--佛教論議の伽藍スレ-- 第一巻
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仏教に関するKeyword
「無我」と「アートマン(我)」、「輪廻」や「涅槃(ニルヴァーナ)」などについて、
原始経典(「パーリ五部聖典」や「漢訳四阿含経典」)に説かれているブッダからの教説を中心にして、
激しく議論したり、または有益な情報を互いに交換するためのスレです。
尚、自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されますよう宜しくお願いします。
基本的に仏典(原始経典)の記述を根拠にしていることが大前提ですが、
もし、そうでない場合には明確な理由を必ずしっかりと説明して下さい。
-------------------当スレの戒律(マナーとルール) -------------------
条項 1.コピペ・アスキーアートは原則禁止(議論に使用する為の真面目な図解については可)
2.文章、三行以下の投稿は連投を禁止します---落書き帳やメモ帳ではない
(チャットような使い方はすぐ1000レス使い切るので辞めて下さい。もっと内容を一つに纏めてから投稿しましょう)
3.一行明け投稿や無駄な空間を使用した投稿は遠慮願います。
4.意味の無い無駄な投稿は完全な犯罪級の荒らしです。スレ主である私(宝珠真範)の判断で即刻、退場してもらいます。
5.南伝仏教(または上座部仏教/南方仏教..)を「小乗仏教」と呼称することは差別用語なので使用禁止です。
(1950年の世界仏教会議にて決議した)
6.議論でヒートアップしても相手を不当に侮辱した言葉を使わないこと(節度ある態度で接しよう)
7.仏教徒として当り前の話ですが、ブッダを侮辱する意味の言葉は厳禁です。即刻、退場してもらいます。
8.次スレを立てる際は、勝手に「スレタイ」や「テンプレ」(レス番2の戒律と資料リンク含む)を変えないこと。厳守!!
以上ですが、基本的には参加者皆さんの良識に期待します。
>ゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなる
[ キリスト 実在 ] で検索すると
キリストは実在したのか?というような文脈が出て来ますね
_ _ _
そして [ 大乗非仏 ] で検索すると
大乗のみならず
パーリ経典も編纂されたものであることが明らかとなっている
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
(意図的に?)編纂されたものなら
釈迦も架空の作り話だったのか?となる場合もあるかも?
_ _ _
聖徳太子虚構説
従来聖徳太子として語られてきた人物像はあくまで虚構、つまりフィクションである
聖徳太子も架空の作り話だったのか? ここのスレを読んでいると、
大まかにすると、魂が有るのか無いのかになるんじゃないの?
釈迦は魂が有ると説いたのか、無いと説いたのか。
真我を魂と定義してみれば、わかりやすいかもね。
感想ね、間違っていたらごめんなさい。 >>154
誰も(私は)、
ブッダは「アートマンが在ると説いた」などとはいってないでしょ。
仏典から確認できる言葉とは、「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」です。
『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5)
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
(Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)
私が主張しているのは、
ブッダは「無い」などとは説いてないのに勝手に無いということにして、
ヒンドゥーなどを有我論として見下すのを止めなさいということです。
ブッダの態度は無記ですから。
そして、アートマンについては否定していないから、実際上は在っても問題にはならないといってるだけ。
勝手に「無い」と説いたなどと改竄しているのはあなた方です。
それを仏典の記述から見出すことはできませんから。
勝手に解釈として(誤解して)「無い」と弟子が言い出しただけですから。
>>155
>弟子たちの伝承を誤りだとするなら、
>そもそものゴータマ・シッダッタの実在も疑わねばならなくなるのさ。
別に全部を疑うわけではないし、その必要はないです。
仏典上、アートマンが無いという教えではないのに勝手にそう誤読したのは部派からであるといってる。
そのことを近代仏教学は指摘してるのです。
仏教学は仏典を研究してる。経典の記述を読むのですよ。
しかし、現存するテーラワーダ(長老たち)というのは部派の生き残りであって、
彼らは仏典の記述を無視して口伝を信奉してる。そう、部派からの間違った口伝を二千年間も忠実に...。
しかし、それは仏典の記述とは矛盾しているのであり、仏典に反するならばそれは仏教ではないでしょう、と。 >>157
>一切法無我ですから有為法無為法両方に渡って無我です
>どこにも我(アートマン)は存在しません
いやだから、
その一切の中へ勝手に無為法をも含めたのは部派のアビダンマであるといってるのです。
これは原始仏典上では確認されないことであって、つまり、まったくの間違いなのです。
『原始仏教では生滅変化する現象法だけを一切法としていたが、部派仏教では現象としての有為法だけでなく、生滅変化しな
い常住不変の無為法をも存在の中に加えるようになった。この意味で、阿毘達磨においては法処の中に有為法や無為法が摂せられ、
原始仏教とは違った性格のものとなった。(p143)
部派仏教は「何があるか」という一切法(有為だけでなく無為をもふくめた)を客観的に詳細に考察し、原始仏教の態度とは異
なったものになった。(p151)』
(水野弘元著『仏教要語の基礎知識』新版第1刷/春秋社刊) >>161
いえ.違います。
仏教上、輪廻主体としての「魂」については認められています。
これをブッダは「識」として説かれてました。ただし、それはアートマンではないということ。
では、アートマンは無いと説いたのかということ、そうではなくて、決して無いなどとはいってないのです。
しかし、このスレ上でこの二つの違いすらも分からない無知な者たちが、
ただ勝手に魂もアートマンもごちゃ混ぜに味噌も糞も一緒にして、それらすべてが無いと説くのが仏教なんだと主張しているのです。
この主張には伝統テーラワーダの一部と、唯物主義者の二グループが参加しています。
私は仏典の記述から、この二グループの主張は間違いだとしています。 >>156
ん? 誰と誰の格が違うと?
