大悟とは
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己が命に未練執着が無くなった
状態を悟りと言うにゃん♪
色欲や物欲が喪失した状態を
小悟と例えるならば命に対する
執着が無くなれば大悟と例えて
も强間違いとは言えないにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ それと仏教の最終目的は二度と
この世に生まれて来ない事にゃん♪
彼岸に渡るとはそう言う意味にゃん♪
南無南無 ( ´•人•` ) >>2
大小があるかないかはさておき、いろいろな悟りが存在するということでよろしいか? >>1
まあ、一生涯のうちに18回も大悟した禅師が江戸中期においでたらしいから、
1回ぐらいは大悟したつもりになっていても、まだまだ悟りには奥の院があるということなのでしょうね。 >>11
悟りの本質が己が命への未練執着
からの解脱だと解釈するならば
キリスト教にも悟りの境地に
至った人々は存在すると考える
方が自然だと思うにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 欲望、煩悩の滅が大悟と言われてるけれど、
それは、トリックなんだよ。
仏教ってのは、表看板の教義は大抵は大嘘だと考えて、
先に進むと、正解が分かる。
冷静に教義を見て行けば、
教義とその意味する所は、
実践した者には開示される。
300枚も500枚も
奈良の大仏に行く地図だけ集めても
行った事にはならない。
生存欲望に悟りのスイッチがあるなんてのは嘘なんだよ。 13.煩悩を滅する、か。
なんで滅する必要があるのか、という問題である。 >>15
どっちの意味で言ってんの?
滅するに指向性に懐疑してか?
煩悩こそ無明、故に無明を滅するには、煩悩を滅する必要ありと強調してか?
はたまた、
他の意味か?
ポタンさんは、
短いレスが多いね。 16.滅する指向性に懐疑するからである。
なんでか。
滅しないで解決する方法が正解であるからである。 初めに戻って、
煩悩が無明の原因だと思う出発点から、
観察し修行して行くと、
色々な事が分かり、悟って行く。
仏教の教義の表看板から入り、
ちゃんと修行すれば、
その道を進んだ人が目撃体験する事は、
初めに立てられついた看板教義とかかなり違う。
煩悩や執着を自分自身が消したつもりでも、
仮にその様な心境になっても、
宇宙の生存欲望は消し切る事は出来ない。
ただ生存欲望が迷いの元凶では無かった。
無知無明は別の所にあった。
執着と煩悩で迷うのだと自分自身を見つめるのは、悪くないけれど、
執着、煩悩、生存欲望の否定に挑んて、突き詰めても、
多くの場合は、
人をおかしな方向に導いてしまうだろう。
文切り型の仏教に陥ると迷いが増すと思う。 >>11
キリスト教をやりながら悟りに向かうならば、
キリスト教というこだわりから自然に離れる。
オウムで修行して悟りに向かうならば、
自然に麻原から離れる。
仏教という修行をして悟りに向かうならば自然に仏教から離れる。
悟りに向かうと○○教や○○様という崇拝意識が消えて行く。
と思うよ。 >>7
座禅の代表的な話なのに、
宗教板で悟った〜!(;`皿´)って上から目線で書く人がいるから、
その話を書いて問うけれど、
聴く耳がないよ。
悟る人がいて不思議ではないけどね。 命に執着しなくなるのではなく
自分の形態が実際の自分ではないと知るから三次元としての生命形態に拘らなくなるだけ
命への執着はあって当たり前というか寧ろ強まる
他者を助けるために危険に飛び込むことも
無意識での命への執着から来る
命への執着がないのが正義ならAIでいいやん? というか一人では無理な気がする
小さい方の悟りなら修行とかでもいけるかもしれんが
大きいほうは一人では無理
でもそれって史上誰も達成したことのないものじゃないの
この世界の性質上一人の完全な悟りは世界を大きく変えるはず それは科学にしたって同じことが言えるじゃん
誰かが壁を破れば後の人は難なく通り抜けられる
今でもその壁は健在で鼠返しみたいにあらゆる者を寄せ付けない
この壁が破れたら凄いことになると思うね >>22
完全な悟りってのが理屈の上で存在するだけで、
限りない知恵は存在しないから。
空想の産物の限りない最高の悟りを求める自体が、
現実をみない妄想の探求。 世界一の存在に
誰かが悟り、
何かが変わる筈がない。
三世を超えた真理を悟り、
その存在は過去にも現在にも未来にも存在するのだから、
凄い存在に期待して、仮の理屈を思案しても、
今、生きる悟りからは遠ざかる。 小悟り、大悟り、
現実逃避も甚だしい。
為政者から、
仏教者が嫌われた要素はその辺にあった。 執着心は、心の内なる問題であるのに、心の外のこの世の有り様をもって、
「執着しているでしょう」はいかがなものか? >>29
心でっかちは
内外を内だけで執着するから、
外も見たなきゃと言う意味ではないの? 執着心ほど、勘違いして認識していると思われます。
自らの存在証明として、執着の高いプライドを大事に丸めて落ちないように
着心の接着剤で止めていることが問題と認識しています。
例として、
@現在、地獄の心境の人なのに、大悟した方が反省の大切さを説くと「過去私は、
大悟していた存在なんだから敬え」と、自らの地獄の心境を棚上げしていることに
問題があります。
A過去大悟していて、現在の地獄の心境である人が、大悟している人に対して
「お前は俺の言うことを訊いてればいいんだ」と高飛車に暴力をともなって来る
人がいます。
自らの地獄の心境を棚上げしていることに問題があります。
支配欲の強さはどこからくるのでしょうか?
トップリーダーの恐怖支配の実績の成果の積み重ねが、執着
の高いプライドをつくるところに問題があります。
B現在、地獄の心境の人なのに、大悟した人に対して「生意気だ」 「慢心しているぞ」と
憤慨して、反省の大切さと謙虚さを大悟の人にうながす人がいます。
自らの地獄の心境を棚上げしていることに問題があります。
大悟した相手が慢心に観えるときは、地獄の心境の人が慢心している場合があります
ので、自らの都合の良い物差しに問題があります。 >>31
貴方が具体的な人生の出来事として、
執着心と悟りと
あれこれを考えてる訳だね。
単に相手だけの内側の問題ではなくて、
客観的な出来事として執着して、
物事に傲慢になる云々。
欲望や執着、
生存欲望まで手放すが大悟と、
どう絡めるのかな? 仏教とか悟り以前の世間法でも、
身につける謙虚さとか、
修行し出す人には俗世間よりも、
傲慢になるケースがある。
それは同意するよ。
後は、表現の問題として、
クリスチャンに良く有りがちな、
綺麗な言葉遣いで傲慢ギラギラした態度に標準を合わせた時代背景がある。
マスコミの影響で、
本音が言えないお茶の間の会話が日常の標準に勘違いしてる件。
政治家やタレントや大企業の社長が出て来て話す訳ではないのに、
普通の庶民までが、
口を慎み、
お上品に振る舞う気になっている。
スレタイトルは「大悟」だけど、
気軽に言いたい事を言って大悟と、
それに向かう道を語るのが良いのではないかと思います。 『大悟』の対義として『小さな悟り』はあるのだろうか? >>34
そもそも、小悟とはなんのことやら
大悟とは、なんのことやら、さっぱり
悟ったと言っても、それは、自分が悟ったと思ったということなのか
それとも人々が、あなたは、慈悲あふれる菩薩のようですと言ったのか
仏さんみたいと言われるのが大悟で、欲がないねー程度が小悟なのか
さっぱりわからん
そもそも悟ったのはブッタで、あとは、その悟りを反復してくだけなので、真に、悟るというよりも、悟りを、教えてもらうみたいになるのかな
しかし、悟ったらしき人は、だいたい時代時代に1人くらいはいる気がする >>35
実感としては小悟は自分の内側で起こっている心に関連する苦悩の土台が崩れてしまって 真剣に苦しめなくなるという感じです
苦悩の土台は私 自分という概念以前の当たり前の感覚 この感覚の誤解 思い込みが限定的ですが深く実感として解けるのが小悟ではないのかと
大悟は色んな文章を読めば文章としてはわかりますが やっぱりわかりませんね 山を見れば山だけになる的なことは一回だけありますけどね >>35
身近に幽霊みた人はいる?
虫の知らせ体験者は地元に何名知ってる?
霊感や霊能がある人は地元に何名知ってる?
悟りました!と言う人が各時代にいるけど、
それは実際の数よりも少ないよ。
小悟と大悟は、
段階のどの境地に達したかの事だよ。
将棋の級や段と同じ。
他人から見た菩薩みたいな人や仏みたいな人が、
事実のその人の悟りと一致してる訳ではないよ。
他人から見た評価に応じた善人や悟り人の姿は、
他人の見たイメージでしかないからね。 >>36
ちゃんと経典に説明はあるよ。
境地と理解と境涯が揃って上に進むんだよ。
その小悟と大悟の階段。
小悟の100段階でも良いし、
大悟の100段階でも良いけど、
二つだけにすると大別し過ぎるよ。
境地の体験は、
心境を体験する事と、
境地を体得する事とは、別の事だよ。
心境は天気の様で季節の様に巡り、
たまたま起きても、また流れ移る。
境地は流れ移らず、
知能や生き方と繋がり、不動の足場を作る。
悟の階段は、
暗中模索ではなくて、
明確なパズルや、
ドリルの様な物だよ。
正確な設計図が存在する。
これを知らないと、暗中模索で各自が好き勝手な求道をして迷い争う。 >>38
ありがとうございます。
スレ立てた本人ですが、自分がなんとなく思っていたことと、ほぼ同じ方向性の話をして頂いて、安心というか、少し自信がつきました、
私は、仏教について専門的に勉強したことは無いし、家庭でも学校でも唯物論的な思考ばかり教えられてきたのですが、青年期・社会人になる時期から、「お釈迦様の教えって正しいかもしれない」と思うことがあって、
以来、素人らしく理屈以前の、人生経験を通じて仏教の有用性、有効性に気づいてきたのですが、
きちんと、整理して考えてみると、あなたの仰っていることが多分「悟り」についての概要だろうと感じます。 >>39
宗教板には、
専門的過ぎる論語読みの論語知らずや、仏教経典研究おたくの仏教知らずや、
聖書研究者の聖書知らずやらの知識に偏り、実践を忘れた人々がいますよ。
新興教団しか知らないで妄信してる人や、
経典を読まな過ぎる人や、
様々な密林(やり過ぎ、やらな過ぎ、知り過ぎ、考え過ぎ、感覚頼り過ぎ、感覚使わな過ぎ、現実過ぎ、あの世過ぎ、真面目堅物過ぎ、不真面目適当過ぎ、その他)などがあるから、
出来れば、
貴方の普通に素朴に感じたり考えたりを日記みたいに大切にして、
確実に理解を広げて行けば、
迷いなく、振り回されず、
算数や数学やらの様に穴を開けず、正確に真理を学び体得出来ると思います。
間違いも正解もなくて、
自分で確り考察しながら、感じながら、行動しながら、
積み上げたら良いと思います。 理屈以前の人生経験を本当に大切に温めるのが、
仏道修行なんだけど、
この自分の当たり前の日常生活から、
大切に理屈以前の人生経験を見つめて、悟りに向かうのが、
疎かになってる傾向があるので、
貴方のその立ち位置を大切にして、
専門知識は10の内の1か2程度にして、
何処までも、
今の貴方の侭で深め続けて行くのが一番の近道だと思います。
24時間、30日、365日、
今の自分を温める。
これを経典とか聖書とか、何かしらの対象に固執して、
没してしまうと、
我を失った侭、
それが何であろうと、見失ってる専門馬鹿と言われるタイプに落ちてしまう。
カルトにハマるのも、
既存仏教ではあるけれど、逃避的な追求に陥るのも、
初心の立ち位置が、
何処にあったかによると考えています。
絶対にズレない階段登り方は、
同心円の中心地から1ミリづつ、
新しい外周の円を増やすやり方です。
立方体でも良いです。
隙間なく確実な成長を計画し実行し、
飛躍は書き留めても、理解や歩みは、着実に積み重ねる。
丁寧な宮大工や、民芸品を作る職人の様に仏道を実践したら、常に着実に悟りの段階を登れます。 >>40
ありがとうございます。
私は浅学菲才の者ですが、今は亡き祖母から、幼いころ、仏教説話や孔子様の「論語」を少し教わっていて、人生の節々で、「あっ!おばあちゃんの言っていたことってこういうことだったんだ」と気づくたびに、
「ひょっとしたら、因果応報は来世の存在を抜きにしては語れないのじゃないか?」と考えるようになり、唯物論に懐疑的になったのが、きっかけでした。
さらに、少しばかり悪い唯物論者とお知り合いになり、「犯罪は証拠さえ見つからなければ犯罪じゃない。」という、私のような直情径行な人間にはとても危険な思想を吹き込まれかけて、「うまくごまかす」のが「智慧」だと思い始めた自分自身が嫌になったことです。
うまくかけませんが、私にとって仏教は「実学」です。 >>41
重ね重ねのご指導誠にありがとうございます。
あと幾百転生すればよいのか分かりませんが、「霊魂不滅」を信じて精進していきたいと思っています。
・・・根を詰めすぎると、疲れるので、『中道』で行きます。今日はこれにて失礼します。 >>42
ありがとう♪
お気軽に呟く感じで宜しくです。
ネクタイや制服と言うより、
Tシャツに半ズボンで語る感じでどうぞ。
「実学」良いですね。 >>44
一期一会か?
霊魂有滅で頑張って行きます!
ならば、
利口丸出しですか?
霊魂有滅で
何も為さず。
かな?
コツコツと人生経験から紡ぐ人が、
いつ頃になるやら、先は遠くにまだまだ続いているけれど、
仏道を歩んで行こう〜!って決意が、
霊魂不滅を信じて頑張って進む決意なんだと思うけど、
何処が馬鹿丸出しなのかな? 他人の寝言には一切耳を貸さず
ひたすら死ぬ事に対し不感症に
なる事が悟りかも知れないにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 47.霊魂不滅か霊魂有滅か。
それは信じているバカが多い。信じるか否か、の問題ではないからである。
それは迷信であるからである。 >他人の寝言には一切耳を貸さず
>ひたすら死ぬ事に対し不感症に
>なる事が悟りかも知れないにゃん♪
のまま
他人の寝言には一切耳を貸さず
ひたすら死ぬ事に対し不感症に
なる事が悟りかも知れないにゃん♪
余念を交えず。
まぁ、これもいいが、理趣経だなぁw
離さず 縛がん その心、清き菩薩の境地なり
すべては自由すべては主、天にも登らん、その境地これもまた菩薩の境地なり。 余談ですが、じゅん散歩で高田じゅんじとそのスタッフが不動明王神社へ2回も訪れている。
不動明王(シヴァ)はもう悪いほうへ行ってしまったというよりは何万年と前から
人類、他の神や仏をだましてきていたことが判明している。だからそこへいってはいけない。
しかもこうして方々に注意を呼びかけているのに2回も訪れている。
それでは霊界に行ったとき真ん中より下しかいけないだろう。じゅん散歩を見た人も
つられて不動明王神社にいってはいけない。逆に、不動神社は本尊を降三世明王などにかえるべきだ。 >>53
無駄な考え休むに似たりにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>54
レスを止める文章。
人が話し合う気持を止めた証明。 小悟とは、執着の煩悩から自由となり、白紙の状態の「無心」の状態をいうと思います。
ただ、菩薩の登竜門の手前の心境であると思います。 >>56
無分別の境地こそ大悟と知るべきにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>56
無執着や白紙になり、菩薩に向かうのではなく、
菩薩行をして行く。
煩悩や執着があるかないか?
自分自身の心を執着して、
目前の人々に菩薩行していかないと、
白紙を求めて、
宗教的な義務を怠りはしないか?
如何でしょうか? >>57
無分別は上記の白紙とどう関係あるか?
分別知と無分別知の両足具足とは如何なる物でしょうか? スレ主が絶対基準ってルールではないけれど、
仏教初心者から
中級、上級、最上級?
まで、幅広く、
大悟って何かなあ?
小悟って何かなあ?
私は日々どう考え何を実践して、
悟りの階段を登る事が出来るのかな?
こんな考えで、
大悟を語れたらと思いますよ〜 >>59
無知有知共に捨て去る事にゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ 無住処涅槃ではありませんか?
捨て去るんじゃありません。
逆に活かしてとらわれないんです。 「それ」には形がない。
そして描写出来ない。
全てが剥がれ落ちたとき、あなたは腑抜けになる。
「それ」は圧倒的に全体であり。
がしかし、なにひとつあなたを指し示すものは見つからない。
あなたはあなたである者だ。
姿なき在る者なのだ。 >>60
あなたは先ず内側に向かわなければならない。
外側に気を取られない事だ。
特に感情を見る事だ。
内側に向かえば変容は起こる。 >>65
表裏一体にゃん♪ (ノ゚ο゚)ノ オオォォォ-
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>65
それはそれで良いと思うけど、
ズッコケ知ったかぶりって感じで、
決まり文句を投げつける動物園の猿みたいに感じるんだよな。
広くって言う意味が
いきなりコアに向かえ!しか出ない。
そういう人は悟りとか内面にって事に固執して、
相手に合わせた導きが出来ない。
つまり、
人を見ないで、
まさに、自分の閉じた意味での内面ばかりを見て囚われているって感じてしまう。
別な言い方をすれば、
内面こそ!と言うドグマに執着して、
目前の人やテーマが見えない。
内面を語りながら、
実は内面ではなく、
自分の囚われた概念に縛られている。
独善的な一人説法が宗教板の仏教系のスレには多い。
キャッチボールがないんだよな。
独り言の掛け合いみたい。
率直な感想なのでスマソ。(>д<)!? >>68
そうかもしれない。
だが私はごく単純な事から話しを始めたつもりだ。
私の様な腑抜けの乞食にこだわりなどあろうはずもない。
何故なら内面を持たないからだ。
そして何の内容もない。 >>69
和尚(バグワン)とか、そこから派生したインドとアメリカやヨーロッパ人の瞑想活動、
ワンネスとか、
その一連の参加者や影響を受けた人に共通したパターンなんだよな。
貴方がその影響を直接的に受けた人かどうかは知らないけどね。
創価には創価のタイプがあるし、
独り瞑想したり、
何かに影響されて活動したり、
同じ傾向になるんだよな。
集団に影響されてる最中も、
初めから単独だと言う人も、
人間のタイプはどれかに分類できる。
絶対に分類を離れる事は出来ない。
例えば、通常の12タイプ、50タイプには属さないタイプって形で、
やはり分類は出来る。
大悟とは何か?のスレなんだから、
どうやって、悟の階段を登るか?
ああ言えばカッコイイ〜とか、
これが渋い決め台詞だ〜とか、
きっとこんな事を書けば模範回答かな?
みたいな、
言いたい事、書きたい事を書けば、
自分自身の為になるし、
他人からは、是非を付けながら、
お互いが自分自身を知る鏡にはなる。
黙って読むだけの場合も、整理して行ける。
古典的な仏典に色々な角度で書いあるけれど、
独り座禅や瞑想をしても、
何処かの座禅会や瞑想会に参加しても、
勉強会に参加しても、
その努力の対象が、個人的な意識、
思考、印象、
言葉の定義、
心、心情、感情、
無意識的な意志や傾向、
欲望、
身体的な傾向、
などを
整理して行く事に向かうタイプも、
他人への布教と啓発に向かうタイプも、 >>70続き、
個的か集団的か、
どちらも、
タイプの見定めと、タイプからの脱却と
より優れたタイプへの移行と言う知識や理解によって、
思い込みから脱却出来る。
逆に言えば、
人間が盲点、盲信、無知を脱却するには、どんな事が盲点、盲信、無知なのか?
初めに教えられているべき。
実際には小乗、大乗、新しいやり方の宗教、瞑想の方法も、
初めにお読みください。注意書きがない。
寧ろ、危険性、注意点に目覚めた信者、修行者は主宰側に迷惑だからと言える。
個的か集団的か人間は拘りの維持に自我保存煩悩がある。
集団が好きな固執は、人々を個人的な固執に向かわせたくない。
個的な生き方が好きな固執は、人々を集団的な世界に行かせたくない。
集団と個人のあやふやなバランスを保ちたい固執のある者は、集団性の美徳を究めず、
個別性の美徳を究めないように固執する。
この三つのタイプは本質を学び、本質に至るべき、修行の道を正確に設計図に従い完成させる活動を拒む。
感性を使うべき時に理屈を使う。
理屈が大切な時に感性を使う。
主観的な自分自身を現すべき時に客観的な意見を述べて自分自身を隠す。
個の内面に目を向けるべき時に集団性に目を向ける。
集団性に目を向けるべき時に個に目を向ける。
バランスをとり集団性と個別性のどちらにも目を向けるべき時には、集団性か個別性に偏り、拘りの自我を守る。
掲示板で論議して分かり合えない状況の一つには、
この個別性重視の拘りや、
集団性重視の拘りや、
バランス性重視の拘りが、
全体を見通す設計図が >>70
知らない分からないから、起きる。
悟の階段を登るには、広く全体の設計図が必要。
真実に真心を込めて、個別性から入っても、
集団性かから入っても、
バランス性から入っても、
他の要素が頭心に映る筈。
この誠心誠意ってのが拘りの中では起き難い。
至誠は南無の心、帰命の思い、祈りや座禅で現れるものだけど、
初めから、初心者の内から、設計図を意識した修行者を育てるべき。
師匠、導師がいるとするならば、
そのタイプの傾向を初期に修正して、自動車免許を訓練するように分かり易い悟の階段を見せなきゃならない。
−−−−−
個的か集団的か、
どちらも、
タイプの見定めと、タイプからの脱却と
より優れたタイプへの移行と言う知識や理解によって、
思い込みから脱却出来る。
逆に言えば、
人間が盲点、盲信、無知を脱却するには、どんな事が盲点、盲信、無知なのか?
初めに教えられているべき。
実際には小乗、大乗、新しいやり方の宗教、瞑想の方法も、
初めにお読みください。注意書きがない。
寧ろ、危険性、注意点に目覚めた信者、修行者は主宰側に迷惑だからと言える。
個的か集団的か人間は拘りの維持に自我保存煩悩がある。
−−−−−
独善的にも独断的にも、
集団的な埋没にも、ドグマへの埋没にも陥らずに真ん中を登る事が出来ると思う。
【外への必要性】
集団的要素
一般的なドグマ要素↑
私という修行者
↓
【内への必要性】
個人的な内面主義、内面のドグマ、
−−−−−
人間は例え修行者であっても、
ついつい、どちらかに偏る傾向がある。
・汎用善に埋没、
・独善に埋没、
−−−−−
更に、大別二元ではなく、大別三元で、人間のタイプで考えると、
@集団に埋没タイプ、
A個人に埋没、
Bどちらにも偏らず、日和見主義に埋没。 悟りは、積極的に求めて掴むものではないと思います。
また、悟りは資格証書を取ることでもありません。
なお、悟りは頭脳の脳味噌で得るものではありません。
悟りは、受動的に受けることを意味し、無私無償の無心に
維持継続できるかにあると思います。 >>72続き
−−−−−
【修行傾向の戒め】
座禅に逃避してはならない。
経典に逃避してはならない。
戒律に逃避してはならない。
説法と聞法に逃避してはならない。
個別性に逃避してはならない。
集団性に逃避してはならない。
個と群れのどちらにも力を注がない中立地帯に逃避してはならない。
祈りに逃避してはならない。
読経、マントラ、題目、念仏に逃避してはならない。
菩薩行に逃避してはならない。
布教に逃避してはならない。
逃避してはならないに逃避してはならない。
ドラマやアニメにしたら良いと思う。
−−−−−
大悟とは
このスレタイトルで、
仏教の
初心者が立てたか?中級者が立てたか?
上級者が立てたか?
最上級者が立てたか?
他人を観察する心があれば、察知する。
自分と似たり寄ったりのレベルに知ってますよと競う意識のレスか?
どんな趣きのレスなのか?
何かを学び理解していて、
他人にも共有しようと思うならば、
他人がかぶり付き出来る様に、考え方の全体像が分かる様に書くべき。
難しい内容でも簡単な内容でも構わないけれど、
百も考えた事があるのに、
俳句の様なレスを書くのは、
自己テストしたい人か、
他人をテストしたい人だと考えられる。
黙り俳句を書いて相手に考えさせる。
これは意地悪な性格。
推察出来る人には分かるが、
だからと言って何のコミュニケーションになってない。
他人様に何かを教えたいならば、
分かり易く書くべき。
独善的な天狗や他人を思いやらない狐になっている。
スレタイトルの方向性と、
レスの流れと、
自分自身が言いたい事と、
他者を意識して書くべき。
一体誰に書いてるの? >>74
多分、クロスワードパズルやクイズの本を買って、
他人様を意識しないで、
共感を持たすに、
思い付きを如何にシンプルに断定文にして、
答えが正しいと自負したい目的しかないのだろう。
教室で毎日顔を合わせて、
悟の教科書を元に勉強しながら、
意見交換して、
実習する学校ならば、
各自の偏りは、少なくなる。
性格や考え方の傾向、コミュニケーションの癖を問題があるならば改善するのが仏教の修行。
どうもこの辺が悟の階段で論じられない。
理由は階段も設計図も学校もなく、個人か集団の適当で修行しているからだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています