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外道の独り言 9
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0001神も仏も名無しさん
垢版 |
2018/05/12(土) 05:57:04.76ID:wjY7fqmc
 
「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません
このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して
パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします
「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です
極めて恣意性の強いスレであることを了解願います
上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく
(むしろその逆で過疎って欲しいくらいです)
「真摯なる碩学」が
パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です
自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください
昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです

自由に書き込みしたい方は↓こちらへ
ひだ =^・ ・^= まり
ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2
ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524

前スレ
ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/
ログ保管庫
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0080宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/14(月) 13:05:39.82ID:87epkHEE
『草柳:  色(受想行識)は無常である。無常なるものは苦である。
苦なるものは無我である。無我であるものは「私のもの」ではない。
「私」でもない。「私の本質」でもない。
正しい智慧をもって、この道理を如実に観察しなくてはならない。
(「サンユッタ・ニカーヤ」)

奈良:  ここにも先ほどと同じ「色受想行識」と「五蘊(ごうん)」というものが、一つの無常の例として挙げられておりまして、括弧の中に、
「受想行識」とありますのは、経典は、まず「色」は無常である。無常なるものは苦である、と説きだして、それから次に「受」は無常であ
る云々と。その一つひとつについて述べるわけですね。

草柳:  ここは、例えば無常なものは苦である。苦なるものは無我である。何故苦なるものが無我なのか。無常なるものというのは何故苦な
のか。その辺のところはどういうふうに。
0081宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/14(月) 13:13:26.93ID:87epkHEE
奈良:  実は「無常なるものは苦で、苦なるものは無我である」と。実はこれ「原始仏典」で有名な言葉の一つの言葉なんです。その「無常
なるものが苦である」という意味は、比較的分かりいいと思いますね。今もちょっとお話が出ましたけれども、私どもはいつも良いもの、好ま
しいものは、常なるものとしたいんですから、それがすべては無常ですからガラガラ変わっていってしまう。自分のものとして握りしめていた
ものが抜けていってしまいますので、それは苦である、と。これはその通りでわかるんですね。苦なるものは無我である、とこういうんですけ
れども、実はこの「無常、苦、無我」というのは、本来はそれぞれ別個に、仏教でいろいろに説かれてきた考え方なんですけど、これはそれを
一応三つ並べちゃった面がございまして、それほど綺麗に論理的に並んでいるものじゃないんですね。「苦なるものが無我である」という時に、
むしろこれを解釈とすれば、もう一回「無常なるものは苦である」。もう一つ無常というのをそこで繰り返しまして、「無常なるものは無我であ
る」というふうにみた方が、私は分かりいいと思うんですね。
0082宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/14(月) 13:30:25.45ID:87epkHEE
つまり私どもは命でも何でも永遠に持ちこたえたい、と思います。それが無常ですからできない。ということは、この前の第一回の時にいろい
ろ話が出たんですけれども、命だろうと、何だろうと、これは私ですよ、とか、私のものですよ、と、持ち続けることはできない。だから「非
我である。無我である」と、こういう意味でありますからね。事実、実は仏典の中には、今の三つの言葉の「無常なるものは苦なり、苦なるも
のは無我である」。その「苦なるものは無我である」ということの中間に、「苦なるものは移り変わるものである」という言葉が入っている例が
非常に多いんです。ということは、なんのことはない、「無常なるものは苦である。苦なるものは無常である」と言い直しまして、「無常なるも
の、無常だからこそ、無我なんだ」というふうに、説明を付け加えている例がたくさんございますのでね。ここのところは、いろいろ解釈して
は難しい面があるんですけれども、「無常と苦と無我」というものが、こう論理的に、こういうふうに起こってくるというよりは、「無常」とか、
「苦」とか、「無我」という言葉の意味を、一つの関連するものとして受け止めておいた方がわかりいいと、私は思いますですね。』
 (『原始仏典をよむA』NHK教育テレビ「こころの時代」平成三年五月十六日放送
  駒沢大学教授 奈良 康明 ききて 草柳 隆三)
0083宝珠真範@迦楼羅 ◆9XuF3XEACk
垢版 |
2018/05/14(月) 13:33:19.77ID:87epkHEE
上記(サイトリンクは旨くでなかったので省略)の押さておくべき重要ポイントと、
そこから導き出される当然の理解は、必然的にこうなるということ。

「無常なるものが苦」であり、「苦なるものが無我」。
であるから、「無我であるものは私のものではない」。
(苦は、私でないものを私であると誤認する結果であり、
私のものでないものを私のものであると同一認する結果として生ずる)。
ということは、つまり、恒常なるものが苦からの離別であり、
無我からの出離こそが涅槃であるということが理解されるのです。
「空」というのは、無我空といって無我と同義ですから、涅槃が空である筈もないのです。
従って、無我(の境地)を求めるだの涅槃が無我だのというのは在り得ないこと。
だから、そういったものはすべて仏教(原始仏教の理解)の根本的な基本のすべてが間違ってる人たちの話です。

苦は私でないものとの同一認の結果ですから、
苦から永遠に解放される世界であるところの涅槃とは、
当然、真実の自己(私の本質)との同一認のこと以外にはないのです。

それがつまり、真我(アートマン)でしょう。
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