どうせ議論にまともについてはこれないのでしょう。
だから、「消えなさい!」といってる。
ここは参加人数を求めてない。
あなたは、二度と来なくていいですから(これが最終警告です)。 >>151
師匠に伺ったら、私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。
撤回いたします。
しかし宝珠さんの見解も正しくないそうです。
「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。 」
だそうです。
つづく^^ >>152
この宝珠さんのレスにどう返事すればよいのか分からなかったので師匠の智慧をお借りしました。
以下師匠からの伝言です。
『それは無記ではないのじゃ。
非ずと言う言葉によってしか説けないアートマンを正しく現したのじゃ。
アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ずなのじゃ。
そもそも在るとか無いとか説くものではないのじゃ。
そのように説くことも非ずなのじゃ。
何かを説けばそれは非ずではないからのう。
そうであるから無言によって真のアートマンを説いたのじゃ。 』
以上であります。
なにか異論反論ありますでしょうか。
自分で相撲が取れなくて申し訳ない^^ >>166
>私の主張はアドヴァイタと同じであり違うと突っ込まれました。
>撤回いたします。
了解しました。
尚、誤解を避けるべくいっておきますが、アドヴァイタが非真理だとはこの私はいってはいませんから。
こちらはまた異なる態度で以て示した真理なのです。
ただし、それを仏教とはいわないということ(ゴータマの教説ではない)。
>「お釈迦様は明らかにアートマンを知って説いたのじゃ。」だそうです。
はい、この私もそう見ていますよ。
だから、ここでは唯物論者たちとテーラワーダ信者がこの私に執拗に噛みついてくるのです。
しかし、この両者というのは、本来は仏教議論の机上にすら上がることが赦されない唯物論者たちと、
そして、経典の記述を無視してただ伝統(部派のアビダンマと口伝)を盲信してる人たちですから。
勝手に「アートマンは無い」というだけで、それは仏教に反して非我と無記には抵触する。
(尚、私は「アートマンを在る」と説いたなどとはいってない) >>167
>師匠の智慧をお借りしました。
はい、構いませんよ(正直でとても良いです)。
ゴータマが説いたもので唯一、仏典から確認できる言葉とは、
「真実の自己を求めよ」と「本来の自己は清浄である」>>162です。
後の大乗の説く仏性、及び如来蔵の元となった
『比丘らよ、この心は浄潔である。そしてそ〔の心〕は外来の諸随煩悩によって染汚されている。』(パーリ増支部1.5) と、
『“アートマンをアートマンとみて、それを追及し真実の自己を見いだせ”“婦女を尋ね求めることより、自己を尋ね求めよ』
(Vinaya, Mahavagga 1.13.p.23/attanam gaveseti.)です。
私個人は、
百歩譲って大枠の大枠としては鬼和尚の見解に同意しますけれど、しかし、
“非ずによってアートマンを説いている”という言い方は仏典上では述べることはできないでしょう。
何故なら、バラモン・ヒンドゥーの説くアートマンを明確に在るものとして述べた記述は一つもないからです。
仏典から確認できる言葉とは、「私は在るとも無いともいわない」ということと、
「アートマンではないものをアートマンと見なすかなれ」です。
そして唯一、アートマン性質に合致する別言いとして、“本来の清浄な自己”について述べたことと、“真実の自己を探究せよ”というものです。
ただ言えることというのは、非我(非ずの論法)の教えというのはアートマンが無いということにはならないということと、
また、『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。 比丘よ、またここに、一人のひとがあるとするがよい。彼は、すでに覚者を見、覚者の法を知り、
覚者の法に順い、あるいはまた、すでに善知識を見、善知識の法を知り、善知識の法に順い、したがって、
彼は、色(肉身)は我(アートマン)であるとも、我は色を有すとも、我が中に色有りとも、
色の中に我有りとも、見ることはない…。一切は因縁の結ぶがままに有り、
一切は因縁の結ぶがままに壊するものであることを、ありのままに知ることができるのである。
かくのごとくにして、彼においては、色・受・想・行・識、すべて壊するものであるがゆえに、彼は、
われ(アートマン)というものはない。
また、わがものというものもない。
すでにわれなしと知らば、
何によってか、わがものがあろうか。
と知ることができるのである。 (相応部経典22.55 増谷文雄訳)
「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、
このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、
『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、
まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」「まったくその通りです、師よ。
まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)
「心身関係」対「個体のアイデンティティー」の本性についての、ブッダの見解は、
無我論の原則にしたがっています。その原則は、存在を構成するスカンダ(蘊)、
つまり心理・身体的集合体のほかには、それから独立の、自律性を持った、
永遠に生き続ける魂などはない、というものです。これは、⇒『仏教のすべての宗派に共通で、普遍的な教義です。 』
(ダライ・ラマ、『ダライ・ラマ、イエスを語る』、角川書店、108頁) 無我相経・・・・・
「比丘たちよ、色は無我です。比丘たちよ、もしも色が我であるならば、色は(変化せず)
病にかかりません。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』
と言うことが出来ます。しかし、比丘たちよ、色は無我です。それゆえ、色は(変化し)、病に
かかります。また、色に対して『私の色はこのようになれ。私の色はこのようになるな。』ということ
が出来ません。
受は無我です。・・・・・・以下繰り返し
相は無我です。・・・・・・
もろもろの行は無我です。・・・・
識は無我です。・・・・」
と、このように五蘊は無我である と説きます。
五蘊はいずれも、霊魂とかアートマンとか我とかといった実体的なものではなく、相互に依存した
ものでしかない。
「私のもの」という渇愛、「私」という慢心、「私の我」と言う邪見。
このような、(「我」というものがあるという)妄執によらず、如実に正しく智慧によって観よ
と説いています。 片山一良 訳 解説
・・・・・・・はい、わかりますね?
どこにも、アートマン、真我なるものが存在するなどと書かれていません。
その存在を示唆する記述さえも全くありません。
勿論、「ない」とも言っていません。当たり前です。
あるものの不在を証明するのは、「悪魔の証明」と言って不可能だからです。
賢い釈迦は当然、それを知っています。 よって、アートマンなどないということを五比丘に
一つ一つ実証的に、「はい、これはアートマンではないですね。これもアートマンではないですね?」
と確認しながら、アートマンなどないことを納得させていったわけですw
「ないと断言していない。」⇒「なら、本音はあると思っていたかも?」⇒「いや、絶対にあると
思っていたに違いない」 wwwwwwwwww
アホの発想です。 「無いといっていない」⇒「では、あるんだ」 とはなりませんww
賢い皆さんは、騙されないようにねww 172.相互に依存したもの、か。
その相互依存は、実体が相互依存している、のである。 過去の書き込みから・・・・・
いわゆる、「非我論」といわれるものがありまして・・・。主に中村元などが主張したものです。
つまり、⇒「仏教は真我(アートマン)がない・・・とは言っていない。
「・・・・は、アートマンではない。」と言っているだけである。即ち、無我ではなくて
「非我」なのである。」 というもの。
まあ、中村氏自身が本来、印哲出身なんで、どうしてもヒンドゥー寄りに引っ張られるんだろうw
確かに、仏典の中に、「アートマンなどない」と断言している記述はない。
しかし、仏教でアートマンの存在を肯定するはずはないのw
仏教の目的は「苦の滅」・・・・これに尽きるわけ。その状態を涅槃、解脱、悟り などと呼称するの。
では、どうやって「苦を滅するか?」
それは、その「苦を感じる主体」そのものを否定することから成り立つの。
これが即ち、無我 なんだよ。
⇒「貴方は今、苦を感じている。苦しんでいる。だが、本当にその苦を感じている 貴方 というものが
あるのだろうか? ・・・・は、貴方ではない。〜〜も貴方ではない。・・・・
ほら、貴方(我)など、どこにもないでしょう? それは、錯覚なんですよ。苦を感じている主体そのものが
ないんだから、苦などあるはずもありません。」
というシステムさw 即ち、苦そのものを消去するのではなくて、それを感じる主体の消去ということ。
対処療法ではなく、根源的治療ってやつ。
だから、「苦を感じる主体の存在(我)」を認めることは、仏教の根幹が崩壊することになるのw では、なぜ釈迦は、はっきりと「我などない」と言い切らなかったのか? 理由は二つあるの。
@当時のインドは、まさにヒンドゥー社会。そこで、「我(アートマン)などない」と言い切ったらどうなる?
