0146Junkie-Ooyama..
2018/06/27(水) 00:13:52.31ID:sNdi/B2+いい加減にまとめに入ろうと思います。
<当方の見解>
> 「止観なんてその定の実践の一部分だろうが?」
<見解の根拠>
> 「(前略)禅定を「止観」というかたちで実践することは、仏教特有であって(後略)」
念のため、先の中村先生の論文から本件の争点部分を引用しましたので。
<以下引用>
「仏教が成立した最初の時期には、 【禅定】※1 の修行は行つていたが、それを意味する術語としては、ウパニシャッドやジャイナ教におけるのと同じ語を用いていた。
すなわち(ディヤーナ、ヨガ、サマディ※2)などである。
最初の時期には「止観」(サマタ、ヴィバッサーナ※2)という語は用いられなかった。
「止観」という語は、原始仏教においては、やや遅れて成立した語であって、仏教以前にはもちろん用いられていない。
ともかく「止」と「観」とは遅れて別々に説かれるようになったのであるが・・・(中略)・・・以上成立史的に考察してみたが、 【禅定】※1 を「止観」というかたちで実践することは、仏教特有であって(後略)」
※1 【】とスペースはこちらの加筆です。
※2 サンスクリット語はカタカナに改めました。