>>770

> >>707>>708 おぬしの元々の主張は止観が定の一部ということじゃ。
>  論理的に書けばABはCの一部と主張しているのじゃ。
>  中村元はAB併称はなかったと主張しているだけなのじゃ。
>
>  ウダーナヴァルガにおいて既にAとBは対立して説かれているとも書いておる。
>  初期にはCしかなかったというおぬしの主張を完全に否定しておる。
>
>  AとBは初期からあったが、対立するものとして説かれ、AB併称はなかったというのじゃ。
>  その理由はAを行うことでBも行うことになるからではないかと推測しておる。
>  CからABなる術語が出たとも書いていないのじゃ。
>
>  これはおぬしが自ら要約して明らかにしたことじゃ。
>  これで理解できなかったならば自分の要約さえ理解してないことになるのう。


→A(止)とB(観)はC(定)から分けられたんですが?

  > 仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
  > すなわちshyanayoga, samadhi などである。
  > 最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかつた。
  > (原始仏教における止観 中村元)

  > 瞑想の基本は心を何かに結びつけるところから始まります。
  > 結びつける対象は業処kammatthAna と呼ばれます。
  > また、瞑想はその機能から大きく二つの範疇に分けられました。
  > まず最初に心の働きを静めることを目的とした瞑想が存在しました。
  > それが、止samatha です。
  > (中略)
  > もう一つの範疇は観vipassanA です。
  > (仏教瞑想論 ―アジア諸地域の特徴について─ 蓑輪顕量)