瞬く間に、ヒンドゥー教徒との論争になるね? ヒンドゥーの教えは、アートマン存在が絶対だから。
釈迦は、そのような他教との論争を極度に嫌ったの。それは最古層文献などに、繰り返し説かれてる。
そのような形而学上の論争をするくらいなら、とっとと修行に励め。まあ、毒矢の喩え にもそのスタンス
はよく現れているw 「無記」というのは、まさに釈迦の形而上学的論争の忌避を示してるねw
A上記の@にも関連しているが、釈迦は『経験主義者』なんだよ。
自分で確認したものを基盤に論理展開するの。 単に形而上の思想をああだ、こうだ といっても
解答はない・・・ということを知ってたの。釈迦は、自分で観測、確認できる範疇内に「我」などないことが
わかった。・・・・・しかし、「ない」と断言はしなかった。・・・・この辺も釈迦の賢いところなんだが
「不存在証明の不可能性」をちゃんと理解してたんだ。
・・・・つまり、「ない」ことの証明は不可能。それが分かってたわけ。
もし、「ない」と断言してしまえば、それの証明を求められるでしょ? それを避けたの。
また、「ない」と断言すると、六師外道のアジタと混同される危険性もあったしなw
もし、釈迦が「アートマン」を自己の教説の重要部分であると考えていたなら、必ずどこかで、それを
説いていたはずだ。 だが、そのような経典は全くない。
つまり、表現上は「非我」でも実質は「無我」なんだよw 174.苦を感じる主体そのものを否定する、か。
バカ丸出し、である。
>>161 夕師匠へ
>真我を魂と定義して
同じなのか?わからないけど、とりあえず
ウィキペディア参照
霊魂(SoulもしくはSpirit)
(色蘊・肉体?)を超えた永遠の存在
_ _ _
>>167 栄進師匠へ
>アートマンは在るものでは非ず、無いものでも非ず
「…である」と定義することはできないという
「…である」ものではない
アートマン
真我
非想非非想の世界?
あるいは
無為法の世界? 「識」について・・・・・
「識」とは、『対象を区別して認識すること』・・・・これが本意です。
さらに突っ込んで言えば、「言語的認識」です。
よって、この「識」を「我の本体」「霊魂」「輪廻の主体」と見做して
しまう「邪見」を釈迦は、しっかりと批判しています。
以下は、サーティ比丘 と釈迦との対話・・・
「私は、世尊がこのように法を説かれたと理解いたします。すなわち、
〈この識は、流転し、輪廻し、同一不変であると。」
「サーティよ、その識とは何ですか?」
「尊師よ、それは語るもの、感受するものであり、それぞれの処において
もろもろの善悪業の果報を受けるものです。」
「愚人よ、そなたはいったい誰のために私がそのように法を説いたと理解
するのですか?
愚人よ、私は多くの根拠をもって、縁より生じる識について述べてきたでは
ありませんか?
〈縁がなければ、識の生起はない〉と。
しかし、愚人よ、そなたは自分の誤った把握によって我々を誹謗し、また自分
をも傷付け、多くの罪を創り出しています。
愚人よ、それはそなたにとって長く不利益になり、苦になるはずです。」
中部 第38経 「大愛尽経」 片山一良 訳
・・・・・・・
「識」は、⇒「縁によって生じるもの」に過ぎず、したがって、実体性はない。
アートマンでも霊魂でもない ということです。
>>161 夕師匠へ
梵我一如(ぼんがいちにょ)とかは否定派でつか?
想う。という『想い』も手放して
想わない。という『想い』も手放して
非想非非想も手放して超えて
そして
その結果としての梵我一如?
道元 普勧坐禅儀
心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて
余念を交えず、ただひたすら座禅する只管打坐
(『想い』を手放して、梵我一如?仏に成っているのなら)
仏法というものは
円満に全てのものにゆきわたっており
修行したり、悟り証したりすることもない マインドフルネス瞑想 Part12 (Jカバットジン系) ・
http://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1529938706/
394 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 10:43:22.00 ID:Owtr5/AU
ちなみに私が先ほど書いたサティアユガの人間が数千年生きる話のソースは
ヨガナンダの師匠ユクテスワの教えで
アップルのジョブズが生涯信仰したヨガ哲学からの抜粋です
400 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:53:53.24 ID:FzSuR+Al
>>387
ジョブズは随分とはやく亡くなってしまいましたね
これもヨガナンダのお陰かな
402 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 10:59:04.46 ID:+STT5GAL
ヨガナンダも59歳…(-人-)
405 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:21:05.16 ID:Owtr5/AU
>>400
ヨガは長生きごっこではありません
ヨガ聖者はヨガナンダのように肉体が古くなると自らの意志で肉体から離れます
ビベーカナンダも40代かな
釈迦は毒キノコで死んだとの伝説があり
解脱してなかったという人もいます
408 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:33:28.64 ID:FzSuR+Al
>>405
ヨガナンダは自殺したんすか
えらいこっちゃ
409 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:34:14.30 ID:+STT5GAL
ジョブズも自らの意思で肉体を離れたのか…やるなジョブズ…
410 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:35:49.95 ID:Owtr5/AU
>>408
霊的レベルの低い人にはそう思うでしょうね
411 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:36:47.15 ID:FzSuR+Al
ヨガナンダは加齢を苦にして自殺(ヨガナンダ信者・談) 412 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:38:56.13 ID:Owtr5/AU
>>409
ジョブズはどうか知りませんが
ヨガナンダはトリックができない
ようアメリカの大観衆の目の前で
今から死にますと宣言して
瞑想状態にはいり
魂の離脱をしました
413 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:40:23.88 ID:Owtr5/AU
>>411
大観衆の承認がいるわけだから
そんなデタラメいってもわらわれますよ
414 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:41:21.42 ID:+STT5GAL
とSRFは言っています
415 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:42:19.57 ID:5BWjqHEu
ヨガナンダはなぜ肉体が古くなってしまったのですか?
呼吸を止められれば古くならないので数千年生きられるのではないのですか?
416 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:43:54.72 ID:FzSuR+Al
ヨガナンダは加齢を苦にして大観衆の目の前で自殺(ヨガナンダ信者・談)
417 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:45:17.68 ID:Owtr5/AU
>>415
ババジのように意図的にそうする聖者もいます
418 名前:神も仏も名無しさん [sage] :2018/06/30(土) 11:51:57.31 ID:5BWjqHEu
>>417
するとヨガナンダは新たな肉体を得て再びこの物質界に現れるのでしょうか?
その場合、成人した姿で現れるのですか?
それとも母体に宿って赤ん坊として産まれてくるのですか?
420 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 11:53:29.88 ID:Owtr5/AU
>>418
別の惑星かもしれませんね
421 名前:神も仏も名無しさん :2018/06/30(土) 12:00:19.46 ID:Owtr5/AU
>>418
ヨガナンダの師匠ユクテスワは
地球での死後に
ヒラニャローカという星に
自らの肉体を物質化して
教えを説いています
ヨガナンダにも死後肉体を再度物質化し
地球に現れもしています
以下略(現在進行中 >>171-178
あなたは自己都合による誤読が酷いし、相変わらず進歩が無いな...。
本来、唯物論者は仏教議論に入る資格がない
(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。
今時、使われない無我の古い語訳を根拠にし...
