《「無我」は「絶無」「虚無」ではない》


心のシステムを理解すれば、出世間次元の智慧が生まれてくるのです。
ヴィパッサナー瞑想は、その、心のシステムを理解する方法なのです。
この方法でなければ、無常は体験できないのです。

呪文を唱えても、何か同じ言葉を頭の中で繰り返すだけ。
チャクラを開発しようとがんばっても、チャクラという概念があって、それを開発しようということですから、感覚·フィーリング·受で、「今、お臍まで上がってきたんだ。今、胸まで上がってきたんだ」などと言うだけのことです。
その人が何かを感じていることは確かですが、それも仏教から見れば「受」ということで、それ以外の何
もないのです。
眼耳鼻舌身意の意の感じか身の感じかどちらかですが、どちらにしても無常です。
そういう受の体験も、すぐ消えてしまいます。

ヴィパッサナー瞑想も「体験する」のですが、それは「無常を体験する」のであって、自我を体験するのではありません。
無常を体験したら、「自我がない」と、そこで初めて分かるのです。
「自我がない」と言えば否定的な言葉ですが、まったく何もないという虚無的な意味ではなくて、「すべてのものごとは一瞬も留まることなく、絶え間なく流れていくのだ」ということです。

だから、「無我」と言っても、正確には「ある」とも「ない」ともどちらでもないのです。
「ものごとは因果法則によって流れていくのだ。瞬間の存在ですよ」ということです。一瞬の存在が消えたら、新しい存在がすぐに現れるのです。

だから本当のところは、仏教の心理学は、皆があると信じている自我論について、極端に反対して「自我がない」というのではありません。
自我意識はどのように現れるものかと、そのプロセスを教える世界なのです。