>>521
> おぬしはそのようなことは言っていないのじゃ。
  →何を言ってないのか明示してください、意味が不明です。

> 珍説を開陳しているだけなのじゃ。
  →どこが珍説かまた、その根拠を明示してください。 

> 観察の章を読めば明白なのじゃ。
  →何が、どの部分によって、どう明白なのですか?

> 観察の章においてお釈迦様は観察を教えておる。
  →それは観ではなく「随念による修習(=止)」と>>521で指摘しておりますが?

> これ以上に明白な事実はありえないのじゃ。
> おぬしがそれを受け容れるか、受け容れないかというだけなのじゃ。
    →上記の通り根拠も示さずに何が一体明白な事実なのですか?根拠が無いものは受け入れられません。
 
> それはダンマパダではなく、ウダーナヴァルガの観察なのじゃ。
  →「ウダーナヴァルガの観察の章に観察は書いてあるのじゃ」とレス(>>515)をしたのは貴方ですが?

> その観察は感覚の観察なのじゃ。
> 観察の一部でしかないのじゃ。
> 身体を見るのも観察なのじゃ。
> 身体には手があり、脚があり、胴があり、尻も在るのじゃ。
  →>>521にて以下の通り反証していますが?
    > さて、ダンマパダ27章の観察の「常にこの身体を見よ」(中村元訳)は、その対象を【一つの】概念(→身体)に心の働きを結びつけています。
    > ところで、「観は文字通り、観察することが中心となりますが、身体が感じ取っていることを【すべて】気づき続ける観察です」とあります。
    > それ故、観(察)と表記されていても、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、これは「観」ではなく「止」の範疇に入るんじゃないのですか?
    > また、「〜のごとしと見よ。」(15.16)「〜のように」(17.18.19)のように、観ではなく 「随念による修習(=止)」ではありませんか?

> そして身体は概念ではないのじゃ。
  →根拠をお願いします。



で、何で僧侶でないのに和尚と騙るのですか?