外道の独り言 9
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「ここは誰もが好き勝手に書き込んで良い」というスレではありません このスレの趣旨は、仏教に関する様々な論点に関して パーピマン殿が私見、疑問点等を提示いたします 「外道がぶつぶつと独り言を書き散らしているスレ」です 極めて恣意性の強いスレであることを了解願います 上げておりますのは、別段大勢の人たちに来てほしいからではなく (むしろその逆で過疎って欲しいくらいです) 「真摯なる碩学」が パーピマン殿の書き込みを目に留め、その瑕疵を指摘してくれることを望むが故です 自由に好きな相手と対論したいと思う人は、このスレを覗かずに他スレに移動してください 昨今、スレ立てが大変困難であり、好き勝手にスレを消費されことは大変迷惑なのです 自由に書き込みしたい方は↓こちらへ ひだ =^・ ・^= まり ttp://super2ch.net/test/read.cgi/mattari/1505400181/?s2 ttps://rosie.5ch.net/test/read.cgi/siberia/1500265524 前スレ ttps://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/psy/1512891346/ ログ保管庫 ttp://houjugusya.web.fc2.com/link.html >>641 反論できずに発狂した弱犬の哀れな虚勢か笑。 弱犬の発狂の根が、しらじらしくマトモ風にレスする。 ライヤー机越えだよ笑。 一切 南伝 相応部経典35-23 一切 漢訳 雑阿含経 13-17 ✽生聞一切 かようにわたしは聞いた。 ある時、世尊は、サーヴァッティー(舎衛城)のジェータ(祗陀)林なるアナータビンディカ(給孤独)の園にましました。 その時、世尊は「比丘たちよ」と呼ばせたまい、 彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、つぎのようの説いて仰せられた。 「比丘たちよ、なにをか一切となすのであろうか。 それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである。 比丘たちよ、これを名づけて一切というのである。 比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、 それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。 何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」 http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama70521.html 六根六境の十二処が一切でこの一切が実在すると言ったのが説一切有部で、空であると言ったのが初期大乗仏教(般若経、龍樹) なお説一切有部では実在する一切の中に無為法も含んででて、択滅というのが涅槃のことである http://livedoor.blogimg.jp/tojiruwa/imgs/e/0/e071c596.JPG >>645 五蘊の働きというのか、法則というのか、なんというのか知らんが、そういう、存在、現象を成立させるもの、法は、実在するものである! いやいや、そんなもんない 縁起してる、いまここが 永遠の今 みたいな話になってるんちゃうの >>646 つまり、この悟りという、なにか、如来というなにかが、ある! という人に対して、それは、存在しないのだから、存在しないものには、 あるとも ないとも あってないとも ないのがないとも あらゆる論議ができないじゃないかー? >空であると言ったのが初期大乗仏教(般若経、龍樹) なんぞ、中論読んで気づいたことがあったが・・・・。 反論できるものかどうか知らんが・・・。 内容を忘れた・・・。 >一切が実在すると言ったのが説一切有部 は覚えている。 大乗仏教の中観は一切皆空と説き涅槃もまた例外なく空である 「輪廻はニルヴァーナに対していかなる区別もなく、ニルヴァーナは輪廻に対していかなる区別もない」 >それゆえに、「今ここで」という釈迦の発想にかえるなら、実は「涅槃」はこの世において、「ここにおいて」しかあらわれようがないのである。 >つまり、十二縁起のどの状態であれ、悟りの境地であれ、すべては空のうちから縁起によって瞬間的にあらわれるのみであり、 >たとえ悟ったとしても修行を怠ればすぐに無明ともなるし、あるいは悟りっぱなしでは死あるのみなのである。 >そこで「何を為すか」ということになるが、それが「中道」なのである。 https://nekonaga.hatenablog.com/entry/20150808/1439037000 相応部(サンユッタニカーヤ)有偈篇 第四悪魔相応 第三章 3ゴーティカ経 では6回心解脱してもその都度病気を犯して元に戻り最後の7回目の心解脱の際に阿羅漢のまま死にたいと自殺したゴーティカの話を伝える http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201205/article_3.html なお、ゴーティカが何度解脱しても退いたのはゴーティカの過去世からの宿業(カルマ)が原因であるとしててた仏教学者がいたと思った >大乗仏教の中観は一切皆空と説き涅槃もまた例外なく空である 思い出した、「空」ではなく、 正解は、あるのでもない、ないのでもない。 やった、本当の大乗仏教の中観は。 この説が正しいなら、般若心経の「色即是空空即是色」は不要。 「一切空」とあるはずだ。 >>649 空のうち?から縁起によってあらわれる?? それこそ、空を実体と見ている それこそ、批判されていた、法のあるなしの話ちゃうの? >>646 本題は説一切有部や大乗仏教(中観の他に唯識も含む)、経量部などの他の部派(テーラワーダもそうか?)などのように一切に涅槃を入れると ゴータマは一切皆苦と説いたのに一切に涅槃を入れると滅諦の涅槃まで一切皆苦になってしまうのは矛盾しているのではないかという話 一切に涅槃を入れると , その辺を、大乗仏教にひとくくりにしてしまうと、無理があると思う。 >>652 空というのは仮名であり本来は言語化、概念化することはできない 空亦復空(空も亦た復た空) 大乗仏教教義学をポイントだけ、全般に学ばないと意味がないような・・・。 >>657 『およそ、縁起しているもの、それを、われわれは空であること(空性)と説く。それは、相待の仮説(縁って想定されたもの)であり、それはすなわち、中道そのものである。』(中論) >>658 むしろ一切に涅槃を入れない大乗含む部派があるのか 少なくとも私は知らない >>653 涅槃というものは空であり、実在しない 実在しないものが一切にはならない 苦の滅尽は、生じたり滅したりする、わたしが、存在してないことだとすると、それを涅槃と呼んでも、その涅槃なるものが一切のうちと同じなんじゃないの 縁起してるから、自己はない それを見抜いたから安らぎ、涅槃にある しかし、その涅槃という真理が、実際にどこかにあるわけじゃないってこと?? >>643 >比丘たちよ、もし人ありて、< わたしは、この一切を捨てて、他の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、 >それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るだろう。 >何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」 涅槃を一切外にするとその「ありもしないもの」になるのではないか?という話もあるよ >>660 そういうことを今まで延々と議論していたということです >>659 >むしろ一切に涅槃を入れない大乗含む部派があるのか 少なくとも私は知らない 一切に涅槃を入れるという定義化で決め打ちが難しい表現だと思うが。 道元、修証義。第一章(総序) http://www3.ic-net.or.jp/ ~yaguchi/soroku/syusyou1.htm 但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 涅槃というやすらかな彼岸の世界も表裏であり本来同体であって、さとりに対して迷いの生活があるというのではなく、このいのちの事実そのものが、 そのまま、仏の世界であると得心して、人生を苦しみときめつけてきらったりすべきでもないし、涅槃のみを求めたりして、こだわりおぼれるのもまちがいです。この無常なる人生そのまま涅槃(さとり)と心得るべきです。 >>659 大乗は難解で論理性がなく、ワケワカメ、ていう意見なら妥当性があるかもな。 >>664 涅槃という安らかな彼岸の世界、なんてものが、この目の前の世界、内面の世界と別に どっかにある? それこそ、批判されてたことやんかw >>664 道元といえば正法眼蔵の仏性という巻で仏性を我(アートマン)と理解するのは外道としているという説もあるね https://hirosaki.repo.nii.ac.jp/?action=repository_action_common_download& ;item_id=2354&item_no=1&attribute_id=20&file_no=1 ↑の一ページ目 現代語訳をしているサイトだと 仏性は妄想の結果現れるものではない。 それが、普く世界に隠れないからである。 しかし、普く世界に隠れないということは、世界が一つの自我によって成り立っているということではない。 世界が一つの自我によって成り立っているというのは、バラモンの誤った考えである。 http://www.ncn-t.net/kunistok/shobogenzo-3.htm 事実、いま、自分が生存していると思っている この、ここ これが涅槃であるってことでしょ でも、それは、安らいでいるとかいう意味やったんちゃうの 静かであるとか、そんなの まあ、シロウトが口出したらアカンか しかし、生じてないなら滅するわけない >>668 無為法というのは本来、縁起の法則を離れた不生不滅の世界だからねえ。 空観の不生不滅は縁起によらず自性として生じたり滅したりしないという意味になるけど 「遠離一切顛倒夢想、究境涅槃」やな・・・^^ 問題は・・^^ 「梵語原文に漢訳文の「一切」の部分はない」 つまり・・^^ 「一切」を付け加えたのは・・・^^ 鳩摩羅什ちゃんか・・玄奘ちゃんや・・^^ う〜〜ん^^ >>670 頭いいですね! 空というイメージしたものが、あって、そのそれと色がある そして、その、色は空であると見る 見た先には空が実在してしまう そうではなく、縁によってしかないんだから、空であるという意味なのだから、この、現実、そのものの姿が、そのまま空 別に、空なるもの その法があるわけじゃない 原文「遠離顛倒夢想、究境涅槃」 玄奘訳「遠離一切顛倒夢想、究境涅槃」 涅槃のところに「一切」を付け加えたか・・・^^ なんでや・・^^ もう一度あげとく。 絶対を立てれば絶対が相対化される様に、一切を立てれば一切を一切たらしめる虚空を引っ張りださなければならなくなります。 そういう意味で(絶対的)一切なら当然に涅槃はそこに含まれるし、(相対的)一切なら涅槃は一切か虚空の何れかに含まれる事となります。 私の基本的スタンスは、絶対的一切というなら涅槃は当然にそこに含まれ、相対的一切というなら涅槃は虚空に含まれる、です。 が、根本的スタンスは「そんなの戯論」ですね。 >>673 自分がこれから、消失しなければならない と、 こう考えていたから かもしれないね 【幸福の科学】清水富美加「枕営業」発覚か!?【大川隆法】 https://togetter.com/li/1230345 【枕営業発覚!?】千眼美子(清水富美加)、絶体絶命! 教団永久追放へカウントダウン開始!? http://6622.teacup.com/takanoriookawa19560706/bbs/2690 幸福の科学教祖、大川隆法より、千手千眼観世音菩薩認定された、千眼美子(清水富美加)の KANA-BOON飯田祐馬との不倫に次ぎ、レプロ時代の「枕営業」が発覚!? 千眼美子(清水富美加)、絶体絶命! 教団永久追放へ、カウントダウン開始!? 教祖の長男にしてアリプロ社長の大川宏洋氏は、既に教団永久追放処分。 次いで、三男、雄太の新妻にして、アリプロ「もう一人の看板女優」雲母も、家族丸ごと教団永久追放。 次は、千眼美子(清水富美加)の永久追放は必至!! 教祖の逆鱗に触れ、中核メンバーが次々と粛清されるアリプロ。 そして唯一の、教団維持の生命線だった千眼美子(清水富美加)の「枕営業」の発覚。 アリプロ、倒産の危機! 幸福の科学、まさに崖っ淵! 「怒れる宇宙神・大川隆法」の運命や、如何に!? https://ameblo.jp/01000440ktndy/entry-12378547163.html 遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃 viparyāsātikrānto niṣṭhanirvāṇaḥ. 梵語原文に漢訳文の「一切」の部分はない。 