>>810 しらんのじゃ。
 タイの大使館できいてみるとよいのじゃ。
 今は洞窟少年でいそがしいかもしれんがのう。
 おちついたらいってみるのじゃ。

>>813 真の悟りを得れば智慧がわくから何でも語れるのじゃ。
 おぬしもここにきてみるのじゃ。

>>826 殺すとは書いていなかったのじゃ。
 むかしにちれんというものが宗教を作ってわしの教義に反するものはみんな殺して構わんとかいったのじゃ。
 おぬしがその信者だったらにちれんの言葉通り、反する者をみんな殺してしまうのかのう。
 それとも殺さないのかのう。
 
>>883 わしにはおぬしの要約が
 最初の時期には「止(A)観(B)」という語は用いられなかった。
 > ともかく「止」と「観」とは遅れて別々に説かれるようになった。」
 と書いてあるように見えるのであるがのう。

 止観は定から分けられたとか分析された等とは書いていないのじゃ。
 観察が行われていなかったとか、定から分かれられたとかも書いていないのじゃ。
 観察という言葉が無いことが観察の存在も無いこととは違うのじゃ。
 それ位はおぬしにもわかると思うがのう。
論破じゃな。
 
>>884 それを認めたということは論破完了じゃな。

>>885 上に同じ観察と説くことがないことが観察の存在も無いこととは違うのじゃ。
 論破じゃな。

>>886 我々仏教徒にはお釈迦様の経典こそ最大最高の根拠であり、全ての論拠なのであるがのう。
 外道のおぬしにはわからなかったのじゃな。
 おぬしは知らないようであるが仏教には戒、定、慧というものが大事なのじゃ。
 嘘をつかないという戒を守ることで心を落ち着ける定も行じることができて、智慧もわくということなのじゃ。
 おぬしもそれを実行すれば智慧がわいて経典こそ根拠であったとわかるじゃろう。