般若心経 実践篇
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ほとけの心は「で・あ・い」の三つに尽きる。
「で」は「デタラメ!」、
「あ」は「あきらめ!!」、
そして「い」は「いい加減!!!」
(ひろ・さちや)
般若心経
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1522314305/ やっぱり、タ=でおーだな。
昨晩、バルタンさんのスレでタを〆たら、翌朝、突然でおーがそのスレに現れて例のコピペ連投をはじめた。
しかもそのコピペは、当日のバルタンさんのスレのものと&13年前の雪担師のコピペ。
キチガイだろ、此奴はw 世の人は
我を何とも
言わば言え
我が成す事は
我のみぞ知る
(坂本龍馬)
??「世間の人は、自分の事を言いたければ勝手に何でも言えばいい。
自分がやることは自分のみが知っている。」
??自分のやりたいこと、自分の好きなこと、自分の信じること、自分の目標は、自分しか分かりません。
??他人に何と言われようが、成功するまでやり遂げましょう! 行蔵は我に存す
毀誉は人の主張、我に与らず
我に関せずと存じ候
各人へ御示し御座候とも毛頭異存これなく候
(勝海舟)
我が行いは自らの信念によるものである。
けなしたりほめたりするのは人の勝手である。
私は関与しない。
どなたにお示しいただいてもまったく異存はない。
勝海舟は、維新のとき、江戸を火の海にしないため、
内乱を避け、江戸城を無血開城し、官軍に勝ちを譲った。
後に、そのことを福沢諭吉は、「痩せ我慢の説」で、
官軍に対し一戦もせずに膝を屈するとは、幕臣としてあまりに情けない、と責めたのである。
実践の人は、その行動の結果を、後でとやかく言われやすい。
もっと、ああすればよかった、他の選択肢もあったろうに、と人から言われる。
時には、断じて行わなければならないこともある。
自らの行動の結果には、一切言い訳をしない。
そして、言いたいものには言わしておけと、ニッコリ笑って受け止める。 さすがでおー、嗅ぎつけましたねw
昨日、コーヒー飲みすぎて、眠れなくなった。
二時間は少々きつかった。
急にどうでもよくなりましてね。
相手も自分の思い、こちらのも自分の思い。
貴方がそう思っているだけですよ。
が重なってしまった。
そうしたら、どうでもよくなってしまった。
セッタン和尚は、支店長に対して、喋らければいいだよ。
そして、支店長は、急に、やめた!やめた!と言い出した。
また、栄進くんは、仏教は捨てろ、悟りは捨てろ、坐禅を捨てろと言い出した。
俺は正直のところ分からなかった。
今は本当にどうでもよくなった。
枝葉を見て、本を見失っていた。
其の本を務めよ。
捨てた坐禅とはどのようなものだろう‥
おそまつさまでした。 と、急にどうでもよくなったと言いながら、折角の良スレで自分語りを始める矛盾。
ともあれ、
>修行しよとしまいと、山は山なんじゃないか
はあり得ないね。 「色即是空・空即是色」
(悟前の)修行は「山が山」である事の否定から始まる、「山は山に非ず」色即是空ってね。
で、一旦見性して、真っ新になり(色即是空・空即是色の「・」)
空即是色って再び修行して「山は山」に還ってくるんですよ。 宗教も哲学も、日常の実生活に役立ってのものだと思います。
その意味で、このスレは実践篇なのです。 >>327-328
> 有名なバカボンのパパの言葉「これでいいのだ」は“あるがまま” “ありのままを受け入れる”という悟りの境地なのです。
この「これでいいのだ」という悟りの境地は、仏教的なものなの?ヴェーダ宗教的なものなの? >>440
赤塚先生は、
「主人公がバカなボンボン(主に関西地方で坊ちゃんのこと)だから」という説と「英語で放浪者を表わすvagabond(バガボンド)のように自由な主人公にしたかったから」という2つの説を話しています。
「バカボン」とは「薄伽梵(バギャボン・バガボン)」=仏教用語でお釈迦様の敬称であり、サンスクリット語の「Bhagavan(バガヴァーン)」「Bhagavad(ヴァガバッド)」=全知全能者、覚れる者という意味で“Buddha(仏陀、ブッダ)”と同義語を漢訳しています。 >>441
「これでいいのだ」という境地も仏教的なものだということ? >>442
ありのままを受け入れるという意味で
「空」に通じると思います。 志村けんがラジオで、
リスナーからの
「ギャグは考案してから、誰かの最終決断があって演じられるものなの?」
という質問に、
志村はこう持論を語り始めた。
「起承転結があって、これがあって、これがあって、こうなってこうなるから、1個のコントになるっていうのがギャグだ。だからおれたちは一発芸みたいなのはギャクだとはいわないんだよ」
「アイーン」「だっふんだ!」
といった一発ギャグを持つ志村だが、
そのギャグはあくまでコントの流れの中から生まれたものだと、
笑いの流儀について熱く語った。 振り返ると、人生、もう半分以上来てしまった。
けれど、好きな道一筋で、ここまで来られたのだから、けっこう幸せだったと思う。
そりゃ、人には言えない苦労もずいぶんした。
いまでは笑って話せることもあるけれど、
吐きそうなくらいつらかったことや悲しかったこと、悔しかったこともたくさんあった。
でも、最後は自分しかいない、最後の頼りは自分だけ、
という信念みたいなものがあったからこそ、なんとか頑張ってこられたのかもしれない。 自分しかできない演技、自分独自の芸というものを早く確立したい、そういう思いで頑張ってきたんだけど……ね。
住んでいる世界は違いこそすれ、人生や仕事において成功したいという、オレと同じ考えで、一生懸命に頑張っているサラリーマンの人たちも、いまの世の中、生き残りはかなり大変だと思う。
いまの時代、いろんなことが新しくなって、ついて行くのもひと苦労。
会社側から自己否定みたいな真似をされると、
「オレっていったい何なの」って気持ちにもなるだろうし、ときには全部を放り投げて、「や〜めた」とケツをまくりたくもなるだろう。
そんな時、たまたま読んだ本が発想の転換のヒントになったり、何気なく聞いた曲とか友達のひと言に、思いがけず勇気づけられたりすることがあるものだ。 でも、意外と簡単に、毎日の習慣や行動、仕事やお金に対する考え方、とらえ方を少し変えただけで、
成功に少しでも近づけるかもしれないし、場合によっては、状況は同じでも満足感が違ってくるかもしれない。
モノは考えようで、どうやって稼ぐかを日夜追求して金持ちになった人たちがいる一方で、
どうすれば金を使わずに済むか、出ていかなくできるか、といったケチ道を実践して、金持ちになった人もいる。
稼ぐことよりも、ケチることに喜びを見つけるというのも、逆転の発想でいいかもしれない。 それに、いつの時代も、成功した人に学ぶことは多いけれど、
そういった人たちが守ってきた人生哲学って、意外なほど拍子抜けするような、常識的な、当たり前のことだったりするものだ。
礼儀作法や時間厳守、努力と忍耐、蓄積と継続……などなど、
当たり前のことが出来て、少しの才能と個性、それに決断力があれば、
今日より明日は、いい生活が出来るかもしれない。
そのことに、どうやって気づくかが、大切じゃないのかな。 『志村流 金・ビジネス・人生の哲学』
著者 志村健(マガジンハウス) >>443
実際の仏教の中で、「ありのままを受け入れる」とか
「これでいい」とした例ってどういうものがあるの? >>450
空が「あるがまま」で
色が「ありのまま」なのかなと思います。
色即是空 空即是色 >>443
例えば、ブッダは裕福な生活に満足ができず出家をした。
つまり、仏教の始まりは現状の否定にあったのでは? 紀元前6世紀のインドには、大小あわせて16の王国があり、激しく争っていた。
戦いの中で特に勢力を伸ばしたのはガンジス川下流のマガダ国、そしてネパールに近い北方のコーサラ国だった。
シャカ族の国カピラヴァスツは、ヒマラヤ山脈の麓にあった。小さな農業国であり、コーサラ国の属国だった。 紀元前566年(諸説ある)4月6日、のちにブッダとなるシッダールタ王子は生まれた。
シッダールタ誕生の伝説は多く、
生まれた直後に 7歩歩いて右手で天を、左手で地を指し、
「天上天下唯我独尊」
と唱えたという逸話は特に有名である。 >>454
> 生まれた直後に 7歩歩いて「天上天下唯我独尊」
そんなのはつくり話でしょ。 >>443
実際の仏教の中で、「ありのままを受け入れる」とか
「これでいい」とした人や例とは、どういうものがあったかな?
それを示していただけると早いかも。 シャカ族は喜びにわいた。
しかし、その7日後、
母のマーヤー王妃は急死してしまう。
王子は、
新たに王妃となったマーヤーの妹マハーパジャーパティに育てられることになった。 王子の誕生を祝って宮廷にかけつけた人々の中に、アシタという名の仙人がいました。
アシタ仙人は未来を占うすぐれた能力を持つバラモンでした。
王子を抱いたアシタ仙人は、目をほそめて王子の誕生を喜びましたが、やがて悲しそうに涙をこぼし始めました。
驚いたシュッドーダナ王は尋ねました。
「なぜ泣いておられるのでしょうか。なにか悪いことが、この子に起こるのでしょうか?」
「いいえ。王子は将来必ずブッダとなられるお方です。私が泣いたのは、老いた私はたとえ生き長らえても、この方の教えをうけられそうにないからです。」 シッダルタは小さいころから、物事を深く考える子どもでした。
シッダルタが7歳の時、王さまは種まきのお祭に、シッダルタを連れて出かけました。
その時。農夫の鋤(すき)に掘りかえされた虫を、どこからともなく飛んできた一羽の小鳥がついばみ、さらに、その小鳥を大きな鳥が襲いました。
「かわいそうに、なぜ生き物は互いに食い、争わねばならないのだろう。」
シッダルタの心は痛みました。 >>451
「あるがまま」と「ありのまま」はそれほど違いがないと思う。
肝心なのはその後に何が続くか。
(1) {あるがまま・ありのまま}を受け入れる
(2) {あるがまま・ありのまま}を見つける
この二つには大きな差があると思う。
1は受動的だし、2は能動的だから。 >>456
赤塚先生の「これでいいのだ」は、「前後際断」。
「前後際断」とは、禅の言葉で「過去や未来との対比として現在をとらえるのでなく、絶対の今の一瞬一瞬ととらえて、刻々を大事に生きる」意味。
『正法眼蔵現成公案』(道元)
「たきぎは はいとなる さらにかえりて たきぎとなるべきにあらず
しかあるを 灰はのち 薪はさきと 見取すべからず
しるべし 薪は薪の法位に住して さきあり のちあり??
前後ありといえども 前後際断せり」 「前後際断」とは、
過去にとらわれず、未来を憂うことなく今を生きよという禅の教え。
やり直せない過去を引きずるのも、起こるか起こらないかわからない先のことを憂うのもすべて心を惑わせる雑念。
今を生きることに専念せよという考え方です。 また、ありのままとは「真如」
「事実」ではなく「真実」を、
「現象」ではなく「本質」を、
「体の目」ではなく「心の眼」
で観ること。 >>461
受け入れて、観つめる。
因果を読み、受け入れ、呑み込む。 >>462
> 「前後際断」
それなら一理あるけど、悠長なものではなく瞬発的なものでしょ。
> 道元
道元に至っては、悟りも否定する。
「悟った」「これでいい」という境地を徹底して認めない。 >>464-465
ものごとには、固定的で実体的な「本質」というものはなく、
仮に縁起する「現象」だというのが仏教。 >>466
実際の生き方としては、「これでいいのだ」の方がいいでしょう。
仏弟子ではないのだから、別に悟らなくてもいいと思いますが。 >>468
では、「これでいいのだ」を仏教だ、悟りだという必要もないのでは? >>469
受け取り方は、お任せします。
宗教や哲学は人生の参考書ぐらいに思った方がいいと思います。
否定も肯定も、受け取る人の自由です。
友よ、水になれ!(ブルース・リー) ご回答ありがとうございます。
今日はこれで失礼いたします。<(_ _)> 「柔よく剛を制す」
古代中国の老子の思想を基調に書かれたと言われる『三略』の中の有名な一節です。
意味は
「柔軟性のあるものが、そのしなやかさによって、かえって剛強なものを押さえつけることができる」
ということです。 この言葉には、続きがあります。
「剛よく柔を断つ」です。
近代では、この「剛よく柔を断つ」という言葉も用いられるようになりました。
これは「力は技を破る」という割と夢も希望もない言葉ですが、
「柔よく剛を制す」とセットで使われ、三略の言う所と同じような意味で使われるようになりました。
「剛柔一体」と言って、多くの格闘技で極意とされています。
「柔よく剛を制す。剛よく柔を断つ。」これは格闘技のみならず、色々な物事に言えることです。
学業や仕事においても、その場その場で適切な手段を講じる人が高い成果を挙げています。
何事にも凝り固まらずに、時に強く、時にしなやかに生きていきましょう。 バルタさんって、鬼子さんと重なるんだよなw
俺の思い違いかもしれないがw
人とはそんなもんだよ。
特定できない面白さw
コテはコテとしてあつかう。
誰かは言う、
=と。
中には、同じだと言ってくれた方が面白いのにという人もいる。
また、名無しでも誰かとすぐわかる人もいる。
俺はそんなこと言っていないのに、受け取り方は人それぞれ。
本当に面白い。人の思いとは。
その想いに振り回されぬように。
雪乃曰く、話してもわかりあえないのよ。
結衣曰く、だから話つづけるのよ。
近くにいるだけでわかりあえるのかもしれない。
近くにいてもわかりあえないのかもしれない。
わがままな思い。
わかる人はわかる、わからない人にわからない。
満ちていれば、満ちていなければ。
おはよう! 孟子ずき、一方にいることの否定。
空の解釈等・・
禅宗駄目じゃないという発言等などの発言。
が重なる。
其の本を務めよ。
主人公主人公! しかめ面は、人も運も逃げていく。
笑顔は、人も運も引き寄せる。 >しかめ面は、人も運も逃げていく。
上手いことを言うねw
水は特性は柔だからね。時に自然も破壊をする。 柔なわりに、水は重い。
鉄も柔だが、熱い。そして冷めれば水より重い。
それぞれだ。 地球は水の惑星と言われるが、実のところ鉄の惑星だ。 心を空(から)にしろ。
形を取り去れ、型を捨てろ。水のように。
水はカップに入れたら、カップに、
ボトルに入れたら、ボトルに、
ティーポットに入れたら、ティーポットになる。
水は絶え間なく流れ、激流にもなる。
水になるんだ。友よ。
(ブルース・リー) >心を空(から)にしろ。
其の本を務めよ。
主人公主人公!
実のところ同じさぁ。 バルタさんの解釈はいいとどりだよ。
老子は、百姓以て、蒭狗と為すとも書いてある。
だから、愛とは慈悲とは、と悩む。 禅でいう「主人公」とは、「立ち返るべき自分本来の姿」のこと。
だから全体の中での相対的な役割(主人公とか、脇役とか、端役とか)のことではなく、
言ってみれば「自分がしっかりと、なりたい自分になれているか」を確かめるための言葉である。
目先の利害や場の雰囲気、人間関係のしがらみなどで「私は、本当はこんなはずじゃないのにな」と感じたことがある人は案外多い。
「なりたい自分」は、積み重ねの上に出来上がるものではなく、余計なものを脱ぎ去ったときに表れると考えられる。
そんな自分との出会いが「人生の主人公として生きる」 人生は、いいとこ取り。
「守・破・離(しゅ・は・り)」
基礎を身に付け伝統を守る→既成概念を破る→慣れから離れる
茶道などで、修業における段階を示したもの。
「守」は、師や流派の教え、型、技を忠実に守り、確実に身につける段階。「破」は、他の師や流派の教えについても考え、良いものを取り入れ、心技を発展させる段階。
「離」は、一つの流派から離れ、独自の新しいものを生み出し確立させる段階。 賢をたっとばざれば、民をして争わざらしむ。
得難きの貨を貴ばざれば、民をして盗みを為さざらしむ。
欲するところをしめさざれば、民の心をして乱れ
ここを以て聖人の治は、その心を虚しくして、その腹をみたし、その志を弱くして、
その骨を強くす。
常に民をして無知無欲ならしめ、かの知者をして敢えて為さざらしむ。
無為を為せば、すなわち治まらざる無し。
これを読んでいると、ウマシカになれと読める。
ウマシカなるために、バルタさんは勉強しろと。
矛盾。
この矛盾に人生訓を書き込みそうだw ばるたん、立派だ、ジャンキー君は、それに反して、肩書自慢、哀れ。
439(V)o¥o(V) ◆AJ5Lb5gwmk 2018/05/22(火) 20:18:16.58ID:TVtDqLea
宗教も哲学も、日常の実生活に役立ってのものだと思います。
その意味で、このスレは実践篇なのです。 鬼子のレス、久しぶりに見た。
ジャンキーには秋田ようだな笑。 教訓肌のばるたんであった・・・。
>「なりたい自分」は、積み重ねの上に出来上がるものではなく、余計なものを脱ぎ去ったときに表れると考えられる。 ここまでくると趣味ですねw
空きましたよw
知りたいというという欲求はありますから。
それは枝葉なのでしょう。 >禅でいう「主人公」とは、「立ち返るべき自分本来の姿」のこと。
なーんていうのも、俺も飽き飽きだ、バルタンには悪いが・・・・。
ジャンキーの変態丸出しぶりには喜びを感じるけどな笑。 フォッフォッフォッ・・・
醜いリコウになるよりは 綺麗なバカで生きてやる
(空手バカ一代)
欲望が強い人間は、頭の良い人間に利用されやすくなる。
人の上に立つ人間が頭の良い人間を集めて能力を競わせれば、
彼らはその能力を存分に発揮して他者を利用し蹴落とす。
そうなれば世の人々はこぞって争い、世は乱れに乱れる。 >人の上に立つ人間が頭の良い人間を集めて能力を競わせれば、
彼らはその能力を存分に発揮して他者を利用し蹴落とす。
が空想的だと断言できるぐらいに、最近視界が開けてた、バルタン、わるいな。 タさん、名無しさん、討論はご自由にどうぞ。
私は、これから、TRFイージードゥダンササイズで汗をかきます。 ちょうど、スレも半分来たか。
さあ後半まいりましょう、後半しゅっぱ〜つ!
(いかりや長介)
では、後ほど。 馬耳東風、馬の耳に念仏。
これだな。何の役にも立たない。
これには、深ーい意味があるんだよ。
では、また。 いい汗かいた後のカクテルは最高だ。
(V)o¥o(🍸)一杯目はジントニック
アルコールは恋に似ている。
最初のキスは魔法のようだ。
二度目で心を通わせる。
そして三度目は決まりごとになる。
あとはただ相手の服を脱がせるだけだ。
(レイモンド・チャンドラー) >>699
ぎゃははハハハハハ
おいおい、勘弁しろや、おかしくて腹が痛てぇwwwwwwwwww
> 364 名前:夕[] 投稿日:2018/05/21(月) 19:02:17.96 ID:CXKv6Lwt [11/17]
> わるいな。
> 道元禅なもので・・ 今日は、スーパースター!背番号3
長嶋茂雄のエピソードをご紹介します。
「好きな四文字熟語を」と渡された色紙に「長嶋茂雄」と書いた。
電話番号をメモして渡す。
途中までしか書かれていないので机を見ると、途中から机の上に書いてある。
「キューバもアイアンからウッドに変わって」(金属バットから木製バットに・・)
2002年8月26日の都市対抗野球でも「アイアンからウッドに変わって、試合のテンポがよくなった。ウッドの快音もいいですね」 長嶋茂雄神話つづき
バッティングのことを「バリング」。
バントなどの小技を「小物」。
ミートグッドバイ=肉離れ。
アイムソーリーを「アイム 失礼」。
「I live in Edo」
I live in Tokyo. を過去形に直せという立教大が用意した問題に対する解答。
ビートたけしとゴルフに行く約束
「あれ、たけちゃん。今日は誰とゴルフ?」
若手のことを「ヤングボーイ」 長嶋茂雄神話つづき
打者のことを「バットマン」。
「ヤングボーイのバットマン」
若手打者の事。
「打つとみせかけてヒッティング」。
「ジャイアンツの監督は大変ですよ、毎日がジャイアンツ戦ですから」。
「バースデイアーチ、打った事無いんですよ〜」(誕生日:2月20日)。 >>505
ジャンキーさん、こんばんは。
まあ、包んであげてください。 (V)o¥o(🍸)2杯目はブルーハワイ
その名のとおり、南海の楽園・ハワイの美しい海を想わせるカクテル。
ラムの甘い香りとブルーキュラソーの鮮やかな青い色、そして、美しく飾られたフルーツやランの花に、気分はもうハワイ。
ブルーキュラソーがつくりだす色彩が鮮やか。
パイナップルジュースとレモンジュースがさわやかな味に仕上げている。 (V)o¥o(🍸)ブルーハワイアン
ベースのホワイト・ラム酒は、風味、色調から3種類ずつに分類されます。
キュラソーはオレンジ風味の香り豊かなリキュールです。
これにシロップを加えて青く着色したものをブルー・キュラソーといいます。
ベースのお酒にパイナップルジュースとココナッツミルクを入れてシェイクすれば「ブルーハワイアン」の完成です! 長嶋茂雄神話 名言編
なにか一つのことに
脇目も振らずに打ち込める時期を持てる人は
幸せかもしれない。
今の若い人達は
のめりこめるものを見失っている。
不幸な時代だとは思うけども、
時代のせいにするのはどうかな。
我が巨人軍は永久に不滅です。
小さなボールと一本のバットには運命と人生がつまっている。
若いプレイヤーが昔のように心から感動したり、感動しきれない。
それは、やはり時代でしょう。
だけど感動を知らない人生というのは、何か生きている味わいみたいなものがないわけです。
感動はスポーツばかりじゃありません。
あらゆるジャンルにある。
何かに感動しながら日々新たな気持ちで挑戦して行く。
これこそ生きる上での一番の王道と言えるのではないでしょうか。
打った時より三振した時に、いかに豪快にみせるか、相手に恐怖感を意識させるかを考えた。
スターはみんなの期待に応える存在。
スーパースターの条件は、その期待を超えること。 立禅は、主に武道の太気拳や極真館などで行われています。
立禅は早朝、自然の中で行うのが良いとされます。
自然の中で土や木々のエネルギーを取り込み、
風を全身で感じ取ることで立禅の効果は高まるとされます。
やり方は、
心を穏やかに保ち呼吸は自然に。
中腰になる。
高い椅子に腰掛けるように。
かかとを少し浮かし足親指の付け根に重心をかける。
両手で大きなボールをかかえるように円をつくる。
手の指全体がつながっているような感覚。
頭は天から吊り下げられている感覚。
脚は地面の中に埋まって根を張っている感覚。
自らが中心であることを意識する。
顎は玉を挟むような感覚。
目は軽く開きやや上の方を観る。
意識を遠くに放つ。
耳はわずかな物音にも反応する。
上記の姿勢を20〜30分続ける。
もっとも、下限も上限もないので続けるか否かは個人の判断による。
終了させる場合は急に止めるのではなく、
揺りに移行して体をほぐしてから終了させるのが望ましい。 般若理趣経(百字偈)
菩薩勝慧者 乃至尽生死
恒作衆生利 而不趣涅槃
般若及方便 智度悉加持
諸法及諸有 一切皆清浄
欲等調世間 令得浄除故
有頂及悪趣 調伏尽諸有
如蓮體本染 不為垢所染
諸欲性亦然 不染利群生
大欲得清浄 大安楽富饒
三界得自在 能作堅固利 真言宗所依の経典に[理趣経]と言うのが有ります。
この勝れた経典にはその内容を百字にまとめた詩が有ります。
お経には大体この詩の部分、これを偈(げ)と申しますがこれがついております。
経題と最後の般若心経を入れても二百七十八文字の短い般若心経にも、この詩の部分が有りまして、終わりに唱える真言、これをを羯諦偈(ぎゃーていげ)と申します。
理趣経の偈は百字の偈と言いまして、
長い理趣経一巻をあげる余裕の無い時、
この偈を唱えればたちどころに仏さまの功徳は下りてくると言う、
実にもって有り難い偈です。 百字の偈??百字により説かれた詩
菩薩勝慧者 (ほさっしょうけいしゃ)
<菩薩の勝慧なる人は>
つまり勝れた智慧を持つ菩薩たちはと言う事ですが、これはここでは金剛薩??(こんごうさった)の事です。
乃至尽生死 (だいししんせいし)
<乃至(ないし)生死を尽すまで>
生まれたり死んだり、死んだり生まれたり輪廻転生迷いの世界、つまりこの世に永遠に、と言う事です。 恒作衆生利 (こうさくしゅうせいり)
<恒(つね)に衆生の利を作し> 常に衆生の利益の為、利他行に励むと言う事です。
而不趣涅槃 (じふしゅでっぱん)
<而(しか)も涅槃(ねはん)に趣かず> 決して涅槃と言う理想の世界に入る事は無い。 般若及方便 (ふぁんじゃきゅうほうべん)
<般若と及び方便>
般若と言うのは智慧の事で、方便とはあらゆる方法で、大慈悲を持って、どこまでも衆生を済度して行く事、方法便益(ほうほうべんえき)です。
智度悉加持 (ちとしっかち)
<智と度を以って悉(ことごと)く加持して>
智は般若、度は方便の事です。 諸法及諸有 (しょほうきゅうしょゆう)
<諸法と及び諸有>
法と言いますと真理のことですが、 諸法と言いますとこれは全てのものです。
諸有は有情で、生きているもの、衆生です。
一切皆清浄 (いっせいかいせいせい)
<一切は皆清浄なり>
森羅万象の全てを清浄ならしむ 。
お経で言う一切とは例外なし、と言う事ですから、全ての存在を皆清浄になす。 欲等調世間 (よくとうちょうせかん)
<欲等を以って世間を調し>
欲と言うのは貪瞋痴(とんじんち)の三毒煩悩で、等と言うのは大日如来の持つ大貪、大瞋、大痴のことです。
大いなる意欲、全ての不正や苦しみを怒る、全てのものを愛してやまない、この大きな貪瞋痴で世間を調えて行くのが密教です。一般仏教の様に、悟りに依って世間を調えて行くのとは違います。
令得浄除故 (れいとくせいちよこ)
<浄除する事を得しむるが故に>
そしてその大貪、大瞋、大痴を以って、そして世間を浄めて行く。 有頂及悪趣 (ゆうていきゅうあくしゅ)
<有頂(うちょう)及び悪趣>
有頂とは此の世の最上位である有頂天、悪趣とは地獄の底です。
調伏尽諸有 (ちょうふくしんしょゆう)
<調伏して諸有を尽くす>
地獄の底から天上界に至るまで、大貪大瞋大痴をもって調伏する、即ち諸々の有情の煩悩や悪行を無くする。 如蓮体本染 (じょれんていほんぜん)
<蓮体は本染にして>
蓮体と言うのは蓮の花の事です。この花は始めから赤い色に染められております。
不為垢所染 (ふいこそぜん)
<垢の為に染せられざるが如く>
真っ白な蓮華であるならば、世間の垢にも他の色にも染まりましょうが、大慈悲の真っ赤な蓮華は、決して他の色にも煩悩にも、染まる事は無い。 諸欲性亦然 (しょよくせいえきぜん)
<諸欲の性も亦然りなり>
諸々の欲の本質も亦同じである。
諸欲とは、貪り、怒り、愚痴の三毒煩悩の事です。
欲の本質は大日如来の持つ大欲なのですが、私たちはそれを自分と言う小さな我欲の中に閉じ込めて、自分が自分がと言う、小欲にしてしまっているのです。
不染利群生 (ふぜんりきんせい)
<不染にして群生を利す>
世の人々の為に働く人も三毒煩悩に染まる事は無いのである。
不染と言うのは小さな貪り、小さな怒り、小さな愚痴に染まらないと言う事です。
大貪、大瞋、大痴を持つ事によって、多くの人達を救っていく事が出来るのです。
群生とは多くの人、と言う意味です。 大欲得清浄 (たいよくとくせいせい)
<大欲は清浄なる事を得て>
大欲は清浄であると言う悟りは、顕教の悟りとは大きく違ます。
顕教は修行によって欲を無くす、密教は大きな欲で人々を救済して、何処までも生きて行くのが悟りだと言います。
大安楽富饒 (たいあんらくふじょう)
<大安楽にして富饒なり>
大安楽なる境地が富んで豊かと成る。
大欲によって大安楽の境地を得る事が出来るのです。
欲を否定的に捉えても、この世を作っているのは欲です。
科学の進歩も、悟ろうとするのも全て欲です。
小さな欲は迷い、大きな欲は悟りです。 三界得自在 (さんかいとくしさい)
<三界に自在を得て>
三界の中に自在なる力を得る。
三界とは、欲界、色界、無色界と言う生死流転の世界です。
この中で自由自在な力を持つと言う事です。
能作堅固利 (のうさけんこり)
<能く堅固の利を作す>
生きとし生ける一切の有情に対する、揺るぎ無い利他を行じて永遠に生きて行くのです。 般若の智恵をもってみると、
存在する全てのものはそのままが仏の世界であり、
何物も厭い嫌うべきものはない。
そこには一切のものが肯定される。
この般若の智恵をもって、
日々に菩薩行を実践することを説いている。
この智恵を獲得するということは又、日々を菩薩行に生きることにほかならない。
堂々回りのようであるが、
このことによって「こころ」に磨きがかかり次第に深く、
広くなっていくのである。
百字偈はこの経典の大意を簡潔に述べたものである。
「心経」が、現実世界に立脚して徹底的に思索を凝らし仏の世界を見つめているのに対し、
「理趣経」は仏の世界から見た現実世界を説いたものである。
色彩でいうと、理趣経は極彩色。心経は無色。 いつもありがとうございますm(_ _)m
理趣経、もっと深く勉強してみます^^) ばるたん氏も空想よりだな。
般若心経秘鍵を知らないようだな。
怨念弱犬チワワわわわわーん怨念の痕跡を残したか笑。 批判だけなら誰でも出来る。
自らアプローチしなさいよ。 >>529
>般若心経秘鍵を知らないようだな。
____
/_ノ ヽ、_\
ミ ミ ミ o゚((●)) ((●))゚o ミ ミ ミ
/⌒)⌒)⌒. ::::::⌒(__人__)⌒:::\ /⌒)⌒)⌒)
| / / / |r┬-| | (⌒)/ / / // だっておwwwwwwwwwwwwww
| :::::::::::(⌒) | | | / ゝ :::::::::::/
| ノ | | | \ / ) / こいつ、曼荼羅もしらねぇくせにwwww
ヽ / `ー'´ ヽ / /
| | l||l 从人 l||l l||l 从人 l||l
ヽ -一''''''"~~``'ー--、 -一'''''''ー-、
ヽ ____(⌒)(⌒)⌒) ) (⌒_(⌒)⌒)⌒)) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています