>>62  1 嘘をつくおぬしが見れば゜騙るように見えるだけなのじゃ。
      正しく自らの名を書けば正しく見えるじゃろう。
      ニートとか、アーチャリーの犬とか、上祐の召使とかのう。
      それがなければ永久に「知ったかぶりをして鬼和尚に論破されたジャンキー」なのじゃ。

    2 今もおぬしは必要条件と書いているのじゃ。
     それが無ければ悟りは得られないという妄想から絶対的な必要性を持っていると妄想していると推測できるのじゃ。
     自分の書いていることが理解できていないようじゃのう。
     
   3 その比喩は単に派生したものも元の一部ではない可能性を示しただけなのじゃ。
    その可能性が在る限り、おぬしは派生したから一部なのではなく、別の可能性から元の一部であるという証明をしなくてはならないのじゃ。
    わしの書いていることが理解できるかのう。
    
    中村元の文はただ昔は観の字が使われていなかった可能性を示しているだけなのじゃ。
    そこから観がディヤーナとして呼ばれ、更にそこから派生して、その一部であると証明するのは三重の証明となるのじゃ。
     
    一 先ず観がディヤーナと呼ばれていたとする完全な証明
    二 観は定から派生したことの証明
    三 派生したからではなく別の理由で観がディヤーナの一部であることの証明
    をしなくてはならないのじゃ。
    
    おぬしはまだ一つ目の証明すらしていないのじゃ。
    そのような困難な証明を求めるよりも、最初からわしが説いているように、止観が定の一部と書かれた経典などを探し出せばよいのじゃ。
     おぬしが正しく反論するならば観が定の一部であると書かれた経典などをかかげて反論するべきなのじゃ。
    七回めじゃな。

    そういえば原始経典にそのような文字が書かれていたような気もするのう。
    他人任せにするとまた無意味な論文などを拾ってくるから自分で全部読んで探すのじゃ。