あなたは何十年、説明しても理解できない認めない人間ということがよく分かります。
こちらは記述に時間掛かるので、あとであなたの投稿すべてに対して完全に反論します。
もう、容赦しませんから。 【警告】
あなた方は条項1.に抵触しています。
----------------------------------------------------
>>180-181
唐突にコピペではなくて、
ちゃんとその投稿をすることの旨(理由)を述べて下さい。
何ですかコレは?
>>32-34
>>137-138
あなたもコピペは気を付けて欲しい。
自分の口(筆)はないのか? >>176
【警告】
あなたは条項4.に抵触しています。
しっかりとした理由や根拠を示さないのならば、
あなたの投稿はただの落書きや中傷行為と見なします。
二度と参加されなくて結構です。 盛り上がって参りました!\(^o^)/
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 184.バカはバカを判定できない。
その代表がバカ宝珠である。 >>182
>(物質科学で否定されている超常的内容のすべてが神格化というならば、そのことを証明しなさい)。
仏教ではですねえww
たとえ、悟って覚者になっても、空中を飛びまわったり、何万年も何も食わずに生きたり
出来んのですよw
神智学では、どう説いてるかしりませんがwww >>186
いいから出てってください。
このスレでは迷惑ですから。
どこか他で好きにやって下さい。 188.バカ宝珠が良く言う、よ。バカ失格であることを理解できない。
バービマンはバーかマンであることを認めるべきである。逃げるバカである、か。
>>188 宝珠殿へ
仏の顔も三度まで。なので
三度までは警告して
それ以降は、相手にしない
_ _ _
VIPQ2=2以上であればワッチョイできるけど
この板の場合は
VIPQ2という表示がないので
ワッチョイできないかもしれない。ということで
ワッチョイに関しては
失礼いたしました スマソ m(_ _)m
ワッチョイの参照資料として
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12159337082 190.バカおじゃる、の登場である。覚者になれないバカである。恥を知れ。 >>169
すいません、某サイトのコピペになりますが一読を^^
【第2難問】「有る」とは何か。「無い」とは何か?
ウッダーラカ・アルーニの「有の哲学」は「有」から始まっていた。
「有」から始まるということは、この世において「いったいどうやって無から有が生じたのか」などとは考えないということだ。のっけが「有」なのだ。
最初から「有」があったのだ。どんな「有」も「有」からしか生じないとみなすのである。
こういうインド哲学は流出論的な一元論である。
そういう特徴をもつ。ユダヤ教もエン・ソフという流出から世界が始まったと見るが、インド哲学は「有」だけが流出していくと見た。
流出論的な一元論はいきおい唯名論的になる。
唯名論(ノミナリズム)というのは、ヨーロッパ中世のスコラ哲学が生んだ普遍論争が際立たせたもので、そこでは「人間」「愛」「犬」「薔薇」といった類の概念は実在しないとみなし、それらには名(名辞)があるだけだと見た。
これに対して実在論(リアリズム)は、どんな歴史や現象であれそこにおこっていることは、それらに名前がついていようといまいと、それらについての記述があろとなかろうと、ほぼ実在しているとする見方である。
インド哲学は言葉を本質化して見るので、最初ははなはだ唯名論的になる。
へたをすれば名辞がありさえすればいいので、それを次々に連ねていくと神秘主義的な傾向にもなる。
とくにウッダーラカ・アルーニの哲学を解釈していくと、そうなりかねない。
しかし六派哲学の時代になると、インド哲学にも実在論が台頭する。
ミーマンサー、ニヤーヤ、ヴァイシェーシカの学派だ。
とくにヴァイシェーシカ学派は、「すべては知られるものであり、かつ言語にも表現できる」と見て、「知られるもの、言語表現できるものはすべて実在する」とみなした。
この「知られる」には「知覚される」だけではなく「推理される」も含まれる。 >>169
つづき
そこで第2難問だが、「有る」はともかく、「無い」の説明が面倒だろうと思われようが、そんなことはない。
インド実在論の見方からすると、「ない」や「無」の議論は実はたいへん明快なのである。「ここに水瓶がない」は「ここに水瓶の無がある」といふうに言えばいいからだ。
これは、「対蹠者」と「場」と「無」の3つを一挙に捉えるという方法だ。
ラッセルやクワインらが先導してきたヨーロッパの論理学では、「丸い四角形」は意義(センス)をもつけれども指示対象としての意味(ミーニング)をもたないとされてきたのだが、
印哲のヴァイシェーシカ学派では、「丸い四角形」は「絶対にありえないものとして実在するもの」というふうになる。
こういうわけで、すべては「ある」であって、「無」や「ない」すら「無がある」のだし、「ないということがある」なのである。
この方法は、初期宇宙に「なかった」はずのヒッグス粒子やダークマターを「あるもの」として提案した宇宙物理学の推論方法につながるところがある。
https://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
以上であります。
コピペばかりして申し訳ない。
つまり、このコピペで私は何が言いたいのかは後ほど^^ 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7)
>>193 栄進師匠へ
ttps://1000ya.isis.ne.jp/1645.html
>最初から「有」があった
>どんな「有」も「有」からしか生じない
>インド哲学は「有」だけが流出していく
何回も説明してるけど
↓これでしょ?
サーンキヤ
プルシャからの
→ プラクリティから様々な原理が展開(流出)してゆく
無為法の世界からの流出なのか?
あるいは
非想非非想の世界からの流出なのか?
非想非非想の世界は
仮設としての
縁起している世界に依存している
ということで、とりあえず、一応、念の為 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>169
上記のコピペをヒントに考えるとですね。
インド人は言葉に出したものは、すべて実在すると考えるそうですね。
ここにコップは無い、ではなく、ここにコップの無があるという言い回しです。
この「無がある」というのがポイントでして。
無とは、非ずと言い換え、ここに「非ずによってアートマンを現す」を代入してみましょう。
ここにコップのアートマンがある、です^^
アートマンとは、無である。
いや、アートマンという無があるという言い回しかな。
この言い回しは普通日本人はしませんが、宝珠さんは無意識に使ってる。
>『ウダーナ』の中で縁起する無常な世界(有為)とは違うもの(無為)があると説いたことです。
無為がある、とね。
ヒントになったでしょうか^^ 194.無為法からの流出か。非想非非想からの流出か。
そんなことはない。 貴方は、カッパではない。
私もカッパではない。
彼も彼女もカッパではない。
・・・・・・・上記の文には、「カッパは、いない とは書かれていない。〜は、カッパではない
と言っているだけである。 ということは、・・・・・・・『カッパはいるんだあああ〜〜。
それが真実だああああ〜〜〜〜」
wwwwwwwwwww
はい、みなさん、 ここは笑うとこですよw >>197
笑われ者のヘピーマンや〜い!w
ひゃっひゃっひゃ!( *´艸`)
>>195 栄進師匠へ
>コップの無がある
仮設としての
おじゃるは「実有」ではない。がある
おじゃるは「変化しないもの」ではない。がある
おじゃるは「自性」ではない。がある
それゆえに
おじゃるは「我所」ではない。がある
おじゃるは「我」でもない。がある
想う、という『想い』も手放して。がある
想わない、という『想い』も手放して。がある
非想非非想も手放して超えて逝く。がある 197.カッパはいる、か。
実在か否か、を留保して、観念としては存在している。 >>197
もうそーゆーレベルの話じゃないんですよ^^
カッパは実在しない、しかしカッパのアートマンは実在する。
わかるかな?わかんねーだろーなあ^^ 199.おじゃる、は実有ではない、か。
実有でないならば、否定する理由がないことになる。
なんで否定するのか。
実有であると、都合が悪いから、否定するのである。
バカおじゃるは、反省せよ。
>>201 栄進師匠へ
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
「壊滅しない(常住不変)」ではない。がある
「縁起しない(常住不変)」ではない。がある
それゆえに
仮設としての
縁起をもって
縁起したものを離れることもある
縁起したものを離れて、そして
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが苦しみの終わりである
そして、その結果として
仮設ではない。がある
縁起ではない。がある
有為法ではない。がある
対機説法としての?涅槃がある 203.ブッダは説かない、か。
それで苦しみの終わり、か。
バカ丸出し、である。
そんなことで、苦しみが終わることはない。 >>163
それならば無常や苦と同じく無我についても諸行は無我であると言えばいいのです
それをあえて諸法(一切法)としているのは何故か?
