>>697(その6)

先ず訂正、>>521並びに>>710観察の出典は、ダンマパダではなくてウダーナでした。
錯誤をお詫びします。

> 観察を確かに教えているのにそれが定の一部とか妄想して、受け容れず実践しないのは仏教徒ではないのじゃ。



 ウダーナ27章の観察の「常にこの身体を見よ」(中村元訳)は、その対象を【一つの】概念(→身体)に心の働きを結びつけています。
 ところで、「観は文字通り、観察することが中心となりますが、身体が感じ取っていることを【すべて】気づき続ける観察です」とあります。
 それ故、観(察)と表記されていても、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、これは「観」ではなく「止」の範疇に入るんじゃないのですか?
 また、「〜のごとしと見よ。」(15.16)「〜のように」(17.18.19)のように、観ではなく 「随念による修習(=止)」ではありませんか?