【柔軟に】水の哲学【無限に】
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Don’t think, feel! 考えるな、感じるんだ! 時にはカクテルを飲みながら、 時には音楽を聴きながら 語りあいましょう(V)∧¥∧(V) まだ、間に合う! くびれ作りエクササイズを行う事で、 ぽっこりお腹やはみ出たお肉からサヨナラする事が可能です。 そもそも、エクササイズというのは、運動の総称として使われる言葉ですので、 くびれ作りをする運動という意味になります。 くびれ作りエクササイズ https://youtu.be/4ZQeulVl9b4 >>349 凄くいい曲だけど、長渕剛以外は歌いこなせないかも(^^ゞ 「道は天地自然の物にして、人はこれを行うものなれば、天を敬するを目的とす。 天は我も同一に愛し給ふゆえ、我を愛する心を以て人を愛する也」 (現代語訳) 「道というのはこの天地のおのずからなるものであり、人はこれにのっとって行うべきものであるから何よりもまず、天を敬うことを目的とすべきである。 天は他人も自分も平等に愛したもうから、自分を愛する心をもって人を愛することが肝要である」 『南洲翁遺訓』より 局中法度 一.士道ニ背キマジキ事 一.局ヲ脱スルヲ許サズ 一.勝手ニ金策イタスベカラズ 一.勝手ニ訴訟取リ扱ウベカラズ 一.私ノ闘争ヲ許サズ 右条々相背キ候者 切腹申シツクベク候也 局中法度 一.戦いの最中に逃げたりせず武士らしく振舞え。 一.新選組を脱退する事は許さない。 一.副業禁止。借金禁止。 一.部隊に内緒で裁判沙汰を起こさない。裁判沙汰に首をつっこむな。 一.プライベートでのケンカをしてはいけない。 一つでも上記規則をやぶったら切腹。 子母澤寛の小説「新選組始末記」によると、 局中法度は5箇条からなり、 新選組の結成直後の文久3(1863)年に定められたとされている。 ただそういった正式の記録はなく、 新選組の生き残り幹部・永倉新八がのちに語った回想録の中で、 「禁令(または法令)」なるものがあったということがわかっている。 その内容は局中法度5箇条のうち、「私の闘争を許さず」を除いたもので構成されていたという。 この結果、子母澤が新選組の小説を書くにあたり禁令を母体にして「法度」を創作した可能性はある。 >>359 A吉さん、ようこそ! 自由に語ってください。 罪なやつさ Ah PACIFIC 碧く燃える海 どうやら おれの負けだぜ まぶた閉じよう 夏の日の恋なんて〜♪ 時間よ止まれ 矢沢永吉 https://youtu.be/etv1AZkPDyg 君 さがし求め So many times 悲しさに耐えて Cryin' every night 愛 さがし求め So many times〜♪ 愛の叫び キャロル https://youtu.be/gXQa_pad4CY There comes a time When we heed a certain call When the world must come together as one There are people dying Oh, and it's time to lend a hand to life The greatest gift of all〜♪ We are the world https://youtu.be/wXTcV0F4Dm0 >>355 京セラの稲盛和夫さんも、鹿児島出身という こともあり、西郷隆盛が好きみたいです。 私は、稲盛さんや松下幸之助さんの本を、結構 読みましたわ。 >>361 時間よ止まれはヒット曲ですが、こっちはマニアックですねw 人生楽ありゃ苦もあるさ 涙の後には虹も出る 歩いてゆくんだしっかりと 自分の道をふみしめて あゝ人生に涙あり https://youtu.be/Gu37IixsIg4 上善は水の若(ごと)し。 水は善(よ)く万物を利して争わず、 衆人の悪(にく)む所に処(お)る。 