>>932
> >>883 わしにはおぬしの要約が
> 最初の時期には「止(A)観(B)」という語は用いられなかった。
> > ともかく「止」と「観」とは遅れて別々に説かれるようになった。」
> と書いてあるように見えるのであるがのう。
> 止観は定から分けられたとか分析された等とは書いていないのじゃ。
> 観察が行われていなかったとか、定から分かれられたとかも書いていないのじゃ。
> 観察という言葉が無いことが観察の存在も無いこととは違うのじゃ。
> それ位はおぬしにもわかると思うがのう。
> 論破じゃな。




物分かりの悪い方ですね・・・・
では、時代追って変遷を見ていきましょうか?

1.
原始仏教に於て説かれた禅定(C)観は仏教独自のものでなく、その当時行なわれていたインドの修法に基づくものであろう。(吉瀬)
2.
仏教が成立した最初の時期には、禅定(C)の修行は行っていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
すなわちdhyana、yoga, samadhi などである。(中村)
3.
瞑想(C)はその機能から大きく二つの範疇に分けられました。(箕輪)
4.
samatha(止(A)) というのは、仏教が成立してしばらくたって一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた。(中村)
5.
vjipassan(観(B)) という語は、原始仏教においても、かなり遅れて成立した。(中村)
6.
定には種々の使用例があり、止(A) 観(B)もその一部である(吉瀬)