「誤った見解から離れており,永遠の悟りに入っている」 viparyāsa^=「転倒すること」「誤った見解」 atikrānto=「通り過ぎている」 「誤った固定概念から離れている」・・・ niṣṭhanirvāṇaḥ・・・永遠の悟りに入っている つまり・・ 究竟涅槃=永遠の悟りか・・^^ Heart Sutra in Sanskrit with English and Chinese subtitles https://www.youtube.com/watch?v=qCIakSaE2_k 5:32分のところやな・・^^ 「一切」がない・・^^ 「超脱」・・「終結」・・「ニルバーナ」の文字訳がある^^ う〜〜ん^^ 興味深い^^ 鳩摩羅什訳 「離一切顛倒夢想苦悩 究竟涅槃 」 玄奘訳 「遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」 梵語 「誤った見解から離れており,永遠の悟りに入っている」 「梵語原文に漢訳文の「一切」の部分はない」 う〜〜ん^^ niṣṭhanirvāṇaḥ・・・永遠の悟りに入っている この訳がな・・^^ 煩悩が吹き消された状態か・・^^ >>683 まさに言うは易すしにゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ 鳩摩羅什訳 「離一切顛倒夢想苦悩 究竟涅槃 」 「一切」を付け加えたのが鳩摩羅什ちゃんと分っただけでもいい^^ 鳩摩羅什ちゃんは 『坐禅三昧経』3巻 『仏説阿弥陀経』1巻 『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻) 『妙法蓮華経』8巻 『維摩経』3巻 『大智度論』100巻 『中論』4巻 『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻) 『大智度論』100巻 『中論』4巻か・・・^^ なるへそ^^ となる^^ 『大智度論』は、大乗仏教中観派の祖である龍樹による、『摩訶般若波羅蜜経』 に対する、百巻に及ぶ注釈書である 漢訳は鳩摩羅什による(402-405年、大正蔵No.1509)。 『摩訶般若波羅蜜経』27巻(30巻) ↓ 『大智度論』100巻 ↓ 『中論』4巻 この流れから・・ 「離一切顛倒夢想苦悩 究竟涅槃 」 これに到ると・・^^ つまり・・・^^ 一切の顛倒夢想苦悩から離れたところに涅槃があると・・^^ こうゆうことだな・・^^ ・・・で^^ おまいらの問題なんだったっけ^^ 「むしろ一切に涅槃を入れない大乗含む部派があるのか 少なくとも私は知らない 」 これか・・・^^ 一切に涅槃は入るな・・^^ 凡夫の一切は顛倒夢想してるけどね^^ 「一切に涅槃を入れるとゴータマは一切皆苦と説いたのに 一切に涅槃を入れると滅諦の涅槃まで一切皆苦になってしまうのは 矛盾しているのではないかという話」 う〜〜ん^^ 「誤った見解から離れており,永遠の悟りに入っている」 人から一切を見れば・・^^ 一切皆苦にならないと・・^^ 「離一切顛倒夢想苦悩」やな・・^^ 「遠離一切顛倒夢想 究竟涅槃」 一切の顛倒夢想から遠く離れていると・・^^ 一切の顛倒夢想から遠く離れている・・ つまり・・^^ 「諸行無常」「諸法無我」「涅槃寂静」・・・ 一切皆苦から涅槃寂静の境地に到る・・と >因縁果 ◆d........o 以前にも注意したと思いますが、守れないようならこのスレの書き込みは 止めてください。 ごめん^^ 最後に^^ 択滅 涅槃の別名。智慧によって煩悩を斷滅させることによって得られる寂静の状態のこと。 「択」とは、鍛錬された判断力・理解力などの智慧のことで、それによって誤った状態や見解から解放されて得られる状態を「択滅」という。 >>615 『ブッダ最後の旅』〜大バリニバーナ経〜 「尊い方よ、しかし修行完成者のご遺体に対して、われわれはどのように処理したらよいのでしょうか?」「アーナンダよ。世界を支配する帝王(転輪聖王)の遺体を処理するようなしかたで、修行完成者の遺体も処理すべきである。」 「尊い方よ。では、世界を支配する帝王の遺体は、それをどのように処理したらよいのでしょうか?」 「アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を、新しい布で包む。新しい布で包んでから、次に打ってほごされた綿で包む。 次に新しい布で包む。このようなしかたで、世界を支配する帝王の遺体を五百重に包んで、それから鉄の油槽の中に入れ、他の一つの鉄槽で覆い、あらゆる香料を含む薪の堆積をつくって、世界を支配する帝王の遺体を火葬に付する。 そうして四つの辻(四つの道路の合一する地点)に、世界を支配する帝王のストウーパをつくる。 アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体に対しては、このように処理するのである。アーナンダよ。世界を支配する帝王の遺体を処理するのと同じように、修行完成者の遺体を処理すべきである。 誰であろうと、そこに花輪または香料または顔料をささげて礼拝し、また心を浄らかにして信ずる人々には、長いあいだに利益と幸せとが起るであろう。」 確かにブッダは自分の埋葬法まで細かく指示していましたね >>665 まぁ、議論に参加する事に意義もあるのかもしれないが、も少し仏教の常識や基本を勉強してから参加しようなw >>693 個人的にはなかなかいい線ついていると思う もちろん自分も覚者ではないので正解は分からないし 釈迦も正解を求められても無記としそうであるが こちらの https://www.weblio.jp/content/%E5%9B%9B%E9%A1%9B%E5%80%92 「凡夫の四顚倒」からも「二乗の四顚倒」からも離れ.あらゆる議論(戯論けろん)から離れると涅槃の境地に至ると 「永遠の悟り」の「永遠の」というのはあくまで境地だとは思うけど… 滅尽定で識別作用(あなたの好きな無分別でもいいけど一般には心の働き)を止滅させるともちろん苦も感じないしその禅定の経過時間は分からないし まあ一種の仮死体験になるのかな?>滅尽定 滅尽定によって現世涅槃に達する、それは滅尽定から覚める時に感じるのだろうし、覚めるのだから縁起の理法の内にある(となると本当は有為法になる? (滅尽定以外の禅定で現世涅槃に達したと見るのは梵網経では外道の邪見とされる) 永遠の境地を求めてまた修行に励む、これは如来や阿羅漢も変わらないと思う 釈迦も目連も死ぬその時まで法布施や瞑想、托鉢などの行に努めていたわけだし 涅槃も一切内なのだから十二処の内にあり結局は縁起からは外れず無常である だから涅槃だけが実体でその他は空であるというような一元論ではなく、涅槃も含め全ては縁起なので0元論である、というのが仏教の捉え方なのかもしれない 断定はできないけどさ >>683 涅槃に入るなどということはない 涅槃がないのにどうやって入るw >>700 涅槃は境地だからね・・^^ その寂静の境地に到るには・・^^ 真理を見極める智慧が必要かと・・^^ 701.縁起が存在すれば、無自性ではない。空ではない。無我ではない。涅槃ではない。 バカ丸出しである。 >>697 そこの部分は、奈良康明氏によると、ブッダの超人化の一例としている。 実際、そのような葬法が行われたのではないとのこと。 >>699 梵網経六十二見(六十二の邪見) 2.部分的永遠論 我と世界について、一部分常住(永遠不変)で一部分無常(非永遠)であると主張する。 @禅定により、ブラフマ神殿に生まれた過去世のみを思い出すという境地を得て、それを根拠として梵天は常住だが、梵天によって創造された存在は無常であると主張する。 世界が破壊すると、生けるもののほとんどが光音天に転生する。 その後、この世界が創造されると、空(から)のブラフマ神殿が現れる。すると、ある生けるものが寿命が尽きるか功徳が尽きるかして光音天で死去し、空(から)のブラフマ神殿に生まれ変わる。 彼は長期間、そこで過ごすうちに「他の生けるものもここに来てほしい」という思いが生じる。すると、他の生けるものたちが寿命が尽きるか功徳が尽きるかして光音天で死去し、ブラフマ神殿に生まれかわる。 この時、最初に生まれかわってきたものは「私は梵天であり、創造主であり、全能者である。これらの生けるものは私によって創造されたものだ」と考える。 また、後から生まれかわってきたものも「このお方こそ梵天であり、創造主であり、全能者である。我々はこのお方によって創造されたのだ」と考える。 最初に生まれかわってきたものはより長命で、より輝きがあり、より力があるが、 後から生まれかわってきたものはより短命で、より輝きが劣り、より力に劣るので、先に死んでしまう。 それらのものがこの世界に人間として生まれてきて出家する。 そして、禅定によって、ブラフマ神殿での過去の生存のみを思い出し、それ以上は思い出さないという境地を得て、 「あのお方は梵天であり、創造主であり、全能者である。我々を創造された梵天は常住で、永遠にそのまま存在するが、 梵天に創造された我々は無常であり、死すべき存在としてここに来ている」という。 この主張、見解は邪見 >>707 初転法輪でサールナートまでの200qの道程を徒歩で数日で完歩し途中ガンジス河を水上歩行して渡ったこととか 三迦葉を帰依させるのに長兄のカッサパの前で龍を大人しくさせたり何百もの神通を披露したりそもぞ三迦葉が居る優楼頻螺に行くのにやはりナイランジャナー川を徒歩で渡ったりと 正覚を得てからの釈迦は色々と不思議な力(神通)を使ってるけどこれらの話は今でもインド人は信じているのかな? >>709 もし信じているならインド人は 皆さん仏教徒にゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ やっと、 「一切」を分かってる方が現れたようですね! 「無為法」(涅槃)を一切に含めたのが部派(説一切有部)であることも...。 (>>643 >>645) で、これだけでは何も分からないので、 それではゴータマは、この一切(五蘊=六根六境/十二処)については、 酸っぱいのか辛いのか? それともいいのかダメなのか? ... 一体、何ていっていましたか? 仏教徒の諸君たち これが問題の解答となる。 >>653 はい、その通りです。 > 本題は説一切有部や大乗仏教(中観の他に唯識も含む)、経量部などの他の部派(テーラワーダもそうか?)などのように > 一切に涅槃を入れるとゴータマは一切皆苦と説いたのに一切に涅槃を入れると滅諦の涅槃まで一切皆苦になってしまうの > は矛盾しているのではないかという話 矛盾があるかねぇ? 「苦」とは思うがままにならない(無常・無我)って事でしょ? 思うがままにならない(無常・無我)から、転識得智が起こる訳で。 涅槃の境地に至ったからて、魔法のように全てが思うがままになる訳じゃないしw 内心の変化で智慧が発現(ほつげん)するって事でしょ? 「肘外に曲がらず」っていうしね。 一切苦の中に涅槃があってもおかしくないよ。 むしろ、一切の外に涅槃を求めることは外道でしょ。 >>713 だから外道の独り言にゃん ♪ (笑) ひゃひゃひゃひゃひゃ!(*ΦωΦ)ノ ヒャッホゥ! 一切の中にありながら一切を離れているという事だなw >>709 さあ、どうかねえ?w インド人と言っても様々だし、中には信じているのもいるでしょう。 >一切の中に涅槃が含まれてることを示す経文があるのならば、是非ともここに提示して欲しい。 >そんなこと絶対にできやしないから。そんな教えは最初からないのだから、当然できる筈がない。 >ゴータマの説かれた一切に涅槃が含まれることがないことは、 >経典の中から一切に関する経文をチェックしていけばすぐにわかること。 はて? そうと言い切れるのかな? 言った当人が自身の思想(境地)が一切に含まれているなんて表現をわざわざしないよね? 当たり前のことを敢えて言ってないだけのような気もするけど? 「友ゴータマよ、一切は有であろうか」 「婆羅門よ、一切は有であるというのは、それは一つの極端である」 「友ゴータマよ、では、一切は無であろうか」 「婆羅門よ、一切は無であるというのも、それも一つの極端である。婆羅門よ、わたしは、その二つの極端をはなれて、中によって法を説くのである。」 (南伝 相応部 生聞より) ここでのお釈迦様の立ち位置を見ると、「両極端を離れて」であり、「一切を離れて」とは説かれてないな。 すなわち、一切の中にあり両極端を離れた知見をお釈迦様は持たれてるって事だね。 思い出してみたら一切皆苦は一切行苦とするのが本来は正しいのだった 以前は宝珠さんも一切行皆苦と書いていた覚えがあるんだけどなあ ダンマパダ 二七八 「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。 形成されたもの=行(行薀) ※行(行薀)は潜在的形成力の意味でも使う。色(色薀)が物質と肉体と2つの場合で使うように。 となると一切皆苦の一切は >>643 のような一切法(諸法)ではなく一切行に限定されているわけだから 釈迦がウダーナで「形成されたものでなく」と説く涅槃は一切行外ではあるので 一切皆苦(一切行苦)には当たらないというのだったら頷ける話ではあるが一切外(一切法外)とまでは言えない あえて言葉を厳密に選ぶとそうなると思う (参考)ダンマパダ 二七七 「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。 二七九 「一切の事物は我ならざるものである」(諸法非我)と明らかな知恵をもって観るときに、ひとは苦しみから遠ざかり離れる。 これこそ人が清らかになる道である。 勿論、 「ケガさせろという意味では言っていない!」というのが、宝珠に代表される「非我」。 「ケガさせろという意味でしか受け取れません!」というのが、漢訳・伝統上座部ほかに代表される「無我」。 さて、日大側・選手側、両者の信頼性の違いはどこに? お釈迦さん・後代の弟子、両者の信頼性の違いはどこに? *(敢えて、付記するなら、今回の案件で、 ≪違反プレー選手の「誤解」≫ という側面(→実は、お釈迦さんの意図は「有我」だったという解釈) は、本当に無かったと言えるのか? とw) 洗脳されている人が、洗脳が解けたら、全く同じ現実なのに、全く違っている かのようなことじゃないのかなと、今は、そんな風に感じる 経典では「光明」等と表現されますが、そうした宗教体験という段階以前でも、 目の前が開くとか鱗が落ちるとか、灰色だった世界が色づくとか、 そうした視覚的ではない視野の変化とでもいうべきものは確かにありますね。 心理学的にはどうか知りませんけど。 アハ体験とか言われてたものもこれの一種でしょう。 そして、この反転、世界や社会を否定してエゴを肥大させ目を曇らせるのがバカカルトなどのキリスト教系邪教になります。 皆の衆、お早うにゃん♪ (´^∀^`)ノ >>725 脳内麻薬の分泌量の問題にゃん♪ 悟りも神秘体験も結局は脳内麻薬 による幻覚幻聴のなせる業と知る べきにゃん♪ 南無南無 (-∧-)合掌・・・ 自説経(ウダーナ)で自説している涅槃の描写が少しラリッパーの幻覚入ってる 自説経(無問自説経) 「涅槃に関係したお経」 http://d.hatena.ne.jp/pali/touch/20120918/p1 現実には永遠なる自己はありませんし、私たちがそれにしがみつけるような確かなものや、不変のものなどありはしません。 我(アッター)というものは、実際のところ、単なる概念にすぎず、誰も存在するものはおらず、ただ地水火風といった四大が一時的に結合しているだけです。 私たちは身体を指して、「人」とか「私」などと呼びますが、勝義諦としては「私」などというものはなく、ただ無我(アナッター)であるのみです。 無我を理解するためには、瞑想をする必要があります。 もし、あなたが知的な方法で無我を理解しようとするなら、あなたの頭は破裂してしまうことでしょう。 一度でもあなたが心から無我を理解したなら、人生の悩みは霧散するでしょう。 おまえさんは本当は、四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ。 もし、心が自由なら、現象を区別することはない。 「大きい」「小さい」「あなた」「私」なども存在しないのだ。 わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我も無我もないのだ。 アーチャン・チャー長老 https://twitter.com/achaanchahbot >>728 ねーねー アーチャンチャーさん 五蘊の集まりに過ぎない、この、機能が、全現象の構成要素ってことはさ 世界も他人もなくて、これだけあるだけだよね でも、肉体がなくなっても、それは、どうなるの? 肉体は、色だとして、それが、まあ、死んだら焼かれてるわけだから消滅するよね その時は、五蘊の集合はなくなるのだよね?? わたしじゃないけど、世界も他人もなくなるのかなあ うーん このへん意味不明な感じしますよね 無我かもしれないけど、世界とか他人とかはいるのか、それとも、世界とか他人とかは、ほんとはないのか? 五蘊の集まりに過ぎない現象世界に、わたしはいない が、なぜ、生死の超越につながるの?? >>729 もし、あなたがあの世はあるかとたずね、 自分があの世は、あると考えたなら、あの世は、あると答えるであろう。 しかし、私はそうしない。 そうとは考えない。 それとは異なるとも考えない。 そうではないとも考えない。 そうではないのではないとも考えない。 >>731 この世とかの世とをともに捨て去る 五つの覆いを捨て、悩みなく、疑惑を超え、苦悩の矢を抜き去られた修行者 蛇が脱皮して古い皮を捨て去るようなものである と、ブッダさんが言ったみたいですね 仏教です >>729 >>5 >アーチャン・チャー「無常の教え−手放す生き方2 苦しみの終焉」(3) >●ブッダは「空を理解する者を、死王は追うことができない」と言った。空を理解したとき、死は私たちに影響を及ぼすことはできない。 >なぜなら、そのとき「私たち」というものは存在しないから。 「つねによく気をつけ、 自我に固執する見解をうち破って、 世界が空なりと観ぜよ。 そうすれば死を乗り越えることができるであろう。 このように世界を観ずる人を、 <死の王>は、見ることがない。」 (スッタニパータ1119) http://s.webry.info/sp/76263383.at.webry.info/201512/article_9.html >>733 この流れだと、一切は空である ということは、世界や他者や、この世やあの世が、無であるという意味ではなくて わたしが、そこにいなくなることで、 まあ、もともといないのかもしれんが、 いないとしたら、苦しみはない ってことで あとは、どのように、あるのか、ないのか 等々の類推 推測はしてないってことだよね? てことは、別に、真理なんてものがあるのではなくて、わたしの精神的苦しみを、無くしてしまう方法 そのような風にしたら、心休まる方法みたいなもので これが真理で、世界の仕組みはこうなのだあ みたいなことじゃない印象なんだけど、これであってるかな? つまり、科学的事実、みたいなものじゃなくて、このような心構えでいたら、苦しくなくなるでしょみたいな話 >>734 >>728 >おまえさんは本当は、四大(地水火風)が結合したものか、変化し続ける五蘊の集まりに過ぎないのじゃ。 >もし、心が自由なら、現象を区別することはない。 >「大きい」「小さい」「あなた」「私」なども存在しないのだ。 >わしらは無我(アナッター)という表現を使うが、究極的には、我も無我もないのだ。 究極的には我も無我もない。 ブッダも人を真理に導くために無我とか十二因縁とか四聖諦とか現象を区別した言葉を使いましたが、真理の世界はそういった区別はないと聞きます(識別作用の止滅)。 あとブッダは実証ができない存在論みたいなものに結論は出しませんよ。 下の雑阿含経「見解」がわかりやすいでしょう。 http://www.kosonji.com/buddhismepisode/bep8.html ただしこのお寺の説話は分かりやすく説明されてますが、もとの話の途中で終わってます。 全文はパーリの「ヴァッチャ火経」を。 また下記サイトにも続きは載っています。 http://james.3zoku.com/kojintekina.com/agama/agama7061601.html ページ右下の次頁をクリック(タッチ)すると続きが出てきます。 四大元主無 五蘊悉空也 珍重奏大元三尺剣 電光鋭利春風斬 南無南無 (-∧-)合掌・・・ >>735 うーーーむ 一方では不生不滅といい 五蘊に関しては生じ滅するという まあ、そら、肉体などはなくなるけども、、、 ということは、不生不滅なものとは、一切の現象を離れ去ったものであるが、それは、これであると断定できないものである 有とも無とも言えず 有無を超えたものとも言えず 行ったり来たりするものとも言えず 存在するのでも、存在しないのでもない つまり、あらゆる識別作用の止滅 というのは、わたしの類推機能の停止?? 365栄進2018/04/15(日) 18:24:31.88ID:0y7cgHPW>>366 >>371 >>363 それが楽しいみたいです。 でもジャンキー殿は楽しめず一人でマジギレ それが燃料になってループしてる^^ 343晃 ◆HOKKEvxAGE 2018/04/15(日) 17:47:09.94ID:keUj5yQA>>345 いいかげん、仏はなんと言ってたか?を基準に考える様にした方がいいな ジャンキー大山は、仏がなんと言ってたかよりも 「俺がどう考えるか」が主体だから叩かれる、経典軽視の弊害だろう 574夕2018/04/16(月) 06:31:37.16ID:+CXwpgBg>>593 栄進ちゃんに伝言、 ジャンキーは、禅歴20年じゃなくて、30年です。 俺が3年といったら、手のひら返して、上から目線になりました。 まえから、初心者だといっているのに (ノ_-。) だって、30年の人にかなうわけありませんよ。 15年ぐらいやっていれば、別でしょうが。 でも、今が多分一番面白いのでしょうね。 玄人とになってしまうと、初心者の時が一番面白かったなぁ何て思うものです。 初心者っていうのは、 708junkie- ooyama2018/04/12(木) 20:59:50.87ID:l0Q1A26j>>711 >>725 >>700 追い詰めるからね。 てか、追い詰められてギリギリまでのとこまでならないと何は分からんし、マジで死と直面するくらい追い詰めないと、何は出ません。 コジさんは体験でしょ。 公案はそれを擬似的にやってる訳ですけどね。 711junkie- ooyama2018/04/12(木) 21:07:57.47ID:l0Q1A26j>>728 >>708 訂正 コジさんは体験者でしょ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.1 2024/04/28 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる