【仏教】 悟りを開いた人のスレ302【天空寺】
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すみなすものは心なりけりは尼さんが付け足したんだろ
余計な文だわ 腹が減ったことは、想わなくても感じるんだよ。
パーンと音がすることは聞こうとしなくても聞こえる。
そこに、心の入り込む隙間はないよ。
講釈の問題じゃない、 図星だったかのう(笑)
まっ、人生色々ですわな(笑) 腹が減っていると感じた時点で心が動いているわけで。
腹がぐうっと鳴っただけなら、事実だ(笑)
しかしそれを「腹が減っている」と認識するのは心以外にない(笑) 本当に世の中をひっ繰り返したり返した人間が
すみなすものは心なりけり
とか言わんだろw 高杉晋作さんは男の男。
偉いじゃないかいな。あしゃーりしゃーりしゃーりしゃりー♪
ていう歌があるんですわ。
歌の題名はしらない。 そう事実だよ。
それが全てだ。リアルなこの世は。
直後に腹が減ったと思うのは心の働き。
心は虚仮だよ。だから迷いが生じる。悪いわけでは無いが。
あるがままだよ。 >>605
風俗板で自作自演して見つけたんでしょw
キチガイだなw ジャンキーくん、悪あがきはよせ(笑)
俺は正直さでは自負している。 坐禅歴30年で妄想癖患うのは
君の修行が間違っているという証明に他ならない。 >>618
他人の知識や体験に対する妬みや嫉みはやめような。 妬んでると思うのは誰か?
それを見いだしなさい(笑) >>519 アンカーは必要じゃろう。
おぬしはこれから地獄に行くかもしれんのであるからのう。
このスレでおぬしが最もわしのレスを必要としていると言えるのじゃ。
>>521 おぬしはそのようなことは言っていないのじゃ。
珍説を開陳しているだけなのじゃ。
観察の章を読めば明白なのじゃ。
観察の章においてお釈迦様は観察を教えておる。
これ以上に明白な事実はありえないのじゃ。
おぬしがそれを受け容れるか、受け容れないかというだけなのじゃ。
学者の言葉ではなく、お釈迦様の言葉を先ず正しく受け容れるのじゃ。
それが一次資料なのじゃ。
そうすれば専門の学者でさえ間違いをのべることがあるとわかるのじゃ。
それはおぬしの感想なのじゃ。
中村元も箕輪もそのようなことは全く書いていないのじゃ。
それはダンマパダではなく、ウダーナヴァルガの観察なのじゃ。
その観察は感覚の観察なのじゃ。
観察の一部でしかないのじゃ。
身体を見るのも観察なのじゃ。
身体には手があり、脚があり、胴があり、尻も在るのじゃ。
そして身体は概念ではないのじゃ。
そうであるから一つの概念に心の働きを結びつけるというおぬしの主張は脆くも崩れ去るのじゃ。
なぜ身体を見るのも観察なのかと言えば、お釈迦様が観察の章で説いているからなのじゃ。
それが一次資料を先ず正しく受け容れることなのじゃ。
だからイカレポンチと書かれる(笑)
自覚ないやろ?「なんで俺がイカレポンチなの?」「俺様に嫉妬してイカレポンチなんて書いてるんじゃないか?」って(笑)
そこがイカレポンチなんだよ(笑) 坐禅歴30年で由緒ある寺の老師から見性認定受けた俺が何故イカレポンチ??
きっと俺様に嫉妬してイカレポンチなんて書いてるに違いない(笑)
こういう思考だろ(笑) >>542 悟っていないのじゃ。
妄想まみれじゃな。
>>579 おぬしにはまけるがのう。
わっはっはっは。
>>594 正しくないのじゃ。
アートマンは仏性に非ずなのじゃ。
>>623
イカレチンポって貴方でしょw
何言ってるのw 間違った方向で努力しても間違った結果しか得られない。
高等数学のベクトルや。
坐禅歴30年で間違った方向にベクトルが向かいイカレポンチが増強されたんだよ。
そこを自覚しない限り、イカレポンチがより増強されるだけ。 ジャンキーの支障の顔を見てみたくなったぞ(笑)
どんな悪党かこの目で確かめたい。
その寺教えろや。長距離で近くを通ったら見に行くから(笑) >>630
手取りで何がしか貰っだからって、舞い上がってるんだろうなぁ。 今日は収穫中にこんなのが涌いてきたwww
https://www.youtube.com/watch?v=-ClG6IRN3-8
なんと言うインパクトじゃwww
チョンは本当におそろしあwww
聞いてはならんぞwww
笑っちゃ魚www 俺が働きに来た富山県民謡
https://youtu.be/bjPf-IQkpVA
アリランと曲調が似ている。
富山は朝鮮と交流あったかもしれん 富山は東は親不知、南は立山連峰、北アルプス、西は福井県との県境の峠に囲まれてたせいか
言葉も独特だし、働き者なんだけど、悪く言えば細かいというかせっかちというか。
俺はいろんな土地に行ったけど、大らかで悪く言えば適当な人が多い北海道人からしたら馴染みにくく感じる(笑)
富山県人と長野県人は相性が悪いんじゃないか? ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ今来た宣言するてんぐちゃんであったw ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ今日の麦の独り言♪
心の塵をかき集めてゴミ箱に捨てたんだお
釣りはいらねぇ〜〜〜おwww アリランは腹の底から喚いてる音楽www
よくあんなの民謡にできるなとwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www ・・「ヴェーダによっても、苦行によつても、布施によつても、祭礼によつても、汝がいま私を見ることは出来ない」とクリシュ
ナは、いつもの姿にもどつた後語っている。しかしひたすらの献身愛によつて、そのような様相の私は真に知られ、かつみられ、そ
して参入されるのである。わたしのためにはたらき、わたしを至高の目標とみなし、私に身を捧げ〔執着を離れ〕万物に対して敵意
を持たぬ者ーこうした者は私の許にいたる。同様にイエスのくだしている定式はその点をさらに簡潔にまとめているー「わたしの
ために命を失う者は、それを享けるであろう」この意味は大変明解で、すべての宗教適行為がもつ意味となつている。精神上の修行
をながく積む個人は、その個人的限界、個性、希望、恐怖にたいする執着をすべて完全に放棄する。そうすれば真実を悟って再生
するのに欠くことの出来ない、自己消滅にももはや抵抗を示さず、ついには〔超越なるものと〕大いなる一体化の機が熟してくる。
己の個人的な野心は完全になくなつて、かれは生への執着を離れ、己のなかで何が起こるにせよ、喜んでそれにゆだねる。言い換え
れば一人の無名の存在になるのである。〔そのとき〕「宇宙の法」はその人物の無条件の同意を得て、かれのなかに住みつく。
?ただコピーしただけこの頃ありのままでは修行心は死んだ。求める事も泣く煩悩も楽しく無くみなたかが知れていてしらけて
いて山より大きなイノシシは無いとか?何にみても心が弾まず頭も弱いし皆限界が観えるしみなたかが知れているし。
明朗も泣く迷路の中に要る。ウチのトイプードルと変わらず地球園に変われているペットの身 何か太宰治の霊が今日は
乗り移った野鴨 すべて限界という檻に囲われている身 でも私は死なん今は我が身観守ろうそれが務めだから家族も見守ろう
長く行き長江用。私は楽しみが無いと楽しく無い遊び人だし修行者では無いいい加減な適当な人とノルマの日記に書いておこう >>521
> おぬしはそのようなことは言っていないのじゃ。
→何を言ってないのか明示してください、意味が不明です。
> 珍説を開陳しているだけなのじゃ。
→どこが珍説かまた、その根拠を明示してください。
> 観察の章を読めば明白なのじゃ。
→何が、どの部分によって、どう明白なのですか?
> 観察の章においてお釈迦様は観察を教えておる。
→それは観ではなく「随念による修習(=止)」と>>521で指摘しておりますが?
> これ以上に明白な事実はありえないのじゃ。
> おぬしがそれを受け容れるか、受け容れないかというだけなのじゃ。
→上記の通り根拠も示さずに何が一体明白な事実なのですか?根拠が無いものは受け入れられません。
> それはダンマパダではなく、ウダーナヴァルガの観察なのじゃ。
→「ウダーナヴァルガの観察の章に観察は書いてあるのじゃ」とレス(>>515)をしたのは貴方ですが?
> その観察は感覚の観察なのじゃ。
> 観察の一部でしかないのじゃ。
> 身体を見るのも観察なのじゃ。
> 身体には手があり、脚があり、胴があり、尻も在るのじゃ。
→>>521にて以下の通り反証していますが?