それは行(形成されたもの)ではない無為法も含んでいるから
>比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、
>それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。
>何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」
http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html
無為なる涅槃は釈迦にとってはあるものでありだから一切に含まれます
初期仏教では一切法は消滅変化する現象法に限定されたのものであるということはありません
限定したら涅槃はありもしないものになります
(一切法の法とはここでは事物や存在のことを指します) >>190
おじゃるさん、了解です。
>>192-193
エーと、
自分の意見を自分自身の言葉でしっかりと述べるならば、
その為の参考資料としての論拠の提示はもちろん何も問題ないです。
なので文献等から一部をコピー転載されてまったく構いません。
いや寧ろ、お薦めの良い情報があればどしどし皆さんに教えてください。
それと、鬼和尚のことで一言だけ云わせてもらいますね。
鬼和尚の投稿はいつもスパッと簡潔にして快活にされてるので、
そのこと自体にとても驚かされています。
そのような芸当はとてもこの私にはできないことです。
ただ、いつもポ〜ンと解答(私には正しいものと理解できますが)だけがあるので、
殆どの閲覧者には難しくてなかなか理解されないのではないでしょうか?
要するに、その中身については説明不足だということ。
つまり、最初から分かってる者にだけしか分からない。
(機会があったら宜しくお伝えください!)
すみません。
こちらの方こそ簡単には返答レスが返せないことが多々あります。
そのことをどうかご了承のほどを願います。
栄進さんの投稿は、またあとでゆっくりと読ませて頂きます。 >>187
パーピマン、
あなたに対する反論は何処からでも入れるのですが
(外道スレでの後半の投稿も忘れてるわけじゃないし...)、
ではまず、その発言について確認したいと思います。
>仏教ではですねえww
エッ、仏教では?
仏教では唯物論を説くとな?
そんな話は私は今まで聞いたことがないのですが、それはいったい何処の何という諸派ですか?
まずは、それをここへ明らかにして下さい!
尚、個人の唯物主義者の僧侶が〜というのは辞めて下さいね。
>>207 宝珠殿へ
>仏教では唯物論を説くことなのか?
たとえば↓これを前提としてる。とか?
ttps://takanetosyo.jimdo.com/2011/11/05/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E6%9C%97%E3%81%AE%E4%BB%8F%E6%95%99%E3%81%AE%E6%89%B9%E5%88%A4%E7%9A%84%E8%80%83%E5%AF%9F/
松本史朗の仏教の批判
第1章
仏教であれ、キリスト教であれ
すべて宗教とよばれるものは
人間がつくりだした夢にしかすぎない
_ _ _
(唯識ではなくて)
すべてを脳に還元する単純な脳一元論ではない
「脳が心を作り出す」というよりは
「脳という構造が心という機能と対応」しているとする
唯脳論(ゆいのうろん)とか? >>205
諸法は最初から元々、無為を含みません。
それが一切の法「一切法」なのです。
涅槃はゴータマにとってはあるものでも、我々にはそれを示すことができない。
従って、仏教では二諦によって世俗諦で教えるのです。そうでないと我々には役立たないからです。
現象法に限定して、尚且つ、それとは異なるものがあると教えるのが仏教です。
縁起(一切法/有為)には拠らないものがあると説く、それがウダーナの教える「無為」ですから。
あなたがウダウダいったところで経典ではそうなっているのだから、
それがゴータマの教え方ですよ。
あなたの話はすべて部派仏教のアビダンマの理解です。
初期仏教のものとは見なされません。
いや、分からなくても仕方ないのです。
何故ならば、すべての仏教諸派が間違えてるのだから...。
寧ろある意味では、「仏性」と「如来蔵」を説く部分について大乗はその点が優れている。
また、「諸法」については後で述べます。 >>209
>諸法は最初から元々、無為を含みません。
その根拠を経典から明確示してください >>210
>その根拠を経典から明確示してください
↓
その根拠を経典から明確に示してください >>209
>縁起(一切法/有為)には拠らないものがあると説く、それがウダーナの教える「無為」ですから。
縁起に拠るものは一切法ではなく諸行(一切行)です
縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました 僧兵達のバトルが始まるにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・
>>212
>縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました
リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m
スッタニパータ 1119
仮設としての
縁起している世界の中で
縁起に依存している
(無為法がある。という『想い』も手放して)
すべて一切の諸法を『空性である』と観照して
(縁起に依存しているを手放して超えて)
その結果としての涅槃がある
という涅槃に導くための対機説法も否定しまつか?
涅槃に導くための
根本仏典とかの
苦集滅道に導くための対機説法も否定しまつか? そもそも「無い」の意味って?
誰が定義した?
人によって違うだろう。
唯一絶対の定義があるのなら指摘してよ。
無理だろ?
じゃあ、
「アートマンは無いのか」という問いは、言い換えると
「アートマンは○○のか」という問いになる。
答えが出るはずがない。
他の問いも同じこと。
>>205
> 一切法の法とは、ここでは事物や存在のこと
無為法とは
仮設ではない
縁起でもない
有為法でもない
それゆえに
事物や存在でもない
_ _ _
真俗二諦
その当時のインドの人々にとって仏教を理解せしめるためには
世間的な『想い』を一応認めて
その理解のうえで
その当時のインドの人々に
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
仮設としての
縁起に依存して
苦しい。という『想い』が現れる場合もあるので
それゆえに
苦しい。という『想い』が依存している
縁起している世界を手放して超えて逝こうという
そのための涅槃・無為法という対機説法でつ >>209
だからw
>現象法に限定して、尚且つ、それとは異なるもの が、
「境地」としての「涅槃」なわけ。
こんなにも単純でシンプルな事柄なのに、なんでわざわざ複雑怪奇なものにしちゃうかな・・・w 日本語で言う『境地』という捉え方は、結構言い得ていると思うんだけどねぇ・・。
「境地」って、
≪どこかに≫≪具体的に≫(≒空間的に)(質量をともなって)≪永遠に≫≪存在する≫
ものなのかねぇ・・・ ┐(´ー‘)┌
>そもそも「無い」の意味って?
おじゃるは
仮設としての
縁起している世界の中で
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛に依存して
遍計所執性に依存して
貪・瞋・痴に依存して
それゆえに
何かが「ある・ない」と妄想・分別しちょりまつ
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…
諸の法の実相は性としての空である
如来の滅後も、こう思惟してはならない
有るのか?無いのか?有ることもあり、無いこともあるのか?と
如来がいる。という『想い』は
本より畢竟じて空である
如来は戯論を超過している
− これに対して −
おじゃるは
仮設としての
無明薫習に依存して
戯論を生じている
>〜ものなのかねぇ?
おじゃるにとっては
苦集滅道の後に
最終的には
何があるのでしょうか?
(縁起ではない)
涅槃の世界のようなものがある
という対機説法の方がわかりやすいでつ
それゆえに対機説法としては
仏そのもの
仏性からの真如縁起とか
無住処涅槃など
その他、諸々
世間的な『想い』も一応、認めて… >>214
>リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m
ダンマパダ279
http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201005/article_20.html
Sabbe dhammā anattā'
テーラガーダー678
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html
スッタニパータ1119の無為法があるという思いを手放すという解釈は単に貴殿のドグマだと思います
逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは何でしょう?
滅諦とは涅槃寂静の悟りの世界であり
すべての事物(ダルマ=法)は無我だと智慧によって見る時に滅諦に至ります
>>216
比丘たちよ、『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する。
http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html
ということで貴殿の「無為法は事物や存在ではない」は否定されます >>222
>逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは何でしょう?
↓
逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察することの違いは何でしょう? 一方,大乗の諸論書の中で,三句ではなく四句で表現される用例を檢索すると,中觀派の諸論書の中には見出せず,
瑜伽行派の液れの中でのみ,具體的には「菩薩地」に, ʻdharmoddānaʼ という用語をもって,
菩薩にとっての,言わば,「法」の四つの「標語」 (uddāna) として,「一切行無常」「一切行苦」「一切法無我」「槃寂靜」との四句が出る。
唯識『大乘莊嚴經論』(Mahāyānasūtrālaṁ kāra) の6說によると,
「空・無願・無相」の三昧それぞれと結びつけられて,「一切行無常」「一切行苦」は「無願三昧」が,
「一切法無我」は「空三昧」が,そして,「槃寂靜」は「無相三昧」が奧義として說かれたのであるという解釋が行われる。
この場合は,「一切法無我」を「空」と觀る所說である。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/180561/1/jic088_442.pdf >>224
>槃寂靜⇨涅槃寂静
唯識の行者にとっても空と一切法無我の観察法は変わらないようです
>>222
ttp://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201005/article_20.html
たとえば
仮設としての
縁起している世界の中で
縁起に依存して
現れ・変化して・滅しているので
それゆえに
変化しない常住の実体がない
実有ではない
という意味では?
ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html
大乗で云うところの
仏法
『仏そのもの』の
法(真理)の住者たるままに…
>貴殿のドグマだと思います
おじゃるが勝手に憑けたけど
仮設としての
縁起している世界の中で
縁起に依存して
無為法が「ある・ない」という『想い』が現れる場合もあるでしょ?
という意味でつ
>>222
ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html
『生じたもの』でなく『成ったもの』でなく『作り為されたもの』でなく『形成されたもの』でないもの(涅槃)が存在する
それゆえに、『生じたもの』『成ったもの』『作り為されたもの』『形成されたもの』からの出離が覚知される
_ _ _
解脱智見
解脱によって解脱智見を知る
縁起からの
解脱を知覚して
涅槃に住む
それゆえに
涅槃・無為法は
仮設ではない
縁起でもない
有為法でもない
それゆえに
事物や存在である。という『想い』ではないでしょ?
(縁起に依存している『想い』ではないでしょ?という意味でつ) >>207
え? ええ???
仏教のお偉いさん、もしくは仏教学者で
⇒「悟って覚者になれば、空中も自由に飛べるし、何万年も生きられまっせ。」
なんて言ってる人いるの?www
・・・・・そういえば、麻原は空中浮遊できるとか言ってたみたいなw
それくらいしか知らないんだがw
>>224
ID:SVItGl+6師匠も随分と難しいものを読んでるんでつね?
おじゃるには
難しくて意味がわからないけど、それでも、とりあえず
ttps://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/180561/1/jic088_442.pdf
「三法印」古典インドにおける三句の…
…
この場合は
「一切法無我」を「空」と観る所説である
_ _ _
[ 一切法無我 ] を検索すると - 諸法無我
仮設としての
縁起している世界の中の
すべて一切の諸法は
縁起によって生じたものであって実体性がない
この諸法無我
この一切法無我がある。と
掴もうとしている『想い』も手放して
円成実性がある。と
掴もうとしている『想い』も手放して
そして
勝義無性みたいな感じ?
間違ってたら スマソ m(_ _)m
>>222
> 世界を空と観じることと
> 一切法無我と観察することの違いは何でしょう?
[ 一切法無我 ] を検索すると
とりあえず
四法印
諸行無常印
すべての現象(形成されたもの)は、無常(不変ならざるもの)である
それゆえに一切皆苦
「色は苦なり」「受想行識も苦なり」
諸法無我印
すべてのものごと(法)は、自己ならざるものである
涅槃寂静印
ニルヴァーナは、安らぎである
_ _ _
これを見ると
ニルヴァーナは、安らぎである
涅槃寂静印に戻る帰るための
世界を空と観じること。という対機説法である
という感じで おじゃります m(_ _)m 諸法無我
(結び)
はじめに、有為法だけでなく、無為法を含めてすべての存在には、主体とも呼べる我がないというのは、他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我であることを言う。
これは、《絶対者の否定ではなく》、「神」などが我々との関係の上にのみ存在することを意味している。
仏典の中にも「神」が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。
その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。
http://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%BB%E3%81%86%E3%82%80%E3%81%8C
と書いてあるが《絶対者の否定で良い》と思う。
仏教では六道輪廻する存在の神はもちろん輪廻から解脱した修行完成者でも絶対的な存在ではない。
もちろん神にも修行完成者にも主体と呼べる我は存在しない。
仏教での"唯一の"絶対は無為法の涅槃だけだが仏教は涅槃において真我実現するという教えではない。
中観帰謬とかの場合は
世俗の次元においても
自相(自性)ではないので
それゆえに
>真我実現するという教えではない
で良いかもしれないけど
たとえば
中観自立のような
おじゃるにとっては
ニルヴァーナ
涅槃寂静印がある
という対機説法の方が、わかりやすいでつ
世間的な『想い』を一応認めて、その理解のうえで
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
そのための
苦集滅道である
と云うように >>169
宝珠さんへ、師匠からお返事が来ました^^
『それにはアートマンに関する知識が欠けているのじゃ。
そもそもアートマンを知らずしてアートマンを語るべきではないのじゃ。
諸法無我というのが無によってアートマンを説いているのじゃ。
アートマンを在るものとして述べる筈は無いのじゃ。
無と非によってのみ説くものであるからのう。
アートマンを理解していない証拠なのじゃ。
先ずヴェーダを読んでアートマンを理解してから思考し、語るべきなのじゃ。』
以上であります^^
>>233 栄進師匠へ
>無によってアートマンを説いている
何回も書いているけど
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマン
真我
非想非非想なのか?
あるいは
無為法なのか?と >>233
私は、鬼和尚と論争する意思はまったくありません。
お互いにどうみても結果的には同じ見解にあることは明白なのですから。
ただ私がいっているのは、アートマンは無と非によってのみ説くものであるから、
だからといってゴータマの語った、「それらはアートマンではない」という非我の教説を以てして、
それはアートマンを説いたことになるんだ、という言い方はできないといっているだけです。
当たり前の話ですが、これがバラモン・ヒンドゥーであればアートマンを説いてるでもいいでしょう。
しかし、仏教ではアートマンを説いているという言い方はできないんですよ。、
ただ言えることというのは、アートマンを無いものとして否定したことにはならないというだけなのです。
誤解して欲しくないのは、私はゴータマはアートマン体験をしてるものと見ています。
ただし、バラモン・ヒンドゥーとは教え方のアプローチが違うのです。
私は、古典的『ヴェーダ』と『ウパニシャッド』はあまり読みませんが、
「ラーマクリシュナ・ミッション」の教えとパラマハンサ・ヨガナンダの「セルフ・リアリゼーション・フェローシップ」、
ラマナ・マハルシのジュニャーナ、シャンカラチャリヤのアドヴァイタ不二一元論、
シュリ・クリシュナの『バガヴァッドギーター』、そして『聖典ヨーガ・スートラ』などを読みます。 僧兵諸君、お早うにゃん♪(*^ω^*)ノ
口角泡を飛ばして彼岸に渡るにゃん?(笑)
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>234
ウィキを調べたですが^^
アートマン→無我→空→仏性→無為→涅槃
これが乱暴な解釈ですが仏教の歴史かと^^ >>235
私にも、鬼和尚も宝珠さんも同じ見解だと思います^^
ただ宝珠さんは、アートマンを実体視してるんじゃないですか?
この世界にアートマンは見いだせない。
ならばこの世界を超えたとこにアートマンがあるはずだと。
だからパーピマンに弄ばれる^^ >>226
スッタニパータ758
Amosadhammaṃ nibbānaṃ,
涅槃は虚妄の法ではない
http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201501/article_14.html
しかし虚妄の法mosadhammañも虚妄ならざる法Amosadhammaṃも法は法であり諸法の内であり無我です
ついでに涅槃はブラフマンでもありません(涅槃はブラフマンであると釈迦は説いてはいません)
>>227
>>216
>無為法とは
>仮設ではない
>縁起でもない
>有為法でもない
>それゆえに
>事物や存在でもない
の説明になっていません >だからパーピマンに弄ばれる^^
けたけたけた
宝珠 「いいですか? アートマンというのは、アストラル界であって、空中を飛べるんですよ。
風船がはねてるように飛ぶんですよ。 そして、何万年も生きるんです。
何も食べないんですよ。・・・・・・・・・・
あ〜〜〜〜〜〜〜、 もう、お兄さんは何を言ってるのか、自分でも分からなくなりました(´;ω;`)」
wwwwwwwwwwwwwwwwwww
ttp://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%9C%9F%E4%BF%97%E4%BA%8C%E8%AB%A6
真俗二諦
…
その当時のインドの人々にとっての
世間的な『想い』を一応認めて、その理解のうえで
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
ヒンドゥー(バラモンなど)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
ttp://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201501/article_14.html
763.(758)
虚妄の法ではない
涅槃は
それを
聖者たちは真実であると知る
彼らは
実に真実を悟るので
静かなる涅槃に至ると
>>239 ID:W3v4+mqi師匠へ質問でつ
有為法 - 虚妄の法
涅槃 - 虚妄の法ではない
(ID:W3v4+mqi師匠にとっての)無為法とは何でつか?
(論点が嚙み合ってないようなので質問させて頂きます)
>>239 ID:W3v4+mqi師匠へ
>>241の続き
たとえば
中観帰謬とかの場合だと
涅槃は
「無為法である。という『想い』ではない」という導きになりまつ
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
…
「誰も気づいていない山火事」も
いま(仮設としての)我らによって
(無明に依存して妄想して)分別されている
_ _ _
無明に依存して
妄想に依存して
「火自体の側にある固有の要素がある」
「自相(自性)のようなものがあるはずだ」というような『想い』が現れる場合もある
それゆえに
(勝義一辺倒の勝義房の方々とか?)中観帰謬とかの場合だと
涅槃は
「縁起に依存している。という『想い』ではない」
「(縁起に依存して)掴もうとしている『想い』ではない」
それゆえに
「(縁起に依存している)事物や存在である。という『想い』ではない」というような導きになりまつ
>>239 ID:W3v4+mqi師匠へ
>>241 >>242の続き
たとえば
無明に依存している
おじゃるが↓この経典を見ると
ttp://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-3.html
『生じたもの』でなく
『成ったもの』でなく
『作り為されたもの』でなく
『形成されたもの(有為)』でないもの(涅槃)は存在する
_ _ _
仮設としての
無明に依存して
妄想して
分別して
「にゃるほろ =^・ ・^= 涅槃は存在するのか?」と掴もうとする
(掴ことではなく手放すことが正しい対機説法という意味)
↓掴もうとする心の働き
仮設としての
無明に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを「自分であると考えて執着し続けている」
この有覆無記に依存して
「にゃるほろ =^・ ・^= 涅槃は存在するのか?」と掴もうとする『想い』が現れる場合もある
という意味でつ 宗派が錯綜すると怖いから、他宗を知ることも体験後は大事なのだろうね。
>>19
Junkie-Ooyama..師匠も唯識とかも専門にやってるようでつね?
Junkie-Ooyama..師匠へのお願いでつ
おじゃるにとっては
Junkie-Ooyama..師匠の説明も、わかりにくいので
日本語で
現代語訳で
初心者向けに
分かりやすい説明で
よろしくお願い致します ヨロ m(_ _)m
↓参照資料として
ttps://www.yuishiki.org/
唯識学会
(リンク貼り憑けできない)
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
ttp://www.tibethouse.jp/about/buddhism/37/index1.html
チベット ニンマ派
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95%E7%A7%B0
ダルマキールティ(唯識派)
ttps://morfo.blog.so-net.ne.jp/2012-02-13
有相唯識 無相唯識 >>241
>(ID:W3v4+mqi師匠にとっての)無為法とは何でつか?
その前におじゃる様は私の
>>222
>逆に質問しますが世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは何でしょう?
に答えてくれていません
>>242>>243
中観とか唯識とか話を広げても煩雑になって整理できなくなるだけです
その調子で有部では〜、大衆部では〜、密教では〜、禅では〜とされたら話に切りがなくなります
お釈迦様はラーダ尊者にこう言いました
「ラーダ、問い過ぎている。問いの終わりを捉えて見ることはできない」(相応部ラーダ相応)
貴殿は話を広げすぎている
法(存在するもの)の話の終わりを捉えて見ることはできない >>246
己が内面を疎かにして外面に刺激
を求める愚かさを知れ!にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>238
1,ブラフマンは実にこの一切(宇宙)である。
心が平静となった者はそれをジャラーン(意味不明の神秘的名称)として念想すべきである。
そして実に人間は意向から成っている。
この世において人間がいかなる意向をもったとしても、この世を去って後もそれと同じ意向をもつものとなる。
(それゆえに)人間は意向を定めるべきである。
※意向を定めないと輪廻するという意味か?
2,意から成り、生気を体とし、光輝を形相とし、その思惟は真実であり、虚空を本性とし、一切の行為を内包し、
一切の欲求を有し、一切の香りを持ち、一切の味を具え、この一切に遍滿し、無言にして、超然としているもの、
3,これが心臓の内部にある私のアートマンである。
それは米粒よりも、あるいは麦粒よりも、あるいはけし粒よりも、あるいはきび粒よりも、あるいはきび粒の核よりもさらに小さい。
(しかし)この心臓の内部にある私のアートマンは大地よりも大きく、空よりも大きく、天よりも大きく、これらの諸世界よりも大きい。
4.一切の行為を内包し、一切の欲求を有し、一切の香をもち、一切の味を具え、一切に遍滿し、無言にして、超然としているもの、これが心臓の内部にある私のアートマンである。
これはブラフマンである。
「私はこの世を去った後で、これと合一しよう」という(意向の)ある人は、もはや疑念をもつことはない。
(『チャーンドガヤ・ウパニシャッド』iii,14)
古代インドではアートマンは心臓の内部に実在するものと思われていました >>249
数学についてはサッパリなんですが、無限小と無限大という概念があるそうですね^^
アートマンは無限に小さいもの。
ブラフマンは無限に大きいもの。
この二つが同一というのは、どちらも「無限」だから^^
大きいとか小さいは関係がない。
大乗涅槃経では、「仏陀はアートマンそのものである」と説かれてるとか。
仏陀が永遠であること、アートマンが無限であること。
そこに同一性があるのではないかと。
言っとくけど、これは俺のオリジナルアイデアだからな^^
どこかのサイトのコピペじゃねーから^^ 250.人間には到達不可能である。
それを語るバカである。 我執にとらわれる人間は愚かだが、過去の自分が娘や孫に薄くなりつつ
映る年だ。
>>246
>有部では〜、大衆部では〜、密教では〜、禅では〜とされたら話に切りがなくなります
>>4のところにも書いたけど
たとえば
中観自立派と
中観帰謬派では立ち位置が違うので
『根拠にしているものが違う』
『拠って立つものが違う』ということでつ
>世界を空と観じることと一切法無我と観察ことの違いは
一切法無我
諸法無我
仮設としての
縁起している世界の中の
すべて一切の諸法は
因縁によって生じたものであって実体性がない
実有ではない
三法印・四法印の一つ
スッタニパータ 1119
仮設としての
自我に固執する見解をうち破って
縁起している世界の中の
すべて一切の諸法を「空性である」と観照せよ
「似てるような文脈の対機説法である」という。おじゃるの感想でつ >>250
大乗涅槃経やない。
大般涅槃経 やった^^
>>247 junkie- ooyama.師匠へ
レスありがとうございます
おじゃるは
初心者の段階にも及ばないので
これからも
ご教示の程よろしくお願い致します ヨロ m(_ _)m
_ _ _
>>249 ID:W3v4+mqi師匠へ
おじゃるは
一応
根本仏典とかも肯定なので
経典に「(涅槃)は存在する」と書いてある。ということも理解してます
(涅槃に戻る帰るための対機説法として、わかりやすくて良いと思います)
それでも、たとえば
>>254 栄進師匠の
>大般涅槃経では…
阿含経典類から大乗経典まで数種あるらしいけど
根本仏典と大乗とでは
それぞれの根拠としてるものが違うでしょ?
それぞれの拠って立つものが違うでしょ?
大乗の『涅槃経』 は
初期の『涅槃経』とあらすじは同じだが
「一切衆生悉有仏性」を説くなど、趣旨が異なる。ということでつ >>255
そうやった。
大乗の涅槃経でええんやった^^
すまん。
栄進師匠が云うところの
「…である」と定義することはできない
「…である」ものではない
アートマン
真我
大乗の
一切衆生悉有仏性と同義である
と云う栄進師匠の主張である。という感じでつ
↓一応、念の為
六師外道とか
ヒンドゥー(バラモン)などを
これを
部分的には受け入れて
部分的には批判・否定している
釈迦
根本仏典
これを
部分的には受け入れて
部分的には批判・否定している
大乗
それぞれの拠って立つものが違う場合もある。ということでつ >>256
そこは、ものすごく大きな違いで、
その、仏教史・仏教思想史の分岐・色分けに関わる大きな違いを
「把握できてない・勘違いする」(違いが判ってない)
という時点で、そもそも≪何も見えてない≫という自白にしかならんわ。 >>253
>『根拠にしているものが違う』
>『拠って立つものが違う』ということでつ
今は
>>214
>>縁起に拠らないものも含んで一切法であり釈迦は一切法無我と説きました
>リンクの貼り憑け願います ヨロ m(_ _)m
というおじゃる様からの催促でダンマパダとテーラガーダーを明示しました
これら初期の仏典を根拠にして話をしているという前提です
それで話を進めていかないと話はまとまりません
貴殿も>>214スッタニパータと根本仏展を持ち出して問いかけてきましたがならば最後まで根本仏典で話を進めていくのが筋というものですよw
次に空と観じることと一切法無我と観察することの違いの結論として
>すべて一切の諸法を「空性である」と観照せよ
ここはすみません自分もスッタニパータ1119の極一部だけ見てその前をスルーしてました
原文は「世界(loka)が空なりと観ぜよ。」であり有為に属するlokaを空なりと観ぜよなので有為無為合わせた一切法無我という訳ではありませんでした
これは自分も不注意でしたが
まあしかし最初の無為法があるという想いを空なりと観ずるのはそれはいいとしてお釈迦様は無為法なる涅槃は存在すると明確に言ってるので涅槃は存在するのですw >>241
>(ID:W3v4+mqi師匠にとっての)無為法とは何でつか?
因がない法(ダルマ)です
具体的には(虚妄の法ではない)涅槃のことです
唯識だと虚空、択滅、非択滅、不動滅、想受滅、真如が無為法ですが前述のように話が煩雑になるのでここでは触れません
比丘たちよ、しかしながら、すなわち、まさに、生じたものではなく(ajātaṃ)、成る、起こるものではなく(abhūtaṃ)、作り為されたものではなく
(akataṃ)、原因によって形成されたものではないもの(asaṅkhataṃ)(涅槃)が存在することから、
それゆえに、「生じたもの(jātassa)」「成る、起こるもの(bhūtassa)」「作り為されたもの(katassa)」「形成されたもの(saṅkhatassa)」からの出離(nissaraṇaṃ)が覚知される。
http://zhaozhou-zenji.hatenablog.com/entry/2015/06/14/231657
asaṅkhataṃが無為
saṅkhatassaが有為 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています