鬼和尚さま質問です。

>つまり一切の存在は非ずでありアートマンである、です^^ (栄進のレス)

これに対し宝珠さんは以下の返事をいただきました。

“非ずだからアートマン。つまり、すべてがアートマンということ。”
それは結局、ヒンドゥー的なアドヴァイタ論でしょう。
つまり完成者は、唯アートマンであったという自覚に目覚めてすべてのマーヤが消散すると説くのです。
私個人はヒンドゥーも仏教も最終的には同一の境地(ゴール)に到達すると見ているので、
私にはその意味は理解できますが、けれども仏教ではそういう説き方はしないということをいってる。
そもそもゴータマの教説というのは二元論的な世俗諦なのであって、なのでそういった勝義諦は説かない。
では、あなたのいってるような教説はいったい仏典の何処にあるというのですか?

仏典においては、一切にはアートマンは見出されないということ。
尚、この一切というのは仏教論上における現象界ということであって「有為」のことです。
仏教においては真理に二諦を立てており、そして、対するものとしての「無為」を上げ、
一切(有為)ではないものがあるとして説くのです。
アートマンの意味を解するならば、そのアートマンが無為であるのは明白でしょう。
ただそこまで説かなかっただけです(無記として)。

仏教には、
「アートマンが在る」という言い方はないのです。
あなたの、「アートマンは非ずとしてしか表現できない」まではイイです。
しかし、これを以てしてゴータマの非ずの教えは「アートマンを説いたことになる」は不可。
言えることというのはこれだけなのです。つまり、
決して、アートマンを否定したことにはならない。アートマンを否定などはしていない、と。
ただ、五蘊の中にはアートマンを見出すことはできないということだけです。

以上であります。
栄進の言ってることがおかしいのでしょうか。
宝珠さんの言ってることがおかしいのでしょうか。
両方おかしいのでしょうか。

鬼和尚さまの智慧をお貸しください。