>>515
> 観察はそもそも最初からあったのじゃ。
> ただヴィパッサナーと名づけられていなかったのじゃ。

だからその「観察はそもそも最初からあった」根拠を示してくださいと執拗に言ってるんですが・・・

ウダーナヴァルガやダンマパダより先に成立した仏典との比較によって、定という瞑想法がのちの時代に止観に分析された仏教独自の用語というのは明白なんですから。


さて、ダンマパダ27章の観察の「常にこの身体を見よ」(中村元訳)は、その対象を【一つの】概念(→身体)に心の働きを結びつけています。
ところで、「観は文字通り、観察することが中心となりますが、身体が感じ取っていることを【すべて】気づき続ける観察です」とあります。
それ故、観(察)と表記されていても、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、これは「観」ではなく「止」の範疇に入るんじゃないのですか?
また、「〜のごとしと見よ。」(15.16)「〜のように」(17.18.19)のように、観ではなく 「随念による修習(=止)」ではありませんか?

あと、それは中村先生ではなく箕輪先生の論文ですね。