いやー、事象の主体を見るということは、事実ではなく解釈だと思ってますよ

何かを感じる、何かを考える、そのときはそれしか無い
えっと…と振り返ると事実を解釈する動きが起きる
「痛いっ!!」のときは「私」はいないですね
後から解釈すると、事実が思考によって理解に落とされて、「痛いっ!!」から主体客体現象etcに分解される
この動きに、事実を解釈して「私」という認識を作り出す仕組みがある

だから「私」や認識の主体はありますよ
そういう風に世界を切り取るなら
でも、事実にくっついてくる尻尾みたいなもんです

まあ少なくとも私の体験というか理解からはそうでした(これを体験とけ理解と呼んでいいのかは甚だ疑問ですが…