> さて、ダンマパダ27章の観察の「常にこの身体を見よ」(中村元訳)は、その対象を【一つの】概念(→身体)に心の働きを結びつけています。
> ところで、「観は文字通り、観察することが中心となりますが、身体が感じ取っていることを【すべて】気づき続ける観察です」とあります。
> それ故、観(察)と表記されていても、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、これは「観」ではなく「止」の範疇に入るんじゃないのですか?
> また、「〜のごとしと見よ。」(15.16)「〜のように」(17.18.19)のように、観ではなく 「随念による修習(=止)」ではありませんか?
> そして身体は概念ではないのじゃ。
→根拠をお願いします。
で、何で僧侶でないのに和尚と騙るのですか? >>549 おおわらい雀鬼 さん
> 無我なのに何が笑うのかな?
大笑い
〜なのに、と言う理由があるねぇ、まずは、関を透れ、 >>649
なら「関」を出せ、透ってやるからwwwwwwwww 650.虎を出せ、そうすれば捕らえてやる。一休さんである。 >>650 おおわらい雀鬼 さん
> >>649
> なら「関」を出せ、透ってやるからwwwwwwwww
悟前(ごぜん)のひとは、悟りを求めます。さとりたいですか、どうですか。 >>653
だからはよ「関」を出せよ!
ほれほれ、「関」だよ、「関」w
出したら透ってやるよ、悟りも同じだwwwwww 辞書によると、
「言葉」とは、
「意味」を表すため、口で言ったり字に書いたりしたもの。
その「意味」とは、
言葉(単語・用語など)が持っている「概念」のこと。
その「概念」とは、
ある事物の概括的で大まかな「意味」内容。
又は、事物が思考によって捉えられたり表現される時の言語表現の「意味」内容。
あほくさ。
このように、
人間の思考や言葉や概念や観念をとことん突き詰めると、
犬が自分の尻尾を追いかけるがごとくとなる。
このことに気づくと、アートマンがどうたらこうたら、
仏性があるとかないとか、無我と非我とは違うとか同じとか、
考えたり想像したり議論することが馬鹿らしくなる。
そこからやっと禅は始まるんだが、
このスレには哲学好きが多いから無理みたい。 こら、ポタ公や?
「関」はまだかいな?
あ?
カァァァァァァァァァアアアアンンンンン!!!!!!
時間切れだなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>655 おおわらい雀鬼 さん
> >>653
> だからはよ「関」を出せよ! ほれほれ、「関」だよ、「関」w 出したら透ってやるよ、悟りも同じだwwwwww
弟子入りしがんですよね、どうですか。悟前(ごぜん)のひとよ。 >>658
遅いんだよwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>658
お前もでおーや馬鹿鬼のように「俺は悟ってるのだ―!」の類だろwwwww
あほwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>659-660 おおわらい雀鬼 さん
悟前(ごぜん)の人よ、弟子入りしますか、どうですか。 >>656
黙って座るが勝ちですな
教学は議論の為にあるのではない >>661
あ?
お前は何に寝ぼけているんだ?
もう午後の6時だぞ?
能が委縮して時間の感覚も無くなったのか?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>662
いや、黙って坐るのは文殊様に失礼でしょ。
一声かけるか合掌してからにしたらどうですか? >>663 おおわらい雀鬼 さん
真正面から、切り込んでみましたが、おちゃらけでしたか、じゃーまたね。 もう日が暮れるのに、午前午前とか、アホかいな
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>665
は?
明珠に正面があるのか?
どこだよ、その真正面って?
wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>667 おおわらい雀鬼 さん
じゃーまたね、って読んでくれたのだろうか、どうですか。 ∞ノノハ∞
川^〇^ハレクジラの時計は9時クジラララ〜♪ >>668
あ?
おまえは、じゃーまだねw www www www www www www wwwは ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ大洗だなおwwwwwwww 鬼和尚さまへ、宝珠さんから伝言です。
『それから、junkieさんが指摘されていますけれど、
あの方(注、鬼和尚さまのことです)はいつも解答だけポンポンと出されてくるわけ...。
私はたまたま、ヒンドゥーにおいても最終的には仏教と同じゴール(涅槃)に到達する。
仏教の涅槃はヒンドゥーの梵我一如と同一であり、それぞれは単に教え方のアプローチや手法の違いに過ぎないのだ。
という見解にある人間だから、その発言は理解できるけれども、
しかし、何の論拠も示さずにただ「○○なのじゃ〜」ポンポン♪では
それを見た人というのは、ただの基地外か妄言の扱いでしかないのが殆どでしょう。
ましてや...それが「仏教」(これこそ真実の?)などとは見なさないでしょう。
第一、仏教枠から逸脱してる発言であれば当然のことです。
まっ、あそこはただの“悟りスレ”ということで「仏教」だとは謳ってはなかったか???』
以上であります。
何かコメントがありましたらお伝えします^^ >>582
>@初等自然数言語(自然数全体の中で関数S、加法、乗法、大小関係の下でどのような関係にあるかを示す)の>中には完全でわかりやすい理論は存在しない。
>A上記の@から「乗法」を削除した言語には完全でわかりやすい理論が存在する。
>A.初期仏教:Aの基礎+完全な理論
>B.大乗仏教:@の基礎+不完全な理論+究極的真実
何とブッタは優しい、九九しかできない私としては、乗法を抜いてくれることはありがたい。
乗法が入っていると不完全な理論になぜなるのだ?
それはですね、きっとこうです。
スッタニバッタ
175.
欲の想いから離れ、すべての束縛を越え
生存の喜びを滅ぼし尽した人、― かれは深みにおいても沈まない
幼女には耐えられないからです。
枯れたなめ爺様はちょうどいいかもしれませんが。
なんてねw ∞ノノハ∞
川^〇^ハレぽったん波にさらわれないでね
⌒w⌒w⌒w⌒w⌒w⌒(。A。)!!! 鬼和尚さま質問です。
1、アートマンについて、ヤージニャヴァルキャの説を全面的に踏襲し支持してるのですか。
2、アートマンとブラフマンは同一ですか。
3、アートマンに「実体(そのものの本当の姿。実質。正体。)」はありますか。
4、アートマンとは「実体」そのものですか。
昔、同じような質問しましたが馬鹿なので失念しました。
どうかよろしくお願いします^^ 鬼和尚さま、もう一つ質問です!
1、アートマンは“唯一なる実在(それ以外のすべてが幻影マーヤー) ”という理解は正しいですか。
2、アートマンは、破壊可能ですか。
以上であります^^ ∞ノノハ∞
川^〇^ハレいい波のってんね〜♪最高www
https://youtu.be/Rs-zpBz6xaw 鬼和尚さま、これが最後の質問(愚問?)です!
アートマンと涅槃は、同義でしょうか。 >>678
訂正します。
鬼和尚さま、これが今日最後の質問です。
アートマンと無為法は同義でしょうか。
質問ばかりですいません^^ すいません鬼和尚、本当にこれが最後の質問です^^
諸法無我。
この諸法に無為法(涅槃など)は含まれるのでしょうか。 >>672
お前パラノイアは治ったのかwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www >>677
麦ちゃん^^
いい波のってんね〜〜♪
Skype仲間に紹介するのお^^
>>682
ラジャーじゃよ^^ >>681
統合失調症が治るわけねーだろ!
・・・・・・鬼和尚さま、蛇足で質問です。
以前、鬼和尚さまは意識を不本意ながらブラフマンと形容すると言ってましたが。
それも所詮は言葉にすぎないという括弧つきで。
ブラフマンとアートマンが同一ならば、鬼和尚の言う意識もアートマンと言っていいのでしょうか?
アートマンは非ずとしてしか示せないのは重々承知しての上での話です。
なぜこうまでしつこくアートマンに拘るのかと言えば、宝珠さんが興味深い指摘をされてたのです。
『有為から出離していることを自覚している自己意識こそがアートマンだと。』
アートマンをブラフマンに置き換えれば鬼和尚の言ってたことに通じるかなと^^
所詮は言葉にすぎず、あーだこーだと定義するのは愚かなことですが、よろしくです^^ >>684
お前、当然と言うか何で栄進を騙るんじゃwww
スレを盛り上げたいのはわかるが、鬼はいつもながらバカじゃのうwww
ズバリ、栄進はそんな言葉使いはしない、パラレルワールドだからなwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 鬼は偽栄進が分からないか、偽栄進を許容したか、誰でも良いと言うか、
騙りを許すなら人間と言う物ではないなwww
南無ビッグアミターバのみが偉大なリwww
笑っちゃ魚www 麦ちゃんも、なめ爺様も動画が古い・・
なめ爺様に軽くスルーされたなwww
https://www.youtube.com/watch?v=pIW_yDNi5m0
【サーフィン】最恐の波 30m超ビッグウェーブ集【神業】
これできたら脱帽いたします・・
>>582
いま、スッタニバッタの打ち込みをしながら、キーボードタッチの練習をしている。
同時にダーリン・イン・ザ・フランキス24話を見て感じた。
破壊された世界に取り残された子供たちは何を望むか、大人にはわからない。
大人は思念体に吸収されてもあきらめもつくが。
子供たちは果たしてその判断に乗るか。 >>687
>ダーリン・イン・ザ・フランキス24話
間違い、ダーリン・イン・ザ・フランキス23話です。 >>687
我輩は、昔のお、台風の時にじゃよ
潮岬へサーフインに行こうと
友人から誘われてのお、
行かなかったのじゃよ^^
>なめ爺様に軽くスルーされたなwww
我輩はおぬしの居ない世界へ移動しちょったのじゃよ^-^ Try Not To Laugh - ほか - 50件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=HmSKF3KuLxM&list=RDHmSKF3KuLxM&t=6 >>673
>何とブッタは優しい、九九しかできない私としては、乗法を抜いてくれることはありがたい。
>乗法が入っていると不完全な理論になぜなるのだ?
これはこのスレのレベルが高いように見せかけるためのはったりの類いのものであるから細かいことにツッコンダラ負けだ、俺が負ける。
@の言語において完全でわかりやすい理論が存在しない理由はいわゆる自己言及のパラドックス(真偽が定まらない命題)が演繹できてしまうから。
参考までに。
http://d.hatena.ne.jp/martbm/touch/20180215/1518692374
>なるほど、プレスバーガー算術でゲーデルの不完全性定理が成り立たないのは、ゲーデル数が定義できないからだな、と思った人は鋭いが
こちらの書いた乗法のないAがプレスバーガー算術のことね。
詳しいことが知りたいなら数学板の賢者を頼るしかない。
この辺りは自分も今後きちんと理解してライトノベルに入れていく予定だが。
これは1つの考え方であるが。
仏教の根本的な思想に『縁起の法』というものがある。
考え方によっては縁起の法は縁起の法自身の常住性を否定してしまうものになる可能性があるんだ。
>わが作るところにも非ず、また余人の作るところにも非ず。
>如来の世に出ずるも出てざるも法界常住なり。
釈迦はそれに制限を加え自己言及を禁止したんだよ。
これは対機説法と考えてよいと思われる、最初から中論みたいなことを言っても誰も理解できないからね。
龍樹は時代(仏教や学問の進展)をみてその制限を取り除いたというわけ。
ただこれにより仏教は大きく変質した。
初期仏教:法(縁起)の理解→実践。
大乗仏教:実践→法(空)の理解。
仏教から完全な理論が消えてしまったことでフローや理解すべき法も変わってしまった。
大乗仏教からは本当の真理である『空』と正面から対峙するものになったわけね。
ちなみにだ。
こちらは仏教の本は一冊ももってないし中論も10行くらいしか読んでない。
なのにここまで言い切るとか素敵な性格してるだろう。
夕、上手いことフォローしてくれ。 >>690 nam さん
居乳 - ほか - 37件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=b7PpgNmYEY8&list=PLIXGM-7jEAM70CeuhVN8m0yOdo9lTptCE
巨乳 - ほか - 122件の動画
https://www.youtube.com/watch?v=ou6c6lsRbLU&index=2&list=PLCJljHjBAaQ5CQkUbpJcpz-ercbb9mQKR 龍樹のそれは「語りえぬものについては、沈黙しなければならない」(ウィトゲンシュタイン)と同じく、語る得ぬ事でも示し得る事を示唆していると思われます。 私も仏教書は持ってませんし、龍樹とかもウィキで概要を知った程度です。 >>648 もはや混乱状態じゃな。
おぬしの主張は自ら書いたとおり、全て証明できていないのじゃ。
その状態では今のおぬしの主張は全て単なる個人の感想、妄想に過ぎないのじゃ。
証明できないことは何も指摘したことにならず、反証もしていないのじゃ。
何も証明できないと書いておきながら、反証したとはおかしなことじゃ。
それは反証ではなくおぬしの妄想なのじゃ。
おぬしは身体が概念ではないことすらわからないのではもはや日本語も理解していないことになるのう。
身体と概念を検索して調べるとよいのじゃ。
お釈迦様は確かにウダーナヴァルガの観察で観察というものを教えておる。
それを受け入れ、今はわからなくとも信仰によって実践するのが仏教徒なのじゃ。
観察を確かに教えているのにそれが定の一部とか妄想して、受け容れず実践しないのは仏教徒ではないのじゃ。
お釈迦様は確かにうそをつかず、悪口もしないことを教えておる。
それを受け入れて実践する者が仏教徒なのじゃ。
受け容れず実践しない者は仏教徒ではないのじゃ。
おぬしに正しい教えを授けるわしは真の和尚なのじゃ。
伝統を継ぐとかいいながら、ウソや悪口をしないように教えないのは和尚ではないのじゃ。
>>672 ジャンキーと同類じゃな。
哀れなことじゃ。
わしは常にヴェーダによってアートマンを知らなければアートマンについて語るべきではないと書いているのじゃ。
ヴェーダこそアートマンについての一次資料であり、論拠となるものじゃ。
ヴェーダを読めば明白なことも、自らの怠慢に拠って確かめられない者は真実を求める者ではなく、仏教徒でもないのじゃ。
自ら真実を求めることを怠り、他人の悪口によって自ら昂ぶっているのであるからのう。
それほどまでに論争に勝ちたいならばおぬしが勝った事にするとよいのじゃ。
仏教徒であることも捨てて欲しかった論争の勝利を得て良かったのう。 >>694
>私も仏教は高校の歴史で学んだ程度ですがw
仲間がいると嬉しいw
正直、中論とかラノベにしてほしいよね。
てか今チラッと検索してみたらすごくわかりやすく書かれてるのあった。
中論24章
http://nagarjuna.jugem.jp/?eid=41
>つまり君は、世俗の人々向けの真理とは区別された、最高の真理があることに気がついていない。
龍樹も傲慢で笑える。
実はわりと最近まで『ナーガールジュナ』が『龍樹』のことって知らなかったんだよ。
チンポチンポうるさいトラック運転手だったと思うがナーガールジュナは天才みたいなこと口走ってて、誰だよそいつって検索して学んだんだ。
龍樹よりナーガールジュナのほうが可憐で響きがいいと思う。
でもナーガールジュナって蛇の樹ってことだよね。
エデンの園の蛇と似てるところがある。
大乗仏教は真理という善悪を知る木の実に導くものであるしね。 >>675 1 支持するような説は無いのじゃ。
それもまた悟りに導く法の一つに過ぎないのじゃ。
悟りへの法として納得できる者が行うべきなのじゃ。
2 同一とわしは言えるのじゃ。
しかし、それを感得していない者はいうべではないのじゃ。
3 無いのじゃ。
それも法なのじゃ。
4 実体は非ずなのじゃ。
>>676 1 実在とも言えないものなのじゃ。
2 把握できないものは破壊できないのじゃ。
ただひたすらに追い求めることができるだけなのじゃ。
>>678 同義ではないのじゃ。
涅槃は欲が静まった境地なのじゃ。
アートマンはそこに行くための法なのじゃ。
>>679 同義ではないのじゃ。
無為法は無為なのじゃ。
何も為す事のない境地なのじゃ。
アートマンはそこに至る法なのじゃ。
>>692
>初期仏教:法(縁起)の理解→実践。
>大乗仏教:実践→法(空)の理解。
自は他があって始めて自がわかるもんじゃないかなぁ。
他が無くなれば、当然自もなくなる。
自他があり、そのまま自他をなくすにはどうすればいいのか。
また逆もしかり。
適当・・
>こちらは仏教の本は一冊ももってないし中論も10行くらいしか読んでない。
>なのにここまで言い切るとか素敵な性格してるだろう。
本当かwww
別人格はよく知っているんじゃないか?
>夕、上手いことフォローしてくれ。
俺がわかるはずないじゃないか。パーピマンにでも聞いてくれ。
数学は、○○○ンでも聞いてくれ。 >>680 含まれるのじゃ。
それもまた無為法の観念を破壊するのであるからのう。
>>684 それはアートマンに非ずなのじゃ。
アートマンを知らない者が語るアートマンは虚妄なのじゃ。
アートマンとはそれ自身は認識できない認識主体なのじゃ。
そのような自己意識が認識できるならばそれはアートマンではないのじゃ。
>>686 おぬしも栄進なのじゃ。
全てはひとつなのじゃ。
阿弥陀もわしも一つなのじゃ。
わしに毎日帰依しているのじゃな。 >>687
∞ノノハ∞
川^〇^ハレ凄いねぇ〜♪
学生の時だけど下田の吉佐美に泳ぎに行ったんだお
友達の親戚の家が吉佐美にあって誘われた
イイ天気だったんだけど台風の後で波が高くて赤旗が立ってたんだお
麦っち4人でどうする?って話してせっかく来たんだから泳ごう♪って事になって泳いでいたんだけど
他にも泳いでいる人居たおw
沖に出て大きい波に逆らわずにいると波が盛り上がるダケで
大きい波を超えられるんだけど
泳ぎ終わって岸に帰る時引く波の力が強くて全力で泳いでも引き戻されちゃつて
波に飲まれるわ引き戻されるわでヘトヘトになって死ぬかと思ったおぉ〜www
危ないと思ったら無理をしない麦の教訓ね♪www >>701
鬼和尚さま、ご回答ありがとうございます。
スッキリいたしました。
これで安眠できます^^ ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ夕たんに質問だお
皆も参加してね♪
貴方は海でサーフィンをやっています
岸で待っているのは誰?
サーフボードの色は?
波にのまれた時一言? >>690
台風の時に行かないまでも誘われるとは結構若いころはやんちゃだったんですね。
台風の時、サーフィンをやっていればわたしは脱帽していたことでしょう。
平行世界で、別ルートなら、波に飲み込まれているか、帰還してちょっとした無謀さに騒がれるかもしれません。
それがなめ爺様の裏として同時進行していることでしょう。
向こうのなめ爺様は今は何をしているのでしょうか。
世界線なら、どこかで辻褄があっているんでしょうね。
>>702
>泳ぎ終わって岸に帰る時引く波の力が強くて全力で泳いでも引き戻されちゃつて
>波に飲まれるわ引き戻されるわでヘトヘトになって死ぬかと思ったおぉ〜www
やはり無謀は禁物です。でもそれが無謀かどうかわからなければ、やはり泳いじゃいますよね。
サーフィンはやったことありませんが、ウィンドサーフィンならやったことがあります。
いや、立つのが難しい、さらに風を感じるのがさらに難しい。
わたしの仕事の師匠たちは、ヨットをやっていたんで、おぼえるのが早い。
1日だぜ。くっそ!って思ったことを思い出したw ∞ノノハ∞
川^〇^ハレ>>704は深層心理ゲームだからね
勇気ないと参加出来ないかももwww >>697(その1)
> おぬしの主張は自ら書いたとおり、全て証明できていないのじゃ。
> その状態では今のおぬしの主張は全て単なる個人の感想、妄想に過ぎないのじゃ。
> 証明できないことは何も指摘したことにならず、反証もしていないのじゃ。
> 何も証明できないと書いておきながら、反証したとはおかしなことじゃ。
> それは反証ではなくおぬしの妄想なのじゃ。
↓(中村先生の説の要旨)
@仏教が成立した最初の時期には、禅定の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、
ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。すなわちshyana,yoga, samadhi などである。
最初の時期には「止観」(samatha, vipassana )という語は用いられなかつた。
A「止観」という語は、原始仏教においては、やや遅れて成立した語であつて、仏教以前にはもちろん用いられていない。
「止」の原語はサンスクリット語でsamatha、パーリ語でsamatha であるが、ウパニシャッドのなかには出て来ない。
Bところでsamathaという語はインドの一般文献の申には用いられることなく、専ら仏典にのみ出て来る語であり、
パーリ語のsamathaは「平静」の意味で、『スッタニパータ』の新しいガーターやパーリ文の『ダンマパダ』や『テーラガーター』のうちに出て来る。
しかしサンスクリットの『ウダーナ・ヴァルガ』の中には出て来ない。
パーり文の中で「止観」に言及している詩句の相当文を『ウダーナ・ヴァルガ』のうちに検討してみると、全然出て来ないか、あるいは。samathaがsamataとなつている。
恐らくパーリ文『ダンマパダ』にあとで挿入された語であろう。
だからsamatha というのは、仏教が成立してしばらくたつて一部の修行僧のあいだで用いられるに至つた特殊な術語であつたと考えられる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています