>>772 中村元はA(止)とB(観)はC(定)から分けられたなどと少しも書いていないのじゃ。
 もし書いているというならばその箇所を明示するのじゃ。
 ちゃんと根拠を示さなければそれはただのおぬしの妄想なのじゃ。
 また論破してしまったのう。
 
>>773 箕輪はウダーナの観察が、隨念観ゆえに「観」ではなく「止」とどこにも書いていないのじゃ。
 もし書いているというならばその箇所を明示するのじゃ。
 何の根拠も無く書いているならばそれはおぬしの妄想にすぎないのじゃ。
 また論破してしまったのう。
 
>>774 書いていないのじゃ。
 それがCからABという術語が出来たと解釈できるならばもはやおぬしは日本語から勉強しなおすべきなのじゃ。
 瞑想はその機能から二つの範疇に分けられたと書いているのじゃ。
 機能から分けられたのじゃ。
 機能とはCではないのじゃ。
 定から分けられたとは書いていないのじゃ。
 
 言葉として止観は用いらられなかったと書いているのじゃ。
 また論破してしまったのう。
 
>>775 既に何度も根拠を明示しているがおぬしには理解出来なかったのじゃな。
 これからも理解できないであろうがおぬし以外のまともな者のために書くのじゃ。
 お釈迦様がウダーナヴァルガで観察として教えたものが観察なのじゃ。
 それを受け入れ、観察として実践する者が仏教徒なのじゃ。
 それを否定するならばもはや仏教徒ではなく仏教を研究する者でもないのじゃ。
 更に論破してしまったのう。

>>776 その根拠はおぬしが示すのじゃ。
 証明義務はおぬしにあるのじゃ。
 おぬしが珍説を先に述べたのであるからのう。
 そろそろ止観が定の一部であるという完全な根拠を示すのじゃ。
 もはや無理であることは明白で在るがのう。
 次が最後なのじゃ。
 次で根拠を示すことができなかったらおぬしはただの嘘つきと証明されたことになるのじゃ。

 嘘をつくおぬしに戒をおしえるわしは真の和尚なのじゃ。
 おぬしに今まで教えたものはにせものであったとおぬしが証明したのじゃ。