>>697(その1)

> おぬしの主張は自ら書いたとおり、全て証明できていないのじゃ。
> その状態では今のおぬしの主張は全て単なる個人の感想、妄想に過ぎないのじゃ。
> 証明できないことは何も指摘したことにならず、反証もしていないのじゃ。
> 何も証明できないと書いておきながら、反証したとはおかしなことじゃ。
> それは反証ではなくおぬしの妄想なのじゃ。

↓(中村先生の説の要旨)

@仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、
 ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。すなわちshyana,yoga, samadhi などである。
  最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかつた。

A「止観」という語は、原始仏教においては、やや遅れて成立した語であつて、仏教以前にはもちろん用いられていない。
  「止」の原語はサンスクリット語でsamatha、パーリ語でsamatha であるが、ウパニシャッドのなかには出て来ない。

Bところでsamathaという語はインドの一般文献の申には用いられることなく、専ら仏典にのみ出て来る語であり、
  パーリ語のsamathaは「平静」の意味で、『スッタニパータ』の新しいガーターやパーリ文の『ダンマパダ』や『テーラガーター』のうちに出て来る。
  しかしサンスクリットの『ウダーナ・ヴァルガ』の中には出て来ない。
  パーり文の中で「止観」に言及している詩句の相当文を『ウダーナ・ヴァルガ』のうちに検討してみると、全然出て来ないか、あるいは。samathaがsamataとなつている。
  恐らくパーリ文『ダンマパダ』にあとで挿入された語であろう。
 だからsamatha というのは、仏教が成立してしばらくたつて一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた特殊な術語であつたと考えられる。