp/avarokitei/indo-dojo-upanishado/upanishado-tetujin.htm
仏教の思想的土壌 ウパニシャッド
…
名称と形態(現象界)の展開
かの神(=有)は、生命を与えるアートマンをもって
[現象界の]名称と形態をはっきりと展開した
_ _ _
スッタニパータ 872
名称と形態とに依って感官による接触が起る
諸々の所有欲は欲求を縁として起る
− これを対処するために −
(かの神(=有)の生命を与えるアートマンも手放して超えて)
欲求がないときには、〈わがもの〉という我執も存在しない
形態が消滅したときには〈感官による接触〉ははたらかない
中論 献呈歌
何であれ依存的に生じたものは
独自の性質がない
それ自体の自性。という法も『手放して』超えて
それ自体の自性によって成立しているのではない
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
すべての事象は独立してではなく
原因と条件(因縁)から成り立っており、それゆえ常に変化しています
(かの神(=有)の生命を与えるアートマンも手放して超えて)
無常という理に自らの心を馴らしていかなければなりません 1レスで言えば^ ^
現象界の真理を悟れば身も心も寂滅するんだろうな^ ^ 個からの解脱かー^ ^
無我の境地に必然的に至る^ ^
簡単に言えば執着が消えるということやな^ ^ そう言う意味で因縁を受けない涅槃の境地に至るかもしれん^ ^ 585.因縁を受けない涅槃の境地、か。
因縁が吹き荒れているからして、涅槃の境地である。
私は墓の中で眠っていることはない。
因縁がなければ、涅槃もない。輪廻がなければ、涅槃もない。 >>585
六道に落ちた亡者では生涯無理にゃん♪
六道地獄に (-∧-)合掌・・・ >>585
【警告】
あなたは条項2.に抵触しています。
スレを無駄に消費するので以降は注意を願います。
守れない方の参加は堅くお断りします。 >>519 部派のテーラワーダ長老信者へ
>>523追記:
では再度、確認させてもらいますから。
テーラワーダ(南方全体でいい)には今、その滅尽定レベルを現実に示せる人というのはいったい何人います?
それは何派で何という寺院にいる何ていう僧侶ですか? その方の個人名をここに上げて下さい。
そして、できればその人について知れる情報源をここに提示願う。
もしも今いないのであれば、それは近年のいつの何処の話ですか?
あなた方はヒンドゥーのやってることはすべて“妄想の類”だと馬鹿にしてるよな?
大乗についても同じく然りで、それらは非仏説でヒンドゥー化したダメ仏教だと。
そして、自分たちだけが唯一、ブッダ直説のパーリ仏教なんだとか自信満々に豪語してる。
ならば、もしもそこまでいうんだったら当然、その本物とやらのレベルの違いを示せますよね?
だから聞いてる。心臓くらいは自分の意志力で好きに停止できるくらいの人のことをだ...。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています