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≪唯識論の間違い≫

 お釈迦さまの時代、「識(ヴィンニャーナ)が永遠に輪廻転生している」という邪見に陥ったサーティという比丘がいました。
彼は唯識論の人々と同じく、阿頼耶識と同じような変わらない識があって、それがどんどん輪廻転生していくんだと主張したのです。
それでお釈迦さまや弟子たちにさんざん、笑われてしまった。
「だって識は無常でしょう? 因縁によって現れるものだとわからないのですか?」と。
お釈迦さまが比丘たちに言ったのは、「この人(サーティ)はブッダの教えに何か暖かい風を吹かせたでしょうか?」というひと言です。
仏教に何か貢献したでしょうか?と。  
 そういうわけで仏教の思想体系に、唯識論が何か新しい風、新しい革命を起こしたわけではないのです。
ただ仏教を笑いものにしてしまっただけです。  
 なぜなら「阿頼耶識という根本識があるのだ」という思考は、インド思想から言ったら、根本魂、アートマンと同じ話だからです。
明白な実体論に陥っているのです。
 唯識派の人々は「変わらない実体はない」という真理を説明することができなかったのです。
たしかに「一切に実体がなく無常であるのに、因果法則を語る」というのは仏教のすごいところで、たいへん難しいのです。
だから正直に「自分たちにはわからない」と言ったら教えてあげるのに、「声聞乗のあなた方は頭が悪くてわからないので、私たちがすごいことを発見するぞ」というのは、どういうことでしょうか?
 大乗仏教で哲学としてあるのは空論と唯識論です。空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません。
 唯識論は自己矛盾です。阿頼耶識は「認識できない知識」なのに、それをどうやって説明できるというのでしょうか?
「はじめからアクセス不可能な、知ることが不可能なものがあるのだ」という証明できない妄想概念を最初に作って、それから語っても話にならないのです。哲学になりません。
「最初に神が世界を作ったのです。信じなさい」というとわかりやすくなりますが、それでは証明できないものをただ頭で考えてはめ込むだけの話になるのです。
とにかく唯識論はすごい矛盾です。


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