観は、凡人もするが、志向から本当に逃れられるものだろうか、
八正道において、正見があるが、
念、定の高まりに準じて正見も準じるようなことも書かれているし。

正定(しょうじょう, 巴: samm?-sam?dhi, 梵: samyak-sam?dhi) 正しい集中力(サマーディ)を完成することである。
この「正定」と「正念」によってはじめて、「正見」が得られるのである。

観と正見

「観」も「見」もともに“みる”と読みます。一般に、「見」とは、ちょっと目に入る、なんとなく見えるの意味であり、
表面的で常識的な見方をいいます。それに対して、「観」は念を入れてよく見る、明らかに見るという意味であり、
仏教では、ものごとの表面的な有様を突き抜けて、その本質を見透(みとお)す智慧のはたらきを「観」といいます。

正見とは、仏道修行によって得られる仏の智慧であり、様々な正見があるが、
根本となるのは四諦の真理などを正しく知ることである。

と見ると、観と正見は同じに見えるが。