外道の独り言 9
レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです
自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524
前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>897
そうか、自覚が無いのかwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
笑わせるなw
> 894 名前:基地にゃん& ◆ncsXerdOMQ [kawaii] 投稿日:2018/06/04(月) 19:44:46.67 ID:aqksVUIp [2/3]
> >>891
> 基地にゃんは二十歳の可愛い
> 女の子でつよ (笑) (*^∇^*)ノ”
> https://i.imgur.com/MdAPRvD.jpg
> 860 名前:基地にゃん& ◆ncsXerdOMQ [kawaii] 投稿日:2018/06/06(水) 10:25:42.25 ID:jhmLag6I
>釈迦の入滅後仏教は滅んで
>形骸化した仏教モドキが
>今日まで延々と続けられて
>来た訳にゃん 菩薩を騙り、或いは二十歳の女性を騙る様な気味の悪いオッサンの仏教擬き批判で切磋琢磨出来るほど、俺は修業が進んでないんでなw >>901
ハッキリ言うと未熟者にゃん♪(笑)
皆の衆、お休みにゃん♪
ネルヨ!( ̄□ヾ)ファ〜♪ >>862
私がいつもいうように、まず基本的な前提として、
最初から“輪廻と無我は矛盾などしていない”ということが分かってないと
根本的に話にはならないんだということ。
これを理解できてない者が勝手に誤解を生じているだけのことだということを
(尚、唯物論者には絶対に理解できないから)。
『物質的領域に生まれる諸々の生存者と非物質的領域に住む諸々の生存者とは、
消滅を知らないので、再びこの世の生存に戻ってくる。』(Sn.754)
ゴータマは、
「識」(大乗の阿頼耶識)こそが輪廻主体(基体)であると明確に説かれた。
ただし、これは魂(ジーヴァ)のレベルであってアートマン(真我)ではないということ。
アートマン(真我)は輪廻しないから(これは最初から元々、輪廻していない)。
無我であるからこそ、流転変滅を続けるのであって
輪廻というのは、諸行無常と縁起のそのままの延長上であって、
単に濃密物質レベルを超越した次元まで作用している範囲を含めたものです。
輪廻を脱してない者は物質界と非物質界を行き来しながら転生を繰り返します。
だから、絶対に唯物論者には理解できないのです。 まず、
仏教界は“唯物論者をすべて排除すべき”です(小池百合子氏じゃないが「排除」が必要だ)。
本人の理解を確認して、そういう人間は最初から僧侶の資格は採れなくするということです。
まったく向いてないし、無理な人だということですからね。
これは“すぐにでも断行できる仏教界の一大改革”ですよ。
尚、唯物主義者なのに袈裟を付ける人というのは日本大乗くらいのものなのかな?
他では、そういう事例を私は聞いたことが無い...。
『再生は行為(業)をするたびに起こり、その再生は、行為(業)の瞬間に自動的に起こる。世間で一般に考えられているように
死後にやってくる再生(生まれ変わり)を待つ必要はない。人が考え行動する時、心は、欲望と執着の力によって自動的に変化し、
縁起の法則に従ってすぐさま生まれることになる。再生するために肉体の死を待つ必要はない。この真理は、仏教の真の教えとして、
(すなわち)生まれ変わるべき我(attA:サンスクリットのAtmanにあたるパーリ語)は無いと説く本来の初期仏教の核心の原理と
して、認識されねばならない。死後の再生という考えがどのようにして仏教に忍び込んだのか、説明することはむずかしいし、我々
はそんなことに拘らう必要はない。』(無我説と輪廻転生説との矛盾について)
これって、このブッダダーサ比丘という人のオリジナル説?