故に道に幾(ちか)し。?? 最高のあり方は水のようなものだ。 水は、あらゆる物に恵みを与えながら、争うことがなく、 誰もが嫌がる低いところに落ち着く。 だから道に近いのだ。?? 大道廃れて、仁義有り。 智慧出でて、大偽有り。 六親(りくしん)和せずして、孝慈有り。 国家昏乱して、忠臣有り。 (無為自然の)大いなる道が廃れたので、仁義(の概念)が生まれた。 (悪)知恵を持った者(儒者)が現れたので、人的な秩序や制度が生まれた。 親兄弟や夫婦の仲が悪くなると、孝行者(の存在)が目立つようになる。 国家が乱れてくると、忠臣(の存在)が目立つようになる。 語りうる「道」は「道」そのものではない、名づけうる名は名そのものではない。 名づけえないものが天地の始まりであり、名づけうるものは万物の母である。 だから、意図をもたない者が「道」に驚き、意図ある者はそのあらわれた結果しか見れない。 この二つは同じものである。 これらがあらわれて以来、名を異にする。 この同じものは神秘と呼ばれ、神秘から神秘へとあらゆる驚きの入口となる。 美があまねく美として認められると、そこに醜さがでてくる。 善があまねく善として認められると、そこに不善がでてくる。 だから、 有と無はたがいに生まれ、 難と易はたがいに補いあい、 長と短はたがいにそれぞれの位置をしめ、 高と低はたがいに矛盾し、 声と音はたがいに調和しあい、 前と後はたがいに順序をもつ。 だから、賢者は干渉しないでものごとを扱い、言葉のない教えをする。 万物は間断なく盛大である。 成長していっても、誰れもそれを所有しない。 仕事が成しとげられても、それに頼るものはいない。 達成されても、名声を求めるものはいない。 名声を求めないから、成功はつねにそこにある。 賢者を尊重する者がいなければ、人は競争をしないだろう。 貴重なるものに価値をおくことをやめれば、人は不法の利益をもつことはないだろう。 欲望を刺激するものを見る者がなければ、心は混乱しないだろう。 だから、賢者は人々の心をくつろがせ、腹をしっかり固めさせ、志を弱めてやり、身体と強くさせて人々を導く。 彼は人々を知識も欲望もない状態にする。 これは、知識をもつ賢者はあえて行動しないということを意味する。 彼の無為によって、教養をもたない者がいないわけではない。 二千数百年も前に書かれたといわれる『老子』。 そこに記された言葉は、時代を超えて私たちの心に多くの“気づき”や人生のヒントを与えてくれます。 老子思想の根幹を成す「道」という考え方。 目で見たり、触ったりして確認できるような“実体”があるものではない・・・とされていますが、それでいて「万物の根源」でもある。 そもそも、「道」という名前さえも“仮”のもの。 それは、老子の次の言葉からもよくわかります。 道は常に無名の樸(ぼく)なり。 小なりといえども、天下あえて臣とせず。 「道」は永遠に無名である。 手が加えられていない素材(伐りたての原木)のようなものだ。 名もない素材は小さいけれど、誰もそれを支配することは出来ない。 私たちが生活で使っているテーブルやタンス、フローリングも、 元をただせば、森から刈り出した木です。 伐ったばかりの時は、「どんなものにもなり得る」素材なのです。 この「樸」は、「人」に重ねて考えることもできます。 生まれたばかりの赤ちゃんには、 何者にでもなり得る可能性と、 本来は、誰にも支配され得ない「自由」があるのです。 天と地は、相合し恵みの雨を降らせるが、 それは誰かが雨に命じて広くまんべんなく降らせているのでなくて、 ひとりでに、自然に降っているのだ。 管理が始まると名前が出来るし、 名前が出来ると適当なところでとどめる事を知らねばならぬ。 これが『限度』であり、 限度を知れば危険を免れることが出来る。 たとえば道の天下に在るは、 なお川谷の江海に与するがごとし。 「道」は天下に有るすべてのものが行き着く所だ。 すべての谷川が海に流れ込むのと同じように。 