>>397
何度も書いてますが、定という瞑想法が仏教で止観に分析されたのは、中村先生の論文で仏典のの歴史的考証で明らかにされています。

また、「仏教瞑想論 ──アジア諸地域の特徴について── (箕輪顕量)」には、下記の通りの指摘(特に2.の部分)があります。
(仏教瞑想論で検索するとPDFで閲覧可能です)

1.
瞑想の基本は心を何かに結びつけるところから始まります。
結びつける対象は業処kammatthAnaと呼ばれます。
また、瞑想はその機能か ら大きく二つの範疇に分けられました。

2.
なお、注意が必要なのですが、東アジア世界では、観の用語の使用法が少し曖昧です。
たとえば空観という言葉がありますが、それは 「一切が空である」と認識し続けることであります。
これは、一つの概念に心の働きを結びつけていますので、観と言われても、実は機能的には「止」の範疇に入ります。
それは原始仏教で範疇分けされた部類に従えば、 「随念による修習」の一つに入ります。
それは、あくまでも「止」の働きを持ったものであり、「観」ではないことに注意が必要です。
この点は、東アジア世界ではほとんど意識されていないよ うに思います。


どうでしょう?