こんな話はどんな仏典聖典や聖者や研究者からも聞いたことがない...。
まっ、業報法則の業の力が身口意の三業において行為した瞬間に生じるということを、
勝手に拡大解釈して誤解を起こしてる人ですね、これは。
分かった振りしてても話にならない。 皆の衆、お早うにゃん♪(≧▽≦)ノ”
仏教も今や飯の種に過ぎないにゃん♪
と言いたいが実の所は釈迦在命の
頃から食う為だけに比丘になって
いたにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>903
≪唯識論の間違い≫
お釈迦さまの時代、「識(ヴィンニャーナ)が永遠に輪廻転生している」という邪見に陥ったサーティという比丘がいました。
彼は唯識論の人々と同じく、阿頼耶識と同じような変わらない識があって、それがどんどん輪廻転生していくんだと主張したのです。
それでお釈迦さまや弟子たちにさんざん、笑われてしまった。
「だって識は無常でしょう? 因縁によって現れるものだとわからないのですか?」と。
お釈迦さまが比丘たちに言ったのは、「この人(サーティ)はブッダの教えに何か暖かい風を吹かせたでしょうか?」というひと言です。
仏教に何か貢献したでしょうか?と。
そういうわけで仏教の思想体系に、唯識論が何か新しい風、新しい革命を起こしたわけではないのです。
ただ仏教を笑いものにしてしまっただけです。
なぜなら「阿頼耶識という根本識があるのだ」という思考は、インド思想から言ったら、根本魂、アートマンと同じ話だからです。
明白な実体論に陥っているのです。
唯識派の人々は「変わらない実体はない」という真理を説明することができなかったのです。
たしかに「一切に実体がなく無常であるのに、因果法則を語る」というのは仏教のすごいところで、たいへん難しいのです。
だから正直に「自分たちにはわからない」と言ったら教えてあげるのに、「声聞乗のあなた方は頭が悪くてわからないので、私たちがすごいことを発見するぞ」というのは、どういうことでしょうか?
大乗仏教で哲学としてあるのは空論と唯識論です。空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません。
唯識論は自己矛盾です。阿頼耶識は「認識できない知識」なのに、それをどうやって説明できるというのでしょうか?
「はじめからアクセス不可能な、知ることが不可能なものがあるのだ」という証明できない妄想概念を最初に作って、それから語っても話にならないのです。哲学になりません。
「最初に神が世界を作ったのです。信じなさい」というとわかりやすくなりますが、それでは証明できないものをただ頭で考えてはめ込むだけの話になるのです。
とにかく唯識論はすごい矛盾です。
アルボムッレ・スマナサーラ. 般若心経は間違い? 識というのは確かに名色の因ではありますが、識は行に縁って起こります。
行は無常に縁って起こります。
識だけが独立した存在であるわけではありません。
ゆえに識が輪廻転生の主体(基体)であるというのは正しくはありません。 >>906
>仏教も今や飯の種に過ぎないにゃん♪
>と言いたいが実の所は釈迦在命の
>頃から食う為だけに比丘になって
>いたにゃん♪
あのですねえ、このスレに書き込みをするなら、最低限の仏教基礎知識は
身に着けてからにしてください。
・・・・・そのような書き込みでは、釈迦在世当時の出家者の殆どが生活の糧を
得るために出家したように誤解されます。
実際、出家者の多くを占めていたのは、都市部の富裕層だったことは常識ですよ。
>仏教…飯の種に過ぎないにゃん♪
↓これで勘違いしてる人も居るのかも?
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1463002659
密教とは、もともと富裕層だけに広げるための仏教だったのでしょうか?
_ _ _
これを読むと
その当時のインドでも
富裕層から、お布施を頂く
『そのための宗教(仏教)だ!』という感じになるのかも?
_ _ _
波羅蜜(はらみつ)
迷いの世界から悟りの世界へ至る
そのための六波羅蜜
布施波羅蜜
財施(喜捨を行なう)・無畏施・法施(仏法について教える)などの布施である
その他諸々…
そして、それから
準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し
天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん
という対機説法かも? 人間の本能や本質も知らずに古臭
い古人の言葉を振り翳し威張られ
ても苦笑が起きるだけにゃん♪
もし釈迦がその姿を見たら外道と
呟くだけにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>911
貴方の独善的な解釈など、どうでもいいです。
このスレでは、自己の見解は論拠を明示して語ることを基本としておりまして、
それが出来ない人は、まずそこをクリアできるようになってから書き込みしてください。 承狂ちゅわん鋭いっす。
既存のキリスト教の多くは人間の依存症という偶像崇拝的視点が薄いのは確か。
一部頑張っているんだけどね。
725承狂 ◆AHZLgKnOHuTj 2018/05/28(月) 02:34:51.37ID:QaG9tcUI>>726>>741
経典では「光明」等と表現されますが、そうした宗教体験という段階以前でも、
目の前が開くとか鱗が落ちるとか、灰色だった世界が色づくとか、
そうした視覚的ではない視野の変化とでもいうべきものは確かにありますね。
心理学的にはどうか知りませんけど 893junkie- ooyama.2018/06/06(水) 13:37:19.76ID:m/hGEE1u
坐禅もなかなか続かない方が多いんだよねぇ。
何年か坐禅を続けていて参禅を勧められても、参禅して数回でやめちゃうとか良くあるし。
「電車止めてこい!」だの「宇宙の広さを言え!」だのやられりゃ、そりゃ「それが仏教とどう関係あるの?」ってなるわなw
実はそこが大事なんだけどw 865嘘つきワンワン・ジャンキー伝説2018/05/11(金) 18:26:18.63ID:ptUe2Gpt
なんかクリスチャンスレでクリスチャンにレスした魔法陣にはまって、ワンワン吠えている犬ジャンキー笑、
麦は相変わらず、嘘つきワンワンをい信奉している笑、きもいな笑、
さて、高野山金堂を大塔と思い込んだ、ジャンキーの恥ずかしいレスだ、
まさに知ったか、ハッタリを象徴する事件なのだが笑。
756神も仏も名無しさん2018/05/10(木) 14:45:12.74ID:MXlp3M94
高野山根本大塔と金堂の区別もつかないレスして、わんわん犬山は、根本大塔の事をレス笑
嘘つきワンワン犬山かな笑。
↓
>それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものな (根本大塔のことを金堂とお思い込み笑)
↓
660junkie- ooyama.2018/05/09(水) 19:49:07.97ID:z9m0773G
でおーくん、
> 高野山金堂で魔法陣ぶちまわしたので、
> 俺脳、今、仏教化濃厚やわ・・・・。
それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものな 102嘘つきわんわん、また知ったかレスです、懲りんなあ笑。2018/05/12(土) 17:52:41.83ID:AGCU2KA5
真言密教教学によれば、このジャンキーのゴマカシ言い訳も間違いなんだな、
ジワジワハッタリ知識を放出させて放置する方針だからな。
何が間違いか?真言密教教学の曼陀羅の定義を見れば、明白、
下記の表現、ジャンキーのデタラメ知識は放置してコケし倒すに限る笑
>立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
867Junkie- Ooyama2018/05/11(金) 18:33:56.60ID:Q2iyllff>>868
>>865
昔、高野山真言宗には仕事で高野山に行きましたからw
金堂、御影堂、根本大堂、そして奥の院等、一通り回りましたんでw
立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
魔法陣じゃないからwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
103ジャンキーのハッタリレスをまとめると2018/05/12(土) 17:57:41.23ID:AGCU2KA5
1、>それ、仏像を曼荼羅模様に配置したものな
高野山の金堂の曼陀羅と根本大塔の仏像の曼陀羅提示と混同。
2、>立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
真言密教教学における、曼陀羅の定義がある。
で、実は、根本大塔の・・・・と。
詳しくはやめておこう、ジャンキーのウソハッタリ知識の放出を繰り返させて(・∀・)ニヤニヤ笑ってやろう。
無限嘘つきわんわんの姿を曝してやろう笑。 121さらにダメ押しとするか笑、はい、論破2018/05/12(土) 18:56:57.37ID:AGCU2KA5
>立像にしろ画像にしろ、仏像を特定のパターンで配したそれは曼荼羅っていうんですよw
という、ジャンキーのハッタリの言い訳は
下記によってデタラメと判明される笑。
http://www.toji.or.jp/mandala.shtml
羯磨曼荼羅
東寺の仏像が、羯磨曼荼羅
で、真言密教教学でいうなれば、四種曼陀羅の内の一つが羯磨曼荼羅で、
ジャンキーの表現では、真言密教の曼陀羅は、
>仏像を特定のパターンで配した(羯磨曼荼羅)
だけが曼陀羅と主張していることになる。
はい、論破、
嘘つきワンワン君笑 シドッティとの問答により得た新井白石のキリスト教観
http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/touch/20121024/1351005018
白石とシドッティとのキリスト教問答ですが、結局キリスト教というものは何も実証されてない神話をベースにした宗教であり、
あまたの矛盾点は信じることでしか解決できないので論破されやすいという宗教なので、白石も率直に矛盾点について突っ込み論破したという話ですね。 >>892
(^。^)俺は元高野ではありません。(笑)
どこ派だったかは内緒です。(笑)
>>921
門跡歴代
宇多天皇(光孝天皇第7皇子):空理・金剛覚
その他諸々…
小田慈舟(オダジシュウ)
その他諸々…
そして、ついに 『 承狂門跡 』 でつね?
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m グナラタナ長老 (Ven. F.Gunaratna);翻訳・文責/出村佳子
仏教から見る死(中)〜Buddhist Reflections on Death〜 V.F Gunaratna
より抜粋
「身体」とは、変化しつづける諸要素の集合に貼られたラベルであり、同様に「心」も、その生滅変化の連続性につけられたラベルのことなんですね。
ですから、心と身体の集合体である「人間」というのも、実体として存在はしないのです。
これもまた、単なる名前だけの存在なのです。
また「車が動く」とか「人が歩く」という場合も、ただ適当な言葉を用いているにすぎず、究極的には「動く」とか「歩く」という行為だけがあるのです。
『業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。単に諸法のみが生起する。これが真理であり、正見である』
(清浄道論Visuddhi Magga)
『業の主体者は存在しない。ただ行為だけがある。固定した人格は、存在しない。連続的な変化(因果関係)だけがある』
この心と身体の分析は、「死」の問題とどのような関連があるのでしょうか?
結局『死ぬ主体者は存在しない。ただ、死という変化だけがある』という結論に至るんですね。
動くことも歩くことも変化であり、同様に死ぬこともまた変化なのです。
背後に隠れて、動くことや歩くこと、死ぬことをコントロールしている不変な実体は存在しないんですね。
この超越した見方を少しずつ磨いていくことによってものごとに対する執着や、「行為の主体者として、私が存在する」という無知が、除々に軽減していくのです。
http://www.j-theravada.net/dhamma/reflection-2.html >>912
余りイライラすると禿げるにゃん♪(笑)
ひゃひゃひゃひゃひゃ!(≧▽≦)ノ
https://i.imgur.com/0g1RU2H.jpg >>907
サーティ比丘の言う識は常・一・主・宰の識であり、唯識でいうところの識とは全く異なります。
唯識でいうところの識は、
> 是諸識轉變 分別所分別 是の諸の識転変して 分別たり所分別たり
> 由此彼皆無 故一切唯識 此に由りて彼は皆無し 故に一切唯識のみなり
(唯識三十頌)
というように、”縁起・空”に拠っており、言わずもがな三性(遍計所執性、依他起性、円成実性)を説いてます。
また、
> 前異熟既盡 復生餘異熟 前の異熟既に尽きぬれば 復余の異熟を生ず
というように、阿頼耶識の蔵する種子は”刹那生滅”するものとされております。
したがいまして、
>唯識派の人々は「変わらない実体はない」という真理を説明することができなかったのです。
> なぜなら「阿頼耶識という根本識があるのだ」という思考は、インド思想から言ったら、
> 根本魂、アートマンと同じ話だからです。明白な実体論に陥っているのです。
というのは誤解ですね。
(続く) >>907(続き)
また、
> 阿頼耶識は「認識できない知識」なのに、それをどうやって説明できるというのでしょうか?
はてさて、素朴な疑問ですが、それについては「空」も同じではありませんかね?
> 空論はべつに仏教にとってはごく当たり前の話でどうってことありません。 基地子さん、荒らしは止めてくれませんか?
というかあなたは以後NGネームにしますんでレス等は致しません。
こちらに何か言いたいことがあれば、その都度アンカーを付けてください。 あと、「基地菩薩」とか「基地にゃん」とかいうコテは、
「舎利弗は地獄に落ちてる」
とか書いた人だよ。
(^。^)どこのカルト信者かまでは判らないんで、詳しい方は教えて下さい。(笑) >>928
好きにするにゃん♪仏教学者さん
ひゃひゃひゃひゃひゃ!(≧▽≦)ノ >>929
内なる信仰は有れども組織だった
ペテン師達には興味が無いにゃん♪
サイの角の様に唯独り歩めにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>908
> 識というのは確かに名色の因ではありますが、識は行に縁って起こります。
> 行は無常に縁って起こります。
> 識だけが独立した存在であるわけではありません。
> ゆえに識が輪廻転生の主体(基体)であるというのは正しくはありません。
唯識では
> 種子生現行、現行薫種子、三法展開、因果同時
と言いますが、刹那生滅する「種子」が互いに、同時に「因」となり「果」となり連鎖展開するって事だそうです。
次に
> 次第二能變 是識名末那 次のは第二能変なり 是の識を末那と名づく
> 次第三能變 差別有六種 次の第三能変は 差別なること六種有り
と言いますように、阿頼耶識は根本識ではありますが、その阿頼耶識が転識(能変)し他の七識に変化するそうです(全ては心の展開したもの)。
また、阿頼耶識自体は刹那生滅する種子の集まり云々は先に説明した通りです。
それ故、「阿頼耶識は独立した存在」って事でもありません。
> 業の行為者は存在しない。ただ、行為だけがある。
> 結果を受ける者も存在しない。ただ、結果だけがある。
> (清浄道論Visuddhi Magga)
先に輪廻の説明でこの一文を引用させていただきましたが、まさにその通りで、刹那生滅する種子を蔵し能変する阿頼耶識が識として(三法)展開してるとの解釈です。 じゃんきー、わんわん状態が抜けている笑。
またライヤーしているな。 >>931
お釈迦様の仏教が残ってないのに、だれから、釈迦の教説を聞いたのかな??
スッタニパータが古いと言っても、本人が、そう言ったという証拠などないから、書いた人の解釈が混じってないとも言い切れん
しかも、翻訳とかになれば、尚更、翻訳者の理解が反映されそう
しかし、まあ、全体的な雰囲気は伝わっているのかなあ
ところで仏教って、なにをしてるものなの? >>932
まあ、それが正解だったとして、その理解は、なんのためにあるの? 菩薩さんが、
あんたら、まちがってるぞお
正しいのはオレといい
違う人が、いやいや
お前が間違ってるわー
正解これね
とか、やって、それで、まあ、永遠にどっちも納得するわけ無いのに、、、
wwwww
なにしてるの? 仏教理解が深い人たちが、こんなんだったら、普通の人で、南無阿弥陀仏を祈ってる人の方が、心洗われてそうじゃないかwww
?? >>938
識ってなに?
その言葉、頭の中で想像して、こちゃこちゃ、してるだけちゃうんかなあ
阿頼耶識とか識とか、行とか、正確なこと分かったのはなんでなの?
本に書いてあったからとかやめてねww >>939
念ずるのでもいいですよ
でも、その、正解がこれだああ
っていうのは、なんのためにしてるのかなと思ってさ
ずっとやってみえますやんかw
正しいのは、これー 仏教っていうのは、なんのために、存在してるんですか?? とにかく、姿勢として、わたしの好みではないですねw
あってるあってないは知りませんが、仏教の精髄を理解した人が、このようになるとは、まったく信じたくないww >>942
その文章は、
「仏教」自らが、理由を持って、存在し続けようとしている
という意味?
それとも、
「仏教」とは別の何者かが、その意志として、存在せしめようとしている
という意味?
それとも、
「仏教」とは別の、何らかの理由・不可抗力によって、存在が継続している
という意味?
たとえば、なぜ、プランクトンは存在しているの?という問いと同じかも?w >>947
仏教が、今も、様々な、宗派に分かれて存続してるけど、なくならないのは、なぜか >>948
なにを書いても、同じような反応がくるのは、分かってますよ
言葉のやりとりではなく、気持ちが、理解し合う前提なしでやってるからねw
そうやって批判ばかりして、正解を、導いたとして、相手の人に、どのような安心を与えると思ってるのか不思議 >>950
それが正解なんですねww
ぼくは、安心したいから、仏教に興味があるだけなので、間違ってるのでしょう
まあ、それでは、人々を、どこへ導くのかは何もない仏教を、邁進されてください >>951
そうじゃないですよ、”無”事是安心なんです。
問答以前を知ってもらいたいからあなたの”問”を奪ってるんですが・・・ >>954
意味を知りたいのなら辞書を引けばよいわけで。
私はこうして向き合ってますよ? >>949
それぞれの様態として、必要とされたから(需要があったから)でしょ?
何を今更www >>926
大乗仏教には「阿頼耶識」という思想もあります。
阿頼耶識は認識不可能な潜在的な意識で、顕在的な世界とのつなぎ役を果たしているそうです。
すべての認識できる現象は無常ですが、認識不可能な阿頼耶識はあるというのです。
それがこの世のカラクリで、現象世界を成り立たせているのだと。
しかし当然、「認識不可能なものをどうやって発見、認識したのだろうか?」という疑問が湧きますね。
当たり前ですが、そんなことは実証できません。完全なる妄想、たんなる観念です。
ずいぶん口が悪いですが、それぞれの原典に当たるとこのように書いてあるのですから仕方がないのです。
アルボムッレ・スマナサーラ. 無常の見方―「聖なる真理」と「私」の幸福― (サンガ新書)
>>927
空はアクセス不可能な阿頼耶識とは違います。
目の前の現象、因縁生起(縁起)を「空」と名付けただけです。
そろそろ dat落ちするといけないので
外道の独り言 10
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1528362218/
次スレ立てときました
_ _ _
ちなみに、この板は
ワッチョイ(強制コテハン)できるんでつかね?
ワッチョイ(強制コテハン)できるのなら
外道の独り言 10 の次くらい
(外道の独り言 11以降)のときには
IDを表示し、IPアドレスと強制コテハンを表示
!extend:checked:vvvvvv:1000:512
これでも荒れる場合もあるかもしれないけど…
(外道の独り言 10 は 『 ワッチョイ 』 してないでつ) >>957
> 目の前の現象、因縁生起(縁起)を「空」と名付けただけです。
成程、その目の前の現象が認識されるためには、それを認識するのもが”ある”はずです。
唯識では、認識が起きるとき、自体分が相分(認識されるもの)と見分(認識するもの)に分析されるといいますが。
その自体分のおおもと(といっても常・一・主・宰ではありません)を阿頼耶識と名付けただけです。
(この板でワッチョイ(強制コテハン)できるのか?わからないけど)
ワッチョイ(強制コテハン)できるのなら
荒らし対策の一環として
IDを表示し、IPアドレスと強制コテハンを表示
外道の独り言 11以降くらいから、やってみますか?
パーピマン殿
セブン僧侶
宝珠殿
承狂師匠
Junkie-Ooyama..師匠
基地子菩薩師匠
その他の名無しの師匠の方々
誰か一人でも
IDを表示し、IPアドレスと強制コテハンを表示
反対ならワッチョイ(強制コテハン)やめときます
ということで、とりあえず m(_ _)m >>957
>しかし当然、「認識不可能なものをどうやって発見、認識したのだろうか?」という疑問が湧きますね。
その認識不可能というのは何が根拠でしょうか?
唯識三十頌には
> 不可知執受 處了常與觸 不可知の執受と 処と了となり常に触と
> 作意受想思 相應唯捨受 作意と受と想と思と 相応す唯し捨受のみなり
とありますが、これは「無意識の世界故に全体をつまびらかにすることはできない」との解釈です。
無意識は実証されていますし、妄想でも観念でもありませんが・・・ ご存知かもしれませんが、唯識では心を「表層と深層」「転識と本識」に分けてるそうですが、「表層と深層」については、心理学でいう「意識と無意識」とほぼ同じものです。 >>960
俺は何も意見はないよ。
単なる野次馬だし。(笑)
敢えて言うなら「承狂殿」じゃなくて呼び捨てか、さん付けで頼むわ。(笑)
(^。^)単なる一般人で他人様に仏教説くつもりは無いし。(笑)
>本識
勝義無性 − 円成実性
あるいは
仮設としての阿頼耶識のこと?
>転識
種子が
阿頼耶識→末那識→第六意識→前五識→外界
外界→前五識→第六意識→末那識→阿頼耶識
頼耶縁起のこと?
間違ってたら スマソ m(_ _)m
殿ではなくて師匠でつよ
悪の師匠
蘆屋道満(芦屋道満)から
↓
承狂元密教僧
↓
おじゃる
安倍晴明をやっつけるために
悪の呪法を
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつすように
瀉瓶の如く受け継いで逝くのでつ
_ _ _
>俺は何も意見はないよ
了解でつ m(_ _)m >>959
>唯識では、認識が起きるとき、自体分が相分(認識されるもの)と見分(認識するもの)に分析されるといいますが。
>その自体分のおおもと(といっても常・一・主・宰ではありません)を阿頼耶識と名付けただけです。
名付けただけと簡単に言えるほど顕在化された識ではないはずです。
あなたが>>961でレスしている通り。
「比丘達よ、縁が無ければ、心は生じない。
一方で、縁が生じるとき、六つの識が生じる。
それでは、この六つの識とは、如何なるものか。
第一の識は、眼根と色境で生じる、眼識である。
第二の識は、耳根と声境で生じる、耳識である。
第三の識は、鼻根と香境で生じる、鼻識である。
第四の識は、舌根と味境で生じる、舌識である。
第五の識は、身根と触境で生じる、身識である。
第六の識は、意根と法境で生じる、意識である。」
(中部 愛尽大経)
さて、改めて阿頼耶識とは何でしょうか?
この六つの識を取りまとめるおおもとですか?
仮におおもとであるとしてそれをどうやって実証するのでしょうか?
>>961
その唯識三十頌三偈頌の説明がしてある下記のサイトに当たりました。
http://junsoyo.on.coocan.jp/yuisiki/sanjuu3.htm
「阿頼耶識は因縁力の故に自体生ずる時,内に種子と有根身とを変為し,外に器を変為する。即ち,所変を以て自らの所縁と為し,行相は之に杖て起こることを得るなり。」(『成唯識論』)
とありますが、阿頼耶識はそもそもが不可知執受処了なのですから、この成唯識論の論も仮説であって実証はすることは不可能です。
実証されるのなら阿頼耶識は不可知執受処了ではありません。
そのような矛盾を孕んでいるのです。 >>934
何をしている者?それは各人各々
が自分で探し求めるものにゃん♪
仏教の醍醐味は正にその一点に
有るにゃん♪
南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>965
そーゆーイメージなのか。(笑)
前も書いたが、物語みたいな術はないよ。
某かの術を行うと、それなりの結果になるというだけの話でね。
ああいうのは、仏教ではなくて(イカ略)
(^。^)まぁ、お前さんは実際に知りたい訳じゃなくてそういう雰囲気が好きなだけだろうからな。(笑)
俺も今更余計な業は要らんし。(笑)
どこの誰が?(瞬間的)刹那滅を観照するのか?
ttp://zenken.aichi-gakuin.ac.jp/research/48/14.pdf
瞑想者の認識をめぐる考察
ダルマキールティ
…〈思所成の智慧〉を修習している者たちは
(仏性からの真如縁起の智慧をもって)
錯誤知を識別し、汚れなく、退転することもない
真実(勝義)の認識手段を目の当たりにする
…真実の認識手段とは、最終的には仏陀の認識(仏智)に他ならないが
ヨーガ行者と呼ばれる瞑想を実践する者の特殊かつ非日常的な認識もまた
…宗教的に高度な段階へ飛躍する
…(『仏そのもの』の)知覚とは、分別を離れ、錯誤なきものである
…真実を識別する智慧(洞察知)
…(『仏そのもの』の智慧をもって)
〈思所成の智慧〉を修習することによって真実(勝義)の認識手段が体得される
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%92%E3%81%A0%E3%81%A4%E3%81%A1%E3%81%91%E3%82%93
解脱智見
(仏そのもの − 仏性からの真如縁起の智慧をもって)
戒から定(三昧)を生じ、定によって智慧を得、智慧によって解脱に到達し、解脱によって解脱智見を知る いろんな言葉を聞いて、各人が、イメージしているものがあるでしょう
阿頼耶識とは、このよう
空とは、このようなものである
しかし、それらは、本来の釈迦の説いたものであるかどうかなど、確証不可能ではないかな
解釈が、様々あって、その解釈が、正しい誤りだったなどの論争で正解を探す基準は、己の思いとか好みなのだったら
永遠に終わらんでしょうw
>どうやって実証するのでしょうか?
実有ではなくて
「仮設としての」なので
実証することはできないと思うけど
それでも、とりあえず
>>969の続き
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
仮設としての
心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も
外界にあると認識されるものも生み出していると考え
最終的には阿羅耶識もまた空であるとする
仏そのもの
法界体性智
大円鏡智の世界から → 阿頼耶識を観照する
無住処涅槃に導くための対機説法
間違ってたら スマソ m(_ _)m >>971
全体的な意識から、無意識の基盤みたいなのを想定するなら、それは、空は実在する説と同じじゃないの??
それこそアートマンではないかww
そうではなくて、この、現象すべてが、五蘊でしかなく、それらは無常である
無常であるものに執着すれば、苦しむ
それだからこそ、欲することを、戒めた
ってことでしょ? 普通に生活する上での苦しみは、肉体的な痛みや、不調と、精神的な思いしかありえない
だから、この心と体を、我がものでないと、離れたなら、苦しみは、わたしのものではなくなるから、安心だ
っていうのが涅槃であって、その、涅槃なるものが実際に、なにかあるわけじゃなくて、その、わたしから離れたことを、いってるだけじゃないの
その、ときの、消失のことを、涅槃と言った レス数が950を超えています。1000を超えると書き込みができなくなります。