過去ばかり振り向いていたのではダメだ。 自分がこれまで何をして、 これまでに誰だったのかを受け止めた上で、 それを捨てればいい。 スティーブ・ジョブズ 仏教は、因果の道理に立脚しています。 「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」『中阿含経』 「縁起」とは因果の道理のことですので、 ブッダも因果の道理という真理を悟られて仏になったと説かれています。 「一切法(万物)は因縁生なり」 すべての結果には、必ず原因がある。 原因と結果の法則は、 善因善果(ぜんいんぜんか) 悪因悪果(あくいんあっか) 自因自果(じいんじか) この中の、「因」が行いで、「果」が運命です。 仏教の教えは、 善い行いは、善い運命を生みだし、 悪い行いは、悪い運命を引き起こす。 自分の蒔いた種は、自分が刈り取らねばならない。 という自業自得の因果の道理に貫かれているのです。 観自在菩薩がかつてほとけの智慧の完成を実践されたとき、 肉体も精神もすべてが空であることを照見(理解)され、あらゆる苦悩を克服された。 舎利子(あなた)よ。存在は空にほかならず、空が存在にほかなりません。存在がすなわち空で、空がすなわち存在です。 感じたり、知ったり、意欲したり、判断したりする精神のはたらきも、これまた空です。 舎利子よ。このように存在と精神のすべてが空であり、 生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません。 五蘊(ごうん) 1.色蘊(しきうん) - 人間肉体 2.受蘊(じゅうん) - 感受作用 3.想蘊(そううん) - 表象作用 4.行蘊(ぎょううん) - 意志作用 5.識蘊(しきうん) - 認識作用 そして、小乗仏教においては、現象世界を五蘊・十二処・十八界といったふうに、あれこれ分析的に捉えていますが、 すべては空なのですから、そんなものはいっさいありません。 また、小乗仏教は、十二縁起や四諦といった煩雑な教理を説きますが、すべては空ですから、そんなものはありません。 そしてまた、分別もなければ悟りもありません。 大乗仏教では、悟りを開いても、その悟りにこだわらないからです。 大乗仏教の菩薩は、ほとけの智慧を完成していますから、 その心にはこだわりがなく、こだわりがないので恐怖におびえることなく、 事物をさかさに捉えることなく、妄想に悩まされることなく、 心は徹底して平安であります。 また、三世の諸仏は、ほとけの智慧を完成することによって、この上ない正しい完全な悟りを開かれました。 それ故、ほとけの智慧の完成はすばらしい霊力のある真言であり、すぐれた真言であり、無上の真言であり、無比の真言であることが知られます。 それはあらゆる苦しみを取り除いてくれます。真実にして虚妄ならざるものです。 そこで、ほとけの智慧の完成の真言を説きます。 すなわち、これが真言です。 羯諦羯諦、ギャテイギャテイ 波羅羯諦、ハラギャテイ 波羅僧羯諦、ハラソギャテ 菩提薩婆訶。ボシソワカ 仏教の基本は「色即是空」 形あるものは、即ち形のないものだ。という逆説的な表現で分からせようとするから、難しくなるのだ。 この世は移ろい続けている。 太陽は朝東からのぼり、夕方西に沈む。 すると、月が東から出て、その月は日々カタチを変えていく。 満開の桜もわずか10日もすれば風に散ってしまう。 移ろい行く世界には何か法則があるのではないか? と古代インド仏教徒はそれを「空」と名づけた。 もう一点、 「生き方を変えるのでなく、受け取り方を変える」 これが、東洋的な思想の基本らしい。 穏やかな世界が広がり、心配はいらない。 それが『般若波羅蜜多心経』=智慧の完成に関して、その一番大事なエッセンスを取り出したお経という。 ルドルフ・シュタイナーは、 「仏教の教義として世に現れたものは、ある段階までの理念の高み、霊の純粋なエーテルの高みにまで上昇した者にのみ理解可能な世界観であった」 「なぜキリストは活動することができたのか。仏陀が真実を語ったからだ」などと述べています。 シュタイナーの仏教観ですが、 あらかじめ、その大きな枠組みについてについていうと、 まずキリスト教には、ゾロアスター教、ユダヤ教、仏教の3つの流れが流れ込んでいて、 現在、新しい仏教の流れがキリスト教に合流しつつある、ということになります。 そして、仏教そのものがどうかというよりも、むしろ論点としては人智学と仏教の関係というのが論じられるのですが、 その基本的なポイントとしては5つ挙げられます。 (1)仏陀は人智学的な精神科学=霊学に霊感を与えている。 (2)ローゼンクロイツの意味で瞑想する者に仏陀から力が流れてくる。 (3)ルカ福音所から流れ出るものは仏教である。 (4)仏教とキリスト教は今日合流点に立っている。 (5)弥勒はキリスト教の最大の教師である。 人智学の中にある仏陀の流れを意識化するとともに、 人智学による仏教の解明、 そして人智学を通しての仏教の改革ということが 仏教に関しての人智学のテーマであるとされています。 基本的なシュタイナーの仏教観に関しては、 「仏陀からキリストへ」のなかで、キリスト教との内的関連のもとに紹介されていて、 仏陀とキリスト教との関係を、「2人のイエス」の問題と絡めて論じられているのが「ルカ福音書」であり、 人智学的にみた仏教論としては、「釈迦・キリスト・弥勒とは誰か」や「仏教の霊的基盤」などの西川隆範氏の論などで詳しく論じられています。 シュタイナーは涅槃のことを、次のように述べています。 涅槃(ニルヴァーナ=吹き消されたる世界) それは虚無ではなく、これを表わす言葉を人間が所有していないほど、 それほど豊かで幸せに満ちた実在なのであって、虚無などというものとはほど遠い。 このよう考えれば、我々はすでに仏教とその姿勢の核心とを掴んだことになるのである。 解脱した先にある涅槃の境地とは、煩悩が吹き消されたる世界であって、 そしてその先に現れるのは、至福の世界、これほど豊かで幸せに満ちた境地はない。 そういう<実在>をもった世界であって、<虚無>などでは断じてない、と述べています。 我々が幾度も人生を繰り返し、知識として我々の内にたくわえ、 智恵として我々の内に積み重ねていくことのできるものは、 しかしまだそれだけでは実在の本当の秘密を理解するところまで、我々を導いていくことはできない。 この秘密はどこか別の所にあり、我々が幾たびもの肉体化を通して生きるこの生の外にあるものに違いないのである。 この理念は、偉大なるゴータマの魂の中に熟し、「菩提樹下の悟り」と呼ばれている悟りへと彼を導いた。 我々はマーヤ、ないしは幻影の世界に住んでいる。 我々は霊的な生から抜け出して、このマーヤないし幻影の世界の中へ入り、そこで幾度も生を重ねているのである。 我々はこの生の中で、霊的な意味での位階を次々と昇っていくことはできる。 だが、たとえ我々が幾たびもの地上の生を通り抜け、それによって次第次第に智恵を増していこうとも、 生が我々に与えてくれるものによっては、我々は老化、病気および死の中で我々を凝視している大きな存在の秘密を解くことはできない。 シュタイナー「自由の哲学」まとめ 人間は自由 いかなる他人の命令も 自由を妨げたりはしない 人間は自己の直観に 道徳的想像力に従うことができる 知覚と概念を思考で結びつけることで 常に自由でいられる 捉え所のない霊妙なその存在が 人間に生きる力を与えてくれる ルドルフ・シュタイナーの「自由の哲学」は、シュタイナーの四大主著の一つ。 特徴として、霊的な話よりも、純粋に思考と認識に焦点を当てた話になっている。 「自由な人間は常に自らの行動の理由を自覚する」 つまり「自分がなぜその行為を行うのか」を意識できる人間だけが、自由なのである。 欲望はあっていい。人間なら当たり前だ。 問題は、それを自覚できるかできないか。 自由な人間とそうでない人間との違いはここにある。 自由な人間は自らの行動に影響を及ぼす要因について意識できる。 それは即ち、自分の霊的な意識が常に自分の行動を律する可能性を有することが出来る。 常に向上出来るということ。 自由とは、常に向上の可能性を持つということである。 1920〜30年ごろの話。 ドイツでは「ナチの思想」と「シュタイナーの思想」が相対していました。 そして、極右のファシスト(白人至上主義、人種差別主義、軍国主義、全体主義、帝国資本主義)の「ナチ思想」が、 愛や人智を重んじた哲学者「シュタイナーの思想」とまっこうから対立し、 ナチ一派はシュタイナー教育機関に対してさまざまな脅迫や妨害(放火なども)をして、 結局シュタイナーの学校を一つ残らずドイツからなくしてしまったのです。 現在は、ナチはすでに滅び、シュタイナー学校が世界中で徐々に増えています。 もちろん、日本にも。 こんばんわ。 懐かしい曲を ハイスクールララバイ イモ欽トリオ https://youtu.be/-m5BlArG3qs 明日から第68回湘南ひらつか七夕まつりなんだけど、天候が心配です。 シュタイナーの人智学は一種のオカルトである。 「人間は、より高度な生命体に「進化」するために/させるために、五感を超えた感覚(超感覚)を備えなければならない。 そのために有機農産物を食べ、自然の純粋なエネルギーを体内に取り込む必要があるのだ。」 シュタイナーはそのように説いている。 てる。 人智学も神智学もともに怪しいオカルトである。 しかしそうはいっても、両者の間には相容れない差異がある。 人智学が「正気」を積み重ね、心を研ぎ澄まし、「覚醒」し、それによって超感覚を得ることにある。 神智学は、「酩酊」し、その酩酊状態の中で「外なる神」と人間の魂が合体する──神の大いなる懐へとジャンプする。 水のように人の形にとらわれることなく 流動的で穏やか。 でも一度、他者の意図が加わると激流になる。 本来の水は穏やか。 オウム真理教 松本智津夫死刑囚に死刑執行 関係者によりますと、オウム真理教の元代表の麻原彰晃、本名 松本智津夫死刑囚(63)に、6日に死刑が執行されたということです。 松本死刑囚は、平成元年の坂本弁護士一家殺害事件や平成6年の松本サリン事件、平成7年の地下鉄サリン事件など数々の事件を引き起こした首謀者として平成18年に死刑が確定していました。 オウム真理教による一連の事件では教団の元幹部ら13人の死刑が確定していますが、執行されたのは初めてです。 2018年7月6日 8時48分 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20180706/k10011513621000.html?utm_int=all_contents_just-in_001 |∧∧ |´∀`о) ダレモイナイ... |⊂ バルタン スルナラ | イマノウチ... フォッフォッフォッ (V) ∧∧(V) ヽ(о´∀`о)ノ / / ノ ̄ゝ フォッフォッフォッフォッフォッ (V) ∧∧(V) ヽ( )ノ / / .....ノ ̄ゝ 底辺バルタン! ∧ ∧ |=Y=| (V)о´∀`о(V) `ヽ三i三ソ ‖\ (/ \) (о´∀`о) ∪^∪ ⊂|◎⊂) |――| 川 (ノ(ノ (( )) 底辺マンだお ぱぴなら!! 底辺バルタン! ∧ ∧ |=Y=| (V)о´∀`о(V) `ヽ三i三ソ ‖\ (/ \) (о´∀`о) ∪^∪ ⊂|◎⊂) |――| 川 (ノ(ノ (( )) 底辺マンだお ぱぴなら!! ∧ ̄∧ヽ /∧ ̄∧. \=v=/ ', ,' \=v=/ .(_)\/((_) l l (_))\/(_) (ヽノ ノ.//| フォッフォッフォ にノ( ヽノノ .( `il´//ニ| に). `|| ) /⌒/Jヽ二. ⌒ヽ /⌒ヽ二/|ヽ⌒ヽ 〉‐〔ー'-'‐'二|_ノ 〉_./l(二ー'-'‐'〕.〈 /_./l_V__ノ| | //⌒ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄/ 〔二|l二ノ|=.| _((∠二ニ/ バルタソ ./__|__人/⌒)/ \/____/ / // |_,∠/ デャッ ジュワッ w w w w (@) w w i ヽ|/ w三 ヽ(O|O)ノ w 三 /◎/ www.....ノ.ヽ.... フォフォフォフォフォフォ w w w w w (Y)(ヽ/)(Y) 三 ヽ|0\0|ノ 三 /羊/ ......ノwヽwwww 底辺王国の王様だ! ∧_∧ ∝ (о´∀`о)‖ /~~~〉〈/つ ノ ノ| |‖ ´〜(_)__)‖ゝ 安倍と戦って今の人智学がある 安倍と戦ってきたから今のシュタイナースレがある 今までもこれからも変わることはない 安倍を叩くぞ叩くぞ!叩くぞ叩くぞ!叩くぞ叩くぞ!叩くぞ叩くぞ!叩くぞ叩くぞ!叩くぞ叩くぞ!叩くぞ叩くぞ! ウィーアー人智学! ウィーアーシュタイナー!! >>413 >>415 そちらは、荒らししかいないので、ここでやります。 シュタイナー人智学の実践とは、 他者との正の関係性を構築し、負の関係性を減少させることです。 関係性の作用こそが最も大切です。 関係性は二種類あります。 正[陽]の関係性と負[陰]の関係性です。 正[陽]の関係性の感情は(愛、信頼、好き、喜び、楽しい、笑い 等)です。 負[陰]の関係性の感情は(怒り、憎しみ、悲しみ、妬み、嫉み、恨み 等)です。 正の感情は正のエネルギー[陽気]を生み、負の感情は負のエネルギー[陰気]を生みます。 病は身心に陰気が溜まった状態です。 陰気による身心が病んだ状態だから[病気]なのです。 身心に陽気を蓄え元に戻ると[元気]となります。 エネルギー[気]は人と人との関係性の中で循環します。 つまり感情から生まれた陽気と陰気が関係性により身心に作用しているのです。 人間関係でストレスが溜まると病気になるのはこの作用によるものと考えます。 それを可能と成らしめる魔法の言葉。 その言葉とは「ありがとう」です。 掃除の後に「ありがとう」、 炊事をしなから「ありがとう」、 洗濯物を畳んで「ありがとう」、 すれ違い際に「ありがとう」、 挨拶がわりに「ありがとう」。 先ず、負の関係性の感情を自らが赦す気持ち、感謝する気持ちに換えてしまうのです。 感謝の気持ちを「ありがとう」と唱え続ける。 →関係性中で正のエネルギー「陽気」が生まれる。 →負のエネルギー「陰気」を減少させる →感謝の気持ちが増す。 →「ありがとう」と唱える。 →このスパイラル効果により、負の関係性の支配からの解放へ繋がる。 →正の関係性が構築される。 それらを可能にするのは、「慈悲」です。 「慈悲」は仏教でも学べます。 「般若心経の実践」でもあります。 考えて(考えるなではない)、感じて、その先にあるものを観る。 シュタイナー人智学の実践は、仏教でもできるということです。 人生は、いいとこ取りでいいのだ。 自分らしく生きるために、 本質を見極められる「自由な」精神、 どんなことがあってもぶれない「自立した」精神を身につける。 自分をさらに深め、まわりの世界を、愛をもって理解する。 生活に根差した人智学をこころがける。 自然や星々に畏敬の念を持ちつつ 大地に向き合うことにも 何か未来的意味があると考える。 >>424 仏教を語っても大丈夫ですよ。 前スレは、般若心経・実践篇でしたから。 実生活に役立つものなら、宗教でも、哲学でも、その他学問でもOKです。 まだ、間に合う! くびれ作りエクササイズを行う事で、 ぽっこりお腹やはみ出たお肉からサヨナラする事が可能です。 そもそも、エクササイズというのは、運動の総称として使われる言葉ですので、 くびれ作りをする運動という意味になります。 くびれ作りエクササイズ https://youtu.be/4ZQeulVl9b4 七夕です。短冊をおいておきますね。 ┌─────────────────────── ┤ └─────────────────────── 物怖じしない人は、 物事にあたる前に、ネガティブな想像を巡らせて不安になったりはしません。 「考えても仕方のないことは考えない」 むしろその時間やエネルギーは無駄であり、もったいないと感じる人が多いです。 物事に対してポジティブで、前向きに考える癖がついている人と言えます。 「物怖じする」 という言葉の意味は、 行動を起こす前に、 その行動に対して「不安を覚える」「物事に対して臆する」ということと同義に使われます。 また、人や場所に対して、自分がふさわしくないのではないかと、 気後れするような場合にも「物怖じする」という言葉が当てはまります。 物怖じしない人の特徴に 「チャレンジ精神がある」 「行動力がある」 「人見知りしない」 「物事に動じない」 「失敗しても引きずらない」 が挙げられます。 どれも向上心が高くめげない性格を持っています。 1つ目の「チャレンジ精神がある」。 普通の人であれば、失敗は怖いものです。 しかし、物怖じしない人は、 失敗することを恐れない為、 何度でも挑戦する精神をもっています。 2つ目の「行動力がある」 あれこれ考える前に、直観に従って行動を決めるタイプが多いです。 何かを思いついてから行動を起こすまでの時間が短いです。 そのため、周りからは「すぐに行動を起こせる・実行力がある」人と見られます。 3つ目の「人見知りしない」 考えても結論が出ないことについては思いわずらうことをせず、 とりあえず行動に移します。 そのため、 初対面の人に対してもどんどん話しかけて、 積極的にコミュニケーションをはかれる人が多いです。 4つ目の「物事に動じない」 どんなことが起きても冷静に判断し動じない性格を持っています。 普通の人であれば、 慌てふためき混乱してしまうことも、 物怖じしない人は、慌ててもどうにもならないことを知っています。 そのため、冷静に物事を判断し行動移せる人と言えます。 5つ目の「失敗しても引きずらない」 普通の人であれば、失敗した際にはネガティブになったり、くよくよしてしまいがちですが、 物怖じしない人は、失敗しても引きずらず、 持前のポジティブ精神で、前向きに捉え次に発展していく傾向にあります。 そのため、楽観的な性格とも言えるでしょう。 物怖じしない性格の人と仕事をすると、 経験がとても豊富になってきます。 普通の会社上司であれば、失敗した際に怒鳴られたりと理不尽な目にあうこともありますが、 物怖じしない人と仕事をすると、 ネガティブな考え方からポジティブな考えと誘導してくれます。 そのため、色々な経験を積ませてもらうことが出来ます。 今の仕事場の上司に不満があるなら転職することで、 新しい環境とスキルを見つける可能性も出てきます。 物怖じしない人の長所は、 「経験が豊富になる」 「人脈を築ける」 「スキルアップが速い」 などが挙げられます。 どれもリーダーシップを持つ人の特徴でもあります。 物怖じしない人の短所は、 「空気を読まないこともある」 「生意気と思われがち」 「無鉄砲となることもある」 などが挙げられます。 どんな人でも人生の中で、 これまでとは違った環境に置かれたり、 新しいことに挑戦しなければなりません。 日々の生活の中で、 さまざまな「はじめて」や「新しいこと」を経験します。 未知のことを経験する時、人は誰でもナーバスになるものですが、 中には恐怖心をもたずに果敢に物事にチャレンジする人もいます。 これらの能力は、修行で得られます。 “戦闘能力”を身につければ、 冷静かつ的確に判断でき、 攻撃を避ける身のこなし、 物怖じしない勇気、 もちろん体力も身につきます。 性格的に、 体を動かすのが好き、 臨機応変、 理論より経験から物事を考えられるようになります。 例えば、 目前で、か弱き者が理不尽な目にあっていたら 勇気を出して止めるようなそんな覇気は常に持つ必要がある。 場合によっては鉄槌を一撃見舞わなければならない時もあるだろう。 『義を見てせざるは勇なきなり』 「その時は背中を見せるな!」(大山倍達:談) まず、身体を鍛える。 それが全ての基本。 できる人は身体を鍛えている。 そこから、考える体力を身につける。 読む力や書く力の土台にあるのは、考える力。 それも、 考え「続ける」力。 脳みその筋力、持久力みたいなもの。 「思考体力」と言う。 思考体力のある人は、 読めるし、書けるし、 いろいろなものを生み出せる。 衆生本来仏なり 水と氷の如くにて 水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし 衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり 長者の家の子となりて 貧里に迷うに異ならず 六趣輪廻の因縁は 己が愚痴の闇路なり 闇路に闇路を踏そえて いつか生死を離るべき 夫れ摩訶衍の禅定は 称歎するに余りあり 布施や持戒の諸波羅蜜 念仏懺悔修行等 そのしな多き諸善行 皆この中に帰するなり 一座の功をなす人も 積し無量の罪ほろぶ 悪趣何処にありぬべき 浄土即ち遠からず かたじけなくもこの法を 一たび耳にふるる時 讃歎随喜する人は 福を得る事限りなし 況や自ら回向して 直に自性を証すれば 自性即ち無性にて 既に戯論を離れたり 因果一如の門ひらけ 無二無三の道直し 無相の相を相として 行くも帰るも余所ならず 無念の念を念として うたうも舞うも法の声 三昧無礙の空ひろく 四智円明の月さえん この時何をか求むべき 寂滅現前するゆえに 当所即ち蓮華国 この身即ち仏なり もともと何も知っちゃいないし 可愛いものよ もともと何も持っちゃいないし 気楽なものよ よく云やあ 俺たちはとことんマイ・ウェイ この世はたかがこの世 だけどこの世 この世はそんなこの世 生きてゆく お前と俺がいる〜♪ 『ジャスト・ア・RONIN』吉田拓郎 https://youtu.be/Scj7q42h20w あの女の柔肌に あの女の黒髪に あの女の唇に あの女の囁きに 思いをはせていればいい それだけでいい〜♪ Ronin 吉田拓郎 https://youtu.be/9tdb_jkVMa4 全てが上手く行く世界。それは限りなく0に近い世界であろう。 >>445 そのために、 身体を鍛え、 思考体力を鍛えて、 実力をあげる。 技術を磨く。 それが修行だと思います。 男性9人組ダンス&ボーカルグループ「FANTASTICS」のパフォーマー、中尾翔太(なかお・しょうた)さんが6日午前7時23分、都内の病院で亡くなったことが分かった。 8日、所属事務所のLDHが公表した。22歳、愛知県出身。 中尾さんは今年3月に胃がんであることを公表。 活動を休止し、治療に専念していた。 葬儀は家族の意向により、親族、LDH所属メンバー、スタッフ関係者で執り行う。 後日、お別れの会を予定している。 中尾さんは昨年末から体調不良が続き、受診した精密検査でがんが見つかった。 3月に活動休止を発表した際には 「最初は戸惑いましたが、徐々に現実を受け止めこの病気と闘っていこうと決意しました。 いつも応援してくださっている皆さんに、パフォーマンスや活動で、元気な姿を早く見せられるよう全力で頑張ります!絶対に勝ちます!待っていてください!」 とコメントしていた。 EXILE一族の同グループは、EXILEの世界(27)、佐藤大樹(23)を中心に16年に結成。中尾さんはパフォーマーとして活動していた。 https://www.sponichi.co.jp/entertainment/news/2018/07/08/jpeg/20180708s00041000159000p_view.jpg 寿限無、寿限無 五劫の擦り切れ 海砂利水魚の 水行末 雲来末 風来末 食う寝る処に住む処 藪ら柑子の藪柑子 パイポ パイポ パイポのシューリンガン シューリンガンのグーリンダイ グーリンダイのポンポコピーのポンポコナーの 長久命の長助 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる